長崎ぶらぶら2・ピントコ坂のこと

ピントコ坂
ピントコ坂
正覚寺下から旧茂木街道の登りがはじまる。そして直ぐにピントコ坂にかかる。この坂は現在の南高校正門のところまで続く。さらに田上から茂木に通じるこの街道の歴史は古い。坂の途中には正徳三年(江戸中期1713年)の年号が入った六十六部供養の石塔が残されている。また正徳二年から三年の始め、天然痘がはやり3000人以上が命を落としており、多くは子どもだったそうで、その霊を慰める石碑も建っていて、今も花が手向けられている。 「ぴんとこ」はもともとは「凸凹」「あれた」であり歩きにくい凸凹した坂の意であろうが、この坂には傾城塚があり、ここに葬られている唐人、何旻徳(カビントク)の名前がなまったものといわれている。

傾城塚
傾城塚
今の館内に唐人町ができる前、中国人は、日本人に混じって町中で暮らしていました。
旻徳さんは、国で恋人を上役に奪われ、失意の中、叔父を頼って長崎に来ました。彼は真面目に働く好青年でしたから、縁談がいくつも持ち込まれましたが、国の恋人が忘れられずすべて断っていました。そんな彼がある日、酒に酔い丸山に紛れ込み恋人に瓜二つの遊女、お登倭と出会います。二人は恋仲になりましたが、その頃、唐人が贋金を作っているの噂がたち(実際に長崎では贋金事件が起きています)何旻徳が犯人として逮捕され西坂処刑場で死罪になりました。実際には濡れ衣で、お登倭に横恋慕した乙名の讒訴でした。悲嘆にくれたお登倭さんは旻徳さんの亡骸を貰い受け、この地に埋葬し自害して果てました。哀れにおもったまちの人は二人を一緒に葬ってあげました。これがおいらん墓、傾城塚です。
この坂沿いには、小説「長崎ぶらぶら節」に描かれた丸山の名妓「愛八」さんの墓所もある。愛八さんの本名は松尾サダ、法名は「愛誉八池貞水大姉」



ぶらぶら節
忘れられかけた長崎唄の保存につとめ、この歌を復活させたのは丸山の芸妓、愛八である。

長崎名物、はた揚げ盆まつり秋はお諏訪のシャギリで氏子がぶうらぶら
ぶらりぶらりというたもんだいちゅ
遊びに行くなら花月か中の茶屋梅園裏門たたいて丸山ぶうらぶら
ぶらりぶらりというたもんだいちゅ
はた揚げするなら金比羅風頭帰りは一杯機嫌でひょうたんぶうらぶら
ぶらりぶらりというたもんだいちゅ

はた揚げ(たこ揚げ)は4月がシーズン、ビードロを塗りこんだよまで相手のはたを切り落とす喧嘩凧、大人の遊びである。金比羅・風頭は上まですっかり住宅が建ち、いまは、唐八景がメッカであるが。鉦と爆竹と「ドーイ・ドイ」に包まれた精霊舟、秋のおくんち、いまに続く長崎の風物・伝統行事。
中の茶屋は史跡で残っている。花月は現役料亭である。花月からは幕末に端唄「春雨」が生まれている。余談だが寺町の通りにある、料亭一力も歴史のある店である。

六十六部
略して六部とも書き、白装束、厨子を背負い、読経しながら全国の寺社をめぐり修行する行者のこと。旅の空でなくなった者も多かったのであろう。六部地蔵などもある。ピントコ坂の石塔には、側面に天下泰平国家安全の文字があり下方に油屋町、金子庄次郎の名がある。

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