「意見書」〜小鹿島更生園提訴に際して〜『被害事実とその責任所在』             

                 人権図書館・広島青丘文庫  滝尾 英二

                        (二〇〇四年二月一二〜四月二八日)


第T章 小鹿島更生園入所者の被害事実(その一)

【要旨】「日本に一番欠けているのは何か。(中略)日本人は中国や朝鮮の人たちがどれほど深い傷を負って、時間が何年たとうと、むしろそれは強まりこそすれ、薄まることがないような傷を負っていることについての認識や理解が決定的に不足している」と、弁護士の南典男さんはいっている(『法律時報』二〇〇四年一月号、特集「戦後補償問題の現状と展望」一九ページ)。そのことを最も端的に示しているのが、植民地朝鮮におけるハンセン病患者の被害事実だと考える。日本政府関係者は、どれほど植民地朝鮮におけるハンセン病患者の被害事実を認識しているだろうか。

『意見書』は、小鹿島更生園入所者の被害事実とその責任所在を具体的に述べていく。

第一節 国内と異なる「療養所患者懲罰検束規程」と植民地での「監禁装置」

 

「朝鮮総督府癩療養所患者懲罰検束規程」は、朝鮮総督府第六十二号「朝鮮癩予防令施行規則」(朝鮮総督 宇垣一成)第九条に基づき小鹿島更生園長(朝鮮総督府癩療養所長)が定めて、執行したものである。朝鮮総督府第六十二号「朝鮮癩予防令施行規則」および、この「予防令施行規則」を公布・制定さした制令第四号「朝鮮癩予防令」(朝鮮総督 宇垣一成)の内容については、日本国内に公布・施行された法律第五十八号「癩予防」および「同施行規則」の内容と比較検討し、第V章に記述している。

最初に、国内に認可された「国立癩療養所患者懲罰検束規定」(昭和六年一月三〇日認可)と「朝鮮総督府癩療養所患者懲罰検束規程」と比較してみたい。国内に認可された「国立癩療養所患者懲罰検束規定」とは異なり、「朝鮮総督府癩療養所患者懲罰検束規程」は、更なる過酷な条項が数多く書かれていることが注目されよう。その箇所を傍線で示せば、次の通りである。

「朝鮮総督府癩療養所患者懲罰検束規程」の方の過酷さが分かろう。(「国立癩療養所患者懲罰検束規定」(昭和六年一月三〇日認可)は、全国ハンセン病療養所入所者協議会編『復権への日月』光陽出版社、二〇〇一年の三八一頁の所収資料によった。)

 

(一)朝鮮総督府第六十二号「朝鮮癩予防令施行規則」(朝鮮総督 宇垣一成)第八条及び第九条(原文はカタカナで記述である。以下同様)を考えていこう

 

「第八条 予防令第六条の規定に依る懲戒又は検束は左の各号に依る

   一 譴責

   二 三十日以内の謹慎

   三 七日以内常食量二分の一迄の減食

   四 三十日以内の監禁

   前項第三号の処分は第二号又は第四号の処分と併科することを得

   第一項第四号の監禁に付ては情状に依り朝鮮総督の認可を受け其の期間を六十日迄延長することを得

第九条 前条の懲戒又は検束に関し必要なる事項は朝鮮総督の承認を受け療養所長之を定むべし」

(『朝鮮総督府官報』第二千四百七十九号、昭和十年四月二十日付けより)。

(二)「朝鮮総督府癩療養所患者懲罰検束規程」の作成と内容<抄>

(小鹿島更生園発行『昭和九年年報』六六〜六八頁より。各年度の『年報』にも同様な記載がある。滝尾英二編・解説『植民地下朝鮮におけるハンセン病資料集成』不二出版、二〇〇一年一一月〜〇三年七月に発行。以下、滝尾英二編『〜資料集成』資料三、二〇二〜二〇四頁に収録。以下同様に略記する)。

第一条                    朝鮮総督府癩療養所長の入所患者に対する懲罰又は検束は左の各号に依る

 一 譴責 叱責を加へ誠意改俊を誓はしむ

 二 謹慎 三十日以内指定の室に静居せしめ一般患者との交通を禁ず

 三 減食 七日以内主食及副食物に付常食量二分の一迄を減給す

 四 監禁 三十日以内監禁室に拘置す

 五 謹慎及減食 第二号及第三号を併科す

 六 減食及監禁 第三号及第四号を併科す

 監禁は特に必要と認むるときは前項第四条の規定に拘らす其の其間を六十日迄延長することを

 得  

第二条 入所患者左の各号の一に該当するときは譴責又は謹慎に処す

 一 所内に植栽せる草木を傷害したるとき

 二 根株、枯損木、落枝若は落葉を採取し又は下草を刈取り若は生枝を伐採したるとき

 三 環穽其の他危険の虞ある装置を為したるとき

 四 家屋其の他の建造物又は備品を毀損し若は汚?したるとき

 五 貸与の衣類其の他の物品を毀損、投棄若は隠匿し又は所外へ搬出したるとき

 六 人を狂惑せしむへき流言浮説又は虚言を為したるとき

 七 喧嘩口論を為したるとき

 八 その他所内の静謐を紊したるとき

第三条 入所患者左の各号の一に該当するときは謹慎若は減食に処し又は之を併科す

 一 濫りに所外に出て又は所定の地域に立入りたるとき

 二 風紀を紊し又は猥褻の行為を為し若は媒合して之を為さしめたるとき

 三 濫りに火気を用ひ其の他火気の取締を怠りたるとき

 四 職員の指揮命令に服従せさるとき

 五 職員に対し虚偽の申告を為したるとき

 六 金銭又は物品を以て博戯又は賭事を為したるとき

 七 懲戒又は検束の執行を妨害したるとき

第四条 入所患者左の各号の一に該当するときは減食若は監禁に処し又は之を併科す

 一 逃走し又は逃走せんとしたるとき

 二 濫りに他人の物を使用し又は共用品を占有したるとき

 三 多衆聚合して陳情請願を為さんとしたるとき

 四 職員其の他の者に対し暴行又は脅迫を加へんとしたるとき

 五 其の他所内の安寧秩序を害し又は害せんとしたるとき

第五条 一個の行為にして前三条中二以上の規定に該当するときは情状に依り其の何れか一の規定に依る処分を為すことを得

第六条 懲戒又は検束に処せられたる者其の執行を終り又は執行の免除ありたる後再ひ第二条又は第三条の規定に該当する行為を為したるときは第二条又は第三条の規定に拘らす減食若は監禁に処し又は之を併科することを得(以下・略) 」

崔晶基は、国立全南大学校大学院社会学科の碩士論文『日帝下朝鮮のらい(癩)患者統制に対する一研究―癩患者管理組織を中心に―』(一九九四年二月)のなかで、つぎのように述べている。(この論文は、『●日帝下朝鮮の「癩」に関する資料集<第一輯>』として、人権図書館・広島青丘文庫から一九九五年一一月に翻訳され、出版されている。)

