幕末・明治初期の長崎人物往来伝

坂本龍馬

 思案橋から丸山に入る通り。長崎第一の料飲街である。ここに並ぶガス燈風の照明柱の一本一本に、幕末、明治の長崎に所縁ある人物像が線画風に鋳物加工されてとりつけられていた。
道は狭く、車の量も多く、夜には片側通行で酔客も歩きネオン看板も輝く通り。おまけに人物像の位置も高く気付きにくいが、丁寧にみるとなかなか面白い。柱にはその人物の概略が記されている。

まずは、坂本龍馬(右)。土佐出身、倒幕の志士。海援隊長。
1865年31歳で来崎。伊良林に日本最初の商社、亀山社中を結成。社中のメンバーは長刀、白袴、筒袖がトレードマークだったとか。龍馬像は上野彦馬撮影の懐手にブーツでの写真が原型。薩長連合や船中八策など明治維新に大きな役割を果たした。

  
上野彦馬。銀屋町で代々絵師の家に生まれた。商館のポンペについて写真を研究。1862年、日本で最初の本格的写真館を開設。我が国写真の発展に貢献した。 江芸閣。貿易商。1804〜44年、唐船の船主として度々来日。花月の文人サロンのリーダー的存在。長崎南画の発展に貢献。遊女袖扇との間に一子を設ける。 高島秋帆。砲術家。長崎の町年寄の家に生まれ、西洋砲術を学ぶ。日本で始めての西洋式砲術の公開演習を行う。場所は現在の高島平、秋帆にちなんで付いた地名である。
岩崎弥太郎。実業家。1859年26歳で土佐藩開成館長崎出張所主任として赴任。貿易に従事した。維新後、海運業に転じ政商として、三菱財閥の基礎をつくった。 松本良順。医師。1859年来崎。医学伝習所で商館医ポンペについて医学を修め、日本最初の西洋式病院である小島養生所開設に尽力した。初代軍医総監を務めた。 勝 海舟。幕臣1855年33歳で来崎。海軍伝習所で5年間航海学を学んだあと、海軍奉行などを歴任。江戸城無血開城を実現。在崎中、梶クマとの間に2児を設ける。
福沢諭吉
教育家・思想家。慶応義塾の創始者。中津藩士時代の1854年21歳で来崎。蘭学を学ぶ。江戸で蘭学塾を開き、多くの若者を教育。
大隈重信
佐賀藩士、明治・大正の政治家。早稲田大学創始者。1864年27歳で来崎。フルベッキについて英語を学び、長崎で英語塾を開いていた。
ドーフ
オランダ商館長、歴代最長の14年間在任。日本最初の蘭日辞典「ドーフハルマ」を編纂。遊女瓜生野との間に子をなす。
ブロンホフ。オランダ商館長。1817年38歳で来日。在任中英語を指導。日本の英語教育の発展に尽くす。同伴した婦人と子どもは古賀人形紅毛婦人のモデルになった。 リンガー。英国人。1867年28歳で来日。リンガー商会設立。長崎ホテル経営や日本最初のトロール漁業操業など産業発展に尽くした。現グラバー園に居宅跡(国重要文化財) オルト。英国人。1859年開港と同時に来日。大浦慶と組み製茶貿易に従事、その興隆の基礎を基いた。現グラバー園内のリンガー邸隣に邸宅跡(国重要文化財)
大浦慶。油屋町の油商の家に生まれる。製茶輸出を発案。輸出に成功し巨財をきづき長崎を代表する女傑と称された。幕末には勤皇志士たちを積極的に援助した。 タキとイネ。タキは銅座の楠本家に生まれ、引田屋抱えの遊女其扇となりシーボルトと結ばれる。2人の間に生まれたのがイネ。イネは日本最初の蘭方の女医として活躍した。 シーボルト。オランダ商館医・博物学者。商館医として1823年来日。日本滞在中、鳴滝塾を開き医学教育を行う。日本研究を行い、世界に紹介したがシーボルト事件で日本を追放された。

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