『「らい予防法」国賠請求事件資料の考察』第四集の第二章=69〜96ページ


第二章 「岩尾証言」・「見直し検討会」の批判
        ――熊本地裁の国賠訴訟傍聴のために――


   第一節  熊本地裁(十月二十日)を「国賠訴訟」裁判の傍聴
 
  二〇〇〇年十月十九日、広島の朝はよい天気であった。しかし、熊本のホテルに着いたころから天気はくずれ始め、夕方には雨が降り出した。翌日の熊本地裁の裁判が始まるまでには、晴れて、多くの傍聴者が、傍聴席を埋め尽くしてくれるかしらと、とても心配だった。
    この数日間は、『「岩尾陳述書」等批判』の冊子をつくるため、ほとんど眠らない日がつづいた。当日の早朝までかかった手つくりの『「岩尾陳述書」等批判』(A5判三〇ページ)を、とりあえず十二部だけ製本して、新幹線に飛び乗って博多まで行き、それから、熊本行きの特急「ありあけ」で、やっと熊本駅にやってくることができた。「冊子」を、熊本地裁に出席する各関係者に配布することが、今回、熊本へ行く一つの目的であった。
  大阪の神谷弁護士から依頼されていた「内田文庫」の目録の複写をするため、まず、熊本県立図書館に直行した。さいわい、前もって依頼の電話をしていたので、三階資料室の係りの司書が、「内田文庫」の目録をちゃんと複写できるように用意してくれていた。持って来た自著の『「らい予防法」国賠請求事件資料の考察』(第三集)を熊本県立図書館に寄贈した。
 

 「内田文庫」の寄贈者・内田守は、一九三五年から四四年まで長島愛生園医官を勤めた眼科医である。晩年は、熊本短期大学教授となり、一九七一年には、『光田健輔(人物叢書)』を吉川弘文館から著わしている。寄贈された蔵書は二万点あまりあるが、内田が、歌人であった関係もあって「短歌集」がかなり多い。また、ハンセン病関係では、戦前から一九八〇年代はじめ頃までの各療養所の機関誌、である『愛生』、『楓』、『青松』、『多磨』、『高原』、『姶良野』、『恵楓』、『甲田の裾』といった月刊誌が多く(欠番もある)、収集されている。各療養所の『年報』、癩予防協会や各療養所の出版物、自家出版された単行本など、実に多彩である。
  めぼしい個所だけ「目録」を複写する。それをすませて、市内電車とタクシーを利用して、京町二丁目にある熊本中央法律事務所に『「岩尾陳述書」等批判』の冊子を持参する。この法律事務所は、ハンセン病国賠西日本訴訟弁護団の連絡先になっているところである。ハンセン病国賠訴訟担当は、国宗弁護士である。私の行った時は、あいにく不在だったので、窓口の人に持参した「冊子」を、徳田弁護団長と国宗弁護士に手わたしてもらうよう依頼しておいた。

  前もって熊本地裁へ電話して、午前十時に開廷されることを確め、当日は、少し早めにホテルを出て、京町一丁目にある熊本地裁を訪れた。到着したのは、九時過ぎだった。すでに、曽我野前全患協会長は地裁ロビーで待機中だった。曽我野さんに挨拶して話をする。
  しばらくすると、高瀬全療協会長、同事務局長の神さん、邑久光明園長の牧野さん、原告側証人として出廷した大島青松園の和泉さんと、「らい予防法見直し検討会」に関係した人たちが多く、姿を見せていた。解放出版社の原田さんも参加していた。鹿児島県にある星塚敬愛園からは、マイクロバスで来熊し、私の顔馴染みの人びとが次々と熊本地裁内に到着する。この日は、抽選なして全員の傍聴ができた。七十余の傍聴席は、ほぼ満席となった。当日の朝までかかってつくった『「岩尾陳述書」等批判』の冊子を各地域の弁護士たちや、関係者に寄贈したので、十二部作っていった冊子も全部さばけてしまった。もっと作って持ってくればよかったと、後悔する。
  今度の冊子は、前日の十九日には熊本中央法律事務所に持っていっていたので、届いたかどうか国宗弁護士に尋ねてみた。「頂いたわよ。」と国宗さん、「どうだった?」と問うと、「面白かったわよ。」と国宗さん。なにが「面白かった」のか?という国宗さんの意味内容は不明だが、ともあれ、前日に持参した「冊子」を読んだことは、読んでくれただけで、満足である。古賀克重弁護士にも、「冊子」を渡そうとしたら、すでに国宗弁護士から「冊子」のコピー直接事前にもらったという。
  東京から来た弁護士に、『「岩尾陳述書」等批判』の冊子を手渡し、今まで書いた拙著『「らい予防法」国賠請求事件資料の考察』を見たかと問うと、「知らない」という。持っている同書の『第一集』から『第三集』までと、拙著『近代日本のハンセン病と子どもたち・考』の四冊を東日本訴訟弁護団に寄贈しておいた。「内田文庫」の目録の複写も欲しいということであったので、後刻コピーして、手渡すことにした。『「らい予防法」国賠請求事件資料の考察』は、東京で七月末には、ハンセン病国賠東日本訴訟の豊田弁護団長に直接、手渡しているのに、東京から来た幹部の弁護士がこの「冊子」を知らないとは、実に意外であった。

