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長崎の洋館・東山手から出島へ

オランダ坂と東山手甲13番館

東山手は、かつて学園の丘と呼ばれていたようにミッションスクールが建ち並んだ、私学発祥の地です。現在も煉瓦色の活水学園(女子大学)とマリア像が立つ海星学園(高校・中学)がこの丘を代表する建物です。
代表的なオランダ坂は、活水大学横や東山手洋館群横にあります。オランダ坂は、安政の開国で長崎に来た西洋人が丘の上に教会を建て、そこへ通じる坂道を石畳で整備し日曜ごとに教会に通っていたのを、西洋人が通う坂道の意で、こう呼ばれている。別にオランダ人が作ったわけでも通ったわけでもないのにオランダ坂と呼ばれるのは、幕末の長崎の庶民にとって外国人はみんなオランダさんでした。それは鎖国の218年間、唯一、出島にはオランダ商館が置かれオランダしか知らなかったからです。写真は活水下。坂の横に写っている建物は東山手甲13番館。

門を入るとすばらしく大きなカナリーヤシの木がある。明治30年頃の建築です。米国人、日本人ついでアンドレ・ブリキ氏が住んでいました。ブリキ氏はフランス代理領事を務めた方です。日本人と結婚され長生寺にお墓があります。
木造2階建て寄棟造り、一階ベランダ部分が石畳になっています。かつて喫茶店として使われていたこともありますが、現在は自由に見学でき、コーヒーも飲めます。

東山手12番館

活水学院(現在の校舎は大正15年に建て替えられたもの。活水は明治12年、エリザベス・ラッセル女史とジエニー・ギール女史によって始められ最初の入学者はたった一人だったそうです)正門の前にあり、ロシア領事館、アメリカ領事館、宣教師住宅などに使用されました。現在、開放され見学可能です。私学の歴史がわかる展示があります。
明治元年(1868)頃の建築で東山手に残る洋館では もっとも旧い初期洋風建築で国重要文化財。三方向に緩い傾斜のある広いベランダがあり建物の中には広い廊下、事務所風の大部屋があって領事館の面影を残しています。創建当時のゆれガラスも健在です。ベランダの軒支柱には「持ち送り」(和風建築様式の一つ)があります。


旧斉藤氏住宅

12番館の奥には小規模でベランダのない質素な洋館(旧藤馬氏住宅)がありますが、12番館の付属住宅と考えられます。写真は、その隣にある旧斉藤氏住宅。現在は活水同窓会館です。明治後期の建築で、ベランダの2本柱、半八角形と半円形の出窓という珍しい構造です。




活水横のオランダ坂

若い頃にこの急坂をバイクで上っていました。現在は上に階段がつけられ車は通れない

東山手洋館群

大浦オランダ坂横に7棟の住宅が2段に並んでいます。明治中期に日本人が外国人の賃貸住宅として建築した擬洋館。上段3棟(二階建5世帯)下段に4棟(平屋3棟、2階建て1棟5世帯)ですが、これだけ集中して残っているのは他になく貴重なものです。各建物はほぼ同じ造りですが、軒飾りなど細かな違いもあります。
現在は町並み保存センターや、留学生の交流館、古写真資料館や地域の行事などに使われています。


池上氏住宅
東山手と南山手の間の埋め立て地、大浦地区に残る居留地時代の唯一の木造住宅であり、現役住宅です。この住宅の前には、居留地時代の唐人町に住んだ華僑の人たちと清国政府が建てた明治26年に創建した孔子廟があります。以前は華僑の小学校も併設されていました。現在の建物は1980年代のものです。中国の故宮博物館所有の美術工芸品が展示されています。


旧英国領事館

英国領事館は開港時に妙行寺に仮領事館が置かれたのが始めで、その後、旧スチール記念学校のあった場所に(現在の海星学園)さらに明治41年(1908)年にこの領事館が完成。明治後期の洋風建築として景観上も歴史的にも貴重です。国指定重要文化財ですが、かつては児童科学館や美術館として使用されていました。老朽化しており現在入館できません。裏側に建築完成年より1年早い1907の文字が残されており、完成が遅れたことを示しています。隣はアメリカ領事館があった所でUSAと刻まれた基石が残っています。


旧長崎内外クラブ

出島は鎖国時代の役割を終えたあと、大浦バンドつながる外国人居留区に編入された。この出島に明治36年(1903)長崎在留外国人と日本人の社交の場として建てられました。フレデリック・リンガー氏の尽力に負うところが多い。会議室や応接、ビリヤード場、食堂やバーもありました。


旧出島神学校

出島の中に明治11年(1878)に建築されました。現存する建物では日本でもっとも古いキリスト教(プロテスタント)の神学校です。明治26年に増築され現在の姿になりました。