安政6年(1859)長崎は横浜、函館とともに開港。幕府は、これに伴い、大浦、東山手、南山手界隈を中心に元治元年(1864)にかけ3期にわたる造成工事を行い、外国人居住区としました。 居留地制度は明治32年(1899)に廃止され、長崎に居住していた外国人の多くは横浜や神戸に移っていき、1571年の開港以来続いた貿易港長崎は、やがて工業都市へと変わっていきます。 幕末から、明治にかけて建築された洋館を紹介します。現役の住まいもありますが、多くは資料館等になっています。
旧香港上海銀行長崎支店松ヶ枝町にあります。建築家下田菊太郎の設計。明治37年(1904)竣工。長崎市内では最大級の洋館です。銀行が閉鎖されたあとは警察署や歴史民族資料館として活用されたが、解体の動きがあり市民運動で保存、現在は
国の重要文化財。
海岸通りの建物で海からの景観を重視したデザインです。一階部分は連続アーチのアーケード。2階と3階にコンクリート円柱を通し、三角破風の屋根がのっています。
香港上海銀行の右隣は明治31年(1898)開業の長崎ホテルです。長崎ホテルは当時、最高級の外国人ホテルで、当時の長崎港を象徴する景観だったと案内板にあります。
左隣は、日本で最初に清涼飲料を製造・販売したロバート・ウオーカー設立の「ウオーカー商会」です。写真でみると建物の前、今は車道になっている所は海です。(写真は案内板から。元写真は長崎大学付属図書館所有)
明治期の長崎税関は全九州を管轄していたそうです。
香港上海銀行の並びにあります。この派出所も国の重要文化財。煉瓦造り平屋で小振りですが付属屋を含め明治の景観を残す貴重な建物です。現在はべっ甲資料館になっています。
ビルの谷間に、ツタが這い朽ちかけている煉瓦造り三階建ての明治の雰囲気を持つ建物があります。
出入り口や窓がアーチになっています。かつて、ホーム・リンガー商会が茶の倉庫に使っていたそうです。幕末から明治、長崎から日本茶が盛んに輸出されました。
明治中期ロシアの商人が建築した洋風住宅。伝統的建造物の一つです。
木造二階建て、寄棟造桟瓦葺き。現在は須賀五々道美術館として使用されています。
バンザイ清涼飲料工場跡
ロバート・ウオーカー氏は船長として来日、西南戦争では物資を運搬、海運業発展に尽くし、後に清涼飲料水、バンザイサイダーやバンザイレモネードを、南山手乙29番の隣にある、この赤煉瓦の工場で生産しました。現在は寶製綱の工場として使用されています。
煉瓦にフランス積みとイギリス積みがあるのご存じですか。違いはまたの機会に。
ウイルソン・ウオーカーの旧居宅
ウイルソン・ウオーカーは、ロバート・ウオーカーと兄弟です。国際航路の船長で、日本・上海の航路開設に尽力しました。グラバーと一緒にジャパンブルワニー・カンパニーを設立、支配人としても活躍しました。(ジャパンブルワニー・カンパニーは日本初のビール製造会社です。キリンビールの前身)
この建物は南山手12番から移築、復元されたものです。現在は南山手地区町並み保存センターとして使用されています。