「このような統制が最も典型的にあらわれるところが小鹿島更生園である。更生園自体が社会の秩序維持に邪魔になるハンセン病患者たちを集め、かれらが島の外に出られないよう管理するのに、その目的があったために、抑圧的な統制が強行されるしかなかった。もちろん、ハンセン病の治療は行なわれはしたが、それよりも、このような社会的統制がはるかに重要な任務であった。更生園の収容人員を六〇〇〇余名に拡大した自体が、このような認識をよくあらわしている。このために更生園では、非常に具体的で厳格な遵守事項を患者たちに強要した。これら遵守事項の中で直接的な統制を意味する項目だけを選んでみれば、次の通りである」(崔晶基前掲書、七〇頁)。

崔晶基さんは、このように述べて、「小鹿島更生園収容患者遵守事項」をあげている。これは「小鹿島更生園(一九四〇年)『一九三九年年報』(九八〜一〇〇頁参照)」と註記されていて、「収容患者遵守事項」の二七項目中のうち一〇項目をあげている。それは、「八、収容患者心得」からの引用であるが、滝尾も崔晶基論文に記載以外も含めて「収容患者心得」の中から一五項目を次にあげておく。

一、       癩は慢性疾患なるを以て継続治療を受くべし患者は治療上は勿論衛生其他日常動作等に就ては職員の指示を絶対に遵守すへし

三、患者は静粛温和を旨とし粗暴喧騒の行為あるへからす

五、患者は許可なく一定区域外に出つることを得す

九、舎内其の他に備付けたる器物は常に鄭重に取扱ひ之か保存に注意し万一毀損したる場合は舎長を経て其の事由を職員に申出つへし

一一、園内の物品又は生産品(海苔野菜等)は理由の如何に拘らす圏外に搬出する事を禁す

一四、男患者にして女病舎に、女患者にして男病舎に出入せんとするときは予め職員に申出て許可を受くへし

一七、重症患者以外の患者は左記日課によるへし

      日 課 規 定 省略)

一八、賭博又は之に類似せる不正行為を厳禁す

二〇、一般患者は作業助手舎長の指揮に従ふへし

二一、作業助手は朝夕点呼時に各病舎を巡視し舎長立会の上人員点呼を行ひ病症其の他異状ある場合は直に職員に報告すへし

二三、患者請願せんとする場合は舎長より作業助手を経由し職員に申出つへし

二四、患者は自己の趣意に従ひ神仏を礼拝し信仰の力に依り精神的慰安を求むるに努むへし

二五、患者は宗派に依り党を作り又は不穏思想に捉はれるか如きことあるへからす

二六、軽症患者は治病上有益なる運動其の他の作業に努むへし

二七、患者死亡したる場合は必要に応し学術研究の為屍体の解剖を行ふことあるへし

右心得に違反したる者に対しては審査の上相当処分す

小鹿島更生園『昭和十四年年報』九八〜一〇〇頁より。滝尾英二編『〜資料集成』第2巻、資料二、二二二〜三頁に収録)。

以上のような内容の「収容患者心得」は、小鹿島更生園の『昭和九年年報』以降、毎『〜年度年報』に掲載されており、収容患者の管理統制の基本として小鹿島更生園当局は実施してきた。神社・寺院信仰の強制とキリスト教を「不穏思想」としての弾圧、収容患者への強制作業・労働、死亡者の屍体の解剖、逃走の禁止と朝夕点呼点検などの実施である。――シム・ジョンファン著『あゝ、七〇年―輝かしき悲しみの小鹿島』(一九九三年)のつぎの該当の箇所を引用しながら、下記のように書いているのは、卓見といえよう。

「このような統制を『効果的にするために、更生園は一九三六年から各村落(生里)に、担当責任の健康な職員というものを配置した。各部落別に看護主任のもとに、看護手一名、看護婦二名、農事監督一名、備品監督ならびに書記一名、助手一名筒組まれたいわゆる<上官団>を置き、その傘下に再び、部落代表と代表の下に備品助手一名、作業助手三名乃至四名、班長二名を置いた。配置された責任主任は、大体前職が刑事等の恩給の付いた警察官か、憲兵の経歴を持った日本人たちであり、任命された患者助務員は日本語に堪能な、いわゆる日本人職員と意思疎通が出来る朝鮮人であった』(『あゝ、七〇年―輝かしき悲しみの小鹿島』、四八頁)と」。 崔晶基著『日帝下朝鮮のらい(癩)患者統制に対する一研究―癩患者管理組織を中心に―』<一九九四年二月>七一頁より

「権力による統制という面からみれば、これらハンセン病療養所はすべて、それ自体が監禁装置である。権力は社会秩序に反する存在に思われる『癩患者』を社会から隔離させ、癩療養所という一つの監禁装置に監禁した。この過程でハンセン病患者たちの意思は余り重要なものとなりえず、それよりも権力の判断が重要である。ましてこのような過程は、知識により、『癩病は治らない疾病で、伝染されるものであるため隔離が必須的だ』という認識により正当性が保障された。このような正当性は権力を行使する側はもちろん、患者自らも当然のものとし諦念してしまった。

 このように、ハンセン病療養所自体が監禁装置であるにもかかわらず、その中にはまた、ほかの監禁装置と処罰が存在した。療養所には、それなりの秩序維持のためにつくられた規定があり、それを違反した患者には、それによる強制が負荷されたのである。

 小鹿島更生園内における園長の懲罰検束権により、裁判の手続きなしに、患者たちにいろんな刑罰を負荷した。園内には(法手続きを経て収容されたハンセン病患者を収容した施設であったが、周防園長が推薦した更生園職員が刑務所職員に任命された=滝尾)刑務所があり、それと同一な構造をもった監禁室もつくられていた。収容された患者が規定を守らなかった場合、管理職員たちは自分たちの判断により、監禁室以下の処罰をした。

 しかし、実際に行なわれた処罰は、この程度の水準をはるかに越えたものであった。日常生活ですら、看護手等管理職員たちは、患者を殴打したり、折檻を加えるのが日常茶番であった。また、監禁室は全国各地で強制的に捕まえてきた患者たちを強圧的に管理する重要な手段であった。日帝末期には、不当な抑圧と処遇に抗議した患者たちが、この監禁室で数多く死んでゆき、たとえ死ななくても障害者になり、出てくる場合が多かった。まして小鹿島更生園は、ここに収監されて出てくる患者たちに、なんの権限もなしに、断種手術(精管手術)を行なった。一九三四年以降、行なわれた療養所の拡張工事は、患者たちには、またほかの統制を意味したのだった。患者たちは、すべて半強制的に工事現場に労役として出なければならなかったし、作業中には看護手たちで構成された作業監督に殴られながら作業しなくてはならなかった。作業に応じなければ、また殴られ監禁室に拘禁された。」

(崔晶基著全南大学校大学院社会学科の碩士論文、崔晶基著『日帝下朝鮮のらい(癩)患者統制に対する一研究―癩患者管理組織を中心に―』<一九九四年二月> 七二〜七三頁より。

この崔晶基さんの碩士論文は、滝尾らが『日帝下朝鮮の「癩」に関する資料集−第1輯−』として翻訳し、人権図書館・広島青丘文庫より一九九五年一一月に出版した。

 