  今回の熊本地裁は、五月十一日に来た時と異なり、原告ら弁護団席には、西日本訴訟担当弁護団の徳田団長たち以外に、瀬戸内訴訟担当の平井弁護団長、近藤、大熊、大槻などの各弁護士、さらに東日本からも数人の原告側の弁護士たちが来熊し、弁護団席には三十数名の弁護士でぎっしりと埋め尽くされていた。この「ハンセン病国家賠償請求裁判」は、現在、全国で熊本、東京、岡山の三個所おこなわれているが、地裁の中で、被告国側の証人尋問がおこなわれるのは、熊本地裁の今日が始めてである。
  いままで、幾度となく瀬戸内訴訟を傍聴してきたが、被告国側は、岡山地裁に『準備書面』を数度にわたって提出しているにもかかわらず、法廷では、被告国側指定代理人は、終始沈黙し続けてきた。今回、始めて被告国側の「証人」として、岩尾聰一郎(「らい予防法」当時のハンセン病対策を所管する、元保健医療局エイズ結核感染症課長)、長尾栄治(大島青松園副園長)、今泉正臣(星塚敬愛園園長)の三証人が、尋問を受け、法廷の場で被告国側の意見が明らかにされる注目される裁判である。いわば、原告側と被告国側が、今回はじめて、法廷で正面切って「全面対決」する重要な場面をむかえたといえよう。
 
  午前十時から始まった裁判では、最初の証人として岩尾聰一郎氏が立った。岩尾氏は、一九四七年一〇月生まれで現在四十九歳、一九九九年八月からは、厚生省大臣官房厚生科学課長であるが、「らい予防法」廃止当時のハンセン病対策を所管する課長であった人物である。午後からは長尾氏、今泉氏の順で、午後五時過ぎまで被告国側の代理人による尋問(長尾氏のみ原告側の弁護士による反対尋問)があり、当日の裁判は終った。傍聴席でみる限り「岩尾証人」が、この裁判を左右する重要な「カギ」を握っている人物と思えた。

 

第二節  被告国側証人の「証言」の問題点

 次に、十月二十日当日の岩尾、長尾、今泉各証言の「証言」、および尋問の内容について報告したい。尋問の時間経過にしたがって報告するのがよいのであるが、紙幅の関係で、私が思った被告国(証人および代理人)が主張した問題点を項目的にあげ、同時に、それに対する私の批判(意見)を述べておきたい。

■ 「社会の差別・偏見は、古くから日本社会に存在し、現在の社会においても存続したものであって、旧法(一九三六年の「癩予防法」)や新法(一九五三年の「らい予防法」)によって、社会の差別・偏見を助長させたものとは認めない」と被告国は主張する。
 【滝尾の批判】→『癩予防法による被害事例』癩予防法改正促進委員会編(一九五二年十一月)など数多くの国による被害実態の記録、一九五〇年八月三一日早暁に起きた熊本県八代郡下松求麻村の父子の殺害・自死事件、翌五一年一月二九日に山梨県北巨摩郡で起きた「癩家族一家心中事件」、そして一九五三年から五五年にかけて起きた「龍田寮児童通学拒否事件」など、すべて「癩予防法」、「らい予防法」の内容である強制隔離収容、ハンセン病に対する恐怖心のあおり等がもたらした「差別・偏見」により、ひき起きた事件ではないか。なぜ、被告国は、それを認めようとしないのか。
  菊池恵楓園では、入所者の園長の発行する「外出許可証明書」が、一九九五年六月までは、出されている。これも、「らい予防法」に基づく差別・偏見の助長となろう。

 

■ 「一九九五年七月に発足させた厚生省保健医療局長の私設諮問機関である『らい予防法見直し検討会』(座長・大谷藤郎)を設置させ、『座長である大谷氏の強力なリーダーシップの下で検討が進められたが、委員については、各界からの有識者に加え、ハンセン病療養所の入所者組織である全患協の代表者である高瀬重二郎氏も選ばれた。』(岩尾陳述書)
【滝尾の批判】→同委員に選ばれた各界からの有識者十四名の委員の多くは、ハンセン病問題の認識のない人たちであった。このことは、十月二十日の「岩尾証人」すら認め、その為に、第二回目のらい予防法見直し検討会(八月十日)は、多磨全生園のハンセン病資料館の見学、全患協各支部長 お意見を聞いたと証言している。
  検討委員の選定は、いったい、厚生省はどのような基準で行なったのであろうか。この検討会は、いわば、「大谷氏の強力なリーダーシップの下で検討が進められた」。従って、大谷座長の強力な指導の下で、多くの委員は、国の「お抱え」の学者、元行政官僚たちが数多く選定されたのではなかろうか。ハンセン病に対する「認識」のない人たちにより検討されたものである。たとえば、中谷委員(大東文化大学法学部教授)などは、「第七回らい予防法見直し検討会」(十一月二十四日)において、次のような発言をしている。同『議事録』の四二〜四三ページの個所である。これなど、ハンセン病患者の断種の実態をまったく知らないで、委員になった人物の典型であろう。

○ 高瀬委員  二三年にらいが入った訳ですけれども、それ以前の大正四年ごろから優生手術というのはどんどんやった訳ですからですから、法律を抜いてもらえばいいんですが、それだけでは感情的におさまらない点があるんですね。感情論は別にしましても、「医学的根拠を欠く」ということだけじゃなしに、もう少し何かそこに表現を付け加えてもらえればということです。
○ 中谷委員  優生保護法が出来る前から断種というのはやっていた訳ですか。
○ 高瀬委員  どんどんそうですよ。
○ 村上委員  合法的に出来るようになったので、それまでは違法行為としての断種手術がおこなわれた訳です。だから、法律以前の問題だった訳です。
○ 中谷委員  優生保護法が出来てからも年間四件とか、六件とか、そういうものは計上されているんです。それが多分この人たちの……。
○ 村上委員  合法的に出来るようになってからがそれぐらいということで、それ以前に非合法の断種手術が非常にたくさんあった訳です。
○ 中谷委員  分からないことがたくさんありまして……。

  初歩的な「日本近代ハンセン病の歴史」すら分かっていない中谷委員(大東文化大学法学部教授)が、「見直し検討会」最終日の二週間前になっても、この認識であることに、驚かざるを得ない。厚生省(大谷藤楓協会理事長→岩尾課長)は、どんな基準で「ハンセン病見直し検討会」委員の人選をしたのか、その責任が問われよう。

