大阪府疾病対策課

 「大阪府ハンセン病実態調査報告書」寄贈について(お礼と同書に対する意見・質問)

 

           2004年11月17日 

               人権図書館・広島青丘文庫 主宰 滝尾 英二

 

 見出しの「大阪府ハンセン病実態調査報告書」(以下「府報告書」という)を二冊、寄贈いただき感謝しています。雑誌原稿の締め切りに追われて、お礼とご返事が遅れましたことを始めにお詫びいたします。まだ、十分に読んでおりませんが、目を通した感想、意見などを申上げておきます。詳しくはまたの機会に述べたいと思います。

 

(1)       E・H.カー著、清水幾太郎訳『歴史とは何か』(岩波新書)青版447のなかで、カーは、「歴史は、現在と過去との対話である。」という言葉を同書の中で幾度も繰り返しています。「府報告書」の冒頭の「ごあいさつ」を太田房江大阪府知事がお書きになっており、書かれた期日が1004年=今年の9月となっています。また、太田知事の「ごあいさつ」の文中には、「平成14年(=2002年=滝尾)8月「大阪府ハンセン病実態調査報告書作成委員会」を設置し、これまで13回にわたる委員会の中で‥‥‥この報告書をとりまとめた、と書かれております。その間、「ごあいさつ」(太田知事)で述べられたように、「2003年11月に熊本県内で療養所入所者の宿泊拒否事件」がおきたことは事実です。                       

ところで、この間、大阪府行政ときわめて関係の深い事件が起きています。

一つは、「新聞紙上」でも報道され、また、『ヒューマンライツ』、『週間金曜日』、『月刊・自然と人間』に「鳥取事件」のことが記事として掲載され、また私も『飛礫(季刊)』や『世界』の紙上で、このことを報告いたしました。

ここで書かれているように、2003年7月に「鳥取事件」は、ハンセン病非入所者の母親をもつ遺族であるTさんによって提議された問題です。

 

Tさんの母親も大阪の転居し、Tさん自身も青少年期から大阪在住して働き、その間、Tさんの母親は、大阪大学医学部微生物研究所、大阪大学医学部附属病院に鳥取県から住所を移して、通院しております。Tさんの母親は1994年に母親の死後、Tさんは「真相究明」のため、たびたび大阪府を訪ねていますが、適切な対応が大阪府担当行政からなされておりません。Tさんは、ハンセン病行政の対応などへの不満から、鳥取県ハンセン病問題担当職員に傷を負わせるという事件が、2003年7月におきました。今年7月26日、広島高裁松江支部の控訴審判決で、懲役三年が言い渡されています。私は、このことを昨年10月末に知ったのですが、この「鳥取事件」に関して、大阪府を始め大阪の施設・機関のおかした責任は大きいと考えています。

 

(2)これも「新聞記事」や『週間朝日』などの週刊誌で、すでにご存知だとは思いますが、「韓国全羅南道にある小鹿島更生園」へ日本植民地時代に強制隔離収容された110名の「病歴者」が、厚生労働大臣を被告として、今年の8月23日に東京地裁に「ハンセン病補償金請求却下」を不服として行政訴訟を起こしました。 

小鹿島更生園では、日本政府がハンセン病患者を隔離収容し、隔離したハンセン病患者に対して、強制労働・断種・監禁と国内以上の残忍で非道なことを日本統治時代に行ないました。     そのことは、「府報告書」の「<参考>ハンセン病問題について学ぶために(ハンセン病関連文献)」として、」131ページに滝尾英二著『朝鮮ハンセン病史―日本植民地下の小鹿島』未来社(2001年)があげられているので、「府報告書」作成者は、よくご存知のはずだと思います。

大阪は、在日朝鮮人がどの都道府県よりもその居住者の多い府県であり、戦前・戦後を通じて、「無らい県(府)運動」が激しかったところです。

 

しかし、最初に申上げましたように、「歴史は、現在と過去との対話である」という視点に立てば、「鳥取事件」のTさんの母親やTさんを含む家族の方々の差別・迫害の実態が大阪府行政と大阪府在所の機関・団体の責任がまったくなされておりません。また、1938年に大阪から強制収容され、小鹿島に隔離収容されたハンセン病患者19名(=戦後発行された『大阪府警察史』には22名)ということに対する大阪府の責任が書かれておりません。

 

そういう前提に立って以下、何点かの意見と質問をいたします。

 

第一、この「府報告書」は一体、だれに読んでもらうために、作成されたものなのか、一読して感じました。A4判で、「白表紙」ならぬ青表紙の「冊子」は、よほどハンセン病問題に関心のない人でないと、手にとって読もうとはしないのではないでしょうか。

「ごあいさつ」で太田知事は、「‥‥一人でも多くの府民のみなさんにこの報告書をご覧頂き」と書かれ、「家庭や学校、地域で何をしなければいけないのかを真摯に考えていくことが重要であると考えております。」と述べられています。

巻末の「大阪府ハンセン病実態調査報告書作成委員会」委員の名簿をみると、「ジャーナリスト 瓜谷修治さんや、解放出版社の原田恵子さん」も委員のようですが、この「府報告書」が太田知事のいうように「‥‥一人でも多くの府民のみなさんにこの報告書をご覧頂き」というような冊子でないことは、おふたりのこれまでのご経験から、お分かりのはずでしょう。