第二節 戦前には国内にもなかった刑務所がある「小鹿島刑務所への状況」

「昭和七年以来朝鮮癩予防協会の設立と共に小鹿島更生園の一大拡張工事施行せらるゝや同協会に於ては之を機として小鹿島内に新に刑務所を新築して政府に寄付し以て他に率先して之が実現を期すことに決し工費三万七千五百円を投じ昭和十年四月起工同年九月煉瓦造庁舎其の他建坪三百九十九坪の工事を終り「光州刑務所小鹿島支所」として同年九月十五日開庁、十一月九日より全鮮刑務所に分在せる癩患受刑者の収監を開始したるが現在監房数十二室(男子監房雑居七、独居三、女子監房雑居一、独居一)収容定員八十名(男子七十名、女子十名)にして開庁以来昭和十五年十二末日に至る迄の収監者は別表の通り二百十九名其の内刑期を了へて出所せる者百八十八名現在三十一名在監せり、之等在監者の犯罪動機は概ね叙上の通にして一面大に同情すべき点もあり釈放者は総て小鹿島更生園に収容しつゝある」。(小鹿島更生園『昭和十五年年報』六〇頁より。滝尾英二編『〜資料集成』第2巻、三〇二頁に収録)。

刑務支所の新築  朝鮮に於ては癩患者の犯罪行為尠からず中には体刑を科せらるるの已むなき者亦多数あり之等は夫々各刑務所に収容相当予防方法を講ぜられ受刑中なりと雖も設備其の他の関係い於て病毒伝播防止上十全ならざるに付特殊の刑務所を設置するの必要あるは政府に於ても夙に之を認められたるに拘らず財政其の他の関係上実現する能はざるを以て本会に於ては療養上にも便利良き小鹿島に刑務支所及職員官舎等の建物を新築して之を政府に寄付し以て全鮮各刑務所に分在の癩患受刑者を集合するの計画を樹て昭和十年度に於て新規に之が新築費三万七千五百円を計上し昭和十年四月工事に着手し事務室、監房、調室、診療室、消毒室、炊事室、浴室、倉庫、職員官舎其の他付属建物大部分之を煉瓦造瓦葺とし延三百九十九坪余の新築を同年九月完成したり因に政府に於ては既に昭和十年七月同地に光州刑務所小鹿島支所を設置せられたり」。

(『朝鮮癩予防協会事業概要』朝鮮癩予防協会一九三五年一〇月発行、一七〜一八頁より。滝尾英二編『〜資料集成』第3巻、資料二四、二七八〜二七九頁に収録)。 

 

小鹿島刑務所の実情(周防正季園長説明より)

「内地と事情が違ふから参考にならぬかも知れぬが最初、小鹿島を拡張するといふ時に無手でやるのは困ると申し、刑務所を作つて貰つたのである。建設費は予防協会で出し、経常費は普通の刑務所と異ならない。更生園と刑務所は全然別箇のものであるが、実際は看護長一名、看護手十三名は自分が推薦したもので、実権は自分の下にある。刑務所の出現による患者の影響といふものはさ程なかつた。最初から悪い者はこゝに入るのだと頭から云つてやつた。九月二日に巡視傷害事件が起つた時も即に告発した。事の小さい内に処理するといふのが私の方針で五部落に看護主任を置いているが主なる仕事は査察である」。(「所長会議々事録」、昭和十一年十月一二日より。滝尾英二編『〜資料集成』第6巻、資料六九、二六九頁に収録)。

刑務所を通しての遷善――治刑及救癩を目的とする特別の刑務所が、園内に設立されてゐる。(中略)この刑務所の歴史であるが、昭和七年この方、朝鮮癩予防協会が設立されると共に、刑務所を新設し、事務室、監房、調室、診察室、防毒室、炊事場、浴室、倉庫、職員官舎、附属建物等、悉く煉瓦造瓦葺として、政府に寄付したのである。そして、始めは、光州刑務所小鹿島支所として、開庁した。それまでは、全鮮の刑務所中に分在してをつたその癩患受刑者を収監したのである。

 煉瓦造の庁舎の他に、三百九十九坪の建坪で、現在の監房数は、十二室、男子は、監房雑居七名であり、独居三名であり、女子は、監房雑居一名、独居一名である。

 昭和十年に開庁されてから、十五年九月一日までの収監者数は、二百三十八名で、内、刑期を了へて出所したものは、二百四名だから、現在は三十四名である。監守は、男子十名、女子一名である。二千坪の耕転地で働いたり、草履や、網を、編んだり作業をさせて、無聊を慰めてゐるのである。

 こゝでは、免囚保護事業の方面から観ても、他には類例がなく、完全に、その目的を達成してゐるのである。即ち、釈放されたものは、総て小鹿島更生園に収容されつゝあるのである。中には、相当不良の徒輩もあるけれども、他の普通患者と区別することなく、常に、強力な指導を加へて、其の改過遷善を促し、療養に努めつゝあるため、孰れも、過去の総てを悔悟し、安全せる園内生活に親しみ、嬉々として、一般患者と共に、感謝の日を送りつゝあるのである。」(西川善方著「朝鮮小鹿島更生園を通して観たる朝鮮の救癩事業」二五〜二六頁より。滝尾英二編『〜資料集成』第6巻、資料八二の三三三〜三三四頁に収録)。

  

【註記】日本統治期に建設された小鹿島刑務所の大きな浴室棟が一棟、現在でも残っている。

第U章 小鹿島更生園入所者の被害事実(その二)

第一節 強制労働のかずかず

ハンセン病訴訟西日本訴訟弁護団が、二〇〇〇年一二月八日に熊本地裁に提出した『「らい予防法」違憲国家賠償請求事件・原告最終準備書面(事実編)』の三五五〜六頁によると、「被告国は、強制労働について、 ・保健保持及び精神慰安と明確に位置づけていた療養所もあるなど患者作業が全般的に強制労働的な要素を持っていたとは言えない、 ・懲戒処分を背景にした労働の強制は事実上ありえなかった、(中略)C人手不足の療養所において、同病者が相互扶助の精神の下、患者ができる範囲で作業をするのは当時の情勢下ではやむを得ないことであつた。Dすることのない入所者あるいは若い活力を持て余す軽傷(症?=滝尾)者などはこれを歓迎し、作業によって作業賃の受給が受けられるのは入所者にとってメリットであった(被告準備書面・・二二三頁)などと主張している。」と述べられている。

この被告国と同じ強制労働についての趣旨・内容の見解が、当時の小鹿島更生園庶務課長・吉崎達美著として『朝鮮の救癩事業と小鹿島更生園』(財団法人・友朋協会、一九六七年一〇月発行)に収録の「小鹿島更生園の建設及び運営について」のなかで、述べられている。

「軽症患者には毎日作業をやらせていました。屋外の作業は、彼等の心気を転換して病を忘れしめ、徒食のために陥り易い、いろいろな弊害を避け、体位の向上にも役立つので、治療の効果もあがるわけであります。更生園の諸施設建築期間中には、特に盛に稼動せしめましたが、其の後も一周道路の建設、荷揚岸壁の構築なども、主として彼等の作業によったものであります。土木建設の工事一段落後の作業は、木炭及び煉瓦の製造が主なるものでありますが、精米、精麦、叺の製造もあり、又戦時中は当局の要請によつて、島内に繁茂する松樹から松脂の採取も行なわせました。これらの作業に従い、その軽重に応じ一定の作業手当(賃銀)が支給されたので、患者は皆喜んで作業に従い、汗を流して働く快味を楽んでいたようであります」(三八頁)

