長崎は明治以降、良くも悪くも三菱と深く結びついてきた都市です。三菱の企業城下町と呼ばれてもいます。
三菱の創始者は土佐藩出身の岩崎弥太郎です。岩崎は幕末、藩の長崎に置かれた役所の下役で、同じ土佐出身の坂本龍馬や外国貿易商などとの渉外にあたりました。維新後には、土佐藩の汽船を譲り受け九十九商会という名前で海運業を始めます。憶測の域をでませんが、坂本龍馬が海運・交易を目的に興した亀山社中(後に海援隊)の影響もないとはいえないでしょう。
社名は、その後、三菱商会に改称されます。創業間もなく経営基盤も弱かった三菱商会は、台湾出兵の議論がおこるや直ちに輸送船を手配し、長崎港からの出航を実現させ、これを背景に海運業の地位を不動のものにしていくことになりました。また、グラバー邸で有名なトーマス・グラバーが開発を手懸けた高島炭鉱を譲り受け、1887年には明治政府から長崎造船所の払い下げを受けて、海運・炭鉱・造船で莫大な利益をあげ三菱財閥の基礎を固めました。
三菱造船所は大正時代には、はやくも世界有数の造船量(世界3位)を誇りますが、それは、日清戦争や、日露戦争、第1次大戦などを通して図られてきた海軍増強政策によるものです。戦艦「武蔵」も三菱長崎造船所で進水しました。特攻艇(人間魚雷艇)も作りました。この造船所を中心に三菱兵器製作所、三菱製鋼所、三菱電機製作所など軍需関連工場が次々と稼動し、長崎は一大軍需産業都市として発展し、1945年8月9日を迎えました。
長崎が原爆投下目標とされた一因はここにもあるでしょう。爆心地から約1.3キロ付近にあった三菱兵器工場は、ほぼ壊滅し、挺身隊などで働いていた女学生なども含めてその犠牲になりました。文教町の三菱の敷地に慰霊碑があり、2000名を超える犠牲者名が記されています。
三菱兵器跡は今、長崎大学になっています。塀の下にそこが兵器工場であったことを示す標石が残されています。戦後も、残念ですが軍需産業都市の性格は完全に払拭されていません。
再軍備政策のなかで、1954年、戦後最初の護衛艦が三菱長崎造船所で建造され、現在、佐世保に配属されている最新鋭のイージス艦もここで建造されました。いまも、自衛艦専用ドックがあります。三菱は魚雷などの生産もおこなってきました。これも長崎の1つの顔なのです。