  大谷座長の意図は、自らが厚生省担当官僚としているときに「らい予防法」改正・廃止に手をつけなかったという反省があった。
  したがって、「現時点において、らい予防法廃止の時期が相当遅れてしまっている……。どのような論議が行なわれたかではなく、いかなる結論がだされたかが問題 にされるべきであり、一九九五(平成七)年一二月八日にまとめられた結論としての報告書がただちに法廃止のプロセスに踏み込める内容かどうかが、私が座長として目指していた焦点であった」(大谷藤郎『らい予防法廃止の歴史』三六八ページ)と「らい予防法」廃止することをやたらと急いだ。大谷氏にとって「らい予防法見直し検討会」が法廃止という結論がだされたか、どうかが問題であって、どのような論議が行なわれたかは、はほど問題ではなかった。後日、厚生省保健医療局エイズ結核感染症課発行の「らい予防法見直し検討会議事録」(第一回から第八回まで)を入手して、分析と検討をしてみたが、全患協の代表者である高瀬重二郎さんは、さすが、入所者の意見を主張した発言をしているが、大谷座長らによって、その主張が無視されている場合が多い。大谷氏は、なぜこのように急いだのか。「国の責任や謝罪」をうやむやにして、「見直し検討会」は、最終報告書を発表してしまった。その責任は問われなければならない。
 
  一方、岩尾証人は「らい予防法見直し検討会」で論議された内容を全面に立て、国のハンセン病対策の「正当性」を主張してきている。「見直し検討会」の速記録(「議事録」)があることは、一九九九年一〇月八日の大谷藤郎証言で、裁判官(渡部)の尋問に対して、大谷証人は「私ももう一遍よく速記録を読んでみませんと、速記録を見ていただけば、いろんな方がいろいろ言っておられます」(二二〇項目)と答えている。すでに一年前から、「らい予防法見直し検討会議事録」、大谷証人によって、その存在は明らかになっていた。
  大谷座長とした厚生省保健医療局長の私設諮問機関である『らい予防法見直し検討会』の内容の分析・検討を原告側弁護団はしてきたのであろうか。仄聞すると、「らい予防法見直し検討会」の議事録(速記録)は、『岩尾陳述書』が提出された本年の九月二九日以降になって、やっと原告ら弁護団は、検討がすすめられているようだ。
 『岩尾陳述書』および「岩尾証人」の尋問が、今次裁判の最大の山である以上、原告ら弁護団は、高瀬重二郎全療協会長、牧野正直国立療養所邑久光明園園長などの当時「見直し検討会」委員であった人々から、その日なにを議題で審議が行われたのか、原告ら弁護団は聞き取っておくこと。また、被告国に対して、原告側弁護士は、一九九五年七月六日から十二月八日の間、八回行われた見直し検討会の議事録(速記録)、および、各回ごとに委員に提出された多量の「資料」を、裁判所に早急に提出するよう要求する必要がある。この見直し検討会の議事録(速記録)によって、『岩尾陳述書』および「岩尾証人」の尋問が、いかに「虚言」に満ちたものであるか、明らかになるはずである。それを、原告団弁護団はおこたってはならない。

■ 「検討会でも、過去の行政施策は違法であるとして補償すべきであるとの議論はなされていない。むしろ、検討会の中では、当時の医学的知見に基づき制定された法律による行政施策についてのそれを執行する国家賠償責任が生ずることについては否定的であった」という。(岩尾陳述書)
【滝尾の批判】→ たしかに、全患協の代表者である高瀬重二郎氏は第三回「見直し委員会」で「個々の訴訟といいますか、裁判を起こしてもやらなければ、全体ではなかなか難しいということになりまして、それは引き下げたんです。そのかわり、現在受けているような処遇は生涯にわたって補償していただきたい、そういうことを申し上げているんです」と述べている。それに対して、当日、「見直し委員会」に参考人として出席した和泉氏は「ただ、希望するから入れる、私たちは最終的にはともかく療養所に逃げ込めばいいんだという安易な逃避の道を残さないといけないのは事実ですけれども、むしろそれよりも一般の中に入るという努力を最大限した上で、緊急避難的にとか、本当にやむを得ない場合にという姿勢の方が、偏見をなくすという意味では正しいと私自身は思いますけど……」と述べている(「議事録」三〇〜三一ページ)。

 

全患協の代表者である高瀬重二郎氏の、これまでの苦渋に満ちた厚生行政に対する「不信」を垣間見る思いがした。
  
  しかし、全患協代表者は、十三個所の国立療養所内の患者の代表であって、療養所の外に居住している「社会復帰」している人たちにとっての代表ではない。本訴訟に加わっている人たちは、療養所外の人たちも多い。その人たちには、全患協代表者による代表の意見には拘束されない。「全患協に当時設置された『らい予防法対応委員会』との間で会合を持ち、入所者の意向を最大限にとり入れる体制を採った」(岩尾陳述書)というが、果たして、この会自体が入所者の意向を最大限にとり入れる検討会になり得ていたのか、どうか疑問であるろう。
  一九五三年の「らい予防法」反対闘争のような全患協代表と各療養所支部員(入所者)とのコンセンサスは、一九九五年の「らい予防法見直し検討会」の全患協代表と、各療養所支部員(入所者)との間にはそれほど、付いていなかったと思われる。「見直し検討会」は、政府のつくった厚生省保健医療局長の私的諮問機関である。「見直し検討会」の検討内容は、各療養所支部員(入所者)も社会復帰者にも、あまり知らされることなく進められた。第八回のごときは、事務当局の作成原案が、慌ただしく当局により修正され、午後三時からの記者会見が大谷座長らによって、公表されている。もちろん、最終報告書は、支部ごとの大会などには、まったくかけられず、決定されて、公表されている。原告の人たちは、厚生省保健医療局長の私的諮問機関である「見直し検討会」の意見に拘束される理由は、まったくない。