 患者労働・作業が、吉崎元庶務課長が戦後語るようなものであったかどうか、それは、具体的にはどのようなものでかについて、残されている諸資料や現在、小鹿島病院入所の「証言」によって、その実態を明らかにしたい。

(なお、患者作業については、第W章・第七節・第一項の【その三】皇太后『歌碑』の建立のところでも触れているので、参考にしていただきたい)。

作 業   患者の多くは手足の潰瘍を有するも(中略)軽症者に対しては体力相当なる作業を課して心機の転換を図り体力の増進と保健衛生の向上を期しつゝあり、而して之等作業者に対しては其の作業種類難易等に基き作業奨励金(日額二銭乃至五銭)を給与し以て之が奨励に努め居れるが、其の為園内病舎地区に於ける各種土工作業は勿論各支給品の修理加工等の外患者の主食品白米(籾より精米す)又は調味料たる味噌、醤油の醸造を始め副食物中野菜類の栽培に至る迄総て自給自足の域に達し経費上資する処実に大なるもあり、尚昭和五年十一月十日畏くも、皇太后陛下の御下賜金ありたるを記念し永久に感謝の誠意を表せしむる為、毎月十日を謝恩更生日として全患者に奉仕作業を行はしむると共に之に対し園にては一日二銭の賃金を支出し之を別途に蓄積して有意義なる施設に充てしむることゝし居れるが、之に依りて鐘楼、納骨堂、灯台等を築設し夫々寄付したるが更に引続き実現しつゝあり。

尚巻頭記述の通り今次事変の進展に伴ひ各方面に深刻なる影響を及ぼし物資の供給愈々困難となり当園内需給物資の入手に就ても大なる支障を来すに至りしを以て患者の作業に依り園内に於て生産し得る物資は自給自足を計り更に進んで園外の需要にも応ずることゝし木炭の製造、肥料用叺の製織、煉瓦の製造、粗製松脂の採取、兎毛皮の製出等を為し居れるが、何れも地方よりの需要旺にして相当多量の供給を行ひつゝあり。」小鹿島更生園発行『昭和十五年年報』三二頁より。滝尾英二編『〜資料集成』第2巻、二七四頁に収録)。 

  

(一)土木事業

 

朝鮮総督府警務部衛生課が一九三四年四月に書いた「朝鮮癩予防協会」という小資料によると、小鹿島癩療養所新築事業は、当初から低廉な患者労働賃金に依拠して計画されていた。総督府警務部衛生課衛生課長は、西亀三圭(後に第五代小鹿島更生園長、戦後はいちはやく帰国。一九四九年九月、厚生技官として栗生楽泉園勤務、一九五〇年六月から五二年五月まで栗生楽泉園医務課長、同年五月駿河へ配置換え。栗生楽泉園患者自治会編『風雪の紋−栗生楽泉園患者五〇年史−』、四三〇頁及び五三三頁参照)であった。

「収容設備新営の方針

癩患者三千人増加収容に要する療養所の新営設備全部の建造を請負工事とするときは莫大なる経費を要し予定額にては事業の遂行到底困難なるを以て本館其の他特殊建造物を除くの外病舎、土工及道路の開設等は協会の直営とし在院患者の症状、体力及技能の程度に依り可及的其の労力に俟つ方針にして在来官立療養所に収容患者中労働に堪へ得る者四百人あるが彼等は何れも楽園建設に感激し昨年九月四百人収容病舎に充てたる買収民家は殆ど患者に於て修理し尚島内道路開設敷地地均其の他工事に付ても競つて労力奉仕を為せる状況なるが之等に対しては夫々若干の作業手当を給与しつつあり而して建築様式に関しては建築費の低廉にして併も療養上の利便及経常費を節減し得且将来多額の修繕費を要せざる堅固耐久力あるものを理想とし調査研究の結果幸い島内に煉瓦材料に適する土質あるを発見し且患者の労力奉仕等に依れば極めて低廉に煉瓦を製造し得る見込み付きたるを以て大部分煉瓦築造の方針を樹て昭和八年九月島内に煉瓦工場建設に着手し昭和九年一月竣工したるを以て少数の熟練職工を傭入し其の指導の下に患者を使用し又一般人夫をも傭入し煉瓦製産に努力活動中なり」。(朝鮮総督府警務部衛生課編著「朝鮮癩予防協会」一九三四年四月より滝尾英二編『〜資料集成』第3巻、資料二〇、一九八頁に収録)。

「新営工事現場患者の活動――官舎地帯の土木工事は普通人夫を使用したるも病舎地帯は主として患者の労力に俟つ方針を採りたる為軽症病舎、各種附属建物、公会堂、刑務支所、運動場等の敷地工事の全部及道路竝に埋立工事の大部分は患者の手に依り行はれたるのみならず病舎地帯に於ける煉瓦、木材、栗石、砂利、砂等建築材料の陸揚又は運搬、基礎「コンクリート」工事、各病室の温突貼り等も亦大部分患者の就労に依りて成り又煉瓦製造にも出役したるが何れも其の病状、体力、技能の程度に応じ競って労力奉仕を為せる状況にして其の出役総延人員は九万八千余人の多数に上り工事の進捗と工費の軽減に多大なる功績を挙げたり而して之等就労者に対しては僅少なる作業手当を給したり」(発行所・朝鮮癩予防協会、西亀三圭・編輯発行『朝鮮癩予防協会事業概要』一九三五年一〇月、二〇頁より。滝尾英二編『〜資料集成』第3巻二八一頁、資料二四に収録)。

「桟橋の築設(朝鮮癩予防協会理事小鹿島更生園長・周防正季)――小鹿島の沿岸は周囲殆んど遠浅なる為船舶の入港極めて不便にして漁船程度のものを除く外は遠く沖合に停泊する状態にして建築工事に要する各種資材を始め患者の食料薪炭其の他購入物資の陸揚に付従来頗る不便を感ずるのみならず多大の労力と時間を要し居りしを以て完全なる桟橋を築造すべく之が場所に関し詳細調査を行ひたる結果幸に島内病舎地帯東生里及南生里の中間に最も好適の岩角を発見したるに付労働に堪へ得る患者を総動員し職員指導の下に昭和十四年六月十二日起工したるが本事業は桟橋並之に附随せる護岸兼道路を含み其の延長三百三十余間にして就中桟橋の部位は海中に突出し潮流激しく殊に暴風の際に於ける怒涛実に激甚なるを以て之の部分の工費は特に堅牢を要するに付大なる石材を使用し水中に没する部分は特に巨大なるもの(一個の重量一噸乃至三噸)を用ひ面積約五百坪高さ平均十五尺の荷揚場は全く土砂を使用せず岩石のみを以てしたる為之が石材総量は実に千七百立坪の多きに達し其の運搬を始め築造に至る迄何等機械類を用ひず而も無経験なる患者の手に成りしものにして着工以来昼夜兼行不眠不休の努力を続け僅に百二十日の短時間を以て完成したるが若し本工事を民間請負に附せんか巨額の経費と長月日を要するは瞭かなる所にして該工事は当園建築事業開始以来特筆すべき大工事にして殊に患者の労力奉仕に依り完成したる点に於て最も意義深きものあり、工事内容及従事員等左の如し

