鎖国時代に唯一海外に開かれた港、長崎は、幕末1858年、米・蘭・露・英・仏と修好通商条約がなり翌年には横浜・函館とともに開国三港の一つとなり、出島以外にも多くの外国人がやってきた。幕府は日本人との混在を禁じて常磐町から大浦への埋め立てをおこない南山手地区・東山手地区を外国人居留地と定めた。そして、東山手には英国聖公会堂(1862年)が建てられ、南山手には大浦天主堂(1864年)が建てられた。石橋から英国聖公会堂に至る坂道を舗装した石畳道ができ外国人が往来するこの道を、はじめにオランダ坂とよぶようになり、その後、外国人居住区にあるすべての石畳の坂道はオランダ坂というようになったそうだ。
長崎の庶民の目には西洋人は等しく昔なじみのオランダさんと同じにみえたのに違いない。
石畳道は観光ルートにあるだけでなく長崎の生活道路のあちこちに沢山残されている。
東山手入り口の切通し坂 | 切通しに続く活水下、ロケによく使われる代表的なオランダ坂 |
小説では蝶々さんとピンカートン中尉がが通った道と描かれている。住まいとされたのは6番館である(今はない) | 上段坂を上から、建物は13番館、現在喫茶店に |
上段の坂を結ぶ場所に12番館。かつては大使館などにつかわれた。現在、公開されている | 十人町から野母まで続くの岬道の始点坂、オランダ坂へと続く |
大浦天主堂に登る下り松オランダ坂の隣にこの地獄坂 | ロシアコンスイ坂の先、ドンドン坂、長崎の景観に選ばれている美しい急坂 |
誠孝院横の急坂、最初にオランダ坂とよばれた。明治の赤レンガの先は東山手洋館 | 丸山オランダ坂、この道から思案橋のかかる川にでて出島商館に遊女が通った |
大浦天主堂
大浦天主堂は1864年に建てられた現存する日本最古の教会であり国宝となっている。正式名称は26聖殉教者天主堂という。所在する場所の名をとって大浦天主堂と呼ばれている。
26聖殉教者は豊臣秀吉の禁教令によって、関西から長崎の西坂刑場まで連行され処刑された、日本ではじめての殉教者たちであり、現在、西坂に26聖人記念館がある。
大浦天主堂が建ったある日、浦上の農民が2世紀を経て信徒であることを告げた。教会の建設に励まされて葬儀に仏式の僧侶を拒否したことから明治元年(1867年)からの浦上四番崩れの悲劇を生むのだが。禁教令がとけるのは明治6年である。