episode 2
 自分が求めていたものは「これだ」と確信し、呼吸法の稽古を始めたにも拘わらず、対気となると妙なジレンマを感じていた。気で人が飛ぶとはどう云うことなのか?知りたい・・・。そう思う反面、心の奥底で「信じられない」という思いもあったように思う。ましてや自分が飛ばされるなんて、信じられもしない。空手家としての変なプライドも邪魔していたように感じる。

 1989年(平成元年)の2月・3月・4月と3ヶ月連続して西野塾大阪校へ行った。ひと月に2日間で4回いっぺんに受講して帰っていた。 事実、その3ヶ月間はまったく飛ぶことはなかった。一歩も後ろに後退することもなく、ただ肩の筋肉を潰されて、その場に押し倒されるという状態だった。 只々、肩が痛くて対気の意味もさっぱり分からない。 そんな中で、直ぐにでも気を知りたいという思いを捨てたのです。 それからは『超瞑想呼吸法神髄』にも書いたように、吐く息の長さ(呼吸力)なら、こんな自分にでも時計の秒針を見て吐くので分かる・・と、次の西野流行き(3ヶ月おいて行った)まで、自分で「もうこれ以上できない」と思うほど、呼吸法を自分なりにやり抜いて行った。

 稽古時間よりも随分早く西野塾に着いて、とりあえずストレッチでもしようかと道場に入ったら、すでに指導員の方々が塾生相手に対気の稽古をつけていらした。 これは「チャンスと思い。 「さて、どの指導員のところへ行こうかな?」と指導員の方を見比べてみると、「ん? あの剛柔流空手のKさんはちょっと肉体的な粘りがあるなあ・・」 「お!少林寺拳法の人は身体内部に籠りがないなあ。すーと抜けがいい。」「よし少林寺拳法の人にしよう。」と単純に感じ、細身の背の高い少林寺拳法の方に手ほどきを受けることにした。 遠くから見ただけで、相手の気の内部感覚が感じ取ることが出来たと云うことは、それまでの自分ではあり得ない、実は凄いことだったのです。ただその時は「あっちにしよう」と、単純にそう感じただけで、それはその3ヶ月の間、巡るエネルギーを見つめ、丹田を見つめ、体外に放出されるエネルギーを見つめ、体内の緊張・詰り・滞りを抜く作業をひたすら繰り返したからこそ、自然と培われた能力・感覚だったのです。

 そして、自分の番が来て、「どうぞ」と勧められるままに右手と右手を交差させるように合わせて、対気が始まった。過去の稽古中での対気では、あまり時間をかけてもらえず直ぐに潰されていたのだが、今は稽古前、ゆっくりと話かけていただいて「とりあえず身体全体が波にでもなった気持で来てください。」と言われ、「ん?・・波ねえ」と自分なりに波になった気持で相手と腕を回していると、段々とイメージが膨らんできて、途中からハワイのビッグウエーブのような大波が身体全体を包み込み、ゴーーー!と波の音、水しぶき、潮風がとてもリアルに感じられて、「ウワァーーー 気持いぃ〜〜〜」と相手と手を合わせていることさえも忘れて、心の中で大声で叫んだ瞬間! episode_1 で吹っ飛んだ男性のように、自分が空を舞うがごとく、後方へ大きくもんどりをうって飛ばされていた。幸い自分の場合は、小学校6年生のとき一年間柔道を習っていて、ひたすら受け身ばかりをやっていたから、後頭部を打たずに、無意識に受け身をとっていた。右腕をしこたま床に打ち付けたので右腕がシビレてしまった。 が、その瞬間にハッと閃きを受けたのでした。「そうかぁ〜 成りきることだ!!と、イメージに浸り切ることによって、自我は解放され、無心となれるのだ。無心となった身体からは、これまで溜めに溜めた気エネルギーが堰を切ったように噴き出し、より強い気エネルギーと交流がなされ、結果、はじき飛ばされていたのだ。言い換えれば、自分が吹っ飛ぶほどの気エネルギーを出せた、という事でもあるわけです。対気は決して一方的なものでは無いのです。より強い気に飛ばされることにより、又より強い気と交流することにより、細胞レベルでの閃きを得ることが出来るのです。

対気は気感の変化を推し量るバロメーターでもある訳ですね。

 この日を境に気感の変化には目を見張るものがありました。ひとり呼吸法の最中でもイメージに浸り切るようになり、まるで雪だるまを転がして行くように、丹田が・全身の気エネルギーが膨らんでいくのを手に取るように実感していました。笑い話ではないのですが、株価急上昇・うなぎ上り・天井しらず等の言葉を、気エネルギーの膨らみ・上昇で実感していました。 もう呼吸法が面白くて、楽しくて仕方ない。日々そう云った感じで365日を過していました。 それが更なる体感・体験へと導いてくれたのでした。

2016.12.05 筆
からだは正直!! 呼吸は裏切らない!!!