■ 「損害賠償請求がいささかでも認められるとすれば、同じく過去の行政の結果に対し給付されるという側面を持つ『処遇の維持継続』は果たしてその根拠があるのか、もう一度見直さなければならなくなると思う」(岩尾陳述書)岩尾証人は「岩尾陳述書」で書き、また、熊本地裁で証言している。
【滝尾の批判】→原告および裁判官にかけた被告国の「恫喝・おどし」ではないか。国立療養所星塚敬愛園前副園長の後藤正道(東京地裁での)被告国側の証人が、その「陳述書」で『全患協としては国家賠償請求はしないと決めたと聞いている。(中略)この考えに同調できない人が、園を出て賠償金を求めることはあり得る選択だと思うが、仮に賠償金をもらうとすれば、そのまま園での現在の処遇を受け続けるのは、二重取りになると思う』との「おどし」の発言と、岩尾証人の発言は、共通する。両者とも許しがたい内容である。
 日本国憲法には、次のように述べている。
「第二十二条 何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転及び職業選択の自由を有する。」
「第九十七条 この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試練に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。」 
  日本国憲法でいう「何人」、「国民」を、「療養所入所者」と読み替えて見るとよい。「療養所入所者」の自由と生活向上の成果は、一九三六年八月の「長島事件」、一九五三年の「らい予防法」反対闘争、さらに、全患協による予算獲得のねばり強い運動、生活といのちを守る闘いなどの成果、獲得したものであって、政府の「恩恵」によるものではない。住み慣れた生活の場を変えろというのは、「居住権」の侵害である。これは、被告国の「おどし」に過ぎないのであって、希望することがなければ、転居する必要などまったくない。
  このことに関して「見直し検討会」の検討内容をみると、第四回検討会(十月一六日)で、村上委員(多磨全生園園長)は、次のように言っている。

 

「(入所者は)非常に長く住んでいたということで、つまり普通の病院の場合には療養の場ということであって生活の場ではない訳ですが、ハンセンの療養所の場合には明らかに住宅の部分があるし、これは療養の場であると同時に生活の場でもある。(中略)このような形で住んでいたということが、いわゆる法律上の意味での居住権というようなものに該当する可能性があるか、ないのか。
  もし、こういう形のものでも居住権というものが発生するということであれば、そこにいてもらうということがかなり法律上は無理なく出来るということもあるのかなという気もするんですけれども、そういう概念とは相入れないものなのか。それとも、そういうものまで考えていっていいものなのか。私はよく分からないので、教えていただきたいんですが」(一二ページ)。

  この村上委員の質問に答えるかたちで、第五回検討会(十月二五日)中谷委員(大東文化大学法学部教授)は、次のように述べている。

「それは、ほかのいろいろな弁護士さんとかいろいろな法律家とも相談しましたけれども、もともと療養所にはいるときの基礎が法的な契約書とか、そういうものとは違うものですから、居住権というのはやはり無理であろうというふうにみんなの意見が一致しておるました。
  でも、居住権が認められないということは直ちに国の都合で出なさいと言って、出なかったときにはどうかという、そういうことのはならないだろうということで、結論的にはこの表現で私はいいんだろうと思います」(八ページ)。

  また、第五回検討会(十月二五日)において、岩尾エイズ結核感染症課長は、次のように述べている。

「『入所者の処遇(医療・福祉等)の問題(処遇の維持・継続の考え方はどのように整理すべきか)。』ということですが、これにつきましては『療養所にとどまるか退所するかの選択の自由は入所者本人にあることを前提とした上で、療養所にとどまることを希望する者に対し、処遇を継続していくべきである。基本的には、入所者の置かれた特殊な状況に着目して継続するということになると考えられるが、事務局において改めて整理すること。』ということで、本日後ほど御説明したいと思っております」(二〜三ページ)。

   したがって、「療養所にとどまることを希望する者に対し、処遇を継続していくべきである」ということで、厚生省事務当局は、説明しているのである。原告ら弁護団は、法律論で中谷委員(大学法学部教授)の見解に、しかとした反論を加えるべきだと、考える。
 
■ 『岩尾陳述書』は「現在の日本のように衛生水準が高くなると新たなハンセン病の感染・発病者は極めて少なくなると言われているが、このような知見が確立した時期はいつかについては、らい予防法見直し検討会でも検討されていない」と述べている(五ページ)。一九九五年七月六日、らい予防法見直し検討会委員が任命され、厚生省事務当局から、当初、議検討項目として、「医学的検討(らい予防法に基づく予防措置の評価等)が上げられていた。
 【滝尾の批判】→『らい予防法見直し検討会速記録』の内容の批判・検討は、章を改めておこなうが、大谷藤郎座長は、自著『らい予防法廃止の歴史』も同書三六一ページで認めている。


「らい予防法に基づく予防措置の評価等」が、「厚生省事務当局から来年の法律案作成スケジュールを考慮して……審議検討項目(らい予防法に基づく予防措置の評価等)」があげられているが、「いろいろな制約が考えられる現下の政治情勢の中で」、つまり、自民党が野党となっている中で、「一日も早く廃止立法につながるように」という大谷座長の判断があった。したがって、らい予防法に基づく予防措置の歴史的評価は、「見直し検討会」では、ほとんどなされないまま、同検討会報告書は、短期間で作成された。
  岩尾証人が、ハンセン病対策の担当課長であった一九九五年一〇月二五日、通商産業省別館八階で、第五回らい予防法見直し検討会が行われた際、岩尾エイズ結核感染症課長は、次のような発言をしている。
 
「(昭和)二八年にらい予防法の可決成立するまでに、参議院の厚生委員会が昭和二六年に開かれまして、園長さん三人がらいに関する件で証言しております。その資料を二ページ後の三ページ目に付けておりますので、若干読ませていただきます。
  (資料九「ハンセン病に関する行政・社会動向」、三ページ「参議院厚生委員会における三園長証言」朗読)
  こういうような発言があって、法律が出来ていたという経過でございます。じっくりお考えいただけばと思います」(第五回らい予防法見直し検討会議事録・厚生省保健医療課エイズ結核感染症課、三二ページ)。

