唐三福寺のこと・福済寺と聖福寺の巻

福済寺の大観音像

 福済寺

  長崎の唐寺(とうでら)は1620年に興福寺が、1628年には福済寺が、翌1629年に崇福寺が建ち三福寺とよばれた。三福寺はそれぞれ中国の出身地別グループの貿易商などの寄付で建てたられた(興福寺は南京地方者で別名南京寺、崇福寺は福州、福済寺は彰州)。彼らは切支丹ではない証としてこれを建て、また、航海の安全を願い「媽祖神」を祀った。これに1677年建立の聖福寺を加えて唐四ヵ寺ともいう。
(中国は唐代ではなく明朝から清朝の時代であるが明寺や清寺とはいわない)
興福寺・崇福寺は、よく知られたお寺だが、この二寺にに比べ知名度は高くない福済寺と聖福寺の紹介をしよう。

福済寺

筑後通りにある。黄檗宗の禅寺。かつては国宝の大雄宝殿(本堂)を有し、三福寺では最大の大寺院であったが、残念ながら、原子爆弾で焼失する悲運にあった。(爆心地から約2.6kの距離である。)後山には典型的中国様式の唐僧墓地があります
現在は、昭和54年に建立された亀の甲にのった大観音像(「万国霊廟長崎観音」高さ35m)がこの寺のシンボルである。周りの建物で目につきにくいが、近くで見ると圧倒される大きさだ。この観音像の中には「フーコーの振り子」がある。
幕末(1864年)には、勝海舟とともに、初来崎した坂本龍馬の宿舎になり、竜馬は約40日滞在しています。
参道には火除け地蔵尊が祀られている。原爆で一体は燃えてしまったが、火はこの地蔵尊で止まった。

じゃがたらお春碑

 お春碑

聖福寺

筑後通り、玉園町にある。
唐僧木庵禅師に師事した鉄心禅師によって創建された。鉄心禅師は中国人貿易商を父に長崎の富商の娘を母に生まれた。寺は時の長崎奉行の帰依と支援も受けて、母方の財政援助で建てられた。爾来、明治初年まで三福寺の監督寺の立場にあった。山門の額は日本黄檗宗の祖、隠元禅師の揮毫です。
(この寺には三福寺と違い、媽祖様がない) 大雄宝殿(本堂)、山門、天主殿、は県文化財。必ずしも手入れや保存が十分とは言いがたい(天主殿の弥勒像はお腹に大きな亀裂が走っている)が、その分、歴史の趣を味わえる。
庭に、じゃがたらお春の碑がある。お春さんは筑後町に住んでいたという。お春さんは混血児、15歳の時、バテレン追放でバタビアに送られ、日本こいしやの手紙を残しましたが、かの地で貿易商と結婚し4男3女をもうけ恵まれた暮らしをおくったのでご安心あれ。 海援隊の雇船いろは丸と紀州藩・明光丸が衝突、いろは丸が沈没の賠償交渉が行われたお寺でもあります。寺は紀州藩重役の宿舎だった。 以下聖福寺の写真紹介

歳月を経て角の折れた鬼瓦 瓦塀、廃物利用なのだ 瓦塀の2 鐘楼・長崎一大きな梵鐘
大雄宝殿 大雄宝殿門の桃に注目 山門 天主殿
惜字亭・書類の焼却炉 内部上段にも桃図 吊るされた大きな魚鼓 鬼瓦・実物は迫力があります

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