『「らい予防法」国賠請求事件の考察』第四集』=3〜68ページ



  序編   原告ら代理人の「準備書面」(熊本地裁提出)等の考察
     
     は じ め に

  被告(国)の本訴訟に対する主張の人権無視とその欺瞞性に怒りを感じつづけながら、一方で、被告(国)とまっこうから対立し、争っている原告ら訴訟代理人(西日本訴訟弁護団)の書いた「訴状」、「準備書面」、「証言尋問書」、「意見書」などの資料を見て、不満を感じることがあることもまた、事実である。そのことについて始めに論じてみたい。
 
  熊本地裁での裁判は、本年の一〇月二〇日に、被告(国)が申請した証人として、今泉正臣星塚敬愛園々長、長尾栄治大島青松園副園長、一九九六年四月、「らい予防法」廃止当時に、ハンセン病行政を担当していた元厚生省保健医療局エイズ結核感染症課岩尾總一郎課長(現・厚生省大臣官房厚生科学課長)が出廷し、被告(国)代理人の「主尋問」を受ける。一一月一〇日に同三人に対する原告代理人の反対尋問があり、来年二〇〇一年一月一二日、熊本地裁での最終準備書面提出に基づく最終陳述、そして「結審」となり、同年初夏にも地裁判決がおこなわれそうだと聞いている。地裁判決前の「和解」はあり得ないということである。あるいは、それは、理解の誤りかもしれないが……。しかし、これ以上、双方とも証人は申請しないという。ともあれ、熊本地裁での結審が近いということだけは、どうも事実のようだ。
  熊本地裁に引き続き、東京地裁でも、一〇月三一日に、熊本地裁で出廷した被告(国)申請の証人として、厚生省の岩尾總一郎課長、鹿児島大学医学部の後藤正道助教授(前・星塚敬愛園副園長)、瀧澤英夫・前奄美和光園長が尋問を受け、さらに、反対尋問が行われて「結審」し、判決も夏には行われるのではないか。両地裁ともおうずめを迎えている。
 
  一方、HP(ホームページ)での、ハンセン病国賠訴訟の情報も送信されている。西日本訴訟を担当する古賀克重弁護士のホームページは、二〇〇〇年四月五日に開設されたのだが、十一月五日までに、三万六六五名のNumberが記録されている。私も、「ハンセン病国賠請求訴訟を支援する東京の会(代表・田中等)」のホームページとともに、よく利用して「ハンセン病国賠訴訟」の情報を得ている一人である。
  古賀克重弁護士のホームページには、八月一三日に星塚敬愛園出張尋問速報に始まり、菊池恵楓園での「検証調書」・原告側の指示説明書(八月二一日更新)、「準備書面(六)」(私は八月一七日にHPを見る)、「訴状」(九月一五日更新)、「準備書面(一)」(九月一七日更新)と、次々と古賀HPで見ることが出来た。古賀HPの「準備書面」のページに「ここでは、熊本訴訟における原告側書面をすべてご紹介します。各書面の特徴を記載していますから、興味のある書面から読んでみてください」とあるので、準備書面(二)〜(五)も、やがて「全文アップ」されることであろう。そのことは、ハンセン病国賠訴訟(法の華訴訟や少年事件等)の内容を多くの人びとが知る上で、有意義なHPだと思っている。
 
   裁判資料も公開、発表されたまま(たとえ、いま見れば不十分なもの、間違っていることも)、変えることなくHPにして、発表してもらいたいと願う。その上で、発表後、不十分な内容や「訴状」や「準備書面」が間違った内容記述と分かれば、そのことを「注記」して、訂正することも非常に大切なことではないかと考える。そして、HPを見た人に対して、「ハンセン病」問題に対しての正確な情報を提供し、HPを見た人に、主体的に「ハンセン病国賠請求訴訟」に関しての公正な判断を求める努力が、大切ではないかと思う。裁判官にも、その訂正、補充があれば、その個所を「補充準備書面」で示す必要があろう。過去に自分たちが書いた「訴状」、「準備書面」などの過ちを認め、訂正することは、勇気のいることである。しかし、そのことこそ、人々に真の信頼を受けることだと考える。そうしたことを期待して、「訴状」、「準備書面」、「検証」の原告側の指示説明書、「甲第一〜九四号証」の内容を読んで考えたことを、以下、率直に指摘したいと思う。
  なお、本訴訟についての全般的な考察については、拙著『「らい予防法」国賠請求事件資料の考察』の第一集(A5判 一〇八ページ、二〇〇〇年四月)、第二集(A5判 一二二ページ、二〇〇〇年五月)、第三集(A5判 一六〇ページ、二〇〇〇年七月)、および、近く未来社から発行する予定の拙著『日本植民地下の小鹿島(ソロクト)朝鮮ハンセン病史』(A5判 三二〇ページ)、近刊の『「らい予防法」国賠請求事件資料の考察』の「第四集」を参照されたい。
 
 第T章  原告ら代理人「訴状」に内包する「差別性」について

 「原告ら訴訟代理人弁護士 徳田靖之 外一三六名」が、「一九九八年七月三一日」に熊本地方裁判所に提出した「訴状」を一読して感じることは、訴状に内包する「差別性」についてである。古賀ホームページで、本年九月一五日以降、全世界に、この「訴状」は送られている。訴状内容はそのままとして、「備考欄」など添付して、訂正を加えることはできないものか。このままでは、ホームページの影響力とともに、間違った認識がひろがるばかりである。
  具体的に、『「らい予防法」違憲国家賠償請求事件  訴状、答弁書、準備書面』の冊子(以下、『冊子』という)にそって、その箇所を指摘しておこう。
  
 第一節  優生手術
  * 第一の問題個所である。訴状には次のような障害者差別(遺伝病差別)を内包する記述が繰り返し主張されている(傍線は筆者)。

 「2  のみならず、一九四八(昭和二三)年、被告国は、ハンセン病が遺伝病でないことを知りながら、ハンセン病患者に対する優生手術を明文で認める『優生保護法』を制定した。
  法制定以前より、施設内において夫婦が子を産み育てることは禁じられており、結婚を許す条件として、事実上の強制的な断種手術が行われ子供を産めなくし、また妊娠した女性には人工妊娠中絶が行われてきた。遺伝ではなく伝染病であるとしながら優生手術を認めることは、明らかな論理矛盾である。収容者は逃げ出さないように療養所に囲い込まれたうえに、人間の『いのち』の精管まで絶たれたのである」(『冊子』八ページ)。

 「被告国は、ハンセン病は伝染病であり、断種、堕胎が正当化される根拠を欠くことを知悉しながら、女性が妊娠すれば堕胎を実施し、療養所内で結婚を許す条件として、男子の精子管切断手術、女子の卵管結索手術を強制した。医師ではなく看護士や看護婦によってこれら手術を受けた収容者も多数存在する。これにより収容者は自由のみならず、『いのち』をも奪われた」(『冊子』一七ページ)。

「そもそもハンセン病は遺伝病ではなく、優生政策を合理化し得る合法的根拠を欠いていたのであり、被告国(国会)はこれを知悉していたのである。したがって、非合法下における優生政策を直ちに廃止し、(中略)ハンセン病患者に対する優生保護条項を直ちに廃止すべき義務が(国会の責任として―滝尾)あった(『冊子』二〇〜二一ページ)。

 すなわち、「被告国は、ハンセン病が遺伝病でないことを知りながら、ハンセン病患者に対する優生手術を明文で認める『優生保護法』を制定した」とか、「被告国は、ハンセン病は伝染病であり、断種、堕胎が正当化される根拠を欠くことを知悉しながら」優生手術をおこなったとか、「ハンセン病患者に対する優生保護条項を直ちに廃止すべき義務があった」とか、さらに、「そもそもハンセン病は遺伝病ではなく、優生政策を合理化し得る合理的根拠を欠いているのであり」などと訴状で主張している。これは、遺伝的疾患による「障害者」を差別する内容を内包した記述である。
  原告ら弁護団が、熊本地裁に提出した「甲第一四号証」の中に和泉真蔵さんの「らいの歴史に学ぶ」がある。その中で、和泉さんは、次のように発言している(下線は筆者)。これらを参考にして、古賀HPは、「備考欄」その他で、そのむねを添付すべきではないか。世界中に「障害者差別」をばら撒いてはならない。

 「全患協のらい予防法問題小委員会が一九八八年三月に出した改正案では、優生保護法も改正すべきであるとし、『他の遺伝病を対象とした優生保護法にハンセン病を含めることは不当であり削除されたい』と述べられていますが、これは遺伝病患者に対する差別を肯定する考えで危険だと思います。その意味でその後に出てきた案の中では、この要求が抜けているのは好ましいことです。くり返しになりますが、優生保護法のらい条項(前述)ではなく、優生保護法そのものが問題なのであって、らい条項だけを外してくれというかたちで優生保護法の本体を肯定することになるような考えは、とらないほうがいい。らい条項そのものは非常に不合理ですが、むしろ、不良な子孫を残さないために優生手術をするという優生保護法第一条そのものを、問題にすべきだからです」(『エイズに学ぶ』日本評論社八九ページ)。

  私はかつて、月刊雑誌『未来』第三九三号(一九九九年六月号)で、次のように書いた。

  「戦後の民主主義態勢を標榜する社会のなかで、優生思想が『婦人倶楽部』により、どのような内容をもって国民の中に浸透したかを見ていきたい。戦後間もない一九五〇年一二月、『婦人倶楽部』一二月号(第三〇巻・第四号)附録として、『わかり易い問答式・婦人衛生医典』が発刊される。発行所は大日本講談社、一〇〇ページばかりの冊子である。そのなかに「優生手術」の項目があり、次のような記述がされている。
  問  私の夫は結婚後軽い精神分裂症という病気にかゝりましたが、治療して現在はすつかり全快しています。この病気は子孫に遺伝するそうですから、私は妊娠して子供を作りたくありません。どうすれはよいでしょうか。
  答  精神分裂症という病気は遺伝性の病気の一つであります。一国の文化を向上させ、立派な国民が出来上つていくためには悪質の遺伝性疾患は消滅させることが国家にとつても社会にとつても、また各家庭にとつても大切であります。しかしなかなかその理屈を理解して、自から進んでその子孫を残したくないという人はまれであります。あなたのお考えは尊敬すべきお考であると存じます。                 
  あなたの場合は、御主人が精神病でありますから、必ずしもあなたが不妊手術を受けなくとも御主人の不妊手術で十分であり、むしろその方が望ましいのであります。
 男子の不妊手術は女子の場合よりもはるかに簡単であり、危険性も少なく、かつ後遺症も少ないのであります。それは両側の鼠蹊部の皮膚を少し切開して鼠蹊部を通つている輸精管を結紮すればよいのであつて、開腹術でもなく、局所麻酔で容易にできるものであります。
  こうすることによつて御主人は最早あなたに対しても、また他のいかなる女性に対しても妊娠させることはないのであつて、全く優生法の精神に合致するのであります。                     
参考までに優生保護法の中の第二章、優生手術の一部を摘録してみます。                                   
第三条  一  本人または配偶者が遺伝性精神変質症、遺伝性病的性格、遺伝性身体疾患または遺伝性畸形を有するもの。
 二 本人または配偶者の四親等以内の血族関係にある者が遺伝性精神病、遺伝性精神薄弱、遺伝性精神変質症、遺伝性病的性格、遺伝性身体疾患または遺伝性畸形を有し、かつ子孫にこれが遺伝する虞れのあるもの。
 三 本人または配偶者が癩疾患にかゝり、かつ子孫にこれが遺伝する虞れのあるもの。  
           (中略)                                                                                                                              
 以上のように優生保護法では、優生上の見地から不良な子孫の出生するのを防ぐとともに母体の生命、健康を保護することを目的としているのであります」

 私は、古賀HPで再度、原告の「訴状」を読みながら、上記の「和泉発言」と『婦人倶楽部』の附録『わかり易い問答式・婦人衛生医典』の優生手術の記述を思い出した。また、この問題に関連して『生と死の先端医療』(生命操作を考える市民の会編、解放出版社)という本の中での「座談会・先端医療技術と人権」で矢野恵子さん(優生思想を問うネットワーク)の発言の一節を思い浮かべた。それは、次のような内容である。

「九七年秋、スウェーデンで強制不妊手術がされていたと報道され問題になりましたが、日本でも同じことが優生保護法に基づいて、ついこの間までされていました。厚生省に出された報告だけでも本人の同意によらない強制的な優生手術が一万六五二〇件(一九四九年〜九四年)にのぼっています。周囲のさまざまなプレッシャーから同意せざるをえなかった遺伝性疾患やハンセン病の人たちの数字はこの中に入っておらず、実際はもっと多いはず。優生保護法にのらない女性障害者への子宮摘出の問題もあります」(一八四ページ)。

  こう書きながら三〇余年前、ひとりの在日朝鮮人高校生の怒りのことばを回想する。
 
  それは、高校生たちの部落解放集会に生徒とともに出席した時のことであった。被差別部落の生徒のひとりが、部落差別の実態を話し、つづけて、部落起源説のことにふれ、「部落民は帰化人の子孫という説があるが、歴史事実に反している。われわれは、同じ日本人であって差別される理由がないのだ」と発言した。そのとき、在日朝鮮人高校生のひとりが、立ち上って、怒鳴った。
  「朝鮮人の子孫だったら、差別されてもよいというのか!」

第一節  民族差別
 *「訴状」の第二の問題個所を示そう。(傍線は筆者)
 
 「3  被告国は、満州事変を惹起せしめた一九三一年(昭和六)年、法律第五八号「癩予防法(旧法)」を制定し、隔離対象を全ての患者に拡大し、強制隔離の強化によるハンセン病・患者の根絶を企図した。
  しかしながら、疫学的にみたわが国のハンセン病は、隔離とは関係なく終焉に向かっていた。減少の実態は、社会の生活水準の向上に負うところが大きく、伝染病の隔離を目的に制定された「旧法」すら、あえて立法化する必要はなかったのである」(『冊子』六ページ)。 

  敗戦前の日本「癩」政策を考える場合、当時の植民地とりわけ朝鮮におよぼした事実を無視してはならない。「訴状」は、「(ハンセン病・患者の)減少の実態は、社会の生活水準の向上に負うところが大きく、伝染病の隔離を目的に制定された「旧法」すら、あえて立法化する必要はなかった」という。日本では、一九三一年四月、法律第五八号「癩予防法」をもって一九〇七年法律一一号が改正公布された。一方、植民地とした朝鮮では、同「癩予防法」に準拠した「朝鮮癩予防令」が制令により一九三五年四月二〇日に公布され、同日、府令により「施行規則」が制定される。
 
