未來社刊「朝鮮ハンセン病史/日本植民地下の小鹿島」あとがき (2001.05.10) 


           あ と が き   ――「国民的歴史学運動」から教訓のなかで ――
 
  一九五〇年代前半を私は、大学の史学科に籍を置き、当時「国民的歴史学運動」から多くのことを学んできた。そのころ私は、学校のすぐ裏手に細長くひろがる「太陽のない街」といわれてきた東京のひ か わ し た氷川下を歩き回り、また、そこで知り合った駒込にあった厚生省統計調査局に働く労働者と毎週木曜日に歴史の学習会をもち、また「母の歴史」づくりに情熱をかけていた。そのときの込めた思いを、いまやっと、一冊の本として書き上げることが出来た。その間、座右の書として読みつづけてきたは、い し も だ しょう石母田正著『歴史と民族の発見』(一九五二年)、『続 歴史と民族の発見』(一九五三年)の二冊の本であり、傍線と書き込みだらけで、ぼろぼろになってしまっている。けれど、五十年近く、私をいつも見守り、励ましつづけてきてくれている。
  「国民的歴史学運動」といっても、関東と関西は取り組んだ活動内容は、違っていたし、同じ関東でも、各大学の歴史サークルで異なった活動をしていた。同じ大学でも、史学科の学生であることは共通でも、氷川下セツルに運動の場をおく者と、厚生省歴研(木曜会)に運動の場をもつ者とは、取り組んだ内容は異なり、したがって違った経験をしていた。それに、山村(恩方村)や漁村(江田島のM地域)の調査、九州水害支援運動、帰郷運動、平和運動などが入り組んできて、各自がおもいおもいの活動をしていたので、どこまでが「国民的歴史学運動」なのか、いまでも分からないのが、実状ではないかと思う。
  しかし、「国民的歴史学運動」いう名で活動した共通している意識はあった。歴史学徒としておこなう歴史研究とは、
@ 国民が求めている問題、国民の役立つ内容をテーマに研究しようということ、
A 石川たくぼく啄木の『はてしなき議論の後』の詩の一節にある「V NAROD!(人民のなかへ!)」が、共通した理念(合い言葉)であったように思う。
  したがって、人民(働く人たち)の中にわけ入り、生活をともにし、人民から学び、歴史を創造することが、大切とされた。「人民のなかへ」ということを志向すれば、「歴史」は研究室で書くものではなく、足で書くもの、体で感じとるものとされ、そういう活動が要請された。どんな歴史研究者となるか、どんな歴史教育者をめざすべきかも考えた。そのことは、将来、歴史研究、歴史教育を職業とする歴史を学ぶ私たちにとって貴重な経験であった。しかし、同時にそのは、幾多の欠陥を「国民的歴史学運動」はもっていたこととも、また事実である。
  「国民的歴史学運動」と出会って、それなりに影響を受けながら半世紀がたった。その間、石母田正著『歴史の遺産』大月新書(一九五五年)が出版され(「あ い づ会津紀行」も収録されている)、中塚明「『 村の歴史・工場の歴史』の反省」(『講座 歴史T、国民と歴史』大月書店、一九五六年)が書かれる。一九六〇年には、石母田正「『国民のための歴史学』おぼえがき」を竹村民郎ほか共編『現代史の方法(上)』三一新書で書き、一九六八年には、遠山茂樹著『戦後の歴史学と歴史意識』岩波書店が出版される。そして、卓上には、最近、出版されたばかりの中塚明著『歴史家の仕事』高文研(二〇〇〇年七月)がある。同書には「『国民的歴史学運動』の経験から」の一節があり、この著者の中塚さんも、私と同じく二十代の「国民的歴史学運動」の経験を引きずりながら、半世紀のあいだ、歴史研究をしてこられたのだという思いと、なつかしさを感じながら、同書を紐どいていった。以下、中塚明著『歴史家の仕事』の中から、共感できる箇所を中心に、私の体験とだぶらせながら、なぜ、『日本植民地下のソ ロ ク ト小鹿島  朝鮮ハンセン病史』を今回、書いたのか、次の四点に絞って述べてみたい。
 