  工事区間延長       三三三間

  護岸高さ最高        二九尺

  同   最低         六尺

  同   平均        一五尺

  竣工平面々積      一五〇〇坪

  患者出役延人員    九六五八三人  」 

小鹿島更生園発行『昭和十四年年報』一一〜一二より。滝尾英二編『〜資料集成』第2巻、資料二、一一九〜一二〇に収録)。

  

患者の土木工事労働について、大韓癩管理協会編・発行『韓国癩病史』(一九八八年)には、つぎのような記述がされている。

「一九三九年の一一月二五日に竣工された第三次拡張作業を最後に更生園当局が必要な施設工事は一段落ついたが、職員たちによって、また他の大工事が計画された。中央里と東生里の間の田畑を埋立てて公園をつくろうという巨大なものであった。

 例年にない酷寒にもかかわらず、園当局は日本・京都の園芸師を呼んで一二月一日、この工事に着手した。今まで継続してやってきた労役のため、患者たち大部分は病勢が悪化して手足は傷だらけであったが、全然園は気にしなかった。完全に奴隷状態になった患者たちは、抗議する気力を失って動物のようにひきまわされ、山をけずって低いところを埋め立て、十字峰まで行って木や石などを運んだ。荷物を運んでいきながら倒れると鞭でたたき、起きて歩いて又、倒れるともっと苛酷に鞭をあてて死ぬ者も出てきた。たえられなくて自殺する者がいるかと思えば、脱出して溺死する事件も起きた。

 解凍期になれば、各種庭の木を移して植えるために埋立工事に拍車をかけた一九四〇年一月中旬、ひどく寒いある日であった。佐藤(主席看護長=滝尾)は、いつもより早く職場へ出たが出勤されなければならない患者たちが、きまった時間になっても大部分あらわれなかった。

 この日に限って各部落では大掃除があったからであったが、佐藤は是非をとわないで、おそく出た患者たちを地べたにすわらせて、無差別に木刀でなぐった。

 半殺しにしても気がすまなかったのか、夕方まで正座させておいて、全身に雪をかぶり最後には膝かがみが開かなくて、同僚たちに背負われて宿舎に帰る人もいた。

 十字峰で発掘した大きな庭園石は、園内でも指折りの担ぎや四〇名が狩り出されて、危険な傾斜にそって運搬してくるときもあった。この時も、後ろからついてくる佐藤の許可なくしては、休むことができなかった。

 多くの犠牲者を出しながらも工事はすすみ、(中略)美しい七万坪の公園は、このように患者たちの血と汗、恨と涙を埋めて一九四〇年四月に一段落し、完成した。」(一〇八〜一〇九頁)

 【注記】大韓癩管理協会編・発行『韓国癩病史』(一九八八年)は、一九九六年に人権図書館・広島青丘文庫から第3章と第4章のみ翻訳されて、発刊されている。)

(二)煉瓦の製造

「昭和八年以来六ヶ年に亘る当園大拡張に際し建築物は総て煉瓦造となしたる為莫大なる煉瓦を要せり然るに近隣に其の生産地無く之を遠隔の地の需めんが多数の日子と多額の輸送費を要し、一方建築工事は患者増員収容の関係上急速なる進捗を必要としたるを以て園内に工場を設置し煉瓦の自給自足を計ることゝなり土質調査の結果豊富なる原料土あるを発見したるを以て技術者を聘し焼窯を築設し昭和八年十二月より之が製造を開始せり、之れ仰々園内に於ける煉瓦製造の濫觴とす。

爾来昭和十四年末に至る満六ヶ年間に於て建築したる患者六千名の収容病舎を((はじ)(め))事務、治療両本館、各種の倉庫、職員三百名の官舎其の他総ゆる建築物は全部園内生産の煉瓦を以てせり。

而して此の間に於て労力の不足其の他諸種の原因に依り軽症患者を就労せしめつゝありし所患者は遂に之が製造方法を会得し完全なる製品を出すに至りしを以て拡張工事後半は技術職員指導の下に殆んど患者の製作に係りしものなり。

以上の如くにして島内殆んど全地域に亘る莫大なる建築物の完成を見るに至りしが此の園内生産の煉瓦は南鮮地方各地より頻繁なる需要あり、殊に近時々局の影響に依る諸物資欠乏の深刻化に伴ひ需要特に激増し現在年産百四十万個の製造能力を以てするも到底供給困難の状態に在り。」小鹿島更生園発行『昭和十五年年報』一〇頁より。滝尾英二編『〜資料集成』第2巻、資料二、二五二頁に収録)。 

「煉瓦製造――(昭和)十八年度百万枚製造、十九年百二十万枚製造内五十万枚は非常時局用として供出、他は地方公共事業用に販売予定」(小鹿島更生園長 西亀三圭「小鹿島更生園近況」、『愛生』一九四三年四月号より。滝尾英二編『〜資料集成』第6巻、資料一〇五、四二二頁に収録)。 

日本統治時代に小鹿島更正園の煉瓦製造作のために粘土・煉瓦運びや煉瓦製造の体験を小鹿島病院入所者は多く「証言」してくれた。Tさん(七七歳・女性)は、次のように話してくれた。Tさんの「証言」は小鹿島病院において、二〇〇二年三月及び二〇〇三年一〇月に聞いたものである。

「解放一年前の暮らしは、日本人院長のもとで、あまりに苦しい毎日だった。

明け方四時には必ず起きなければならなかったが、なかなか眼を覚ますことができなかった。だからと言って意識がないわけではなかったが、ただあまりに疲労し身体が重く、瞼をうごかすことすら嫌になっていた。しかし怠けたり身体が痛いといえば、容赦なく棍棒の洗礼を受けるだけだった。前日の夕方に、翌日の早朝に運ぶレンガを一人あたり三千ないし四千枚ずつ割り当てられる。次の日、東に陽が登ると私たちは急いで起き、レンガを頭にのせ埠頭まで行って船内に運ぶ仕事をしたりした。

全部はこび終えるのが午前一〇か一一時頃になる。家に帰るとあまりにお腹か空き足も痛かったが食べるものもなく、ご飯一握りと、水一杯に醤油を入れて飲むと、すきっ腹は少し癒されるが、骨が裂けるような痛みを感じた。

また窯に焼くための生レンガを運ぶため出かけなければならず、家に戻るのは午後四時を超えた。熱さと重労働でふらふらの身体を引きずって帰り夕食を済ませると、今度はそのままレンガを造る土を運ぶために、また働かなければならない。

夜になって帰宅し門前に立つと、片方の足がすでに眠りの中に入ったように瞼が重くなり、頭がもうろうとしてくる。食べる物もなく、水一杯を飲んで寝ようとするとき、九時になると必ず彼らはやってくる。点呼をとるためだ。」(「かつて歩んだ悲しみと痛みの裏街道」三頁より。滝尾英二編『〜資料集成』第8巻、資料二〇、二六九頁に収録)。

