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国際電信の事はじめ

長崎は、鎖国の時代も西洋の技術・文化の唯一の受け入れ窓口であったし、幕末から明治初期には、近代化の魁をなした地です。長崎の街を歩くと、「○○発祥の碑」が、あちこちにあるのも、その証。
その一つに、南山手のグラバー園や大浦天主堂の登り口、全日空ホテルの隅に「国際電信発祥碑」がある。1871年(明治4年)デンマークのグレートノーザン電信会社(大北電信)によって、長崎・上海、長崎・ウラジオストックの間に海底電線が曳かれ、この地にあったベルビューホテルの一室に通信所が設けられたことで、日本は始めてモールス信号によって、国際的に即時通信が可能になりました。
翌1872年(明治5年)渡米した伊藤博文のアメリカからの通信は、5時間後には長崎に届いたのに、東京には、その後3日を要したとの逸話が残っています。 この1872年には我が国政府が最初の海底電線を関門海峡に敷設します。これは、長崎・東京間に電信を通すための工事で、長崎・東京間に電信が開通したのは1874年(明治6年)の事です。これによって国際電信と国内電信が繋がることになりました。

日本最初の電信は、これに先立ち1869年(明治2年)に始めて東京・横浜に通じており、急速に全国に広げられたようです。1877年(明治10年)には、長崎県非常係が残した非常電信原簿に、次の電文が残っています。
「カゴシマ。ゾク。ヒゴ。クニサカイヨリ。フタテニ。ワカレ。イツハ。ホンドウ。ヨリ。イツハ。カンドウ。ヨリ。ススミ。ヤツシロ。ニテ。イツニ。ガツシ。サクニジウイチニチゴゼンジウイチジクマモトジョウカニテ。カイセン。ソノゴノ。モヨウハ。ワカラズ。」
ご存知、西郷隆盛の熊本城攻撃のはじまりを、当時の北島長崎県令が伝えた電文です。
また、1874年(明治7年)には佐賀の乱の折り宮川県令から上海の品川領事宛の次の電文記録もあります。
「サガケン、ゾクトノ、カシラ、モト、サンギ、エトウシンペイ、ハジメ、スウジウメイ、カワジョウキ、マイズルセンエ、ノリコミ、ソノチエ、ニゲ、クルモ、シレズ、ホバク、スベシ、ホンコン、ニモ、ツウダツ、タノム
明治4年、上海やウラジオストックから敷設された海底電線(ケーブル)が地上に揚げられたのは、「千本海底線陸揚室」である。現在、小ヶ倉陸揚庫として、残されています。(小ヶ倉町・写真右)