  日本植民地下の朝鮮では、一九三一年九月に設立された「朝鮮癩病根絶策研究会趣旨文」には、次のように書かれている。

「朝鮮の癩病患者は今日、一万六千を数えている。三〇年前、少数であったのに比べ、三〇年後の今日、このように増加したのは驚くべき事実であり、三南(忠清、全羅、慶尚の三道の総称―筆者)各地から北部朝鮮にまで広がる病魔の跋扈は、実に全民族の生命をおびやかし……」(大韓癩管理協会編発行『韓国癩病史』一九八八年、八二ページ) 
 
「訴状」が、「疫学的にみたわが国のハンセン病は、隔離とは関係なく終焉に向かっていた。減少の実態は、社会の生活水準の向上に負うところが大きく、伝染病の隔離を目的に制定された「旧法」すら、あえて立法化する必要はなかった」という時、「減少の実態」がなく、植民地・朝鮮では、患者は、驚くほど増加している(拙稿「浮浪し、行き倒れた朝鮮のハンセン病者たち」『未来』九九年二月号参照)。ならば、植民地であった朝鮮では、伝染病の隔離を目的に制定された一九三五年四月二〇日公布の制令第四号「朝鮮癩予防令」は必要であったのであろうか。
  隔離対象を全ての患者に拡大し、全羅南道南端の小島に六千余名のハンセン病患者の一大強制収容所をつくったこと、ハンセン病患者の住む集落を焼き払い、小鹿島更生園の専用船で患者を収容したこと、「隔離対象を全ての患者に拡大し、強制隔離の強化」したことは、「減少の実態」がなければ、肯定され、是認されることであるのか。問題にされなければならないのは、「患者の実態が減少か、増加か」で隔離されたか否かではないはずである。どんな実態であれ、ハンセン病患者の「強制隔離・収容」と「終身収容・患者の絶滅」政策の立案、遂行そのものの「内容」こそ問題にされ、批判されなければならないのではなかろうか。

  西日本弁護団が提出している「訴状」、「準備書面」、「甲 号証」には、上記の他、適切を欠く認識から「障害者差別」、「民族差別」などを内包する記述がみられるのは、遺憾である。そのいくつかを挙げてみよう。
 
 A、「訴状」第三  三  6「被告国(国会)は、このような意見陳述に盲従し、医学的根拠を欠きながら」(『冊子』一一ページ)とある。
    「盲従」とは、『岩波 国語辞典(第六版)』をみると、「自分で判断することなく、何もわからないまま従うこと」とある。療養所には、三割を越す視覚障害者がいるし、原告のなかにも、かなりの視覚障害者がいる。なぜ、古賀さんは、HPまで使って「障害者差別」のことばを、注記なしに送信するのか。

B、 「原告準備書面(一)」には、詳細な「ハンセン病関連 年表」が付されている(『冊子』一七二〜一八七ページ)。大谷藤郎著『らい予防法廃止の歴史』には、「大東亜戦争」とか「内地」とか引用文でなく、自分のことばとして使用している。もちろん、「  」(括弧)なしである。それを『冊子』が「法廃止の歴史」として、「一九四二年 無らい運動の結果、内地 の未収容者四五八三人」などと書いている。

C、 ハンセン病政策と「皇室の御仁慈」に関する問題、および、朝鮮人関係の問題は、「らい予防法」違憲国家賠償請求事件から、戦前・戦後を問わず、問題にされていない。これで「歴史の真実と責任の所在を明らかに」(徳田靖之弁護団長談)することが出来るのであろうか。
      癩予防協会(藤楓協会の前身、皇太后節子の「下賜」金により一九三一年三月設立。会頭渋沢栄一)抜きには、「無らい県運動」は、考えられない。(前年=一九三〇年に、皇太后節子の名で癩患者救済のためとして、二四万八千円を関係機関に「下賜」した。)
     「らい予防法」の成立も、光田健輔の「朝鮮差別」の国会証言(一九五一年五月一八日の第十回国会衆議院 行政監察特別委員会、同年一一月八日の第十二回国会 参議院厚生委員会の光田の二度にわたる「朝鮮人に対する差別」証言)は、「らい予防法」違憲国家賠償請求事件の原告ら代理人の資料では、取り上げられていない。金永子さん(四国学院大学教授)が研究し、明らかにしてきた「在日朝鮮人ハンセン病患者同盟」を中心にしたねばり強い年金闘争(それは、日本政府の差別行政への闘いである)もまったく本訴訟には取り上げられていない(西日本訴訟の原告の中には、金泰九さんを始め、何人もの在日朝鮮人がいる)。この問題は、第五章 「自国民・自民族中心主義」を排除すること、で詳しく論じることにしている。

   とりあえず、本冊子(「第四集」)では、「らい予防法」違憲国家賠償請求事件の原告ら代理人「資料」の中から、次の六点に問題をしぼって、考察をすすめたい。そして、原告ら代理人の「最終準備書面」作成に際の一つの「参考」になればという、ささやかな期待をもっている。六点の問題とは、次の内容である。

1 原史料にあたること
2 史料は、正確に読むこと、――史料のつまみ食いを排すること
3 ひろく「対象の史料」を探すこと
4 従来の「定説」も、疑問をもってあたること
5「自国民・自民族中心主義」を排除すること
6 史料だけにたよらず、地域を深くみること、たくさんみるだけでなく。( 古賀弁護士は「私も療養所を五〇回以上回っていますが、すべて手出しです )と古賀HPでは述べているが……。
 (「療養所」内の人たちだけでなく、社会復帰している人たちのことも調査、研究することが必要ではないか。)


第U章  史料による立証には、原史料にあたれ。第二次史料は参考程度に!

  準備書面の史料引用には、大谷藤郎著『らい予防法廃止の歴史』勁草書房(甲第一号証)、大谷藤郎監修『ハンセン病医学 基礎と臨床』東海大学出版部(甲第七号証)、山本俊一著『増補 日本らい史』(甲第二号証)、犀川一夫著『ハンセン病政策の変遷』(甲第二四号証)の記述の間違いや、いい加減な内容については、拙著『「らい予防法」国賠請求事件資料の考察』――第一集(A5判 一〇八ページ)、第二集(A5判 一二二ページ)、第三集(A5判 一六〇ページ)で記述しておいた。著名な医者の書く「医学史」や「病気史」が、かならずしも正確な内容となっていない。歴史書を書く研究方法も、基本的に分からないままの人もいる。なぜ、虚実ともいえる内容を「医学史」として書くのか。もっとも、それ自体、その人の言動を知る上での「史料」になり得るのであるけれども。ともあれ、書かれた内容の検討を怠り、原史料との照合をせずに「準備書面」を書くのは、頷けない。例を示そう。
                                                                          
  その一、原告『準備書面』(一)の一一八ページに、「『島嶼に送るが如き処置はこの病気の伝染力に対して患者当人に余りに過大な犠牲を要求するものであって、公正ではないとか考えた』(藤楓協会三十年史、「らい予防法廃止の歴史」五一頁)というにあった」と、同『冊子』は記述している。
 『藤楓協会三十年史』という本はない。財団法人藤楓協会理事・理事長を十余年にわたって就任している大谷藤郎さんが、『らい予防法の廃止の歴史』の中で誤記するとは、どうしたことだろう。引用書は、『創立三十周年誌』編集・発行 財団法人藤楓協会 である。『冊子』が引用している個所は、一五ページである。『創立三十周年誌』編集・発行 藤楓協会(一九八三年)は、大抵の公立図書館に配架されている。その原史料をみずに、大谷藤郎著『らい予防法の廃止の歴史』の史料の「孫引き」で原告『準備書面』は、満足している。原史料がある場合は「孫引き」しないという歴史記述としての原則は、法曹界ではどうなっているのだろうか。 
     
  その二、一九五一年一一月八日「第十二回国会 参議院厚生委員会」での光田健輔の証言を、『冊子』はどのように記述しているか、見ていこう。これは、西日本訴訟弁護団の「孫引き」の悪しき例の一つである。(傍線は筆者が付す)。「優生保護法」も『冊子』の記述は正しくない。西日本訴訟弁護団の勉強不足である。これでは、本裁判の「勝利」は覚束ない。西日本訴訟弁護団は、「優生保護法」に関する各「原史料」をまともに読んで、訴状や、準備書面を書いたのであろうか?西日本訴訟弁護団の『訴状』や『準備書面』が、[第十二回国会 参議院厚生委員会会議録第十号」(「甲第六号証‐22」)の原史料を見て書けば、西日本訴訟弁護団の『準備書面(一)』の記述内容もかなり正確なものになってはいなかったか。例えば、参議院厚生委員会で光田健輔では、次のように証言している。

 「特に法律の改正というようなことも必要がありましょう。強権を発動させるということでなければ、何年たつても同じことを繰返すようなことになつて家族内伝染は決してやまないと、(中略)……
  それから予防治療、予防するのにはその家族伝染を防ぎさえすればいいのでございますけれども、これによつて防げると思います。又男性、女性を療養所の中に入れて、それを安定せしめる上においてはやはり結婚というようなこともよろしいと思います。結婚させて安定させて、そうしてそれにはやはりステルザチヨン即ち優生手術というようなものを奨励するというようなことが非常に必要があると思います。一旦発病するというと、なかなかこれを治療をするには、一見治つたように見えますけれども、又再発するものでございますから、治療もそれは必要でありまするが、私どもは先ずその幼児の感染を防ぐために癩家族のステルザチヨンというようなこともよく勧めてやらすほうがよろしいと思います。癩の予防のための優生手術ということは、非常に保健所あたりにもう少ししつかりやつてもらいたいというようなことを考えております」(『甲号証一一三ページ、収録』)。

  この原史料[参議院厚生委員会会議録]を原告ら訴訟代理人が熟読していたら、訴状をさらに補強した内容になっていただろう。原史料を正確に読んでいないで、不十分かつ、間違った記述をしているものとして、「優生保護法」の記述について前述したが、『冊子』の記述にそくして、再度、考察しておきたい。『冊子』は次のように書いている。

 A、「被告国は、ハンセン病は伝染病であり、断種、堕胎が正当化される根拠を欠くことを知悉しながら、女性が妊娠すれば堕胎を実施し、療養所内で結婚を許す条件として、男子の精子管切断手術、女子の卵管結索手術を強制した。」((『訴状』より、『冊子』一七ページ)。

 B、「(原告準備書面(一)より)  (三園長発言・時代への逆行    こうして全らい患者は立ち上がり、療養所内での各種の待遇改善要求のほか、懲戒検束権・強制隔離政策を全面的に見直す予防法改正問題につき論議し、政府に対する請願を開始したが(運動史・四一頁。法廃止の歴史・一四七頁)、かかる患者達の動きに逆行する事件が起きた。
  一九五一年(昭和二六年)一一月八日、第一二回国会参議院厚生委員会が開催され、当時のハンセン病の国立療養所長であった光田健輔(岡山・長島愛生園)、林芳信(多摩全生園)、宮崎松記(菊池恵楓園)の三園長が、患者の意志に反しても収容できる法律の必要性、断種の必要性、逃走罪などの罰則の必要性などを証言したのであった。
  例えば林は、一方では「現在相当有効な薬ができました‥‥その治療の効果も相当に上がりまして、各療養所におきましても患者の状態が一変したと申してよいのでございます。‥‥治療の問題はもう一歩進みますれば完治させることができるのではないかと思うのであります。」というハンセン病治療の知見に関する認識を示しながらも、未収用者患者に関しては「速やかにこういう未収用の患者を療養所に収容するように、療養施設を拡張していかねばならんと、かように考えるのであります。」と述べた。
  また光田も、収容に関して「強権を発動させるということでなければ何年たっても同じことを繰り返すようなことになって‥‥」と述べ、さらに委員からの質問に答える中で「手錠でもはめてから捕まえて、強制的に入れればいいのですけれども‥‥」「そういうものはもうどうしても収容しなければならんというふうの強制の、もう少し強い法律にしていただかんと駄目だと思います。」などと述べ、さらに宮崎も、徹底的な完全収容が必要などと光田と同旨の証言をしたのであった(法廃止の歴史・一四一ページ。日本らい史・二六七頁)」(『冊子』一三三〜一三五ページ、『準備書面』二七〜二八)。

 

C、「療養所における強制隔離収容下での優生手術は、一九一五(大正四)年ごろ療養所長が「院内出生児の始末」の必要から、所内結婚を許す条件として、始めたものといわれている(日本らい史、一〇九頁)。収容患者に対する終生にわたる収容を維持するためには、所内結婚を一定限度で許さざるをえなくなったという背景があった。やむなく結婚をゆるしながらも『所内では子どもをうませない、育てさせない』という優生政策を維持するために優生手術を利用したのである」(『冊子』一二三〜一二四ページ、『原告準備書面(一)』一七〜一八ページ)。

D、「被告が、国民優生法の下において、法律の根拠もなく違法に実施してきた断種や堕胎等の優生政策は非人道的な政策であった。
  一九四八年に優生保護法が制定され、形の上では本人の同意に基づく堕胎として合法化が装われたが、その実態は、強制隔離政策下において『園内では子どもを生ませない、育てさせない』という徹底した優生政策を貫徹するための方途として用いられたもので、旧来の優生政策をそのまま継承したのである。基本的人権を最大限に尊重する日本国憲法の下では、その存在自体が許されないはずのハンセン病患者に対する優生政策は、この優生保護法上の差別的な「らい条項」によって、継続されていったのである」(『冊子』一一〇ページ、原告準備書面(一)四ページ)。

   E、「3  政府・厚生省の義務違反    しかしながら厚生省は、なすべきこととは逆に、前記のとおり何らの合理的根拠のない優生保護法案及び明らかに違憲の「らい予防法(新法)」案を策定し、閣議を経て国会に提出せしめたのである。また、一九九六(平成八)年三月の「らい予防法(新法)」の廃止後も、今日に至るまで、実効性ある原状回復策を講じていない。   
    先行する人権侵害の放置、実行性ある原状回復策の不実施は、それ自体あらたな人権侵害行為である」(『冊子』二五〜二六ページ、『訴状』二五〜二六ページ)。