「午前中は煉瓦を作るための土を工場に運ばされ、土を煉瓦の形にし、それを工場に持っていって焼きあげるという作業をさせられました。午後は焼きあがった煉瓦を船着き場まで運びました。全く休憩を与えてもらえず、とても辛かったです。

監視の目も厳しくて、日が暮れる時刻に班の人数をチェックされました。当時は六〇〇〇人の入院者(入所者)がいて、一部屋に一二人で生活していました。強制作業の時は、二〇人で形成される一グループに煉瓦三〇〇〇個というようにノルマが割り当てられました。その中に、足などが不自由で働けない人がいても特別な考慮はされませんでした。煉瓦を一日に三〇〇〇〜四〇〇〇個を作ろうとしたら、夜明けから夜中一〇時まで働かざるを得ませんでした。朝起きたらご飯を食べ、一日中ずっと運搬作業の繰り返しです。仕事が終わって一眠りしたら、すぐに朝が来てしまいました。春から秋までこの煉瓦つくりが休む暇なく強制されました。冬は煉瓦を作らないかわりに、米をいれる袋(かます)づくりに明け暮れました。このかますは、島内で私たちが利用するものではなく、戦争の物資として、すべて島外に運び出されました。

私は、病気の後遺症で手が不自由でしたが、足は丈夫だったため、作業の内容について全く考慮されることはありませんでした。それどころか、煉瓦やかますづくりのせいで、手の障害いっそうひどくなってしまいました。同じように、日帝時代の作業で、障害がひどくなった人たちはたくさんいます。」

ハンセン病小鹿島更正園補償請求弁護団ホーム・ページ「ソロクトからのこえ」二〇〇四年二月一二日更新より。HP担当 弁護士 上田序子)。

(三)かます(叺)製造

「従来収容患者の作業に対しては之が奨励の意味に於て僅少乍ら作業賃を給与し患者は之を蓄積して小使銭に充当しつゝあり而して之が給与は作業を対照とするものなるを以て作業賃の給与は主として軽症可働患者に偏在し居りたる傾きあり一部不自由者に対しては養兎を奨励して之が欠陥を補ひつゝあるも尚普遍的ならざる嫌ありて統制上不尠苦慮し居りたる処近時、時局の影響に伴ひ叺の需要激増したるを機とし之が製織作業を主として不自由患者をして当らしめ以て如上作業賃金関係の欠陥を補足すると共に、一面に於ては当局の奨励生産品充足の一端たらしむべく計画し全羅南道当局とも打合の結果、時局柄最も好適の目論見なりとて賛意を得たるを以て昭和十六年中に差当り肥料用叺三十万枚を製造すべく曩に技術者を聘し在園者に対する指導を終りたるが之を患者間に組織しある愛国班に割当て主として外部作業に当り得ざる不自由者及女患者をして之に従事せしめ、其の他の者は外部作業の余暇に助勢せしむることゝし以て作業収入を普遍的ならしむべく既に製織機五百台の準備を終り又材料たる藁の入手も大体順調に進捗したるを以て昭和十六年二月より本格的製造に着手し前述目標数量の製織に向つて努力中に在り。」(小鹿島更生園発行『昭和十五年年報』九〜一〇頁より。滝尾英二編『〜資料集成』第2巻、二五一〜二五二頁に収録)。

叺の生産――肥料用其の他包装用として十万枚を目標として、三月十五日より生産着手約五十日にて完了の見込(当地方需要量の半量)」(小鹿島更生園長 西亀三圭「小鹿島更生園近況」、『愛生』一九四三年四月号より。滝尾英二編『〜資料集成』第6巻、資料一〇五、四二二頁に収録)。 

日本統治時代に小鹿島更正園で叺の生産作業をさせられた体験をもつ小鹿島病院入所者は、つぎのようになしてくれた。「証言」してのは、Mさん(八三歳)で、小鹿島で二〇〇三年八月八日に聞いたものである。

Mさん(八三歳の男性)の証言――ソロクトではカマス(わらむしろを二つ折りにして作った袋)を作る作業をさせられました。材料を手でもまなければならなかったのですが、この作業がとても辛いものでした。そしてこれを編んで縫わなければなりません。私はまだ手が良かったのでいいけれど、手が悪い人にはもっと辛かったと思います。作業の辛さに耐えかねて海に飛び込んで自殺した人もたくさんいました。作業にはカマス何枚といったノルマがあって、決められた数を時間内に仕上げなければなりませんでした。夜の七時頃まで働いて、点呼のあとに就寝しました。」(ハンセン病小鹿島更正園補償請求弁護団ホーム・ページ「ソロクトからのこえ」二〇〇四年二月一二日更新より。HP担当 弁護士 上田序子)。

 

【註】 叺の価格は大正年間には一枚十銭位で、ほぼ白米一升の値段に等しかった。全朝鮮における改良叺の生産高は、大正二年五七三、〇〇〇枚、大正一二年二一、〇三四、〇〇〇枚、昭和八年五五、九五九、〇〇〇枚、昭和一四年一〇七、〇〇〇、〇〇〇枚というように、飛躍的な増加を示している。そして、すでに昭和の初年には、穀物用叺の生産は飽和状態となり、肥料用、塩用、大豆撒粕用、石炭用、雑用など色々の用途に拡大せられた。(友邦シリーズ・第十八号、坂本迪蔵著『朝鮮縄叺発展史談』一九七三年十二月発行、理事・石塚峻「序文」六頁より)。

(四)製炭事業

「本園に於ては毎年相当多量の木炭を購入しつゝあるも近時之が入手頗る困難となりしを以て癩予防協会の事業として収容患者の作業に依りて木炭の自給自足を計り尚園外よりの需要にも応ずることゝし過般来全羅南道山林課より派遣せられし技術員の指導に依り焼竈六基を築造し附近島嶼地帯山林より入手したる炭材を以て昭和十五年十一月九日より試験的に製炭を開始したる処其の成績極めて良好にして園外よりの需要亦盛なるに鑑み更に焼竈十二基を増築したるが尚設備を拡張し将来三十基迄築設すべく努力中にして之に依り年産三万俵の生産を行ひ其の大部分を地方に供給すべく計画中なり。」(小鹿島更生園発行『昭和十五年年報』より。滝尾英二編『〜資料集成』第2巻、二五一頁、資料三に収録)。

「木炭製造――主として自家用、数量未定」(小鹿島更生園長 西亀三圭「小鹿島更生園近況」、『愛生』一九四三年四月号九頁より。滝尾英二編『〜資料集成』第6巻、四二二頁、資料一〇五に収録)。 

(五)松脂の採取

「松脂は軍需其の他の資材として相当用途多く殊に今次事変以来其の需要は特に著しきものありて之が採取に関しては国策的に奨励せられ居る処なるが、当園病舎地帯には採取に適する樹齢の松樹繁茂せる広範囲の山林あるを以て昭和十四年以来患者慰安経費の一端に資せしむるべく之が採取に当らしめつゝありて、年々約六〇〇〇瓩の粗製松脂を生産し之を全羅南道山林会を経て需要会社に供給し居りて今後も継続実施の予定なり」小鹿島更生園発行『昭和十五年年報』一〇頁より。滝尾英二編『〜資料集成』第2巻、二五二頁に収録)。

