長崎には隠れ切支丹、命をかけた布教と殉教の物語や歌が残されている。長崎新聞社編「長崎の民謡」に、獅子の泣き唄(平戸)サン・ジュアンさまの唄(生月)綾竹踊り(鹿町)家野よか盆踊り唄(長崎)が紹介されている。
家野(よの)のよか盆踊り唄を歌える人は絶え譜面もないが、歌詞は次のようなものであった。
「家野はよかよか昔からよかよサンタ・クララの土地じゃもの」
家野は、今の大橋付近、当時の浦上村家野である。この地にイスパニア人宣教師が司牧するサンタ・クララ教会が建ったのは1603年、徳川家康が征夷大将軍になった年である。浦上唯一の教会であった。1614年、家康の禁教令によって、この教会は破壊された。長崎の全ての教会が破却されたのは1619年のことである。
今の大橋交差点から浦上川を超えて直ぐの道路脇、川端にこの教会跡があり、マリア像が建っている。(掲載写真)
サンタ・クララ教会が破壊され神父を失った後、教会で働いていた孫右衛門は「帳方、水方、聞き役」の三役職を設け隠切支丹の組織をつくった。実に二百五十年にわたり教会もなく神父もなく信仰を守り通せたのは、この組織とバスチャン暦が支えであったといわれている。このバスチャン暦では、サンタ・クララの祭日が7月にあり、浦上の信者は、毎年の夏、盆踊りを装い教会跡に集まりオラショを唱え、「家野はよかよか・・・」と唄ったという。
帳方・水方・聞き役
帳方は司祭がいなくても教義や儀式を維持し継承する隠れ切支丹の長である。バスチャン暦を所持して祝日や教会行事の日を繰り出し(日本は太陰暦だったので、西洋暦に直し日を繰り出す)た。水方は洗礼を授ける役目を持ち、聞き役は水方を補佐、各戸への連絡役を担った。
帳方は初代孫右衛門にはじまり、1856年、浦上3番崩れで7代目ミギル吉蔵が殉教するまでつづいた。禁教令廃止まで、あと17年である。帳方屋敷は永井隆博士(「長崎の鐘」「この子を残して」などの著作を残した)が晩年を過ごした如己堂の位置にあった。
永井博士の妻、緑さんミギル吉蔵の曽孫にあたります。
バスチャン暦
バスチャンは殉教者の一人である。ジワン神父の弟子、日本人伝道者(日本名は不明)。国外追放でジワン神父が乗った船は、一旦は日本を出帆した後、嵐で戻された。この時にキリスト教の祭日や教会行事の教えを受けた。これがバスチャン暦である。
彼が残したものは暦の他に、バスチャンの椿や4つの予言などがある。バスチャンが樫山で伝道中、椿の木に十字を刻んだ。樫山は隠れ切支丹の聖地ともなった。浦上3番崩れの頃、十字を刻んだ椿を切り倒す話が伝わるや、村人は先に枝を切り落とし各戸に配った。
予言は、@みんなを7代までわが子とするAその後は告白を聞いてくれる神父が黒船でやってきて毎日告白ができるようになる。Bどこででも切支丹の唄を歌えるようになるC道で異教徒とすれ違うときには相手が道を譲る。というものだったといわれている。およそバスチャンから7代目にあたる頃、禁教令は廃止されたから、@〜Bは基本的にあたっていることになる。