女神大橋は、長崎港の入り口、女神鼻と神崎鼻(男神)にかかる斜張橋である。長さ880メートル。最大支間480メートルは斜張橋では全国6位、海面からの高さは65メートルで日本1とのこと。鎖国の時代。長崎へ入港するオランダ船・唐船は、ここで帆を下ろし、奉行所の船団に曳航されて入ってきた。
女神と男神の言い伝えは、神功皇后の三韓征伐にまで遡るが今回は省略。女神は現在、神として祀られてはいないけれど、バス停に名も留め、橋の名前にもなっているが、男神は、その神社の名を記憶するものは少ない。
この女神大橋の女神側に、国指定史跡の魚見岳台場跡がある。台場は砲台場である。
長崎の台場は、1650年代に太田尾(1番)女神(2番)神崎(3番)白崎(4番)高鉾島(5番)長刀岩(6番)陰の尾(7番)の7ヵ所にまず設けられている。
1808年と1810年にこれらの台場が増強されたほか魚見岳が新たに増設された。魚見岳は対岸の神崎と向かい合い幅500メートル港口を押さえる要衝にある。一の増台場から三の増台場までの石垣も砲弾倉庫であった石倉も良く残っている。一の増台場からは長崎港外の香焼・高鉾島・伊王島などもよく望めるが、二の増台場、三の増台場はもう林の中である。登り道の木々のあちこちに「まむし注意」の掲示がある。せっかくの歴史的史跡も、これではなかなか近寄れまい。
神崎神社は、女神大橋の西側支柱横、神崎鼻の海岸に本来の参道口がありますが、現在は途中に鍵の着いたフェンスがあり、往来はできなくなっています。小さな祠に祀られた稲荷社や不動明王像のある崖の上、(かつてはここに本殿や参拝所があったのでしょうが)から急な階段を下りてみました。
狭い海岸にはビット(係留杭)も残されていました。由緒ありげな船魂神社の鳥居も残っています。神社にも栄枯盛衰があることに改めて気付かされました。
昭和初期に編纂された長崎市史の地誌篇・神社教会部によれば、縁起はこれも神功皇后がらみ。最初に祀られたのは鎮懐石と倭奴国王印であるとされている。いったん廃れた神社の再興を図ったのは長崎奉行牛込忠左衛門(名奉行として在任10年に及んだ)とある。海の神・航海の神である住吉(上・中・底筒之男神の三神)と船魂(猿田彦神)を祀ったのだという。最初の宮司は内田八左衛門で以後は九代内田家が継いだが、衰微したという。
この間、この地には台場が設けられたりもしたが、長崎港口にある航海の神だけに、主には唐船の崇敬を受け繁栄していたのだという。明治になり八幡神社宮司の伊藤氏の尽力で大正・昭和初期には繁栄を見たという。当時の社格は村社であった。