 第一に、中塚さんは「知識人の役割をきわめて狭く、実用主義的に民衆への『奉仕』ととらえ、知識人の活動する文化領域は、(中略)その優劣は真理獲得を目標とする学問研究の場で論じられるということをよく自覚していなかったのです」(二八ページ)といい、「すでに過ぎ去った問題を研究する歴史学では、どういうテーマを研究対象にするのかということからはじまって、またその研究対象を史料によって分析する基礎的な作業の段階でも、批判的な精神なくしてはなにごとも進まないのです」(一二ページ)とも述べている。石母田正は「国民的歴史学運動」の苦渋に満ちた反省として、「『国民のための歴史学』おぼえがき」の中で、次のように書いている。
  科学者はその研究の成果から得た真実を、多数の見解と異なるからといって、それをまげたり、それに従属させることはできない。そのことを明確にすることが、科学者にとって最小限の学問の自立の条件である。もしそれをなし得ないならば、かれは党員ではあり得ても科学者ではあり得ず、科学者の団体またはその運動のなかで他の科学者と共同の仕事をおこなう資格がなく、人民からも軽べつされるだろう」( 『現代史の方法(上)』一一八〜一一九ページ)。  
  大学の卒業後、私は、部落問題を研究テーマとし、最近は「『らい予防法』国家賠償請求事件の考察」をテーマと選んで研究してきた。そして感じることは、運動と研究とのかかわりの有様である。それは、半世紀前に研究者が通った「苦渋」したものと同質のもので、繰返しと思えた。

   第二に、「歴史家としての創造的な研究で私が社会的な責任のある仕事をなにがしかでもできたとすれば、それは日本近代史の研究者でありながら、ただ日本の側だけの「単眼」ではなく、たえず朝鮮・中国の眼からも日本の近代史を考察するという「複眼」の立場で、研究することができた結果であると考えています。狭いナショナルヒストリーを克服することができたからです」(四九ページ)と中塚さんはいっている。
  「民族の自由を守れ…」と歌い、「民族の敵  国を売る犬どもを…」と叫んだ私の青春時代ではあるが、民族とか、国とかいうのは、「アメリカ占領軍当局」から「日本を解放すること」(一九五一年八月「日本共産党の当面の要求」)であって、近代天皇制により日本は、数年前まで他民族を非人間的、暴力的な植民地支配していたという反省は、私が参加した「国民的歴史学運動」には、極めて希薄であったように思う。少なくとも当時の私には、意識していなかった。
  それから半世紀が経った。一九九六年三月、菅厚生大臣は、質問に立った竹内黎一の質問に対して次のように謝罪したという。藤野豊さんは、そのことを月刊『多麿』(二〇〇〇年五月号)のなかで、次のように書いている。
  一九九六(平成八)年三月二五日、衆議院厚生委員会で「らい予防法の廃止に関する法律案」の説明に立った厚生大臣菅直人は隔離政策のみならず、「かつて感染防止の観点から優生手術を受けた患者の方々が多大なる身体的・精神的苦痛を受けたこと」についても謝罪した。隔離したうえで断種するという政策全体に対し謝罪したわけである」(一〇ページ)。
  しかし、謝罪したのは、日本国内に住む人びとだけで、植民地支配の下にあって日本のハンセン病政策によって、強制隔離のみならず、強制され「断種」を受けた小鹿島の数多くの朝鮮人元患者に対して、日本政府が、公的に謝罪をしただろうか。また、日本の人びとの中から、それらの朝鮮人に対して、国は謝罪と正当な賠償を認めよとの支援運動が起きているのだろうか。日本植民地下小鹿島の入所者の強制隔離と「断種」の実状は、私も資料の提供と取材の協力をして、『毎日新聞』(一九九七年一一月七日付)の一面に大きく報道され、また、同年一二月二二日夜の東京放送(TBS)は、特別番組で小鹿島の入所者の強制隔離と「断種」の実状を放映しているので、マスコミを通して日本の国内でも、多くの人びとに知られいるはずである。
  さらに、現在おこなわれている「『らい予防法』国賠請求」の公判で、「国のハンセン病政策は医学的に誤った非人道的なもの」(東京地裁の訴状で、政府広報番組等に請求した「謝罪文」)との原告の訴えは、植民地、占領地においておこなった日本政府による行為を「複眼」の立場で究明するならば、より具体的、本質的にその犯罪的行為が究明できる。それが何故できないのかという中には、日本人のもつ「自国民中心主義」、「自民族中心主義」がひそんでいるように、思われて仕方がない。