また、「大阪府行政に対する答申」でもなさそうです。「大阪府ハンセン病実態調査報告書作成委員会」委員の名簿には、18名中半数にあたる9名の大阪府・市の行政職員が名を連ねています。さらに、「学術研究物」とも言えないと思います。研究仮説の設定、研究資料の扱い(「資料批判を含めて」、記述の仕方等々をみると、学術研究物とは言えないと思えるからです。

 

ともあれ、「府報告書」がどなたを対象として記述され、編集されて「冊子」として出来たかが、まったくといっていいのか、不明の「報告書」だと思います。(電話で大阪府健康福祉部地域保健室へ聞くと、8000部印刷し、すでに関係機関・団体などに配っているそうです。)

 

第二、大阪府のハンセン病施策や方針の過ちが極めて不十分な点です。はじめに「鳥取事件」と「小鹿島に日本植民地期に強制収用された患者」で、現在小鹿島の病歴者110名が、厚生労働大臣を被告として、東京地裁で闘っています。これは、「府報告書」の48ページには、『皇太后の大阪行啓と「浮浪癩患者」』のところで書かれた1938年(滝尾3月=)、大阪府がまとめた「皇太后陛下大阪府行啓奉迎記録」が紹介されていますが、時の第26代大阪府知事・池田清が序文を書いています。この池田清なる人物はどういう人物であるか。鳥取県以上に「無らい県運動」に熱心であったのは、大阪府でした。「方面委員制度」を植民地まで広めたのも大阪府行政福祉関係者でした。(滝尾英二編・解説『植民地下 朝鮮におけるハンセン病資料集成』全8巻、不二出版、参照)。そして、つぎのことをご認識下さい。   

 

 1931年6月26日に、朝鮮総督府の警務局長に着任し、「朝鮮癩予防協会」の副会長である池田清が(1935年のソロクト第一期拡張工事式典にも列席しています)が、1936年に、北海道長官となり、1937年(昭和12年)6月、第26代大阪府知事となっています。
 「東京地裁」の「甲11号証」の「1938年6月28日」の大阪のハンセン病患者19名を小鹿島(おそらく、光州刑務所小鹿島支部に収監されたようです〜)を移送した時の大阪府知事が、警務局長の池田清であり、また、皇太后が大阪府『行啓』した1936年6月8〜14日に、徘徊ハンセン病患者を大和川尻の地に輸送し、隔離したのも着任早々の池田清知事の行為に違いありません。
 立田清辰鳥取県知事が、無らい県運動を強力にしますが、立田知事も、朝鮮総督府の警務局警務課長から、鳥取県知事に就任しました。(拙著『小鹿島更生園強制収容患者の被害事実とその責任所在』の122p参照。)

宮古南静園長の家坂幸三郎という光田健輔の絶対隔離論には正反対の立場をとり、園の入所者から慈父のように慕われた園長でした。ところが、一九三八年七月一八日に宮古南静園長になった多田景義は、小鹿島更生園医務課長から園長に赴任しています。多田景義園長が、収容患者の人権を無視する数々の悪行をした張本人です。宮古南静園に監禁室をつくり、所内に鉄条網をめぐらし、キリスト教は日本の国体に合わない宗教であると圧力をかけ、特に、1945年の敗戦前後の許せない行為を(宮古南静園を事実上解散し、多数の入所者たちを死においやった)した人物です。(拙著『小鹿島更生園強制収容患者の被害事実とその責任所在』の82〜85p参照。)

 

第三、「府報告書」には、優生思想という誤った考えを府民に植え付けたこと、また「優生保護法」に対する大阪府行政の責任が、全くといってよいほど、書かれていないことです。

ハンセン病患者の「優生手術」の問題に関しては、私は最近、『飛礫』44号(秋季号)の100〜118ページに「ハンセン病問題検証会議への意見書―植民地下朝鮮でのハンセン病政策の被害と責任所在を明らかにせよ」という論考の中で、「優生保護法」のハンセン病項目と、国及び都道府県行政の差別行政施策について書いております。参考までに、『飛礫』を発行している「つぶて書房」の電話とFAX番号をお知らせしておきます。

 

住所=郵便番号 652−0881 神戸市兵庫区松原通1−1−40

    「つぶて書房 編集部」  電話とFAX番号=078−672−5601

 

です。この問題の行政責任を回避することは、読者に対して「ハンセン病を正しく理解し認識する」ことができなくすることになると思います。

 

第四、村田正太(1884〜1974)の歴史的評価も一面的です。1932年12月発行の『日本MTL』第二十二号に掲載された「癩病伝説は全然学理上の根拠を持つて居ない」という巻頭文で、外島保養院院長の村田正太は、青木大勇や志賀潔らの「素質遺伝論」を攻撃し、ハンセン病患者隔離論を展開しています。(滝尾英二編・解説『植民地下 朝鮮におけるハンセン病資料集成』6巻、不二出版、資料28、88〜89ページ参照)。

また、1941年11月14〜15日、大阪帝国大学微生物研究所において、第15回日本癩学会が開催された際、小笠原登を糾弾した時、座長を務めた村田は小笠原に向かい、小笠原が「ハンセン病は感染することは認め、誰でも感染・発病はしない」という意見を、座長の権限で一方的に論争を打ち切り、光田健輔たち療養所派の「伝染説」に加担した事実は、この「府報告書」には書かれておりません。

 

まだ、いろいろと申上げたいのですが、今回は以上のことで、とどめて後日、なにかの方法で提議いたします。よろしくお願いします。