長崎ぶらぶら(5)  深 堀 散 策の2

  円成寺(浄土真宗本願寺派亀登山円成寺)を訪ねる。深堀は、長崎市にある唯一の城下町である。中心は陣屋・お屋敷と呼ばれた。今は跡形もないが、純心幼稚園側に、陣屋跡の碑があった。散策の間、出会った人も車も少なく静かな趣ある町中である。
  円成寺は1600年代はじめの創建といわれ、この寺の梵鐘(写真右)は、説明版によれば、寛保3年(1743年)第6代住持の時、広く浄財を募り鋳工、安山弥五左衛門藤原国久に鋳造させたもの。今の鍛冶屋町で制作された。安山氏で藤原国久を名乗る者の梵鐘は、かつていくつかあったそうだが戦争中に供出させられ、この鐘一つのみ遺っている。
  この寺の塀は珍しい石組に彩色されている。 五色の塀(左写真)というそうだ。見飽きない塀である。


  武家屋敷通り     「案内板」によれば、この武家屋敷跡が城下の入り口に当たり城下町特有の鍵型の道路を挟んで東・中・西屋敷(重臣の屋敷)があったとある。風情ある石塀が続く。   深堀氏18代純賢の時、佐賀藩の支配下に入り、この地で六千石の領主であり佐賀藩の家老職を努めることになる。姓も鍋島を名乗る。

  曹洞宗金谷山菩提寺

建長7年、この地の地頭となった能仲の創建ともいわれている。この寺には深堀家19代(深堀鍋島家2代)以降の領主とその一族が41墓がある。歴代領主の墓と共に囲われた墓所の入り口左右には家臣・殉死者の墓がならぶ。(写真右)
  菩提寺の入り口は他のお寺でみたことがない内円外方の造りの石門(写真左)である。1680年、最後の佐賀藩家老の時代に再建されとある。

  長崎喧嘩騒動と深堀義士の碑  菩提寺には長崎喧嘩騒動での切腹者12人・配流人9名の墓碑がまっすぐに並んでいる。墓碑は苔一つ無く手入れが行き届き花が手向けられていた。
  長崎喧嘩騒動の概略はその発端となった天満坂(現法務局横の石坂・写真右)の中程に説明版がある。
元禄13年(1700年)12月19日、佐賀鍋島藩深堀領の武士深堀三右衛門、柴原武右衛門は五島町の深堀屋敷へ帰路の途中、町年寄高木彦右衛門の一行と行き違ったが、この日生憎の大雪で路地悪く三右衛門が石段に躓きはねた土が高木の仲間にかかった。両名は不調法を詫びその場はおさまったが、夕暮れ、高木方二〇数名が深堀屋敷に押しかけ土足で乱暴をはたらき両名の刀大小を奪い去った。
武士としてひどい恥辱を受けた両名は切死ぬ他なく差替えの大小を取寄せに在所に使いを出した。深堀からはこの難を見捨てるのは男の道ならずと助太刀がはせ参じ翌20日早朝西浜町の高木屋敷に討入り彦右衛門以下6人を討ち果たした。深堀三右衛門は同屋敷で、武右衛門は大橋(今の鐵橋) 上でそれぞれ割腹した。
幕府の裁定は鍋島家臣死罪10人、五党遠島9人、高木方は下人の死罪8名、彦右衛門倅 長崎四里四方追放であった。 武士道とは死ぬことと見つけたりの葉隠れの教条をためらいなく決行したのが世にいう深堀義士伝である。
おごりきわめていた町年寄を打った深堀武士に長崎町民は拍手喝采委を送ったという。
翌年、赤穂浪士中、寺坂吉衛門が五島流刑中の深堀武士を密かに訪ね、参討ち入りの参考にしたとの話も伝わっている。

  カトリック深堀教会
古い城下町にカトリック教会と付属の幼稚園がありました。幼稚園の方がずっと立派で教会の前庭には「ファチマの聖母と羊飼い」の逸話にちなむ場面の造形があった。 さほど広くはない城下町を抜けると深堀漁港にでた。

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