「(昭和)十八年度約二百缶採取、軍用に供出」(小鹿島更生園長 西亀三圭「小鹿島更生園近況」、『愛生』一九四三年四月号より。滝尾英二編『〜資料集成』第6巻、資料一〇五、四二二頁に収録)。 

 

(六)兎毛皮の生産

「当園収容患者が食用竝に日常慰安の為従来飼育し来れる家兎は数千頭を算し之が屠殺に際し毛皮は全く顧る所無く脱毛の上、皮肉共に食用に供し居りしが事変以来兎毛皮は軍需品として相当重要なる地位を占め多量の需要あるに鑑み屠殺の都度完全に剥皮せしめ規格に適応せる製法に依り、消毒保存し年々約一五〇〇枚を当局に供出しつゝあり。」(小鹿島更生園発行『昭和十五年年報』一〇頁より。滝尾英二編『〜資料集成』第2巻、二五二頁に収録)。

「養 兎――飼育数五千頭以上なるも内三千頭分毛皮は軍需に供出、肉は患者食用」(小鹿島更生園長 西亀三圭「小鹿島更生園近況」、『愛生』一九四三年四月号より。滝尾英二編『〜資料集成』第6巻、資料一〇五、四二二頁に収録)。 

(七)荷物の運送

「午後四時少し前であった。

『籾船が帰って来るから。』との知らせがあった。僕らは事務本館に出かけ、再び横山さん(庶務課長=滝尾)と東生里桟橋に急行した。

 海岸には何百名といふ、籾を待つ人々、ブゥーブゥーと汽笛を鳴らしながら、六千叺の籾船が帰って来るのであつた。(中略)船はいよいよ桟橋に着いた。船から総指揮官の高橋保導課長が、意気揚々と上つて来られた。僕は先づその高橋さんへ

「御苦労さまです。」と挨拶した。

 聞けば昨日の午後六時向ふに着いて、潮の関係で八時まで待ち、荷運びを十一時までに終つたさうである。向ふは大変な干潟で、一里余りを患者はその六千叺の籾を背負つて運ぶ。さうして天幕宿泊についたのが真夜中の十二時半。朝はまた六時から船へ運びこむといふ――それは全く軍隊と同じ生活状態であるといふ。

 船の叺(かます)が、一人々々の背にしよはれて運び揚げられ、精米所に運搬される。何百人といふ癩者の勤労の列、それはちつとも癩などゝ考へられない壮者の列である。それがずつと海岸へつゞく。凄まじい壮観である。誰一人愚図々々してゐない。きびきびしい活動である。高橋さんはその活動の前で語るのであつた。

「患者の治療にとつて、精神の転換といふことが重要です。勤労による救ひ――そこにこの更生園の特色があります。病気といふことを忘れさせることです。今年も(かます)十万枚、木炭三万表、煉瓦百七十万枚、松脂六千瓩。兎毛皮五千枚、この毛皮製造は重症者の仕事になつてゐますが――癩は動物には伝染しませんし、またすべては立派に消毒して出します。――随分な勤労実績ですが、それをねらつてやつてゐます。その労働力は陸の普通の人夫の三倍半ありますよ。叺二俵、それは約三十貫ですが、それを一人で担ぐ。さうして三十町を運んで、船にのせる。これは全く精神力です。感謝観念の力なのです。」(相馬美知「小鹿島更生園訪問記」、『文化朝鮮』一九四二年五月発行、五一頁より。滝尾英二編『〜資料集成』第6巻、資料九六、三八五頁に収録)。

(八)重症患者の付添い看護の強制

「それから次々の研究室に入つてゆき、診療室から病棟の方へ見て廻つた。この七棟の中央病舎には、重症全部と不自由患者の大部分が収容されてゐた。一度に四斗焚ける大釜三つで、電気()さん(●●)がされてゐた(ママ、意味不明―滝尾)。患者は一人重症一人に対して一人対して一人の軽症を、不自由患者は二名乃至三名に対して軽症一名を附添はせて、その看護に当てゝゐる。」(相馬美知「小鹿島更生園訪問記」、『文化朝鮮』一九四二年五月発行、四九〜五〇頁より。滝尾英二編『〜資料集成』第6巻、資料九六、三八三〜三八四頁に収録)。

 

皇太后節子の侍医・西川義方は『朝鮮小鹿島更正園を通して観たる朝鮮の救癩事業』(一九四〇年九月)によると、

「重症病舎。これは、中央病舎であつて、そこへは、重症患者と不自由者を収容してゐるのである。

(一)重症者一人に軽症者一人を配してゐる。

(二)不自由室には、盲目または不自由者二〜三人に対し、軽症者一人を付添はせて、看護なびに日常の処理をさせてゐる。全盲は三百八十人であつた。」(滝尾英二編『〜資料集成・第6巻』資料八二、三一八頁に収録)

「病舎は之を大別して軽症患者を収容する普通病舎及重症、不自由を収容する重症病舎の二とす。

従来の普通病舎は一舎一室の温突とし一室に五人を収容す、昭和九年度以降新築の普通病舎は一棟四室四十人収容のものを原則とせるが地勢の関係上二室二十人収容のものをも建築したる外更に夫婦同棲患者の為一棟六室十二人収容の病棟をも築設せり、而して重症全部及不自由患者の大部分は之を中央病舎に収容し重症には一人に対し一人の軽症者を又不自由者には盲目或は四肢不具等自由を弁じ得ざる者を収容し患者二人乃至三人に対し軽症者一人を付添はしめ以て日常を看護処理せしめつつあり。」(小鹿島更生園発行『昭和十六年年報』三五頁より。滝尾英二編『〜資料集成』第2巻、三五五頁に収録)。

  

第二節 断種・堕胎と優生思想

(一)志賀 潔と光田健輔のハンセン病患者に対する断種の推間

患者の希望で去勢を実行し、癩患の撲滅を期する、志賀博士の内地帰来談(見出し)

総督府医院長志賀博士は十三日朝釜山通過帰城したが氏のはなしに

鮮内における癩患の現在数は警察当局の調査をみると七千人といふことになつてゐるやうだがその実数はすくなくも三、四万人はゐる、癩の撲滅予防をはかるため内地では患者の希望によつて去勢を実行してゐるが、その徹底を期するには鮮内でもこれを実行する如くはないと思ふ、いろいろ治療法も講究されてゐるが未だに適確なものは発見されず全治者は三、四パーセントしかない有様で患者の血族関係者を引離し別居せしむるなどいふことは実際問題として行はれないことではないかと思はれる=釜山」。

一九二七年四月一四日付け『大阪朝日新聞・朝鮮朝日』より。滝尾英二編『〜資料集成・第四巻』新聞資料、五四頁に収録)。

 

  志賀潔のこの談話が『東亜日報』などに報道された六年後、光田健輔は長島愛生園書記の宮川量(一九〇五〜四九)を伴って、小鹿島慈恵医院など朝鮮の「癩」療養所を視察の旅に出た。一九三三年七月十六日から十一日間の視察中、大邱に立寄り『大邱日報』に、つぎのような記事談話をしている。