  岩尾聰一郎氏は、三園長証言があって、「らい予防法」が出来ていったという過程の、どこの、なにを「じっくりお考えいただけばと思」っているのだろうか。そういえば、被告国が、二〇〇〇年五月一六日に、岡山地裁に提出した『準備書面(五)』の一一四〜一一六ページには、次のような「奇妙な」主張がなされている。岩尾聰一郎氏も、また、このような被告国と同意見で、見直し検討会委員の人たちに「じっくりお考えいただけばと思います」と臆面もなく述べたのだろうか。

  熊本地裁を傍聴してみて感じることだが、原告側と被告国側の論争内容にすれ違いや「ズレ」のようなものを感じた。療養所には、プロミン使用以前に入所した方が約八割もいて、その人たちは入所時以来の自己の受けた過酷な人権侵害の事実を、今も片時も忘れずに生きている。原告らの弁護団がそのことを重要な人権侵害だと法廷で主張していくのは、当然だと思う。しかし他方、被告国側は、時効(除斥期間)を主張し、「らい予防法」廃止後に起こされたこの訴訟について、提訴の時から溯る二十年以降は、療養所には人権侵害はなかったと主張し、療養所の園長・副園長を国側証人に立てて、言わせている。尋問の場合、斎藤、山ノ内氏などと、被告国側は、法務省の官僚たちが主要な役割を果たしているようだ。
 
  裁判直後の裁判官を含む被告国側と原告側代理人による「進行協議」で、次回は十一月十日の午前九時半に開廷し、最初に九時三〇分から昼食をはさんで午後二時まで岩尾証人の、原告側の弁護士による反対尋問、次いで、四時まで長尾証人、六時まで今泉証人の反対尋問が行うと決まったという、原告弁護団から、熊本地裁に近い「京町会館」で待機している原告・支援者に対して、報告がなされた。その後の日程は、十二月八日に原告、被告国双方の代理人による最終意見陳述がある。東京地裁の進行を待って、来年一月十二日に結審するとのことだった。
  十一月十日、熊本地裁で岩尾聰一郎証人らに対する原告らの弁護団の反対尋問がおこなわれる。「岩尾証言」とりわけ、「らい予防法見直し検討会」の討議内容を巡って、原告らの弁護団から「反対尋問」が行われるのではないか。「岩尾証言」の虚言を衝き崩す尋問が期待される。当日もまた原告、支援者で傍聴席を埋め尽くそうではないか。           


第三節  「らい予防法」見直しの時期を考える


 一九五三年八月の「らい予防法(新法)」成立それ自体、国際的批判に背を向けたものであった。被告国が挙げている柳橋寅男、鶴崎澄則編『国際らい会議録』長擣会(一九五七年)(乙第二二号証)には、第三回国際らい会議(ストラスブルブ、一九二三年)を始め、WHOらい専門委員会報告(リオ・デ・ジャネイロ、一九五二年)、らい患者救済及び社会復帰国際らい会議(ローマ、一九五六年)など二十の国際らい会議の内容が、収録されている。
  第三回国際らい会議(ストラスブルブ、一九二三年)の決議には、「(2)らいの蔓延が甚だしくない国においては、住居における隔離はなるべく承諾の上で実行する方法をとることを推薦する」(七九ページ)と書かれている。
  らい患者救済及び社会復帰国際らい会議(ローマ、一九五六年)の「会議の決議」内容を見ると、「1.a― らいに感染した患者には、どのような、特別規則をも、設けず、結核など他の伝染病の患者と同様に、取り扱われること。従つて、すべての差別法は廃止されるべきこと」(三二九ページ)と述べられている。当然の事として「らい予防法」は、見直さなければならなかった。
  光田健輔の直弟子である塩沼英之助や桜井方策などとは違い、一九六四年七月、「瀬戸内集談会」での長島愛生園第二代園長・高島重孝(一九五七年八月〜七八年四月まで、愛生園々長在職、)の発言内容は適切であった。
 「癩は最も伝染力の弱い慢性伝染病である。また全治しうる病気である。(中略)一度発病したら終生癩患者であると云う考え方は出来ない。療養所の管理は結核のそれに準拠すべきである。癩は結核に比して感染発病率は非常に少ない」と。この見解は、長島愛生園初代園長・光田健輔の意見とは、明らかに異にしている。一九六〇年代になると、「らい予防法」を見直そうとする意見は、日本でも高まっている。
  ところが、一九九五年一二月八日の「第八回見直し検討会」(最終報告書の発表日)、国家厚生官僚の金子企画課長は、次のような「問題のすり替え」の発言をしている。つまり、国として見直すべき時期は、「らいを伝染させるおそれがある患者」なくなった時期をいうべきなのに、「障害を残すことなく完治する時期」とし、その時期を一九八一年としていることである。

○ 金子企画課長  事務局としては……それらを見ながら、ではどうなのかという評価で、個々のプロミンも勿論二十何年ごろから使われていたんでしょうが、そのプロミンの効果について、昭和二八年に法律が出来たときは大丈夫だという方もいたけれども、多くの方がこれで治るかどうかについては自信がない。だから、当時としては隔離しかなかったんだということであの法律が出来ている訳ですね。(中略) それらをトータルとして見て、日本の医学会としてこれは全く予防措置は要らないんだと考える、あるいは国としてもそれを考えるのはどの時点かというと、いろいろなことを見て、少なくとも一九八七年のWHOの勧告の時点には見直すべきではなかったと。(中略)トータルとしての医学会あるいはトータルとしての国民の状況ということの中で、国として見直すべき時期というのはこれまでの議論の中では最大公約数といいましょうか、少なくとも一九八一年ということではなかったのかなというふうに受け止めておったんですけれども、いかがなものでしょうか。

