光源寺と産女幽霊のこと

光源寺山門
山門
正覚寺から寺町へと寺社が続き若宮神社に至る。 興福寺を過ぎ、この一連の並びでは最後のお寺さんが魏々山光源寺である。浄土真宗・本願寺派の古刹である。
「時の鐘」を造った長崎奉行、稲生倫の墓や、長崎で最初の唐通事・馮六の墓もある。

産女の幽霊はこの寺とかかわる民話である。産女はウグメと読む。飴屋の幽霊ともよばれる。民話の概略を紹介しよう。

徳川吉宗の時代の出来事である。時代を特定できるのは、この寺には藤原清永作といわれる幽霊像があり、毎年8月16日にはご開帳がある。この幽霊像が納められている木箱に延亨5年とあるそうだ。幽霊画は多いが像はまことに珍しい。 この藤原清永なる人物が幽霊となった産女の夫となるべき人物であった。それはまた後で話すことにしよう

ある夜のこと、麹屋町のもう閉めてしまった飴屋の戸を叩くものがある。渋々、が戸を開けると、なんとも影の薄い女が一文を差し出し飴をくれという。飴をわたし銭を受け取ったときに触れた女の手は氷のように冷たく、飴屋は思わずゾクと身震いした。 翌日も翌々日も女は同じ時刻にあわられ、毎日、一文の飴を買っていく。やがて七日目となり、この日にあらわれた女は、いっそう影を薄くして、悲しげに、銭がないが飴をわけてくれという。飴屋は飴をめぐんだが、翌日もさらに翌日も同じ時刻に女は現れ、同じように飴を乞う。飴やは不思議に思い女の後をつけていった。

赤子塚民話碑
赤子塚
女は光源寺の山門をくぐり、墓地の方へ姿を消した。驚いた飴屋は住職にことの次第を語る。住職が飴屋を伴い、本堂裏の女が消えたあたりに行ってみると新仏を埋めた場所から赤子の泣き声が聞こえてきたではないか。急いで掘り起こすと女の亡骸に抱かれた赤ん坊がでてきた。この新仏は藤原清永が葬った女であった。 清永が上方で修行中に恋仲になった女だが清永は長崎に呼び戻され、親の決めた女と結婚してしまった。それとは知らぬ恋人は清永の子を身篭った身体で長崎まで旅をし、あげくは悲しみで亡くなったのだという。女は死んでから子を生んだ。その子は清永に引き取られ無事成人したという。 この赤ん坊がほりだされたといわれるあたり、本堂裏の墓地の中に赤子塚民話の碑がある。

後日談がある。赤子が父親に引き取られてから数日後、再び女が飴屋にあらわれ、お礼に願いをかなえるという。このあたりは水に不自由して困っていると話したところ、明日、私の櫛が落ちているところを掘ってごらんといって消えた。半信半疑でそこを掘ると水が湧き出しその後涸れる事のない井戸となったそうだ。幽霊井戸とよばれていたが、今はもう井戸は埋められている。麹屋町に碑がある。 母が子を思うこの赤子民話(死んだ母が子を産み育てる)は日本の各地に少しづつ形をかえて伝わっているらしい。遠くインドにも類似の話があるというからきっとアジアには広くもあるに違いない。

目次に戻る