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長崎奉行所の1

旧奉行所跡・歴史文化博物館界隈の概略

江戸時代の長崎奉行所・立山役所が長崎歴史文化博物館に再現されている。この地には、長崎が小ローマといわれ、南蛮貿易で賑わった時代、長崎の三大教会の一つ壮大な白亜の「山のサンタマリア教会」が建っていた。1614年、切支丹弾圧期、市内の他の教会とともに破壊された。その後、1671年、長崎奉行所東役所がここに移され、江戸幕府崩壊まで長崎奉行所立山役所が存在した。幕末期には、この役所に英語伝習所が設けられ明治期にこの英語伝習所を祖として県立長崎中学となる。(ちなみに現県庁の地には岬のサンタマリア教会が建ち、その後、長崎奉行所西役所となり、幕末には役所内に海軍伝習所が設けられた)その後県立美術館を経て2005年、歴史文化博物館が開館した。
道路を挟んで、唐蘭貿易を管轄した長崎会所後の碑があり、直ぐ横には、現桜町小学校が建っている。 この小学校の地は、長崎代官、アントニヨ村山等安が寄進して、サントドミンゴ教会が建てられていた。 (発掘跡が資料館として保存されている)教会が破壊され、等安が失脚の後、長崎代官、末次平蔵が4代にわたって居を構えた。末次氏の後は、町年寄がつとめ、やがて町年寄の高木作右衛門が幕末まで十三代世襲した。村山等安、末次平蔵、高木作右衛門はいずれも豪商であった。  少し歩くと、諏訪神社や、松森神社、また、いかにも長崎ならではの逸話を持つ寺院などもあり、歴史文化博物館界隈は歴史のロマンを感じさせる場所である。博物館の隣には、戦時中、長崎県の防災本部が置かれた防空壕もある。原爆の被害はここから打電された。

末次平蔵・抜け荷(密貿易)事件

復元された奉行所は、発掘調査なども行われ、発掘された正門に至る石段や、石垣の一部は当時の物が復元にも使用されている。お宝は、145冊といわれる犯科帳、つまり裁判記録である。 毛筆でかかれた古文書は現代人の多くは読めないので、現物の展示と共に、事件の概要、処罰などが合わせて展示されていて面白い。現在展示中の4代目末次平蔵の密貿易事件を紹介しよう。

末次平蔵 辰年四十二 
 :  :  :  :  :  :  : 辰二月十八日
 :  :  :  :  :  :  : 松永右衛門佐家来ニ預置之

右平蔵儀御代官をも仕なから異国エ致拠銀□為重科陰山九太夫下田弥三右衛門船仕出之儀ハ不存其上地方ニ私曲無之付而死罪御赦免家屋舗財宝坐御闕所辰四月二十九日隠岐国ニ流罪被仰付候


初代末次平蔵(政直)の父親は名を興善といい、その名前は現在も興善町と町名に残っている。また、トードスオスサントス教会跡に建立された春徳寺の山号、華嶽山は初代平蔵の法名に因んでいるとのこと。
初代末次平蔵は朱印船貿易家であり、彼が清水寺に献納した末次船の大絵馬が今も残されている。秀吉の時代から長崎代官を務めていた、キリシタンであるアントニオ村山等安が江戸で斬首となり一族も処刑されたのは、初代平蔵の訴えによるとも言われている。等安は大阪の陣で豊臣方に援助したとの理由らしい。この等安の跡を襲って末次家が長崎代官となる。長崎町人第1の有力者であった。
末次氏は代官を四代にわたり勤めた。
事件は、1675年、4代目平蔵(茂朝)の時に起きた。使用人である陰山九太夫が唐通事の下田弥三右衛門と共謀して中国船を購入してカンボジアとの密貿易を図って発覚し、首謀者は引き回しの上、磔(はりつけ)。平蔵は代官として私曲したことはないので死刑から罪一等減じて闕所(家財没収)長男と共に隠岐に流罪になっています。母親と3歳の息子も壱岐に流罪、罪は家に及ぶんですね。 没収された末次家の資産は銀8700貫を含む数十万両と伝えられているとの解説があり、現代でいえば、現金約150億円を含む数百億円。という感じでしょうか。
長崎奉行所では、これ以外にも大小の抜け荷事件をを裁いていますよ。いかにも貿易都市ですね。 長崎奉行所には江戸町奉行「桜吹雪の遠山の金さん」の父上、遠山左衞門尉景晋さんも奉行として赴任しています。奉行所のこぼれ話はまたの機会に致しましましょう。