  第三に中塚さんは、「あるできごとやある人物の活動、ある村や町のようすなどを、それぞれの風景や自然条件とかかわりあわせて考察することが必要です。その場所に立てばいままで疑問に思っていたことが、はっとわかることもあります。こんな体験は歴史を学んだ人なら、だれにでもあるのではないでしょうか。歴史は足で書くとか、足で歴史を学ぶといわれるゆえんでもあります」(一三二ページ)と述べている。
  最近、四十五年ぶりに最初に就職したときの高校の同期会に「恩師」として、呼ばれて出席した。就職当時、始めての日本史の授業をもち、学生気分にぬけない新米教師の私は、「国民的歴史学運動」から学んだ「歴史は足で書け、足で学べ!」を授業で実践した。二時間つづきの授業を組み、昼休みの時間ももらって地域見学(フィールド・ワーク)をよくおこなった。幸い学校の近くには、古墳、安芸国分寺跡、山城、山陽街道と恰好な史跡があった。四十五年前の教え子たちは、「教室の授業はみな忘れてしまったけれど、先生と行った古墳や国分寺跡の学習は、いまでも忘れられません。楽しかったなア…」と言ってくれた。
  地域を歩くことは、歴史教育だけでなく、歴史研究にも重要なことである。
  何度か目の小鹿島行きのことである。日本の植民地時代、周防園長の第一期拡張工事の時(一九三五年一〇月工事完了)につくられた煉瓦つくりの監禁所の一室に私は入ってみた。天井に近いところにつくられた鉄格子のある小窓が、わずかに外の明りがさすだけの薄暗いコンクリートづくりの部屋だった。十数分だけの時間だったけれど、外界から遮断された空間は、孤独と絶望が込み上げてくることを感じた。壁に釘のようなもので朝鮮語で彫り込まれ「らくがき」の数々。監禁所の隣には解剖室と屍体安置室があり、屍体安置室内には、木製の屍体安置台が置かれていた。病院の説明では、この台は出監した患者は断種される際の「断種台」だということだった。出監した患者の断種手術は医師、看護婦の手ではなく、おそらく看護手によっておこなわれたのだろう。
  こうしたことなどは、研究室に積まれた資料からは、なかなか読みとれない。その地域で患者の証言や実物にふれて、そこから、歴史のイメージをどう受けて「歴史」を叙述するかが、われわれに課せられているのではなかろうかと思う。

