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日本二十六聖人の殉教地(西坂公園)

日本二十六聖人の殉教祈念碑

  長崎駅前にNHK長崎放送局があり、その横の急坂を少しばかり登ったところに日本二十六聖人の殉教地があります。
  ここに、日本二十六聖人殉教祈念碑や、記念館が建っています。記念館ではキリシタン禁制の高札や踏み絵などを含む、貴重なキリシタン関係資料が展示されています。
  祈念碑は列聖100年を記念して1962年に建てられました。横一列に賛美歌を歌いながら昇天する26人の像の碑です。像の足下、基壇には縄の結び文様と交差する2本の槍、流された地ががデザインされています。

  この碑の裏面は「長崎への道」。捕らえられた京都から処刑された長崎までを表わしています。右側に26個の実の一房の葡萄、その蔓が長崎まで続く道であり、左側には葡萄を搾って葡萄酒が造られています。(葡萄は聖書で特別な果物とされています。葡萄酒はキリストの血)SURSUM CORDAの文字もありラテン語。「心を高め」の意味だそうです。

日本二十六聖人記念聖堂・聖フィリッポ教会

  教会設計者は、スペインの建築家アントニオ・カウディを日本に紹介した今井兼次氏。(カウディの作品は、サクラダ・ファミリアが有名)。
  殉教祈念碑と道を挟み、旧時津街道の始点の直ぐ横に立つこの教会は2本の変わった塔が目立っている。一方の塔から地上の祈りが点にのぼり、もう一方からは天の恵みが降りてくることを表しているのだそうです。塔には、京都から長崎までにある陶磁器が埋め込まれ、二十六聖人が歩いた道を表現しているそうです。教会名は二十六聖人の一人、聖フィリッポ(メキシコ人)に因んでいます。 教会には自由に入ることができます。

二十六聖人、殉教への道

  キリシタン大名、大村純忠1587年に長崎をイエズス会に寄進。1587年豊臣秀吉は島津出兵の帰途、バテレン(司祭)追放令を出すが、貿易の利からその後10年、特に弾圧は行われなかった。
  1596年フィリピンからメキシコに向かうサン・フェリペ号が日本近海で座礁、乗船していた神父の話からキリスト教布教が侵略につながると恐れた秀吉はキリシタン弾圧を開始。外国人宣教師6人と12才、13才、14才の3人のこどもを含む18人が選ばれ見せしめのために、京・大阪を引き回しの上、もっとも教会が多く信者も多い長崎が処刑地に選ばれた。
  1597年1月陸路を長崎へ。途中で24人の世話役であった2人も逮捕され26人は彼杵から大村湾を渡り時津に上陸、時津街道を歩き2月5日の昼前、西坂に到着。直ちに処刑される。西坂では、その後六百名以上が処刑された。現在、西坂はカトリックの公式巡礼地に指定されている。
  最初の犠牲者26人の処刑はルイス・フロイスによって書き残され、処刑から265年後1862年、聖人に列せられた。
  その3年後、日本に現存する最古の教会、国宝大浦天主堂が建てられています。天主堂の正式名称は日本二十六聖人殉教者天主堂といい、正門は西坂の丘に向いています。(まだ禁教令が続いており外国人居留区以外に教会を建てることができなかったため西坂ではなく大浦に建てたともいわれます)