  国立療養所長島愛生園発行『長島紀要』第十三号(一九六五年三月八日)は、「光田健輔名誉園長追悼」を特集している。収録されている「光田先生を偲んで――座談会」(八一ページ)の中で、桜井方策(長島愛生園医官)と守屋睦夫(邑久光明園長)は、それぞれ、次のように云っている。(傍線は滝尾)
 
「私は少年時代から先生の御厄介になり御生涯を厄介のかけ放しの不肖の子である。(中略)先生に二回、法律を犯した事がある。一は養育院で秘かに患者の解剖をした事。二は全生でVasektomie (ワゼクトミー―滝尾) をしたことで、警察に引ぱられるかも知れんと云っておられた」(桜井方策)。

「先生は光明の大恩人で外島保養院が壊滅したあと、大阪府は同院復旧の地を求めたが反対され、光田先生の助言もあって長島の一端に決定したのである。昭和六年(一九三一年―滝尾)、先生は愛生に、私は青松と任命の年を同じくしたのも奇しき縁である。私が青松に居った頃、神経型患者を退所した所、先生から叱られたことがあった」(守屋睦夫)。
 『長島紀要』同号には、一九六四年七月一六日、長島愛生園に於いて開催された「第三三回・瀬戸内集談会」の抄録も載せている。その中で、「『らいを正しく理解する運動』について」が掲載されているので、紹介する(七四〜七五ページ)。長島愛生園名誉園長・光田健輔(一八七六年一月〜一九六四年五月)の死の直後に開催された「第三三回・瀬戸内集談会」で、光田健輔直系の医師と療養所派の医師たちの多くが発言した報告である。これらの人びとの発言が、「世界の医学的知見」とはいかに程遠いものであったかが、如実に伺われよう。なお、発言者のあとに、( )書きしている所属名は、滝尾が書き込んだものである。

「『らいを正しく理解する運動』について」
                                  長島愛生園  塩沼英之助
 私は最近こうした運動の必要性は一般大衆よりもむしろ現在らい療養所に勤務する職員自体又は患者自体であるということを強調し度い。今日述べることは我々療養所にあって当面している問題特に予防という問題について述べた。
 最近よく入園者の側から医局職員に対してもマスクをとれとか予防着をとれとかいうことを耳にする。又自動車も職員用のものに同乗させよとか、船も職員席とか患者席とかいう区別なしに一諸に乗船をさせよとかいっている、こうした療養所に於いて直面した問題について取上げこれに対する予防面からの批判を試みた。そして物件を通じての間接伝染も考慮にいるべきことを論じ従って日本に於けるらい予防法に云う消毒法の撤廃すべからざることを述べた。
 又島の療養所の患者地帯の職員家族特に子供たちの感染発病を避くるために幼稚園、小学校に通学する官舎の子供と患者との乗船は避くべきことを述べた。
 (演説の要旨は愛生園の機関誌愛生誌昭和三九年 [一九六四年―滝尾] 九月号に所載)

 


 発言 山 中 太 木 (大阪医科大学微生物学教室)
光田先生の主義を益々敷衍励行して真の実践に徹せられたいと望みます。減菌操作の本質は形式ではない。実質如何です。散髪屋でMolluscum Contagiosum が感染した実証からしても、見えない所が見えるようにするのが肝要と思います。
 
野 島 泰 治 ( 大島青松園
ご意見ごもっともだと思います。職員間にライを正しく理解する運動が必要なことも同感。しかし我々病理解剖からライの学問に入った者は、所謂新しいライ医学を、そのまゝ信ずることは出来ない。

 桜 井 方 策 ( 長島愛生園 )
近頃、無菌なる語が軽々しく言われているが我々は無菌とは云わず、菌陰性と云っている。菌陰性かどうか。私が死亡者の各臓器を組織標本として検鏡した所では約三〇%の者に菌あり。また生存している人々で丹念に皮膚病巣から菌を調べると、五〇〇人のなかから大体二五%に有菌者があった。一斉検診で多くの患者を短期間に調べた数値一六%よりは遥かに多いのは当然だ。入園者の約四分の一が有菌である以上、しかも患者の顔面四肢にわたる広い皮膚の部面から菌が出ているが故に、消毒や予防をルーズにしていゝとの論には承服出来ない。卑近の例だが私は云っている。鉄筋コンクリートのビルに火事は殆んど起らない。がしかし消防施設はシッカリとしてある。これと同様、我らの職場でも予防消毒を厳重にすべしと私は提唱する。
    
高 島 重 孝 ( 長島愛生園 )
癩は最も伝染力の弱い慢性伝染病である。また全治しうる病気である。有菌であるものは全治していないが、その菌陽性%は意外に少ない。一度発病したら終生癩患者であると云う考え方は出来ない。療養所の管理は結核のそれに準拠すべきである。癩は結核に比して感染発病率は非常に少ない。 

 光田健輔の直弟子である塩沼英之助や桜井方策などとは違い、一九六四年七月、「瀬戸内集談会」での長島愛生園第二代園長高島重孝(一九五七年八月〜七八年四月まで、愛生園々長在職、)の発言内容は適切である。
 「癩は最も伝染力の弱い慢性伝染病である。また全治しうる病気である。(中略)一度発病したら終生癩患者であると云う考え方は出来ない。療養所の管理は結核のそれに準拠すべきである。癩は結核に比して感染発病率は非常に少ない」との見解は、長島愛生園初代園長光田健輔の意見とは、明らかに異にしている。高島は自著『愛生春風花開日』北斗志塾出版部(一九七六年)に収録した「電波にのせて」のNHK対談の中でも次のように述べている。 

【その一】NHK対談『科学者、その人と言葉』(一九六八年六月、京都大学教授・東昇との対談)