  第一に、「『所内では子どもをうませない、育てさせない』という優生政策を維持するために優生手術を利用した」という『冊子』の記述は正しいけれど、それは一面的であるといえよう。優生手術は同時に、施設内「秩序」の維持、逃走の防止等というもう一つの側面をもっていた。(日本植民地下の小鹿島更生園では、処罰としての断種が日常化していた。)
 「ノン」(「らい」に感染、発病していないのに、療養所に収容されている人)である女性(妻)が、結婚した相手の男性が罹病した場合、女性(妻)がいっしょに来所する場合があり、その場合は「ノン」の女性(妻)も所内に収容して、患者作業、労働力を確保しようとしたことも考えられる。療養所という名の「収容所」内の、優生手術を前提とした男女同棲の容認は、園長の専制的施設内管理体制(その一つとしての「結婚体制」)として把握されるべきであり、その重要な一環として、「優生政策」が存在していたと考えられる。
  施設内「秩序」の維持について述べてみよう。五一年一一月八日の参議院厚生委員会で、光田健輔の証言に即していえば、「男性、女性を療養所の中に入れて、それを安定せしめる上においてはやはり結婚というようなこともよろしいと思います。結婚させて安定させて、そうしてそれにはやはりステルザチヨン即ち優生手術というようなものを奨励するというようなことが非常に必要があると思います」と述べていることである。
  「結婚させて安定させて、…ステルザチヨン即ち優生手術」を行う光田の目的は、施設内「秩序」の維持をはかるとする光田健輔の考えであった。それについては、拙稿『「らい予防法」国賠請求事件資料の考察』第二集の七四〜七五ページに紹介した光田の「癩患者男女共同収容を可とする意見」(一九二〇年六月)を見ていただきたい。その中で光田は、次のように述べている。
 
「……男女の関係に於て乱暴狼藉を許さざるが故に如何なる自暴自棄の患者と雖も女性の歓心を得んとするに当りては、其の暴威を逞うする能はず、虎変じて反て猫の如き者となる、又如何なる莫連名淫なる婦人にしても其の適当なる配偶を得るに当ては恰も処女の稚態に変ず」(藤楓協会編『光田健輔と日本のらい予防事業』五七ページ)。

  第四区大島療養所の医師(産婦人科医)野島泰治は、『レプラ』第二巻第三号(一九三一年九月)に「「癩患者に行へる輸精管切除例に就いて」(九〜二七ページ)を発表している。その報告書は、第四区大島療養所で四〇例、大阪の第三区療養所で一五例の計五五例の輸精管切除術を行ったとして、次のような記述をしている(傍線は滝尾)。輸精管切除のみならず、片側の睾丸の摘出手術、「罰則の意味に於て輸精管切除術」の施術との記載発表を行っている。日本の植民地下の小鹿島更生園では「罰則の意味に於て輸精管切除」の施術は日常的に行われていた。しかし、日本国内でも第三区(外島)療養所で、野島医師によって「罰則の意味に於て輸精管切除術」が行われていた報告内容の事実は、初見である。これは、ハンセン病患者への「優生手術」の第二の問題である。野島泰治の書いた「(5)実験考察」の項(一七ページ)を挙げておこう。

「輸精管切除術を行つたものは癩患者三九名、其の他非癩の肺尖加答児のある篤志者一名計四〇名である。癩患者三九名中、神経癩一五名、結節癩一七名、斑紋癩七名の割合で内訳三一名は両側の輸精管を結紮切除したもので九名は一側の輸精管を結紮切除し同時に他側の睾丸を摘出したものである。(中略)以上四〇名の他に余は大阪の第三区療養所在職当時、即ち大正一二年から大正一五年にかけて一五名の癩患者に輸精管切除術を行つたことがある。其の当時は療養所内で子供を設けた男性患者に、一種の交換条件乃至罰則の意味に於て輸精管切除術を行つたものであるが、今回報告する四〇例は第四区大島療養所に於て其の何れもが患者の希望によつて施術したもののみで大部分は有婦の患者で……」

   野島が、一九三一年九月に行った第四区大島療養所に於て輸精管切除術を報告する四〇例は、一八歳から五九歳の患者の施術である。その内訳は、一八〜二〇歳→一名、二一〜二五歳→一一名、二六〜三〇歳→一四名、三一〜三五歳→五名、三六〜四〇歳→三名、四一〜四五歳→四名、四五歳以上→二名である。二一〜三〇歳が患者が、四〇名中二五名(六二・五%)に及んでいることも注目されよう。ところで、報告者の野島泰治は、次のようにも述べている。

「この最も合理的な、且つ最も人道的な輸精管切除術を如何なる方法を以つて全男性癩患者に普遍ならしむるかと云ふことが残された大問題である。さ(も)なくても人権問題社会問題のやかましい方今のことであるから強制施行も亦一考を要するであらうが、しかし社会全体の保健上から又は自己の子孫のことを思へば、癩患者がそれだけの僅かの犠牲を払ふのは当然でもあり、(中略)国家は法律で癩患者の輸精管切除術を規定すると共に、其の代り癩患者のために国家社会は治療慰安に勉むべく、又その手術規定に除外例等を設置することにより、其の運用宜敷しきを得るならば、男性の癩患者全般に輸精管切除法を実行し得ることもさまで困難なる問題ではないと思はれる」(一三ページ)。

 「罰則の意味に於て輸精管切除術を行つたもの」といい、「国家は法律で癩患者の輸精管切除術を規定する」と主張した野島泰治の報告(一九三一年九月)の後、一〇年経った一九四一年一一月発行の『日本公衆保健協会雑誌』第十七巻第十一号に国立癩療養所栗生楽泉園医師 玉村孝三、矢嶋良一が「癩患者に対する断種手術に就て」と題して報告している。
  戦後、栗生楽泉園の第二代園長に玉村孝三はなり(一九四七年九月〜四九年三月)、矢嶋良一は同園の第三代園長を勤めた(四九年三月〜六三年七月)―『風雪の紋』五三三ページ。
  同報告によると、「栗生楽泉園に於ては専ら男性断種法丙の五、即ち厚生省令第二十二号、国民優生法施行規則第一条第一項の精管切除結紮法を採用してゐる。(中略)余等の手術せる例は総て男子癩患者にして、栗生楽泉園在園患者及び湯の澤部落よりの外来患者にして、昭和十年一月より昭和十六年八月迄約七年間の百四十例である」と述べている(同誌 四ページ)。さらに、「患者は……隔離治療を目的とする癩療養所に、出産せし後の精神的重荷に堪へ切れざるを以て、将来を慮り断種手術を希望する者多し。故に各療養所に於ては相当多数を有し、既に諸先輩(光田、野島、上川、榊原、藤田)に依つて報告されて居る」(緒言)と述べている。つまり、たとえ、患者は出産しても療養所にはその子供を育てる施設、条件が皆無であり、「出産せし後の精神的重荷に堪へ切れざるを以て、将来を慮り断種手術を希望する者多」かったというハンセン病患者への「優生手術」には第三の問題があった。菊池恵楓園の志村 康さんは、自著『わたしの弔い合戦 いま、なぜ、国家賠償請求訴訟か』(一九九九年五月発行)のなかで、このことについて、次のように語っている。

「……ここには産科はないし、もし産んだって、すぐ引き離せばいいけど、その子どもを預かる所もない。だから産む産まんの選択の余地など私たちにはない。厚生省は今でも『あれは任意だ』と言う。しかし私に言わせたら『任意の強制』だ。現実に任意を強制したんじゃないか。『任意の強制』がなにが『任意』か。強制的に堕胎させとって、『あれは任意だった』、そんなことが通るわけない」(六二ページ)。

  第二の「療養所内で子供を設けた男性患者に、一種の交換条件乃至罰則の意味に於て輸精管切除術」つまり「処罰としての男性患者に対する断種」について、志村さんは、次のように説明している。
「ただ恵楓園の場合、断種が結婚の条件ということではなかった。何年頃までですかね、妊娠したら男性の方が断種。それが後には奥さんが元気な場合は卵管の結索(結紮−滝尾)をやるようになったんですが、私の頃はまだ断種だった」(六三ページ)。
 
  このことについて、邑久光明園内科医師 青木美憲さんは、『楓』二〇〇〇年三・四月号に掲載した長島愛生園、邑久光明園、大島青松園 三園の実態調査「ハンセン病患者の強いられた状況」の中で、次のように述べている。
「優生手術・人口妊娠中絶    図3に優生手術・人口妊娠中絶を受けた人数を示します。当初、優生手術は園内結婚の条件として行われ、手術を受けた人は男性のうち四割、長島愛生園で園内結婚した男性のうちでは六割にも及びました。最近では昭和四〇年代にも結婚の条件としての優生手術が行われていました。
  図4は療養所毎に比較したものです。優生手術の九割は『強制的』でしたが、長島愛生園では『強制』が他の療養所より多く見られました。また、図には示しませんが、邑久光明園や大島愛生園(青松園−滝尾)では、昭和三〇年以降、妻が妊娠した場合に夫が優生手術を受けるようになってきたのに対し、長島愛生園では結婚の条件としての優生手術が行われつづけました。
  これは優生手術の必要性を強く主張した光田園長の考え方が影響してしまったためと考えられます」(五ページ、「甲第七五証」にも同じ文面が記載されている)。

  このように、女性(妻)が妊娠すれば女性は「人口妊娠中絶」を受け、相手の男性が同時に「断種の手術を強制」されるということは、大島青松園医師の野島泰治が報告したように「罰則の意味に於て輸精管切除術」が行われていた。つまり、戦後の「断種」も、野島泰治が報告したように、「罰則の意味に於て輸精管切除術」が管理者側の意向が働いたのでのではなかろうか。
  多磨全生園に看護助手として働いた経験をもつ古川和子さんは「全国ハンセン病療養所に於ける『不妊手術(断種)者』証言の記録」(一九九七年)を書いている。その中で、古川さんは、次のように述べている。

 「一九七〇年代身体障害者や精神薄弱者の収容施設では、この「優生保護法」の下に多くの「優生手術」が行われていった。とりわけ入所の女性障害者に対して、「生理の処置をするのが大変だ」という介護職員の手間を省くために、職員自ら障害者に対して「子宮摘出」を勧めて行ったことが明らかになっている。
  現在までにこの「優生保護法」の下「事実上強制的に不妊手術」が行われたのは、一万六五〇〇件、内ハンセン病については、一九九六年の「らい予防法廃止に関する法案」の衆議院厚生委員会で厚生省(『厚生委員会議録第六号』によると、三月二十五日、岩佐委員の質問に答え、松村政府委員は、「優生保護法制定以前の優生手術については、統計資料が存在していないこと、……そういうわけではございますけれども、昭和二十四年から昭和四十年までのハンセン病患者またはその配偶者に対する優生手術件数を申し上げますと、男性二百九十五件、女性千百四十四件、合計千四百三十九件である、こういう数字がございます」と述べている(二〇ページ)(中略)。しかし、一九一五年以降非合法的に行われた「断種」についての数は明らかにされていない。
  今年に入って(九七・一一月)韓国小鹿島更生園で一九三六年から「夫婦同居の条件に不妊手術」が患者に行われていたことがあきらかになった。同資料を発表した滝尾英二氏によると、これらの「不妊手術」は「逃走防止や刑罰」として行われていた可能性もあること。実際、精神薄弱者や精神病者に対して、「刑罰」として「不妊手術」が行われていたことはすでに明らかになっている」(三ページ)。

  優生手術のねらいの第四は、男性が罹病し、「ノン」である「つれあい」の女性(妻)と療養所に来たのに、「つれあい」の女性を、病舎地帯の施設に収容して、患者作業に従事させ、職員の代りに重病棟及び不自由室(障害者室)の付き添い看護一切に従事させたことである(長島愛生園の入園者からの聞き取り)。「ノン」が伴侶者と一緒に収容されていたことは、前述の志村 康著『わたしの弔い合戦』に「私が二十三年にここに来てから子ども産んだ人 一人もないです。ただ韓国の人で、奥さんが健康者、その人 妊娠しとったのに、主人が収容されたもんで一緒に収容されて、ここで子ども産んだ」という記述がある。
  「ノン」を、療養所では「非癩」と用語を使用している。『国立癩療養所 多磨全生園・昭和十六年年報』(一九四二年十二月発行)の「一、収容患者異動表」をみると、「退園・非癩 開園以来」数は、男三八名、女二〇名、計五八名となっている(七四ページ)。長島愛生園の各年『年報』は、「昭和六年」から出ており、私は「昭和三十三年」まで、欠本を除いて調べた。発行人は、初代園長光田健輔から、第二代園長高島重孝までであるが、多磨全生園が「多磨全生園」の「収容患者異動表」は、「退園・非癩 開園以来」と記載している。長島愛生園の各年『年報』は、「退園患者数・非癩患者ト確定セラレタルモノ 開園以来」、「退園患者数・非癩患者と確定したる者」となっていたが、戦後の『年報』は、私が見た範囲では、「開園以来」の欄はなくなっている。
  
  一九六〇年以来、十年おきに『創立××周年記念誌』が、三〇〜六〇周年記念誌と発行され、各冊子とも「患者異動表」が掲載されており、その中に「非らい数」の欄がある。それによると、「非らい数」は開設された「昭和六年から昭和四十四年までの累計は、男四五名、女三三名、計七八名の人数が記されている。この数は「退所者数」であって、この島で死亡した人は含まない。また、この中にハンセン病で収容された人で、一緒に来た「健康者」である伴侶者の数も不明である。隣りの欄に「病毒伝播ノ虞レナキモノトシテ退園セシメタルモノ」の欄があり、「昭和十五年年報」によると、開園以来の合計は、男三五三名、女九六名、計四四九名を数えている。こうした「病毒伝播ノ虞レナキモノ」の中に、「ノン」は含まれてはいなかったか、どうか全く不明である。その上、これらの長島愛生園の「行政資料」をそのまま信じていいかどうかの問題もある。このことは、第V章で考察したいと思う。
  長島愛生園医長を勤め、一九七七年四月に邑久光明園長となった原田禹雄(のぶお)さんは、自著『この世の外れ』筑摩書房(一九九二年)の「西表島と光田健輔」の項(初出は『南島史学』三三号、一九八九年四月)で、次のように述べている。

「近来、光田の主導した終生隔離によるらい対策を光田イズムとよんで、非難する声が強い。光田のとった方策には、たしかに多くの問題があり、人権上の疑義も少なくない。しかし一方、光田の仕事や小川正子の『小島の春』に対して賞讃はしても、決してらい対策の遂行に十分な予算を与えなかったという事実との関係を見落すことはできない。そして今もなお、日本の人々は、らいに対して偏見と差別を捨て去ってはいないと思われることがある」(二八六ページ)。
「昭和五年(一九三〇年−滝尾)は、この第一次五千人計画の完成予定年度であったが、実際の進行度は五〇−七〇%であった」(二八六ページ)。「岡山県邑久郡裳掛村の長島に、国立らい療養所が設置されることとなり、昭和五年十一月に開所式を挙行、昭和六年三月に長島愛生園と命名、光田健輔が園長に就任した。定床五〇〇であった。一万床の国立施設、必要なら三万床も可能の施設を夢みた光田にとって、長島五百床はあまりにも小さかった。光田は、どんどんとらい患者を入園させた。定床超過という既成事実を作り、予算をつけさせようという心算であった。(中略)このような無理な過剰収容は、入園者の給養を悪化させる。光田は∧一大家族主義∨の名のもとに、給養の低下に耐えることを訴えた」(二八〇ページ)。

