高島秋帆は幕末の砲術家である。その屋敷跡は国指定の史跡である。建物は既にないが屋敷跡には砲術の稽古場であった的石が残されている。
秋帆は町年寄りの家に生まれた。出島砲台の受け持ちであった父親から砲術を学んだ後、火力の強い洋式砲に注目し、オランダ商館スチュレレの指導を受け、研究を続け高島流砲術を生み出した。
国防の必要性を説いた秋帆は幕府に命じられて1841年、武州徳丸原で西洋式砲術の実演をおこなった。徳丸原は、現東京都板橋区高島平である。高島平の地名は秋帆のこの事跡に由来するとか。
秋帆は翌年、讒言にあい逮捕幽閉され高島家は一旦断絶したが、10年後許されると「嘉永上書」を幕府に提出して開国の建議を行った。
1855年(開国まであと4年)には、幕府の命で江戸・品川に砲台をつくった。これが今のお台場である。高島秋帆は西洋砲術の祖として重用され1866年(明治まであと2年)に没した。
写真は、秋帆の指導で鉄砲鍛冶、野川清造が作った和大砲。現在グラバー園に置かれている。グラバーと秋帆の間に関係はないと思われるのだが。
長崎港を一望できる展望台がある鍋冠山の隣に、こじんまりした山がある。「ドンの山」と呼ばれている。ここに、明治36年午砲台が設けられ、大砲を発射して(勿論、空砲である)、そのドーンという音で正午を知らせた。だからドンの山である。最初に設置された大砲は旧式で、度々、不発の故障を起こしたので、大正11年、当時の最新式を設置し、昭和16年まで続いたという。現在、山頂は公園になっており大砲も当時のものが置かれている。高島秋帆の和砲の2倍以上の大きさだ。
その昔、ポルトガル船の停泊地であったことからついた町名が「元船町」。この公民館前に直径56センチの巨大な鉄砲ン玉がある。島原の乱で原城にたてこもった天草四郎の軍を攻撃するために、1638年に長崎で鋳造された石火矢玉だったといわれている。しかし、これを打ち出す大砲は資料も実物もどこにもみつからない。
この鉄砲玉は、使われることなく約360年間、大波止に置かれている名物である。そして、「玉はあれども鉄砲なし」と言われる長崎七不思議の一つ。重さは約560キロ。元船町の、くんちの傘鉾は、この鉄砲玉を模した飾りである。
1964年に浦上川加工付近から引き揚げられたものです。かつてオランダ船に搭載されていたもの、なんらかの都合で海中に放棄されたものと思われる。砲にはアムステルダムをあらわすA、オランダ東インド会社を示すVOCマークが刻まれています。出島に置かれています。
鎖国時代に長崎出島に来航した連合オランダ東印度会社の商船は戦闘艦でもある。18門の大砲を備えた船が、更紗や砂糖を積んでやってきた。この大砲にもAとVOCのマーク、オランダ船が描かれている。 AMSTERDAM ANNA1640年の刻印はアムステルダムで1640年に製作されたことを示している。これも出島に展示されている。