中島川の石橋群T

  袋橋から一覧橋まで
中島川の石橋群は日本で初めて架けられたアーチ式石橋をはじめ、風情のあるものが多い。寺町の各寺への門前橋でもあった。中島川は度重なる洪水に見舞われており、これら洪水に耐えてきたきた橋、幾たびか架け替えられた橋と様々だが、1982年(昭和57年)の長崎大水害は、ほとんどの橋を破壊、眼鏡橋も半壊した。現在は、これらの橋が昔の風情を残しつつ修復されている。 中島川にかかる石橋は上流に向かって右岸側、寺町側は橋の名前が漢字で書かれ、左岸側はひらがなです。


袋橋(ふくろばし)       中島川の第11橋。たびたびの洪水に流失を免れ壁面を整然と積む長崎型石造アーチの形態をよく残す。架設は1648〜52年頃と推定され眼鏡橋に次いで古いといわれている。
橋柱には重厚な擬宝珠を持つ。擬宝珠のあるのは、このほか眼鏡橋と高麗橋である。栄町入口の橋。ここは眼鏡橋をみるスポットでもある。 車も通行する。

袋橋から眼鏡橋、魚市橋と上流が見える 重厚な擬宝珠も歴史を感じさせる

眼鏡橋(めがねばし)       中島川の第10橋。日本では最古の石造りアーチ橋。中島川石橋群を代表する橋。1634年(寛永11年)国宝興福寺の二代目住持・黙子如定 (唐僧)が架橋、度々の洪水に耐えてきたが1982年の長崎大水害で半壊した。欄干も石積み一つにも風情がある。橋の名前は川面に映る双円のアーチに由来する。近年、橋際に黙子如定の像が建てられた。 歩行専用橋。

川面に映る双円のアーチ ライトアップの時はもっとくっきり

魚市橋(うおいちばし)       中島川第9橋。1699年(元禄12年)岡正恒がアーチ型石橋を寄進。その後、崩壊・再建を繰り返し1903年(明治36年)に鉄橋に1925年(大正14年)鉄筋コンクリート橋。橋名は往時、この付近に魚市場があったことから明治期に正式にこの橋名に。


東新橋(ひがししんばし)       中島川第8橋。市民会会館横、魚の町と諏訪町を結ぶ。諏訪町の旧名は新橋町。橋の名前は地名に由来。1673年(寛文13年)最初の石橋が架けられその後、2度架け替えられた。1800年に長崎奉行所が銀12貫をだして架けられた橋は1982年の大水害で破壊。昭和の石橋である。嵩上げされ、歩行専用橋になっている。


?原(すすきはらばし)       中島川第7橋。草冠に千と書いてすすきと読む。昔、この付近に、草が生い茂っていたことから橋の名がつけられた。 1681年に石造りアーチ橋が架けられ、その後、洪水で3回架け替えられた。1982年の大水害で流失した橋は1804年に奉行所によって架けられたもの。水害後、鉄筋コンクリート橋になった。


一覧橋(いちらんばし)       中島川第6橋。1657年(明暦3年)豪商でかつ唐通事、高一覧が浄財を募って石造りアーチ橋を架けたのが最初。現在の橋は大水害後の1986年に再建。 橋に使用されている花崗岩は中国福州市産。橋の名前とともに高一覧に因んだもの。第5橋、古町橋との間に光永寺(浄土真宗・こうえいじ)がある。1614年の開創。幕末安政元年(1854)には福沢諭吉が1年間寄宿。明治12年(1879)長崎県議会第1回の会場になった。大銀杏と沙羅双樹の木がある。


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