 「昭和五年」つまり一九三〇年は、皇太后節子が手許の二十四万八千円をらい事業のために「下賜」し、これを光田ら当時のハンセン病政策の推進者たちが利用して、その「下賜」金の内十万円を基金として、翌年の三月に「癩予防協会」(初代会頭・渋沢栄一)を設立した。 以後、療養所長たちは毎年のように皇太后のいる大宮御所に「参内」し、「皇室の御仁慈」を内外にアピールした。光田の主導した絶対隔離によるハンセン病対策は、これにより主流となり、その年の四月には法律第十一号が全面的に改まり、絶対隔離主義の「癩予防法」が成立する。一九三一年六月、皇太后節子の誕生日を中心に「癩予防デー」、「癩予防週間」を始める。
  一九二九年に愛知県から始まり、三七年から全国的に高まりをみせた「無らい県運動」も、癩予防協会(本部と各府県に支部)を抜きには考えられない。「らい」患者と思われる人の強制収容である。「ノン」の人も、「病毒伝播ノ虞レナキモノ」も療養所に収容され、収容所内の過酷な患者作業に従事させられた。

  このような日本の「らい政策」の事実をみていく必要があり、優生主義のみで「らい病政策」を考えるのは、当を得ていないように思う。光田の主導した絶対隔離によるハンセン病対策は、「優生手術」一つとっても重要な要素として「優生政策」があるが、それだけではなく、「所内秩序の維持」、「患者の処罰」、「職員の不足を補うための患者作業」という専制的園内管理という側面をもっていた。
  故・森田竹次が『全患協ニュース』第一四五号(一九六〇年一月一五日)の「退所者対策について」で書いているように、「私は、療養所に患者同志の結婚形態がつづく限り、日本のハ氏病を完全にコントロールして、治ったら出すということは出来ないと見ている。愛生園では一七三〇名のうち四百四十組、八百八十名が結婚をして、ハモニカ長屋ならぬ夫婦舎に巣ごもっている。日本の隔離政策が成功をおさめた最大の理由は、『所内結婚』を許し、ときには奨励したからだ」という意見に、同感する。

  原告ら訴訟代理人『訴状』に「優生保護法案(中略)を策定し、閣議を経て国会に提出せしめた」というは、明らかに間違いである。被告国の『答弁書』(一九九八年一〇月三〇日)がいうように、「旧優生保護法(昭和二三年法第一五六号)は、衆議院議員太田典禮外五名、参議院議員谷口弥三郎外三名により、昭和二三年六月に国会に提出され、同年七月一三日に法律第一五六号として公布された議員立法であり、内閣・厚生省が立案し、閣議を経て国会に提出したものではない」のほうが正確である。  

 「一九四八年に優生保護法が制定され、形の上では本人の同意に基づく堕胎として合法化が装われたが」(『冊子』一一〇ページ、「「原告準備書面(一)」四ページ)と原告ら訴訟代理人は、述べている。法律第百五十六号「優生保護法」の「(定義)第二条  この法律で優生手術とは、生殖腺を除去することなしに、生殖を不能にする手術で」2として「この法律で人口妊娠中絶とは、胎児が、母体外において、生命を保続することのできない時期に、人口的に、胎児及びその附属物を母体外に排出することをいう」のである。そうすれば、堕胎(人口妊娠中絶)とともに、断種(優生手術)も同時に、とりあげ、「……形の上では本人の同意に基づく断種(優生手術)及び堕胎(人口妊娠中絶)として合法化が装われたが」と「原告準備書面(一)」は、書くべきではなかったか。


第V章  史料は、正確に読む、―史料のつまみ食いを排すること

  第一節 『国立療養所史(らい編)』をめぐって

  A、「甲第九号証」に 国立療養所史研究会 編集『国立療養所史(らい編)』厚生省医務局国立療養所発行、昭和五〇年九月一日発行 のものが全文記載されている。一一〇ページの本文と口絵、諸統計表が添付されている。T序は厚生省医務局長 滝沢 正、Uこの書の由来は、高島重孝、V第一部 らい百年史年表  W 第二部 らい療養所活動とその変遷 として、氏名入りで十一の内容の項目が列記され、X として「あとがき」を厚生省国立療養所課長 大谷藤郎が執筆している。
       『国立療養所史(らい編)』には、「奥付」の異なるもう一つの冊子があり、内容は同一だが編集・発行が厚生省医務局国立療養所課内 国立療養所史研究会となっており、、定価一三〇〇円(送料別)、発行所 財団法人 厚生問題研究会、昭和五〇年九月一日発行 とある。
        別に、国立療養所史研究会 編集『国立療養所史(結核編)』厚生省医務局国立療養所発行、昭和五〇年四月一日発行 というのものがある。
  B、これより別に、国立療養所史研究会 編集『国立療養所史(総括編)』厚生省医務局国立療養所発行、昭和五〇年四月一日発行 というのものがある。発行は『国立療養所史(らい編)』より早く昭和五〇年四月一日発行と「同書奥付」には書かれている。最初の見開きのページには、『国立療養所史(らい編)』が厚生省医務局とあったが、『国立療養所史(総括編)』は厚生省のみ書かれてあり、序文を厚生大臣 田中正巳との記載があり、刊行のことばを厚生省医務局長 滝沢 正、「あとがき」は厚生省国立療養所課長 大谷藤郎が執筆している。本文、回想録、資料からなり、本文は無記名、回想録は氏名が書かれている。B5判七三二ページの大部なものである。
  問題は被告ら代理人と被告国とが、ここに書かれた内容を厚生省の見解とみるか、否かので争われている。たしかに、『国立療養所史(総括編)』にも各章ごとに、「らい療養所」、「国立らい療養所の発足」、「国立らい療養所の所管換」、「らい予防法の制定」などの項目が並んでいる。原告ら代理人は『国立療養所史(総括編)』は問題とせず、もっぱら『国立療養所史(らい編)』の記述をとりあげている。
  原告ら代理人は、『準備書面(五)』(一九九九年四月一五日)で、次のようにいう。

「なお、先に引用した『国立療養所史(らい編)』は、被告自身が一九八五年(昭和五〇年)編纂したものであり、「U  この書の由来」において『最も信頼できるらいの療養所の正史として後世にのこるであろう』と自負しているものである。この文書全体の評価は措くとしても、『療養所に入所しなければ治療ができない状況は強制隔離にほかならない』という認識は、その自負に恥じない正確な認識と言えよう」と述べている(『冊子』二八九ページ、原告ら代理人『準備書面(五)』一九ページ)。
  さらに、同『冊子』三〇六ページ、原告ら代理人『準備書面(五)』 三六ページは、次のようにいう。

 「前掲『 国立療養所史(らい編)』も次のとうり述べている。
  『わが国のらい対策は、治らい剤の効果が確認された一九五〇年代に至るまで絶対隔離が基本になっていた。もっともこの基本については現在もなお本質的には改められていない(−原文 「が、社会復帰者は一九六〇年をピークに急増し、らい療養所も外見上は著しく開放的になった」)。』(五五頁)
 『らい療養所の現状は、社会復帰の目標を明確には設定していないために、リハビリテーションの各過程における個々の治療効果としてしか評価されていない。』(五九ページ)
 『らいの社会復帰を阻害する最大の因子は偏見であり、この偏見を支える一つがらい療養所の存在であることに疑いはない。らいのリハビリテーションは、外来診療をらい対策の基本としたときに、はじめて評価が可能(原文―「である」)とされるゆえんであろう。』(同)
  よって、一九七八年以降も不作為による人権侵害は継続していたのであり、同年以降人権侵害がなかったとか、この点について原告が争っていないとの被告の主張は全くの誤りである。」
 
  上記の『 国立療養所史(らい編)』五五、五九ページの執筆者は、「(3)らいのリハビリテーション」と題して書いた、 多磨全生園 成田 稔さん である。さらに、、原告ら代理人『準備書面(五)』 四八ページは、次のように述べている。この執筆者は、「(2)らいの化学療法」を書いた長島愛生園 原田禹雄さん である(『国立療養所史(らい編)』四九ページ)。

「らいの治療は大風子油の時代と、それ以後との時代に区分できる。大風子油の時代は、らいが『不治の病』と人々から認識されていたのであるが、この時代は実に長かった。昭和二一年にわが国ではじめてプルミンが用いられ、らいは著しい効果を上げた。らいは『可治の病』になった。スルフォン剤の出現によって、らいでは、まるで長いトンネルから抜け出したような、まぶしいほどの転換があった。」
  これが被告厚生省の編纂した『最も信頼できるらい療養所の正史』におけるプロミン及びDDSの治療効果に対する評価である。被告の主張は、国際的な知見に反するだけでではなく、自ら編纂した正史にも反するものである。」

  右文のような原告ら代理人『準備書面(五)』の記述に対して、被告国の『準備書面』(三)(一九九九年五月一二日、熊本地裁民事第三部 提出)は、次のように反論する。

「原告らは、『国立療養所史(らい編)』は、被告自身が昭和五〇年に編纂したものであり、この書の由来において、『最も信頼できるらいの療養所の正史として後世に残るであろう』と自負しているものであるから、同書に『療養所に入所しなければ治療ができない状況は強制隔離にほかならない』との記載がある以上、被告が右主張を有していた旨主張する。
  しかしながら、右主張は誤解に基づくものである。
  まず、『最も信頼できるらいの療養所の正史として後世に残るであろう』と評価されている本は、原告ら指摘の『国立療養所史(らい編)』ではなく、当時近く完成予定であった国立療養所史(総括編)(乙第六三号証)』である。そして、右の『この書の由来』の執筆者高橋重孝(長島愛生園園長)は右の総論の編集にあたった「国立療養所史研究会」の一員でもあり、各論編の冒頭に総集編の紹介をしたものである。同人は、各論集たる『国立療養所史(らい編)』については、『単独にこれをみても、日本のらい療養所史をうかがい知ることができる。』としているにすぎない。また、総括編については、執筆者の署名がなく、「国立療養所史研究会」の編集となっいているのに、各論たる『らい編』の方は、それぞれの部分の執筆者が明示されているところからみても、個人の責任において書かれたことが明らかである。よって、前記の「強制隔離にほかならない」との見解は、当該執筆者の個人的意見、評価であり、被告の当時の正式見解ということはできないのである」(被告国の『準備書面』(三)二六ページ、『冊子』四一八ページ)。

  それでは、実際に『国立療養所史(らい編)』の該当個所(三ページ)は、次のようになっている(傍線は滝尾)。
「 U この書の由来       長島愛生園  高島重孝
 昭和四九年、医制百年の記念事業として、百年の歴史の流れのうちに国立らい療養所のはたした役割りをまとめる仕事を、医務局国立療養所課長大谷藤郎氏は、らい所長連盟(名簿 表一)に託した。らい所長連盟としては、結核等国立療養所百年史との関連を考慮し、この百年史を、総論と各論とに分け、総論の方をらい所長連盟でまとめ、これを別巻各論編として発刊することとした。           (中略)
  国立療養所史総論の方は、国立療養所を総括して、国立療養所史編集委員の努力により、近く完成の予定であるが、これは最も信頼できるらいの療養所の正史として、後世に残るであろう。
  それは執筆者が、厳正にして冷徹なる史眼をもつ歴史家であるために、史実を史実に記載したからである」。

  以上の『国立療養所史(らい編)』の該当個所、「U この書の由来  長島愛生園  高島重孝」をあげてみた。原告ら代理人のいうように、「『国立療養所史(らい編)』は、被告自身が一九八五年(昭和五〇年)編纂したものであり、「U  この書の由来」において『最も信頼できるらいの療養所の正史として後世にのこるであろう』と自負しているものである」とか、「被告厚生省の編纂した『最も信頼できるらい療養所の正史』におけるプロミン及びDDSの治療効果に対する評価である。被告の主張は、……自ら編纂した正史にも反するものである」とは、『国立療養所史(らい編)』について、高島は述べていない。「最も信頼できるらい療養所の正史」といっているのは、被告国のいうように『国立療養所史(総括編)』のことをいっているのである。原告ら代理人の史料の読み間違えではないか。
  しかし、被告国がいうように、『国立療養所史(らい編)』は、編集は「(厚生省医務局療養所課内) 国立療養所史研究会」となっている。編集責任を被告厚生省は、回避できないであろう。「あとがき」は「総括編」も「らい編」も、国立療養所課長 大谷藤郎が書き、『国立療養所史(らい編)』の序文は、厚生省医務局長 瀧澤 正が執筆している。『国立療養所史(らい編)』の全文は、「甲第八号証」として、熊本地裁に提出されている。

  このことと関連して、原告ら代理人は一九九九年五月一九日に「求釈明書」を出している。その中で「二‐4 『国立療養所史』の総括編とらい編との関係並びにらい編記載の妥当性・正当性について明らかにするために、現状のような偏った論法や子供だましのような証拠提出によるのではなく、両編の一冊をそれぞれ証拠として提出されたい。」と被告国に釈明を求めている(『冊子』四二〇ページ)。
  ところで、被告国の『準備書面(三)』(二六ページ、『冊子』四一八ページ)を見ると、「国立療養所史(総括編)(乙第六三号証)」と書かれており、『証拠説明書』(二〇〇〇年二月一八日)の「乙第六三号証」は「世界保健機構(WHO)編『近代癩法規の展望』であり、また、どこを見ても「乙第一号証〜乙第一三五号証」には、『国立療養所史』の総括編は見あたらない。原告ら代理人は一九九九年五月一九日に「求釈明書」にいう「子供だましのような証拠提出」と言っても、どのようなものが証拠として提出されたのか、筆者にはわからない。前述したように、国立療養所史研究会編集『国立療養所史(総括編)』厚生省医務局国立療養所課発行(一九七五年四月一日発行)は、菊判(A5判より少し大きい)で七三二ページの大部なもので、序文は厚生大臣 田中正巳が執筆し、「あとがき」は大谷藤郎が書いている。原告ら代理人のいうように、被告国は、『国立療養所史』の「総括編」と「らい編」との関係並びに「らい編」記載の妥当性・正当性について明らかにする必要があろう。

 