「高島 ……医学的に言えば、ほんとの、人にうつる病原菌を、即ちらい菌を体の外へ出す、隔離を要する患者は二割内外しかいません。あとは菌が出ないで、後遺症で不自由だ、こういう患者が今残っております。
東  一番大きな成果の原因は、隔離したという事だと考えていいんですか。
高島 一般には現在、そういうふうに言われていますが、これを、難かしく分析しますとそれもあるけれど、衛生状況、社会状況の変遷ですね。農村がなくなり、都市化をしたというような事。それから、下水道、上水道の発達。人間の体が清潔になったこと、栄養が向上したというようなこと、これらのいろんな条件が重なって、それで、らいの伝染が阻止されたと、そういう事ではないかと思います」(三五九ページ)。

 【その二】NHK健康百話『感染のふしぎ』(一九六九年八月、瀬戸内晴美との対談)

「瀬戸内 ……徳島で育ったもんですから、女学校も徳島高女だったんですけど、あれは女学校の二年だか、三年だったかの頃に、あの、小川正子さんですか。ずっと講演しておりまして、私の女学校にも参りまして、その講演を聞いた訳なんです。    
        (中略)
 徳島の人ってのは、弘法大師の土地柄だもんですから、大変他人に優しく親切な訳なんです。お遍路さんでよく、らい患者が家族から放逐されて、みんなあの、四国へ回ったわけなんですけれども、その人達を家にかくまって、そして重病患者にご飯をあげたり、面倒みたりする事が、一つの仏教的な奉仕だと考えていたんですね。
 そういうところから、親切なのに、患者から菌を貰って、そしてそれが、その家のだれかが出たっていう、そういう経路が大変多いという事を小川さんが話した訳なんです。それで、ただ親切にしないで、らい病というものが伝染病だという事を、涙ながらに語って行かれた訳なんです。そのショックが大変強かったんですけれども……。
 高島 ま、こりゃあ伝染病だって事は間違いないんですけれども……。
 瀬戸内 え、もう、勿論。
 高島 軽い、軽いっていうか非常に伝染性の弱い伝染病なんでしてね。
 瀬戸内 軽いんですか。
 高島 弱いんですねエ、弱いのと、それから、その誰にでも罹るというんではなくて、罹り易い体質っていうんですかなあ、そんなようなものがありそうに見える伝染病なんで……」(三七四〜三七五ページ)。

 初代の光田健輔と違って、愛生園第二代の高島重孝は、一九六〇年代には「開放政策」を主張している。その点について、国立療養所長島愛生園発行『創立六十周年記念誌』(一九九一年三月)で、入園者自治会長の池内謙次郎さんが「挨拶」として、次のように述べている。

「園内外が激しく揺れたライ予防法闘争から四年後の昭和三二年(一九五七年)、第二代園長として高島先生が就任されました。高島園長は、従来の隔離政策から開放政策へと転換を図り、地域への啓蒙活動を積極的に進めるなど、ハンセン病に対する正しい理解を普及するために全精力を傾注されたのであります」(三九ページ)。
      
 一九七〇年代から本格化する大谷藤郎さんらによる「開放政策」、即ち、新しい社会状況、および、医療政策に対応した新しい「隔離政策」は、すでに、一九六〇年代に、国立療養所長島愛生園長・高島重孝によっていわれていた。
 宇佐美治さんの指導者であり、大先輩であった森田竹次(一九一〇〜七七年、一九四二年に長島愛生園に入所)は、『全患協ニュース』第一四五号(一九六〇年一月一五日)に、次のような意見「退所者対策について」と題して、一文を寄せている。

「『療養所の転換期とか、療養所の再編成』とか、この頃の病友たちの話は、しやべらせたら一日でも二日でもつゞきそうである。だが現実は、あまりにものろい足どりで、いったことの半分も前進しない。一般的にいって、社会復帰にたいする意欲がとぼしい。どころか、全くない人もある。体は健康でも精神と意識は完全な重病人である。これらの人々に意識させることが当面の急務である。
 私は、療養所に患者同志の結婚形態がつづく限り、日本のハ氏病を完全にコントロールして、治ったら出すということは出来ないと見ている。愛生園では一七三〇名のうち四百四十組、八百八十名が結婚をして、ハモニカ長屋ならぬ夫婦舎に巣ごもっている。日本の隔離政策が成功をおさめた最大の理由は、「所内結婚」を許し、ときには奨励したからだ。
 ところが、治ってかえる時代には、「いまさらいやとは」というのでお互に、「つれないこと」も出来ずに、足カセ手カセとなってしまった。このことをどうするか所内結婚の将来をどのようにするか――当局も患者の方も充分検討しなければ、いくらいい管理方針がでても、現実は不可能のように思う。
 次に患者作業についてであるが、誰だって所内に長い間生活すると呑気なくらしになれて、適当に油を売っておれば、作業賃が手に入り、不自由なしに生活できると、つい腰が上らない。
 私は社会復帰者にたいし、療養所内よりずっといい保障をしてやることだと思う。現在より悪いところには誰だって、うつらないのはあたりまえだ。もちろん、社会復帰はお客にいくことはないから、働いての上だ。
 さて最後に、療養所の病院化は賛成だが、ケース・ワーカーがいて職業の世話をするところまでいかなくてはならない。早くそうしてもらいたいものだ。それをやらずに、出ていけ出ていけでは、片手おちだと思う。(長島支部療友)」

『多磨』二〇〇〇年七月号(通卷九四二号)に、東日本訴訟原告で一九七三年〜八一年に、全患協事務局長を務めた鈴木禎一さんが、次のような文を載せている。四十五回連載記事の最終回、しかも文末に書かれた内容である。鈴木さん(原告のひとりである)の胸には、どのような思いが去来しただろうか。