  第四の問題として、中塚さんは次のように述べている。「この『国民的歴史学運動』に参加したそれぞれの人たちが、その後の研究・教育活動にさまざまな影響を受け、その志をそれぞれにひきついできたことも忘れはならないでしょう。しかし、「国民的歴史学運動」は全体として挫折しました。(中略)失敗した根本的な原因には、歴史学それ自体の学問としての独自性、その社会的責任についての浅薄な理解があったと私は思っています」(一九ページ)。
  一九九八年一一月、私は、「四十五年目に会った教育大歴研の仲間たち」という題の短いエッセイを書いたが、その冒頭は、次のような文で始まっている。
  一九九八年九月六日、東京教育大歴研のOBの仲間たち八名が、福岡・博多に集まった。
  北から数えて、青山夫妻(山形)、萩原(群馬)、平岩(東京)、山田(福岡)、阿南(大分)、水野(熊本)、田港(沖縄)そして、滝尾(広島)である。八名とも、一九五〇〜五二年度に教育大に入学し、教育大歴研という「サークル」に入り、いわば「同じ釜の飯」を食った仲である。この八名に加えて、神尾(千葉)が加われば「全員集合」ということになるのだが ……。もっとも、同じ仲間に、佐野雄志と黒羽清隆の二人もいたのだが、この二人は故人となってしまった。多くの仕事を残したまま、若くして亡くなり残念でならない。
             (中略)
  卒業後の職は、私立・公立・国立の違い、中学・高校・大学の違いはあったが、全員学校の教員をしていた。死んでしまった佐野が、新潮社やヤマハの日本楽器に勤めていた以外はみな教職に就いていた。歴史教育者協議会(歴教協)の活動、教員組合運動、平和運動、米軍軍事基地撤去運動、地域の文化・市民運動、地域の歴史研究……とそれぞれ活動の違いはあったが、みんな「初心」を変えずもちつづけて生きてきていた。そういった意味で、青山が言っている「我如古(われいにしえのごとし)」との感が、私もしてならなかった。
  京都で部落解放運動をしているある女性の方からいただいた手紙のなかに、「青年期や思春期とは、……年齢の幅ではなく、どれほどの悲しみや苦しみに出会い、忘れず、身をのり出して見聞きし、怒り、語れるか。エネルギーの量のように思えます」という内容のことが書かれてあった。それを髣髴とされる教育大歴研OBの仲間たちだった。顔・かたちは、年老いて変わっていたけれど、しゃべる口調は四十五年前と変わっていなかった。(『東アジアにおける「人権の歴史」資料シリーズ、第五輯』広島青丘文庫、一九九九年一月、三一ページ)。
  厚生省歴研(木曜会)のサークル活動は、その後も数年間つづき、「母の歴史」絵巻もほうぼうで展示されている。あのとき、年若かったカヨちゃん、ドンちゃん、フミちゃん……たちは、いまどうしているか、その消息はわからない。「国民的歴史学運動」を総括する場合、研究者・学生たちの側からだけでなく、ともに共同で学習した労働者や農漁民たちが、この運動から、その後の生き方の中で、どのような影響を受けたかといった面からみていくことも、必要がありはしないか。
  ともあれ、「国民的歴史学運動」から学び、反省しながら五十年経ち、いま、自著の『日本植民地下の小鹿島  朝鮮ハンセン病史』を出そうとしている。この本に対し、多くの方々からのご批判、ご意見をお聞きしたいと願っている。

  本書は、韓国での小鹿島病院や各地の「定着村」の人たち、また、瀬戸内にある長島愛生園に入所している人たちの生きかたなどを見聞きすることを通して、書くことができた。そういった意味で、韓国の沈田  、金新芽・鄭鳳熙ご夫妻、C老人などの方たちに、まず謝辞を述べたい。また、長島愛生園の宇佐美 治、金泰九、中原 誠、双見美智子の方がたにも「御指導、本当にありがとうございました」と紙面をお借りして御礼をいいたいと思う。
  新しくこの度書いた内容も稿はあるが、大部分は『愛生』(一九九六年四月号〜九八年三月号)および『未来』(一九九八年五月号〜二〇〇〇年二月号)の両誌に三十四回にわたり連載された記事の中から選んで、本書に収録したものである。「愛生」誌編集部と「未来」誌編集室の方々に、心から感謝を申しあげる。
  ここ八年間、日本ハンセン病政策下の人びとの生活などをみていくなかで、多くの関係者や機関の方々のご指導や援助があった。次にそれらの人たちのお名前や機関名をあげ、謝辞に代えたい。(敬称は、略させていただいます)。