第一編  「岩尾陳述書」「岩尾証言」の虚言を論破せよ
 
  第T章   「岩尾陳述書」等をめぐって

    第一節  熊本地裁に提出された「岩尾陳述書」の内容
  本年(二〇〇〇年)九月二七日から九月二九日にかけて、岩尾總一郎厚生省大臣官房厚生科学課長、今泉正臣星塚敬愛園々長、長尾栄治大島青松園副園長(元宮古南静園々長、前沖縄愛楽園々長)の三人が「陳述書」、「意見書」を熊本地裁に提出した。東京地裁には、瀧澤英夫奄美和光園名誉園長、後藤正道鹿児島大学医学部助教授(前星塚敬愛園副園長)及び岩尾總一郎厚生省大臣官房厚生科学課長の三人が被告国側の証人として立つという。瀧澤英夫奄美和光園名誉園長の東京地裁の「陳述書」、「意見書」は見ていない。熊本地裁に提出した被告国側の三証人の「陳述書」、「意見書」、とりわけ、「らい予防法」が廃止された一九九六年四月一日当時、厚生省保健医務局エイズ結核感染症課の岩尾總一郎課長の「陳述書」を見ると、政府国家官僚(厚生省、法務省など)の意見に基づき、同人の「陳述書」を練り上げて、作ったものと思われる。熊本地裁や東京地裁において被告国側の「証人」として立つ長尾栄治証人も、後藤正道証人も、一九九五年四月当時の『日本らい学会「らい予防法」検討委員会』の五人内のメンバーである。
  これらの「証人」たちを立てた被告国としては、選りすぐった人選ではないだろうか。被告国側の「陳述書」なども、周到に準備され、打ち合わされた内容だと考えられる。熊本地裁での岩尾總一郎、今泉正臣、長尾栄治ら各証人の「尋問」は、一〇月二〇日に主尋問、一一月一〇日には原告ら代理人の反対尋問が行われる。東京地裁での岩尾總一郎、後藤正道ら証人の尋問も一〇月末には行われると聞く。原告ら代理人は、これらに対する綿密な対応、反論が用意されなければならない。
  本稿は、岩尾總一郎課長の「陳述書」を紹介し、併せて、西日本訴訟弁護団の『準備書面』等と対比させながら、この問題を考察したいと思う。

  最初に、確認したいことは、原告側も被告国側も、盛んに引用している次の著書の正確な「史料批判」をしなければ、今回の「らい予防法」国賠請求公判の「歴史の真実と責任の所在」を明らかにできないのではないか。

*   大谷藤郎著『らい予防法廃止の歴史』勁草書房(甲第一号証、乙第一四号証)
*   山本俊一著『増補 日本らい史』東京大学出版会(甲第二号証、)
*   大谷藤郎監修『ハンセン病医学  基礎と臨床 』東海大学出版会(甲第七号証、乙第四八号証)
*   犀川一夫著『ハンセン病政策の変遷』沖縄県ハンセン病予防協会(甲第二四号証、乙第六四号証)
*   成田  稔著『「らい予防法」四十四年の道のり』皓星社ブックレット・3
*   らい予防法見直し検討会著『らい予防法見直し検討会報告書』(一九九五年一二月八日)(乙第三六号証の二)
*  「らい予防法」違憲国家賠償請求事件  和泉真蔵証人調書(主尋問九九年六月一七日、反対尋問九九年一二月一七日)
 
   まず、岩尾總一郎課長の「陳述書」(乙第一七二号証―二〇〇〇年九月二九日)の内容を、紹介しよう。同「陳述書」は、次のような項目からなっている。

1 ハンセン病との関わり  
2 平成七(一九九五・滝尾)年当時の療養所の処遇の実状   
3 らい予防法見直し検討会への参加 
4 らい予防法見直し検討会  
5  らい予防法見直し(1)法廃止の理由  (2)法を廃止すべきであった時期    (3)法の廃止が平成八(一九九六・滝尾)まで行われなかった理由   (4)  廃止にともなう処遇の維持の意味   (5)退所希望者について
(4)廃止にともなう処遇の維持の意味   (5)退所希望者について
6  厚生大臣のお詫びの意味      附記(経歴)


  同「陳述書」に基づいて、岩尾總一郎課長の経歴を述べてみると、次のようになる。
一九七七年三月  慶応大学医学部大学院卒業、七七年四月  慶応大学医学部衛生学公衆衛生学教室助手、八一年二月  慶応大学医学部衛生学公衆衛生学教室講師、  八一年四月  産業医科大学医学部助教授、八五年四月  厚生省入所、 九二年七月  厚生省薬務局医療機器開発課長、  九三年七月  保健医療局疾病対策課長、 九五年七月  保健医療局エイズ結核感染症課長、九七年七月  保健医療局研究開発振興課長、九八年七月  保健医療局地域保健・健康増進営養課長、  九九年八月  厚生省大臣官房厚生科学課長、

  岩尾總一郎課長の「陳述書」は、B5判一二ページほどのものであるが、その内容をひとくちでいえば、九五年七月四日、 保健医療局エイズ結核感染症課長に着任直後の七月六日に、「私は、着任前であったが、局長の命を受け、第一回の検討委員会に出席し、その後も、厚生省の所管課長として会議に出席した」(「陳述書」二ページ)。それ以来のことを岩尾課長は「陳述書」は書いている。記述の中心は、「らい予防法見直し検討会」の経過(同年七月六日〜一二月八日、座長・大谷藤郎)とその内容、さらに、一九九六年四月一日の「らい予防法」廃止までの経過の経緯が,その主たるものとなっている。その骨子は、岩尾總一郎・長田浩志「らい予防法の廃止」(『公衆衛生』「特集・結核とハンセン病について考える」一九九九年三月号)と題して、すでに発表されている。「らい予防法」廃止当時の一九九六年四月一日当時、岩尾總一郎は、厚生省の元保健医療局エイズ結核感染症課長、長田浩志は元エイズ結核感染症課企画法令係長で、「らい予防法」を総括する厚生省の担当官僚であった。

  岩尾總一郎課長の「陳述書」を考察するに当たって、「厚生省のらい予防法見直し検討会」及び「同検討会報告書」に関する「和泉真蔵証人調書」(一九九九年六月一七日)についての内容を考察する必要がある。以下、「和泉真蔵証人調書」(一九九九年六月一七日)について見ていくことにしよう。(『和泉真蔵証人調書』主尋問、一〇九〜一一五ページ)。

二九九   次に、厚生省のらい予防法見直し検討会についてうかがいますが、先生御自身は、経歴のなかでもお話しいただきましたけれど、このらい予防法見直し検討会に設置された医学検討小委員会の参考人ですね。
和  泉   そうです。
三〇〇   この医学検討小委員会というのは、どういう目的で作られたんでしょうか。
和  泉   大谷(藤郎―滝尾)座長によりますと、見直し検討委員会のなかでは、十分正確なハンセン病に関する医学的な検討ができないということで、まあもうそんなことはよくわかっているからというふうな意見もあったけれども、やはり専門家を集めて、正しいものを作ってもらって、それを 見直し検討委員会の最終報告のなかに取り入れたいということで、ハンセン病の専門家を三人、参考人として招いて、小委員会を作ったということのようです。
甲第一号証(書籍「癩予防法廃止の歴史」)三六三ページを示す
三〇一   ここに大谷先生がですがね、医学小委員会をどうして設置したのかということの趣旨のようなものを書いておられてですね、隔離法を撤廃して普通の感染症として一般医療で取り扱うようにする、そういう政策の転換をするためには、念には念を入れた医学的議論をオープンにして、もう一度再確認しておかなければならないと、そういうことをやらないと昔と同じイージーゴーイングな姿勢では失敗をくり返すというようなことを書いておられるんですが、こういうことですね。
和 泉   はい、そのことです。
甲第一号証(書籍「癩予防法廃止の歴史」)三六四ページを示す
三〇二   その甲一号証の三六四ページに、小委員会の委員と参考人が、それぞれ三名ずつ記載されておりますが、メンバーの構成はこれで間違いありませんか。

( 滝尾注・らい予防法見直し検討会委員名簿 )(乙第三六号証の一より)

委員   大谷藤郎(座長)      財団法人藤楓協会理事長/国際医療福祉大学学長
        金平輝子              前東京都副知事
       北川定謙              財団法人食品薬品安全センター理事長
   小池麒一郎            社団法人日本医師会常任理事
幸田正孝              年金福祉事業団理事長
高瀬重二郎            全国ハンセン病患者協議会会長
寺村信行              前国税庁長官
中嶋  弘              横浜市立大学医学部教授
中谷瑾子              大東文化大学法学部教授
牧野正直              国立邑久光明園園長
宮武  剛              毎日新聞社論説委員
村上國男              国立多磨全生園園長
森島昭夫              名古屋大学法学部教授
吉永みち子            作家

「らい予防法見直し検討会・医学検討小委員会」委員名簿 を見ていくと、次のようになる。
(委  員)   中嶋  弘              横浜市立大学医学部教授     
             牧野正直              国立邑久光明園園長
             村上國男              国立多磨全生園園長
   (参考人)   和泉真蔵              国立多磨研究所生体防御部部長
後藤正道              国立療養所星塚敬愛園副園長
                    斎藤  肇              国立多磨研究所所長
 
 再び、「和泉真蔵証人調書」を見ていくことにしよう。
    _______________________________________________________

三〇三   先生がその参考人に選任されたというのは、どういう経過からなんでしょうか。
和 泉    大きく言えば、この委員のなかにはハンセン病の専門家がいなかったという、これも奇妙な人選だと思いますけれども、それはともかくとして、三人の参考人を入れたということは、この人たちが責任を持って、ハンセン病の医学の現状について正確な記載をするということが与えられた任務だと思います。で、私はこのとき、国立らい研究所の生体防御部長という、人体側からハンセン病を研究する所の研究責任者という立場にいましたので、そのことから厚生省が私を参考人に選んでだと考えています。
三〇四   小委員会ではそうすると、ハンセン病についての医学的な知見をみんなで議論して確認し合ったということになりますか。
和 泉     そうです。
三〇五   この報告書の原案は誰が執筆されたのでしょうか。
和 泉    これは立場上、私が中心になって原案を書きました。で、それをほかの参考人に見せて、更に手を入れて、最終的に
   委員も含めた六人のメンバーで最終的な報告書を作成したわけです。
三〇六   甲一号証の三六四ページ、ここにその小委員会報告書というのが載っていますが、このとおり間違いありませんね。
和 泉    間違いありません。
三〇七   この小委員会報告と言うのは、その後どのようなかたちでいかされたんでしょうか。
和 泉    これは、発足のときからそういう大谷座長の意志がありましたので、最終報告のなかの、医学的な部分については、この医学小委員会の報告書がそのまま転載されるというふうに考えていました。
乙第三六号証の二を示す
三〇八   これが親委員会といいますか、見直し検討委員会の報告書ということになりますね。
和 泉    そうです。
三〇九   小委員会の報告書どうり採用されたんでしょうか。
和 泉    大部分のところは、小委員会の書いた報告書のとうりです。一個所だけ非常に重大な変更が行われています。
乙第三六号証の二の二ページのしたから四行目を示す
三一〇   具体的にはどの個所ですか。乙三六号証の二の二ページの下から四行目を示します。
和 泉    私たちはこの報告書を書くときに、二つのことに非常に気を使ったわけです。一つは、最新のハンセン病医学の研究ないしは実践の成果を取り入れて、最も新しい正確なものを書くということが一つ、もう一つは、これまでの日本のハンセン病の場合は、しばしば一人の人の書いた文章ないしはその報告のなかに内部矛盾がありまして、全く論理の成り立っていないような文章がよくありましたので、そういうことだけは避けると、要するに最新の知識に基づいて、その限界はあるにしてもその論理の範囲では内部矛盾を含まないような正確なものを書くというのと(中略)非常に気をつけて書いたわけです。で、変更された部分というのは、ハンセン病とはどういう病気かという記載の部分でして、私たちはかってどうであったかということは問われていませんでしたので、現在ハンセン病はどういう病気かっていうふうに聞かれていましたから、「今では早期発見・早期治療によって、全く後遺症なく治ゆする病気になった」という記載をしたわけですね。これは今でも正しかったわけですが、最終報告書に載ったときには、「今では」という部分が、「多剤併用療法が確立されて以降」というふうに書きかえられてしまったわけです。
三一一  「今では」という小委員会報告書の文章と、それから見直し検討会の報告書における多剤併用療法が確立されて以降」という文章で、どの点がどう違ってくるのでしょうか。
和 泉   「今では」というのは、いつから治る病気になったかということについては一切触れていませんで、現在はそのような病気であるというふうに書いたわけで、このように「多剤併用療法が確立されて以降」というふうに書いてしまいますと、それ以前は、ハンセン病は早期発見・早期治療により障害を残すことなく外来治療によって完治する病気ではなかったということになりますので、この記載は私たちが気をつけて書いた報告書を、全く別な意味で根本的に誤った文章にしてしまったということです。
三一二  恐らく国側の答弁書でですね、らい予防法が医学的根拠を失ったのは一九八一年だというふうに主張しておられる根拠は、この見直し検討会の、親検討会のこの報告書の、今先生が指摘される部分だと思うんですが、小委員会報告をそういうふうに書き直すことについて、小委員会のメンバーや参考人に、事前に了解・打診はあったんでしょうか。
和 泉   私たちは報告を提出したという段階で、既にもう解散していますし、そのあとの報告書がどのように書かれたかというのは、ここに入っているその三人の親委員会からのメンバーはもちろん討議に参加しているわけですけれど、参考人には何の相談もなかったわけです(『和泉真蔵証人調書』主尋問、一〇九〜一一五ページ』)。
          