「……一九七〇年代に全患協は運動の継続強化によって生活処遇面で一定の成果を得た。患者たちはよろこびの声をあげた。この当時全医労の幹部の一人が『動物園の檻の中にいる動物のよろこびにひとしい』
 という意味のことをいわれたそうである。
    人間の真の解放とは何か?
    人間の真の尊厳とは何か?
 今 深く問われている」 (三二ページ)。

 「強制隔離政策と社会復帰の困難性に関する国(行政)の責任」について、被告(国)はどのように考えているか、岡山地裁第一民事部に被告(国)が提出した『準備書面(五)』(二〇〇〇年五月一六日)の二九三〜二九七ページを、次に挙げておく。国の責任回避、無定見を如実に表わしたものと云えよう。

四 強制隔離政策が採られていなかったことについて
原告らは、抽象的な強制隔離政策自体を請求原因として主張するが、右が失当であることはこれまで述べたとおりである。この点はおくとしても、そもそも「ハンセン病患者に対し、強制隔離政策がおこなわれていた」と評価できるためには、「現実の法の運用として」、ハンセン病患者を強制的に収容、外出、退所をさせなかった事実が認められる必要がある。
 前記のとおり(新法の弾力的運用)、遅くとも提訴の二〇年以降、現実の法の運用上、収容、監禁と評価されるような行為がされたことはない。
 政策が変更されたかどうかは、その根拠となる法律が変更されるときはだれの目にも明らかになる。しかし、法律の条項が改められなくても、その解釈や、運用によって実質的に政策の内容が変更されることはある。したがって、強制隔離を根拠づける条文が廃止されていなかったことをもって、強制隔離政策が現実にも採られていたと評価することはできないのである。
 もちろん、正式に法が廃止されていない以上、法律の効力は失われないが、これは、実質的に法律の規定が生きていてこれに基づく政策が維持されていることを直ちに意味するものではない。強制隔離政策が採られていない以上、これによって、ハンセン病の(元)患者集団に対し、隔離されるべき者との社会的烙印がおされたという事実もないから、これに基づく損害もない。
五 社会復帰の困難性について
 原告らは、療養所に入所することによって、家族や社会とのきずなを断ち切ることを余儀なくされ、また、患者作業で後遺傷害が生じたため、あるいは、病気に対する差別偏見が根強く存在する状況の下では、社会に復帰することが困難であった旨主張する。
 まず、前術(「前述」―滝尾)したように、療養所に入所したこと自体が国の違法行為に基づくものとはいえず、家族や社会とのつながりが切れたことによって事実上社会復帰が困難になったとしても、これについて国が責任を負うことはない。また、原告らは強制的な患者作業によって後遺症を負い、これによって、社会復帰が困難になった旨抽象的には主張するものの、原告ら個々人について具体的な主張を一切しない。また、差別偏見は前述のとうり、法が存在する以前から社会に存在するものであり、これが残存していたことが国の違法行為の結果であるとの根拠はない。さらに、原告らのうちには、外貌の変形も含めて高度の後遺障害により物理的、精神的に社会での生活を望まない者も多く存在するのであって(乙第三五号証)、差別偏見のみによって社会復帰が困難であるとまではいえない。これは、これまで多くの社会復帰者が出ていることからも裏付けられる」。

 厚生省や法務省のお役人が、差別の歴史も実態も肌で感じないまま、机上に資料を並べて書く「作文」とは、こんなものかな、と思わずため息がでる。福山市立人権平和資料館が来年一月二十四日から三月十五日まで行なう「長島愛生園展」には、全面的に協力しようと思う。『冊子』も作るという。「光田健輔とその直弟子たち――長島愛生園に収容された人びとの生活と『医療』――」を主題にして、具体的に長島愛生園の人たちの生活と「医療」を通して、実状を明らかにしろうと考えている。
  「水俣病訴訟」や「薬害エイズ訴訟」は、行政も関与していたが、主として民間企業(「チッソ」や「ミドリ十字」など)への闘いであった。また、国際的に非難の挙がったという背景があった。国民の関心も高かった。ハンセン病国賠訴訟は、直接、国家を相手とした「民事裁判」である。国民の関心も今ひとつである。原告ら弁護団が、よほどの「具体的内容」をもった、歴史と現実をふまえた「資料」を法廷に出さなければ、なかなか原告らの「全面勝訴」には、つながらないのではないように思う。
  島田 等さんから、私に手渡された「抜刷り」がある。亡くなる一ヶ月余り前に、長島愛生園の病室でいただいたものである。「なされなければならない作業の始まり―藤野豊『日本フャシズムと医療』を読んで―」(『部落問題研究』第一三三輯、九五年七月)である。この書評の最後の部分に、次のような一節がある。

 「ここにも歴史的な過去をきちんと清算せずに凌ごうとする、例の国の内外に知れわたった日本の政治の対処がある。対外的な場合とちがって、ことはそれで通せるかも知れないが、はたしてそうか。
 日本のハンセン病政策の世界的にも類のない「独自」な歩き方をさせた根底には、日本の近代化が負ったマイナスの課題と重なっているはずである。安易で無批判な肯定や、仕方がなかったという留保は、過ちを温存させ、繰り返させる養土となるだろう」(一〇〇ページ)。

  熊本地裁、東京地裁ともに、近く「結審」だという。「過去を直視できないものに真の将来はない」との言葉を、島田さんは、その文末に引用している。熊本地裁、東京地裁での裁判が、ハンセン病の歴史を「直視の作業」であったか、どうか、それはいずれ「歴史」が裁くことになるだろう。
  「らい予防法」廃止から一年五ヶ月後、一九九八年七月三一日に菊池恵楓園、星塚敬愛園に在園する十三名の人たちが、熊本地裁に「らい予防法」違憲国家賠償請求を提訴した。その後、東京、岡山両地裁を併せると、六百名近い原告が「国の謝罪」を求めて、各地裁に提訴していることの意味を、私たちは、深く考えることが大切だと考える。

(二〇〇〇年一〇月二二日 記す。一一月六日に 加筆)