  ここで三人の親委員会からのメンバーというのは、中嶋  弘(横浜市立大学医学部教授 )、牧野正直(国立邑久光明園園長)、村上國男(国立多磨全生園園長)各委員のことである。この三人は、らい予防法見直し検討会委員であるとともに、医学検討小委員会のメンバーでもあった。彼ら三人とりわけ牧野正直(国立邑久光明園)園長は、らい予防法見直し検討会が「今では」を「多剤併用療法が確立されて以降」というふうに報告書を書き替えたとき、医学検討小委員会のメンバーとして、なにを主張したのだろうか。後述するように村上國男園長が予防法見直し検討会で何を言ったかは「岩尾陳述書」で、ある程度明らかにされている。おそらく、熊本地裁での反対尋問で、「除斥期間」とも関わりのあること故、尋問されて明らかにされることであろう。
  さて、これから岩尾總一郎課長の「陳述書」の紹介と、考察をしようと思う。おそらく、本国賠訴訟のなかで、「岩尾陳述書」と「岩尾証言」は、最もはげしく争われる内容となろう。その引用は長文となるが、ご了承ねがいたい。(太字、傍線は滝尾が付した。)
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 乙  第一七二号証                     陳 述 書
平成一二年九月二九日
                                                                                 岩尾總一郎  印
一  ハンセン病との関わり、(略)
二  平成七年当時の療養所の処遇の実状(略)
三  らい予防法見直し検討会への参加
    らい予防法に対し平成三年四月一九日に全患協の改正要望書が提出された後、平成六年一一月八日に全国国立ハンセン病療養所所長連盟の見解、平成七年四月二二日に日本らい学会の見解(滝尾注・「長尾栄治意見書」に同会の委員であった長尾栄治がこの見解表明につき意見を述べている。同じく、成田 稔著『「らい予防法」四十四年の道のり』皓星社ブックレットB のなかでも、日本らい学会見解を書いた経過などについて、いろいろと説明している)、平成七年五月一二日にハンセン病予防事業対策調査検討委員会の中間報告が相次いで出された。このような状況の中で、厚生省としても、らい予防法の見直しについて着手することとなった。そして、私の着任の二日前である平成七年七月六日には、らい予防法来直し検討会が厚生省保健医療局長の私的諮問機関として設置された。私は、着任前であったが、局長の命を受け、第一回の検討委員会に出席し、その後も、厚生省の所管課長として会議に出席した。
四   らい予防法見直し検討会
   私は、当時、ハンセン病についての知識が十分ではなかったので、先輩である大谷氏の著作である「現代のスティグマ」などを読んだり、らい予防法見直し検討会で出た議論について調べたりして勉強を進めた。そのうちに、入所者の中には、らい予防法あるいは社会の偏見差別などによって心ならずも家族と引き離され、その後ハンセン病そのものが治癒しても、後遺症や肉体の変形などのために療養所で長期間にわたり療養生活をおくらざるをえなかった方々がいること、これらの方々はそれぞれ人に言えない苦しみや悲しみを抱えていることを知るに及んだ。
     らい予防法見直し検討会は座長である大谷氏の強力なリーダーシップの下で検討が進められたが、委員については、各界からの有識者に加え、ハンセン病療養所の入所者組織である全患協の代表者である高瀬重二郎氏も選任された。同氏が選ばれたのは、入所者の意向に沿った法の見直しを実現しようという考えからであった。第二回の検討会は多磨全生園の一角にあるハンセン病資料館において行われ、ここでは、全患協の幹部が直接委員に対し、次々と要望事項を述べた。また、全患協が平成七年一月二四日に一三施設自治会の合意として「らい予防法改正を求める全患協の基本要求」をとりまとめていたことから、厚生省は、検討会が開催される前後には必ず全患協と意見交換を行うべく、全患協に当時設置された「らい予防法対応委員会」との間で会合を持ち、入所者の意向を最大限にとり入れる体制を採った。厚生省としては、当時、全患協が過去のハンセン病対策策に関し国の謝罪や補償要求などを掲げていたことから、法の見直しに際しては、問題を先送りせず、後々に禍根を残さないように万全の配慮をした。さらに、検討会では、医学的な観点からも万全を期するため、ハンセン病の専門家で構成される小委員会に図り、現時点での医学的知見をまとめることにした。
     なお、検討会での議論での結果は、平成七年一二月八日発表の「らい予防法見直し検討会報告書」に記載されたとうりである。
     前記の報告を受けた厚生省は、この報告内容に加え、それまでに出ていた各団体の意見などを詳細に検討し、その結果、らい予防法の廃止と入所者等に対する処遇の維持・確保を同時に盛り込んだ「らい予防法の廃止に関する法律」の法律案を提出するべく作業にかかった。その際の厚生省内での法見直しに対するスタンスは次に述べる(一〜三ページ)。
  
    第二節 「岩尾陳述書」に対する筆者(滝尾)の見解
   
 「岩尾陳述書」の内容紹介するが、はじめに、同「陳述書」に対する私(滝尾)の見解を何点か挙げておこう。
   
  (一)大谷藤郎藤楓協会理事長(元厚生省医務局長)を座長とする「らい予防法見直し検討会」は、一九九五年一二月八日発表の「らい予防法見直し検討会報告書」を厚生省に提出し、同報告を受けた厚生省は、これに基づき、さらに、同報告内容に加え、それまでに出ていた各団体の意見などを検討して、「らい予防法の廃止に関する法律」の法律案を提出するべく作業にかかったという。その際、
  @ 厚生省としては、当時、全患協が過去のハンセン病対策に関し国の謝罪や補償要求などを掲げていたことから、後々に禍根を残さないように万全の配慮をした。
  Aらい予防法見直し検討会の親委員会は、「ハンセン病の専門家で構成される小委員会」が提出した報告書の
   うち、「一箇所だけ、非常に重大な変更が行われ」た。すなわち、「今では」という部分が、「多剤併用療法が確立されて以降」というふうに書きかえられてしまったのである。恐らく国側の答弁書で、らい予防法が医学的根拠を失ったのは一九八一年だというふうに主張している根拠は、親検討会の報告書の部分によっており、「入所者の提訴」から二十年後の「除斥期間」に拘泥する国の意図が既に、その時から、周到にあらわれていたと思われるのである。
    
     (二)「岩尾陳述書」によると、「厚生省としては、平成八年当時現実に行われていたハンセン病対策が誤っていたとか、ハンセン病患者あるいは元患者がらい予防法によって現実に拘束され、人権を侵害されているのでこれをやめなければならないといった意味で法廃止をしたものではない」と述べ、「過去の行政の評価については、見直し検討会報告書でも」「現実の行政対応としては隔離を基本としておらず、人権侵害などはなくなっていたという事実に照らして、法形式もこの行政の実態に合わせるべきであるとの提案なのである」と主張している。この岩尾陳述書は、見直し検討会報告書を「楯」として、行政は「現実の行政対応としては隔離を基本としておらず、人権侵害などはなくなっていた」とうそぶいているのである。これは「ハンセン病患者あるいは元患者がらい予防法によって」如何に人権侵害が行われていたかを不問にした言い分である。いったい被告国は、「社会復帰をした人たち」のことをどれほど、調査して理解しているのであろうか。一九五三年八月六日の参議院本会議で可決した「らい予防法」の附帯決議にも、「七、退所者に対する更生福祉制度を確立し、更生資金支給の途を講ずること」と述べられている。国は、これまでどれほどの実効ある退所者に対する更生福祉制度を確立し、更生資金支給の途を講じただろうか。
     
      また、龍田寮(元恵楓寮)、楓蔭寮、二葉寮など「児童保育」に隔離されていて、親が「ハンセン病であって「児童保育」施設に隔離され、身をひそめていまなお、暮している人たちが、らい予防法によって、どんなに苦しめられ、その廃絶を望んでいたか。まさに、大谷藤郎療養所課長→医務局長以来、療養所内だけの処遇だけ考え、療養所外は冷たい木枯らしが吹くという新しい時代の「隔離」政策を厚生省はつづけてきた反省は、まったくないという非情さがある。さらにいうならば、大谷藤郎藤楓協会理事長(元厚生省医務局長)を座長とする「らい予防法見直し検討会」と、その報告書を検証・点検する必要がある。そういった視点から、原告ら代理人から厚生省(被告国)に対し、「らい予防法見直し検討会」が八回行われているが、その審議内容を記録した疑義録(速記録)の提出を求める必要がある。
   
    (三)「岩尾陳述書」には、お役人文章特有の主語のない文章で、責任の「主体」を誤魔化している。例をあげると、「(3)法の廃止が平成八年まで行われなかった理由    @ ハンセン病療養所の存立の根拠となっていたこと、 A らい予防法が入所者の処遇維持・継続の手段及び生活保護受給者の生活水準を超える処遇を維持する根拠に使われていたこと」(五ページ)などを挙げている。

@    についていえば、韓国では一九五四年に、日本の植民地時代に制定された「朝鮮癩予防令」という特別立法を廃止し、一般の伝染病としたが、国立小鹿島病院として、その後も存続させた。そして、日本も「らい予防法」が廃止された一九九六年四月以降も、十三の国立療養所が存続しているではないか。
 についていえば、拙著『「らい予防法」国賠請求事件資料の考察・第三集』(二〇〇〇年)の七五ページ以降で書いているように、九九年八月二七日の熊本地裁における大谷藤郎証人は、被告国指定代理人(斎藤)の尋問に対して、「多少小役人的ではありますけれども、やはりらい予防法によって強制隔離しているんだから、国としては当然これだけのことをしなければならないのではないかということは、大蔵省のお役人方に対しての説得が非常に楽であった」と答えている(七八項目)。「らい予防法が入所者の処遇維持・継続の手段とした」云々の主語は、厚生省の国家官僚であり、予算折衝の容易さから「らい予防法」を残しつづけたのではなかったのではなかったのか。「予算獲得のための手段としては、形式的にせよ隔離条項があったほうが都合がよかった」と岩尾陳述書はいう(六〜七ページ)。その「主語」は、言うまでもなく厚生省の国家官僚であって、入所者ではない。

(四)「岩尾陳述書」は、次のように述べている。
 「らい予防法を廃止するとなると、理論的には、療養所入所者は療養所をでなければならない。また、ハンセン病が治癒したのに療養所を生活の場としていた大部分の入所者は、療養所から出て生活保護受給者と同等の生活水準になることとなる」(六ページ)。「入所者個々人に対し過去の行政の結果に対する損害賠償を問題とするならば、理論的には、もう一度廃止に伴う『処遇の維持継続』の根拠があるのかについて見直さなければならなくなる」(九〜一〇ページ)など述べている。これは、厚生省国家官僚の「国家賠償を請求する原告」の人たちへの「恫喝、おどし」ではないか。この問題は、「後藤陳述書」の批判のところでも後述したいと思う。
  たしかに、「らい予防法(新法)」の第六条(国立療養所への入所)「を伝染させるおそれがある患者」に対して、「その患者を国立療養所に入所させることができる」と規定してあり、ハンセン病を伝染させるおそれのない患者は、入所させる必要がなかったのである。ところが、戦後のプロミン、DDSなどの使用によって、化学療法が前進したにもかかわらず、「ライ患者は隔離所で治療するのが最も安全である……ほとんど最後の一人まで収容して、伝染の危機から健康者を守つて無ライ国にできる」(光田健輔著『回春病室』朝日新聞社、二一〇〜二一一ページ)と唱え、政府も「無癩運動」、完全隔離政策を、光田らの主張に即して実効していった。ライと名の付く患者は、最後の一人まで強制的に収容していっており、収容した患者にきびしい患者作業を加しながら、なんで「岩尾陳述書」のような患者を「恫喝」するようなことが、いまさら言えるのか疑問である。

(五)大谷藤郎著『らい予防法廃止の歴史』勁草書房(甲第一号証、乙第一四号証)の三六八ページで、大谷さんは、「どのような議論が行われたかではなく、いかなる結論が出されたかが問題にされるべきであり、一九九五(平成七)年一二月八日にまとめられた結論としての報告書がただちに法廃止のプロセスに踏み込める内容かどうかが、私が座長として目指していた焦点であった」と述べている。
 
  しかし、小委員会の報告の原案を作成した小委員会の参考人であった和泉真蔵証人は、九九年六月一七日の熊本地裁の「証言」で、小委員会の報告が「今では」としたところを「多剤併用療法」と書き直した重大な変更が「らい予防法見直し検討会」の親委員会で行われて、書き替えられ、らい予防法見直し検討会報告書として発表された。そのことは、「ここに入っているその三人の親委員会からのメンバー(牧野正直、村上國男、中嶋  弘の各委員・滝尾注)はもちろん討議に参加しているわけですけれど、参考人には何の相談もなかったわけです」と証言している。

  らい予防法見直し検討会の親委員会のどこで、何時そうした「重大な」変更がおこなわれたのか。第何回のらい予防法見直し検討会での会合で、変更が行われたのかが、問われなければならない。
  「らい予防法見直し検討会」は、九五年七月六日から同年一二月八日までに八回開かれている。医学検討小委員会は、「八月一〇日と八月二八日の二回にわたって作業を行ない、……まとめられた案が九月一四日の第三回親委員会で討議にふされた上、そのまま原案通り採択された」(大谷藤郎著『らい予防法廃止の歴史』、三六三ページ)と書いている。
 「らい予防法見直し検討会」の討議内容をしるした速記録(議事録)を、厚生省は早急に裁判所や原告ら代理人に速記録(議事録)を提出し、公平な立場で史料を活用して公判は行われなければならない。
  一九九九年一〇月八日の大谷藤郎証人の尋問で、裁判官(渡部)は、甲第一号証(乙第一四号証)、つまり大谷藤郎著『らい予防法廃止の歴史』勁草書房の三六八ページを示し、次のように大谷証人に尋問している(二〇七〜二一一項)。
  その尋問は、原告ら代理人(八尋弁護士)からなされたのではない。二度目の大谷証人の最後の尋問として、裁判官(渡部裁判官)からなされているのである。つまり、この問題を、原告ら代理人は「らい予防法見直し検討会」の座長大谷証人に直接尋問しているわけではない。この重大な問題を、何故、原告ら代理人は、大谷証人に直接尋問してこなかったのであろうか。「らい予防法見直し検討会」の持つ問題性を、原告ら代理人は「軽視」しているように思われて仕方がない。二〇〇〇年一一月一〇日に熊本地裁で原告ら代理人の行なう「岩尾陳述書」および「岩尾証人の反対尋問」のを危惧してしまう。
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裁  判  官(渡部)
甲第一号証(乙第一四号証)を示す
二〇七(裁判官・渡部)   三六八ページ、この部分はらい予防法見直し検討会報告書が記載されている部分で、証人もこの報告書の作成に、もちろん座長として関与されているということでしたね。
大 谷    はい。
二〇八(裁判官・渡部)  次の三七〇ページ以下のところに、医学的考察ということでハンセン病治療の歴史、取り分け化学療法の発達の歴史であるとか、それからずっといきまして、多剤併用療法が画期的な療法であるというような記述がされている。それに続いて三七一ページの二行目のところですけれども、「多剤併用療法が確立して以降、ハンセン病は早期発見、早期治療により、障害を残すことなく、外来治療によって完治する病気となりうんぬん」ということで書かれていて、そこに医学的な見解というのが一つ示されていると思うんですけれども、取り分け、その三七一ページの二行目の「多剤併用療法が確立して以來」というフレーズがあるわけですが、これが記載されている意味内容というのは、いろんな議論を経て、こういうフレーズになったのかなということを想像したりするんですけれども、そういった辺りで何かご存じのことがありますか。
大 谷   いや、これはそれ程議論されて書かれたものではありませんで、ただ今のように裁判で、いつごろから、どうだという話になってきますとこれはあれでございますけれども、これが作成された当時は、そこまではあまり真剣に議論はされていないと思いますね。多剤併用療法の特色といいますのは、午前中も申し上げましたけど、ハンセン病の特徴はらい反応というものでありまして、急激に症状が、医師が一生懸命治療していても、ときに激しい症状が起こってくるわけでございます。それにつきましては、多剤併用療法のうちの薬が反応を非常に止めると、(中略)そういう意味では画期的でありますけれども、そのハンセン病が治る治らないとか、伝染するかしないかという問題につきますと、(中略)伝染性とか、そういう問題につきましては、あまり画期的ということではありません。(中略)そういう意味でありまして、「多剤併用療法が出てきたことにおいて、それをどういう意味にとらえるか」ということも、あまりこれは議論して書かれたものでは、私はそういうふうには記憶しておりませんです。
二〇九(裁判官・渡部) つまりこの検討会では、現時点においてらい予防法を廃止するかどうかということが最大の主眼であって、いつごろかららい予防法が不要の存在になってきたかということは必ずしも求められている命題ではないということですか。
大 谷   そういうことでございます。若干議論はございましたけれども、これはやはりいろんな方によっていろんな意見があるわけでありまして、私のいうように戦前から自然治癒はあったということの観点からいきますと、あれでありますし、それからそういう厳密に考える人でも、耐性もいけないじゃないかというようなこともありますが、そういうようなものの考え方によって非常に議論は紛糾いたしますので、若干議論はいたしましたけど、結局「それはいつからだ」という問題については、もうそれ以上検討会で議論いたしませんでした。
二一〇(裁判官・渡部)   いろんな議論があるということでお話いただきましたけれども、例えばもう少し具体的に言っていただくと、どういうことになりますでしょうか。今日大谷先生の見解というのをいろいろお伺いできましたけども、ほかに同じ検討会の中で出た意見としてどういうのがあったのか、簡単に紹介していただけませんか。
大 谷   これは私ももう一遍よく速記録を読んでみませんと、速記録を見ていただけば、いろんな方がいろいろ言っておられます。短い時間ではありますけれども言っておられますが、私の記憶では、(昭和・滝尾)三〇年代、昭和四〇年代が一つのポイントではなかったかという意見の方が多かったように思います。しかし一般的に、実際に臨床をやった方の感じといたしましては、プロミンが出ましてからの症状の治り方といいましょうか、症状が出ないというのは、これは全く劇的でありまして、大風子油とは比べ物にならないくらいの威力を発揮したというふうに思っておりますし、多くの臨床家の方々は、プロミンが出てきた時点というのをやっぱり一つの大きなポイントにしている人は多いように思います。しかし社会復帰ということを考えますと、いろんな点を考えますと、やはり三〇年代かなというような意見の方が多かったように思います。
 
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  ところが、「岩尾陳述書」は、奇妙な詭弁を展開している。以下それをみていこう。
  「疫学的には、社会経済状況の向上に伴いハンセン病の発病が減少することが知られており、現在の日本のように衛生水準が高くなると新たなハンセン病の感染・発病者は極めて少なくなると言われているが、このような知見が確立した時期はいつかについては、らい予防法見直し検討会でも検討されていない」(「岩尾陳述書」四ページ)という。その一方で、「専門家からなる(「らい予防法見直し検討会」−滝尾)医学検討小委員会がハンセン病の医学的知見について考察をくわえ、『いまではハンセン病は早期発見と早期治療により、障害を残すことなく外来治療によって完治する病気となった』との報告をを本委員会に対して行ったが、本委員会においては、「今では」というのはいつなのかということが問題となった」(「岩尾陳述書」四〜五ページ)。
  さらに、大谷藤郎著『らい予防法廃止の歴史』勁草書房の三六三ページには、「らい予防法立法時の過去の過ちの原因は、医学的に充分な論議検討を行なうことなく、ハンセン病の患者さんに対するステレオタイプの蔑視、偏見、差別観から、いとも簡単に伝染病として隔離や断種に走ってしまった点にあると考えている。(中略)検討会としては念には念を入れることとして、医学小委員会を設置して案をまとめて貰い、再度検討会として検討確認することとした。
  医学検討小委員会は次の委員(委員―中嶋  弘、牧野正直、村上國男、参考人―和泉真蔵、後藤正道、斎藤 肇)
によって八月一〇日、八月二八日の二回にわたって作業を行ない、そこでハンセン病の医学について以下のようにまとめられた案が九月一四日の検討会で討議に付された上、そのまま原案通り採択された」と書かれている。
 
  ところが、「岩尾陳述書」には、大谷藤郎著『らい予防法廃止の歴史』とは異なった内容記述がなされている。即ち、「本委員会においては、『今では』というのはいつなのかということが問題になった。これについては、委員の中でも様々な意見があり、小委員会の参考人であった当時の国立多磨研究所の和泉氏はDDSによって社会復帰者がたくさん出たからこの時ではないかとの意見を述べた。他方、同人は、臨床医の立場から本当に治るようになったということができ、誰もが完治ということに疑問をさしはさまなくなった時期としては、治療実績が向上し、再発率も非常に少ない多剤併用療法が提案された一九八〇年代であるとも述べた。また、当時の多磨全生園園長の村上氏は『障害を残すことなく』完治するかどうかについては、昭和四六年のリファンピシンが強力な殺菌作用を発揮したとして一つのけじめであると述べた。そして、『障害を残すことなく完治する』といえる時期については多剤併用療法以降ではないかという意見が委員の間で有力であったため、本委員会の報告書の医学的知見のところでは、小委員会報告書の『今では』の部分が『多剤併用療法が確立されて以降』という文言に変更された」(「岩尾陳述書」五ページ)という。

  「岩尾陳述書」は、極めて曖昧模糊とした「お役人」文書の典型である。見直し検討会小委員会の参考人であった和泉氏が、ハンセン病は……障害を残すことなく完治する病気になった時を、DDS使用する時期以降とするとしながら、他方、一九八〇年代の多剤併用療法以降とするとの臨床医としての提言をしたというが、それを何時、どこでしたのか、同じく見直し検討会小委員会の委員である多磨全生園園長の村上氏は、昭和四六年のリファンピシン使用の時期を一つのけじめとすると述べたというが、これも何時、どこでしたのか「岩尾陳述書」には書かれていない。小委員会報告書の「今では」の部分が本委員会において、このことが問題になり、「多剤併用療法が確立されて以降」という文言に変更されたのは、いつの本委員会なのかも曖昧である。大谷藤郎著『らい予防法廃止の歴史』では、見直し検討会小委員会のまとめられた案が、九月一四日の検討会で討議に付された上、そのまま原案通り採択されたと書かれている。採択された小委員会の原案は、その後、いつ「今では」の部分が「多剤併用療法が確立されて以降」という文言に変更されたのか、『らい予防法廃止の歴史』では、なにも語っていない。
  そこで、私はとても不十分な記述をしている大谷藤郎著『らい予防法廃止の歴史』などを参考にしながら、次のように推論した。これは、基本史料(らい予防法見直し検討会「議事録」など)を見て書いていないので、あくまでも私の「推論」であり、後日、原告ら代理人・裁判官は、基本史料によって「推論」を確めていきたい。

  岩尾厚生省元「ハンセン病担当」課長は、この度、熊本地裁(東京地裁にも)に提出した陳述書によれば、「厚生省としても、これらの意見を踏まえ、医学的知見と法が乖離した時期については、検討会での最大公約数的な意見を採り入れ、多剤併用療法が提言された以降であると整理した」(「岩尾陳述書」五ページ)という。「最大公約数的な意見」とは、なにをいっているのか、それは誰の意見なのか、その意味内容は具体的になにかは、「岩尾陳述書」には、一切述べられていない。
 
  「『障害を残すことなく完治する』といえる時期については多剤併用療法以後ではないかという意見が委員の間で有力であったため、本委員会の医学的知見のところでは、小委員会報告書の『今では』の部分が『多剤併用療法が確立されて以降』という文言に変更された」(「岩尾陳述書」五ページ)とある。「多剤併用療法が確立されて以降」という文言に変更された「らい予防法見直し検討会」は、第三回(九月一四日)の見直し検討会で討議された上、医学検討小委員会原案が通り、そのまま採択された。ところがいったい、その後、いつの本委員会で審議され、書き替えられたのか。大谷座長は、自著『らい予防法廃止の歴史』の中でそのことは、何も語っていない。そして、書き替えられた「らい予防法見直し検討会報告書」は、同書の三六八〜三七九ページに載録されている。
 
  再度言おう。大谷藤郎座長は、自著のなかで、医学検討小委員会は、「八月一〇日と八月二八日の二回にわたって作業を行ない、……まとめられた案が九月一四日の第三回親委員会で討議に付された上、そのまま原案通り採択された」と書いている。大谷さんの書いていることが正しいとすれば、小委員会報告書の「今では」の部分が「多剤併用療法が確立されて以降」との文言に変更(「非常に重大な変更」)をしたのは、一〇月一六日行われた第四回「らい予防法見直し検討会」以降のことになる。最終回の「らい予防法見直し検討会」(第八回)は、一二月八日であるが、いったん第三回見直し検討会(九月一四日)で、そのまま原案通り採択されたものが、その後、再度、親委員会で「医学検討小委員会報告書」を無視して、「検討事項」にされたのは何故なのだろう。医学検討小委員会の「最終的な報告書」が、(報告書の原案を書いたという和泉参考人にも何の相談もなく)書き替えられたのは、第四回(一〇月一六日)から、最終回(一二月八日)までの、第何回かの「らい予防法見直し検討会」で、再度蒸し、あそしてかえられたのは何故か。それに基づいて、事務当局の当時「ハンセン病対策」を担当していた元厚生省保健医療局エイズ結核感染症課の岩尾總一郎課長、長田浩志(ちょうだひろし)エイズ結核感染症課企画法令係長たちが、大谷藤郎座長の助言を受けながら、最終「報告書」原案の作成がなされて、その結果、十二月八日の「らい予防法見直し検討会」に、それが提出したのではないか。
  このことに関して、大谷藤郎著『らい予防法廃止の歴史』は、次のようにか書いている。

「一九九五(平成七)年一二月八日一二時を回ったところで最終報告書の仕上げは終わった。前日から報告書素案をみた患者さんからは『国の謝罪がないのはけしからん』『謝罪しないのなら、法廃止を延ばせ』という声まで出ていた。……自分としては人事を尽して、大筋において廃止の筋道をつけ得たと考えた。放心したような気分で、テレビのインタビューにも何を話したか覚えていない」(三七九ページ)。
 
 「一九九五(平成七)年一二月八日一二時を回ったところで最終報告書の仕上げは終わった」という最終報告書の仕上げは終わった「八日一二時を回ったところ」というのは、厚生省事務当局がらい予防法見直し検討会の最終報告書の仕上げは終わったのは、「八日正午を回ったところ」ということだろう。最終回(第八回)らい予防法見直し検討会は、八日の午後に招集されていたと思われる。最終報告書が検討会に提出されたものは、「今では」の部分は「多剤併用療法が確立されて以降」という文言である。その最終報告書が午後に開催された「らい予防法見直し検討会」に提出され、了承されたと思われる。「多剤併用療法が確立されて以降」という文言に変更されていることに、「医学検討小委員会委員」でもあった牧野正直委員などは、なぜ、親委員会に強い異議は唱えなかったのだろうか。
  「らい予防法見直し検討会」が終わり座長の大谷藤郎氏が、一二月の夕刻に記者会見をした。翌朝(九日)の朝刊の新聞は、そのことは「大きくとりあげ、それらによれば廃止全面支持ははっきりした」(大谷藤郎著『らい予防法廃止の歴史』三七九ページ)。翌一二月九日、大谷座長は報告書の真意を理解して貰うために多磨全生園自治会に出かけ、報告書について説明をおこなった。
  実は、最終報告書素案をめぐって、「らい予防法見直し検討会」の前日の一二月七日には、厚生省当局と患者たちと話し合いがおこなわれている。大谷藤郎著『らい予防法廃止の歴史』によれば、「前日から報告書素案をみた患者さんからは『国の謝罪がないのはけしからん』『謝罪しないのなら、法廃止を延ばせ』という声まで出ていた」(三七九ページ)という。その際、後日問題となる「今では」の部分が「多剤併用療法が確立されて以降」という文言なっていることは、さほど問題の焦点にはなっていなかったのではないか。当時の国(厚生省、法務省)はある程度「国家賠償請求裁判」のあることを予想し、報告書案( 当時、全患協のが過去のハンセン病対策策に関し国の謝罪や補償要求などを掲げていたことから)は、「多剤併用療法が確立されて以降」という文言の変更を主張したと思われる。つまり、厚生省保健医療の私設諮問機関としての「らい予防法見直し検討会最終報告書」は、裁判を予想の上、事務当局を中心に、「除斥期間を意識した」文言に変更に書き替えるようにではなかろうか。「医学検討小委員会」の参考人であった和泉さんには、問い合わせもなく、それはおこなわれた。
  前述したように、岩尾總一郎、長田浩志の両氏は「らい予防法の廃止」と題して、『公衆衛生』一九九九年三月号に厚生省元担当者としての所見を発表している。その中には、次のような一節がある。(熊本地裁への原告ら代理人の「訴状」は、一九九八年七月三一日に提出されている。『公衆衛生』に掲載された岩尾總一郎・長田浩志「らい予防法の廃止」は、熊本地裁訴訟のことを意識して書かものである。)

「治療薬としては、戦後、サルファ剤のプロミン、DDSが開発され効果を上げたが、再発例も多かった。一九七〇年代後半、特効薬であるリファンピシン抗酸菌製剤の使用開発、また、一九八一年にWHOが提唱したMDT多剤併用療法に至って治療法が確立され、以来、ハンセン病は後遺症を残さず完治する病気になった」
 
  二〇〇〇年九月二九日に地裁に提出された「岩尾陳述書」には、この部分については、以下のようになっている。「厚生省としても、これらの意見を踏まえ、医学的知見と法が乖離した時期については、検討会での最大公約数的な意見を採り入れ、多剤併用療法が提言された以降であると整理した。もちろん、これは誰もがらい予防法に定める予防措置をとる必要がなくなったと考える時期の特定の問題であって、この議論からも分かるように、現実にはDDSやリファンピシンによって、治療の可能性は向上し、治療の現場では、MDTの出現よりも先行して、隔離を主体としない行政対応が行われ、厚生省もこれを認めていた」(五ページ)と述べている。

  それを原告ら代理人準備書面、一九九九年六月一七日の和泉真蔵証人の「らい予防法見直し検討会」に関する証言と考え併せて、「岩尾陳述書」を考察しなければならない。その一つは、原告ら代理人(徳田靖之 外)が、一九九九年五月一九日に提出した「求釈明書」である。それには、次のように記述している。

 「平成一一年五月一二日付け被告準備書面(三)に関し、同月一四日の第三回期日において釈明を求めた事項を含めて、次のとうり釈明を求める。
一  隔離政策の開放政策への転換について
    被告準備書面(三)一六頁以下に次の記載がある。
    「らい予防法廃止の歴史」(乙第一四号証)の著者である大谷藤郎氏は、その中で以下のように述べている。
         (引用部分略)
    以上の記載によれば、遅くとも昭和四七年には、厚生省は実質的に隔離政策を開放政策に転換し、隔離の根 拠
となっていた条文が現実に適用されることはなく、ただ、形式的に右の条文が残存していたことが明らかである。なお、同条文が形式的にせよ存在しつづけたのは、隔離を形式的に認める条文の存在こそが、入所者への各種給付や療養所存続条件と捉えられていたためであり、従来、全患協もその処遇改善運動の中で右条文の全面的廃止には消極的であったのである」。
1 「隔離を形式的に認める条文の存在こそが、入所者への各種給付や療養所存続条件と捉え」ていた主体は誰か。
       釈明済み。(関係者。厚生省及び全患協を含む。)
   2 「遅くとも昭和四七年には…」という場合の昭和四七年とは、すなわち大谷藤郎元医務局長が国立療養所
     課長に就任したときか。
       釈明済み。(そのとおり。)
   3  遅くとも昭和四七年には、厚生省は実質的に隔離政策を開放政策に転換した根拠は何か。
      大谷藤郎氏は右政策転換の理由について、前記引用部分の文献の中で、「日本のらい予防法は、国際的にみてその学問的根拠を失っていることは明らかであった。」と述べているが(二五二頁)、厚生省の根拠もこれと同じか。
   4 一九四三(昭和一八)年に発見されたプロミンではなく、一九八一(昭和五六)年にWHOが提唱した多剤併用療法(MDT)こそが画期的な治療法であり、この時期以降、医学的観点からすると、隔離は不要であるとの考え方が定着するようになったのであり、それまで「らい予防法」には医学的な根拠・必要性があった。以上が被告国の答弁書における主張ではなかったか。
        そうすれば、遅くとも昭和四七年に厚生省が実質的に隔離政策を開放政策に転換したとの今回の主張は、答弁書における主張と矛盾するのではないか。答弁書の主張を撤回する趣旨か」(『冊子』四二〇〜四二二ページ)。

  その二は、本件における除斥期間の起算点に関する原告らの主張である。
「1、本件における加害行為の終了は、「らい予防法」が廃止された平成八年三月であり、この時点が民法七二四条後段の「不法行為の時」つまり起算点となる。
本件で原告らが「不法行為」と主張するのは、日本国憲法が施行された昭和二二年から平成八年三月までの間において、旧「らい予防法」及び改正「らい予防法」を廃止しなかった不作為の違法である。
(昭和二八年の「らい予防法」の制定は、同時に旧「らい予防法」を廃止しなかった不作為としての性格を持つ。なお、優生保護法の廃止に関しては、昭和二三年以降となる。)
  その特徴は次の二点にある。
  第一は、継続的不法行為としての不作為の違法を問う点である。
 この点では、特定の基準時における一回的な権限不行使等の不作為が問題となる事案とは、その性格を
著しく異にするものである。     
 第二は、その不作為の対象が、違憲・違法な「法律」の廃止をしなかったという点であることである。
単なる行政権限不行使等の不作為とは異なるということである。
       (中略)
 なお、右の理は、平成八年三月まで、強制隔離政策を継続した厚生大臣らの責任についても妥当するものである」(『冊子』二五三〜二五五ページ)。

  しかし、不思議なことは前述したように、一九九九年八月二七日および同年一〇月八日に行われた大谷藤郎証言に対する、原告ら代理人であるハンセン病国賠西日本訴訟弁護団の「尋問」の態度である。
  一九九九年六月一七日の和泉真蔵証人の「主尋問」は、当該のところは西日本訴訟弁護団団長の徳田靖之弁護士(二二九〜三一四項の参照)が主尋問を行っている。 和泉証人は医学検討小委員会報告が、親委員会の最終の「らい予防法見直し検討会報告書」では、「重大な」変更がおこなわれたことはよく承知していた。つむら あつこさんが「これは、国の責任を問う時期をめぐって裁判の争点になっている重要な点である」と『月刊ヒューマンライツ』九九年八月号で述べている通りである。
  一方、徳田靖之弁護士は大谷藤郎著『らい予防法廃止の歴史』(甲第一号証)は、当然読んでいるはずである。大谷藤郎さんが「らい予防法見直し検討会」の座長であったことも徳田弁護士は知っている。ただし、「医学検討小委員会……でハンセン病の医学について以下のようにまとめられた案が九月一四日の第三回検討会で討議に付された上、そのまま原案通り採択された」(三六三ページ)と大谷藤郎さんが『らい予防法廃止の歴史』(甲第一号証)で書いているのを、読み落としていたか、否かは不明である。
   「岩尾陳述書」は、「検討会でも、過去の行政施策は違法であるとして賠償するべきであるとの議論はなされていない。むしろ、検討会の中では、当時の医学的知見に基づき制定された法律による行政施策についてのそれを執行する国家賠償責任が生ずることについては否定的であった」(「岩尾陳述書」八ページ)とも書いている。このように、「岩尾陳述書」は、「らい予防法見直し検討会」の討議の経過内容を書いて、被告国の意見を主張している。それは果たして事実かどうか、被告国は具体的証拠を示してそのことを明らかにして欲しい。証拠をもって、それを明らかであると立証するためには、「らい予防法見直し検討会」の討議の経過内容をしるす「議事録」の公開 がなによりも必要であると考える。もし、この「速記録」をまだ原告ら代理人が見ていないのなら、入手して欲しい。「速記録」を入手しているのなら、「らい国賠請求訴訟の勝訴」を願う「原告」や支援者たち、さらに一般研究者にも、ぜひ公開して欲しい。「らい予防法見直し検討会」の討議の経過内容を知ることは、「岩尾陳述書」や「岩尾証言」を考えるための必須の資料である。私たちはそれを切に望んでいる。「岩尾陳述書」(乙第一七二号証)および熊本地裁での「岩尾証言」の内容は、今次公判の最大の争点となるだろう。
  それでは、次の問題に移ろう。

(六)「岩尾陳述書」はまた、次のようにも主張する。
  「退所希望者に対し、例えばこれまでの施策の補償・賠償として、生涯にわたって一般社会での生活保障を行え、あるいはそのための一時金を支出せよということであれば、法廃止にともなう一律の処遇も見直さなければならないことになる。……入所者が地域社会の中で自立を目指して生活するための立ち上げ支援を行うものである。具体的には、厚生省としても、らい予防法廃止以前の昭和三九年度から自立を支援するための一時金を支給する就労支援事業を行っていた」(一〇ページ)という。
 
  一体、国は、「入所者が地域社会の中で自立を目指して生活を目指して生活するための立ち上げ支援」のために、一人当りいくら出したというのだうか。「岩尾陳述書」はつづけて、「廃止法の規定、国会付帯決議などをふまえて、法廃止後に社会復帰を希望する入所者に対して、@退所準備等支援(退所から退所直後における住宅準備等の諸経費を支援する。限度額、一〇〇万円) A社会生活を円滑に始めるための準備期間とし、その間社会に適応するための資金を支援する。限度額、一五〇万円」を内容とした社会復帰準備支援事業を平成九年度(一九九七年度−滝尾) から新設し、積極的な社会復帰を行ってきているといえる」(一〇〜一一ページ)という。当初は、一五〇万円でった資金の支援も、今日、二五〇万円を限度額とする資金の支援となった。果たして入園者の社会復帰が二五〇万円の資金で、可能といえるのだろうか。       
                        
  その他の被告国側証人たちの「陳述・意見書」批判について
 
(一)「後藤陳述書」の問題点
 
 「岩尾陳述書」は「(四)廃止にともなう処遇の維持の意味」の項で、次のように述べている。
  
「もとより、前述のごとく、行政としては医学的知見に基づき制定された法律によって適正なハンセン病対策を採ってきたと認識しており、過去において隔離を中心とした行政施策が違法であることを知りつつ敢えてこれを行なってきたという事実はない。この点、検討会でも、過去の行政施策は違法であるとして賠償するべきであるとの議論はなされていない。むしろ、検討会のの中では、当時の医学的知見に基づき制定された法律による行政施策についてのそれを執行する国家賠償責任が生ずることについては否定的であった」(八ページ)。
 
  そういった「岩尾陳述書」をさらに強調し、原告らに「攻撃、恫喝」をしているのが、この四月まで国立療養所星塚敬愛園の副園長をしていた鹿児島大学医学部助教授の後藤正道証人の東京地裁へ提出した「陳述書」である。その中で被告国側の証人である後藤氏は、次のように述べている。

  「予防法廃止後も現行の生活・福祉・医療のレベルを落とさずに、入所を続けたい入所者の権利を保障するということで、入所者全体の組織体である全患協としては国家賠償請求はしないと決めたと聞いている。廃止当時の療養所の処遇は、全療協(かっての全患協)がその継続を補償ととらえるほどに恵まれていた。障害をもって高齢化した人にとっては理想的な生活・福祉・医療の場であるといってもよいものであった。
  この考えに同調できない人が、園を出て保証金を求めることはあり得る選択だと思うが、仮に賠償金をもらうとすれば、そのまま園での現在の処遇を受けるのは、二重取りになると思う。全患協が、処遇の継続により賠償請求はしないといいながら、訴訟を支援するのは矛盾する行動である。敬愛園の自治会も同様な考え方をしており、訴訟支援には反対している。もしも、入所者全体が、廃止法の際の、廃止の仕方がおかしい、補償の仕方がおかしいということであれば、廃止法をいったんご破算にして、もう一度廃止法のありかたを見直す議論が必要となる」(九〜一〇ページ)。

  このような暴言をいう人物が、今年の三月まで国立療養所・星塚敬愛園の副園長を勤め、いま、鹿児島大学医学部で学生に医学を教えているとは、私には驚きである。さらに続けて、後藤氏は、次のように述べている。

  「昭和二八年(一九五三年−滝尾)当時のわが国における感染症対策については、文献的な考察しかできないが、結核をはじめとする感染症が国民の死因の上位を占めるような状況であったことを考えると、微弱とはいえ感染症であるハンセン病の拡大を防ぐための法律としては、当時の状況からは一定の意義はあったと考えている。
  なお、プロミンが登場して効果が確認されるようになった時期とはいえ、プロミンは毎日の静脈注射が必要で、内服薬のDDSの使用が日本でやっと始まった昭和二八年にこの法律ができたことは、結果的にはタイミングが悪かったと思う。もう少し遅ければ、外来診療が一般化していて、法律のありかたは大きく変わっていたのではないか」(一〇ページ)。

  この人は、近代医学史のうち「らい予防法」のことは、ご存知ないのだ。一九五三年の夏の全患協を中心とした熾烈な「予防法反対闘争」の結果、参議院で「らい予防法」の九項目からなる附帯決議を決議する。山県勝美厚生大臣は、同年九月十八日に多磨全生園の視察を行なった際、湯川全患協副委員長より「先に成立した予防法の附帯決議九項目の早期実現と、この実現により必然的に生じてくる予防法の再改正を、次期国会に於て是非具体化していただきたい旨を強く要望した」のである。医学が変われば、それに伴なって法律を変えればいいのだ。しかし、「近き将来本法の改正を期する」という約束は反故にされた。一九九六年の法廃止まで、実に四十三年間、この法律は改正されずに、存続したのである。(拙著『「らい予防法」国賠請求事件資料の考察』第三集、参照)。

  「長尾栄治意見書」の中の「日本らい学会の意見表明について」の記載

  長尾栄治の略歴―この度、熊本地裁に提出された「意見書」に書かれた略歴によると、次のようになっている。
 
「徳島大学医学部卒業後、皮膚科学教室に入局し、昭和四六年(一九七一年)から同四八年まで非常勤の医師として、大島青松園に週一回の割合で診療に行き、同五〇年には正職員(昭和五一年から第二皮膚科医長、昭和五三年から医務課長、副園長)として大島青松園に勤務するようになった。
  昭和五七年に宮古南静園に副園長、園長として、平成二年からは沖縄愛楽園に副園長、園長としてそれぞれ勤務した後、平成十一年から再び大島青松園に戻り、副園長として勤務して現在に至っている。日本らい学会「らい予防法」検討委員会委員となり、成田  稔委員長、尾崎元昭・後藤正道・牧野正直各委員とともに、日本らい学会の見解をまとめ、一九九五年四月二二日の第六十八回総会において、日本らい学会の見解を発表した。今回、被告国側の証人として、熊本地裁で「証言」し、それに先立ち「意見書」(乙第一七三号)として、提出した。次に記載するのは、「長尾意見書」の文末の一節である。「一五  平成七年四月二二日の日本らい学会の意見表明について」と題されて、記述されたものである。

 「この意見表明は、多磨全生園園長で日本らい学会の庶務幹事でもあり検討委員会委員長であった成田稔先生が原案を作成し、委員が意見をいう形でまとめたものであるが、私も委員であり、その過程において私も関与している。
  この意見表明については、大谷見解、ハンセン病療養所長連盟の『らい予防法改正問題についての見解』を受け、らい予防法の見直しを前提に、その見直しの医学的根拠を付与するという面があり、どのように表現するかを非常に苦慮した記憶がある。そのため、その当時での医学的知見にもとづいた意見というよりはこの意見表明をまとめた平成七年時点での知見に基づき、かなり曖昧に、あるいは個所によっては断定的に表現しているところがある。
  この意見表明の中で『当時すでにプロミンの効果は明らかであったし、国際てきには患者の隔離は否定されていた。』との表現は、当時において患者の隔離という予防手段が全く否定されていたということではなく、大きな流れとしては外来治療へという論議があったという意味でとらえている。
 『外来治療も定着する中で』の外来治療とは、各療養所で行われていた外来治療や各大学や藤楓協会で行われていた外来治療を指すものである。
 『社会との共存を訴えるWHOと相容れず、いきおい世界から孤立してしまった』というのは、新規患者がほとんど出ずに、一〇〇パーセント近い患者がすでに施設に入所していた日本と、たくさんの新規患者を抱え、施設が殆ど完備していない流行地を主な対象とするWHOの対策、研究などとは全くテーマが異なり、日本でやっている対策、研究が世界、とりわけ開発途上国では役に立たないという意味と理解している。少なくとも日本が世界の対策と正反対の対策をとろうとしていたということではない。
 『日本らい学会が、これまでに『現行法』の廃止を積極的に主導せず、ハンセン病対策の誤りも是正できなかったのは学会の中枢を療養所の関係会員が占めて、学会の動向を左右していたからであり』というのは、予防法を廃止し、かつ、入所者の福祉、生活を維持する方法論が療養所関係者の間で確立されていなかったからである」(九ページ)。

  この「長尾意見書」の内容ほど、入所者を含む、読者を愚弄する文はあるまい。「日本らい学会の意見表明文」の原案を作成した成田 稔検討委員会委員長(現・多磨全生園名誉園長)は、この「長尾意見書」にどう反論するのだろうか。
                                       
                           (備考)今回は、ここまでとし、つづきは『第四集』として書く。
(二〇〇〇・一〇・一八、加筆、一一・六)

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                                                                滝 尾  英 二
                                                           協力  つむら あつこ