レプラ患者は隔離すれば減る/輸精管断切は自他とも幸福/来邱中の光田健輔氏談(見出し)

癩患者の救主とまで云はれてゐる権威者岡山県邑久郡国立癩療養所長島愛生園長光田健輔氏はこの程来鮮、全南順天、小鹿島両地の癩患状況を視察し京城を経て廿四日大邱府外内塘洞大邱癩病院を視察後同日慶州に向け出発したが氏は語る、

朝鮮には皆様の御尽力の御陰で癩予防協会が建設されることとなつたのは病人は勿論一般社会のために慶賀に堪へない、この癩病は隔離療養すれば次第に減少するもので将来朝鮮の癩患も年を逐ふて影が消えて行く事と思ふ、内地には明治丗九年想定二万四千名も居つたが隔離して爾来その数を減じ現在は一万四千三百六十一名(警察の調べ)しか居らず国立七ヶ所、私立六ヶ所の療養所に約五千名が収容してゐるが従来は流浪患者のみを収容してゐたけれども数年前より普通患者でも伝染され易い危険な患者に対しては県知事が強制的に入院隔離せしめる権力を有することとなつた、而して療養所に入れば見違へる程病気が癒り入所してない患者とは比較にならない、然し七年十四年も立つて再発することがあるから之には困る、尚ほ本能性の異性接近問題についても各人各説があるが、僕の所では希望者に限り男の輸精管を切つて自由に夫婦生活をさせてゐるが之はたゞ子を産まないだけであつて普通の夫婦関係と豪も変りはない、そこで近来夫婦にならうと云ふ患者は進んで申込み手術を受けることとなつた大正十四年来、僕の手術してやつたのが三百名に上つてゐるこの癩気は遺伝するのではなく全身に拡つてゐる母の病菌が軟弱な胎児を襲ひ胎内で伝染するのであるから自分の為子の為社会の為に子を産まぬのが最も良策である

今日府外、内塘洞の患者部落を視た時数多い子供が居ることには心から気の毒で見られなかつた今のところ内地では東京療養所その他でも輸精管切断を実施中であるが成績良好である、朝鮮における患者も自発的に手術すれば結構なことであらうと思ふ」。

(一九三三年七月二五日付け『大邱日報』より、滝尾英二編『〜資料集成』第5巻、新聞資料、五四頁に収録。原文は日本語)。

  光田健輔が朝鮮の視察旅行した一九三三年、九月一日には周防正季が小鹿島慈恵医院の四代院長に任命された。小鹿島慈恵医院第一期拡張工事の始まりである。第一期拡張工事の落成式は、一九三五年十月二十一日挙行された。翌三六年四月には小鹿島更生園でも断種手術(輸精管切断)が、夫婦同居の条件として施術されることとなった。絶対隔離終身収容に基づく収容患者の急増に対応した患者に対する「国家管理・統制」の強化である。また、日本国内の療養所とは異なり、植民地朝鮮の小鹿島更生園では、収容患者の処罰としての「断種」が加わり、実行された。妊娠した女性は堕胎させられ、胎児は殺された。

(二)小鹿島更生園にみられる「夫婦患者の同居」のこと

【その一】

「一、園患者は昭和六年開園以来男女別居制を維持したるが昭和九年以降の大拡張に伴ふ多数患者の増加収容に依り夫婦患者の数亦著しく増加するに至り之を此の儘抑制して依然別居制を維持するに於ては自然渠等の気分を荒廃せしめ遂には物議を生じ事端醸成の因を為すに至るべく看取せられたるを以て寧ろ渠等の要求に先だち一定条件の下んに夫婦同居を認むることを決し昭和十一年四月より之を実施せるが昭和十五年末現在同居者八四〇組にして尚相当増加の傾向に在りて而して之が為渠等患者の気分非常に緩和され自然島内生活の安定に大なる効果を齎すに至りつつあり其の収容状況は左の如し。

       (夫婦同居者)

中央   八四  旧北里  二二二  西生里  五二  南生里  一三〇 

新生里 二五九  東生里   九三            計  八四〇組 

二、夫婦同居の許可標準

1、戸籍上の夫婦たるもの

  2、戸籍上の夫婦に非ざるも事実正式に婚姻の式を挙げたるもの

      (3〜5、略)

  6、以上の各項を具備するも之を其の儘同居せしむるに於ては隔離収容の意義を没却するに至るべきを以て豫め本人の申出に依り断種法(精系手術)を行ひたる上同居せしむることに為れり。

上記の外現在中央病舎に於ける男子重症、不自由患者の付添は全部男子患者を以て充当せる所なるも無聊なる園内生活中知らず識らずの中に幾分気分荒廃の嫌あるやの点も見受けらるるを以て日常生活に潤あらしめ気分の転換を計らしむる為女子患者を付添に充当せしむることとせり。

『小鹿島更生園発行『昭和十六年年報』より。『昭和十二年報』以降の『年報』にも於いても、同様な記載がある)。

【その二】

「夫婦関係――本年四月より古い病室などを夫婦舎にあてて夫婦制度を認める。ワゼクトミーをうけて夫婦舎に入るのである。現在の夫婦は約二百組。

 旧重病室四畳に一組づつ。八畳に二組づつ。その他四組づつあり、夜間はカーテンをひいて一組づつ区別する。蚊帳は別々に(一組づつ)吊るのかと問へば、まだ蚊帳が支給されてゐない。蚊はあるだろうと矢田氏問へば、ハイありますといふ。(いづれもオンドルなれば、畳数はハッキリとしてはゐない)。いづれゆくゆくは夫婦舎も建つことだろふとのこと。」

(宮川量『小鹿島更生園訪問記録』一九三六年七月より。滝尾英二編『〜資料集成』第6巻資料六六、二四五頁に収録)。

【その三】

「結婚には、職員は関係しない。唯一番最後に、かうしたいのですがと園長に申出るのである。結婚しやうとする場合、部落の代表に申出る。代表と代表との話合が行はれて、病舎主任に申出る。主任はそこで園長に届出て許可を仰ぐ。よからうと許可が下れば、神社に参拝してその契りを誓言し、園長銅像の前に行つて感謝の報告をするといふのださうである。勿論そんな場合、本人達の申入によつて断種法は行はれてゐる。

『今、夫婦同居者はどれ位ですか?』

(高橋課長は言う=滝尾)『そうですね。八百五六十組かと思ひます。』(相馬美知「小鹿島更生園訪問記」、『文化朝鮮』一九四二年五月、五一頁より。滝尾英二編『〜資料集成・第6巻』資料九四に収録)。

(3)『朝鮮の救癩事業と小鹿島更生園』に観られる断種手術

 当時の小鹿島更生園庶務課長・吉崎達美は、『朝鮮の救癩事業と小鹿島更生園』(友朋シリーズ・第九号、一九六七年一〇月)に収録されている「小鹿島更生園の建設及び運営について」のなかで、つぎのように「断種手術」について書いている。

「女性患者は、男性の病舎から離れた場所の病舎に、収容することにしておりました。(中略)しかし、男性患者の衣服類は女性患者が洗濯いたしますので、全然接触の機会がないわけではなく、その間自然情愛の生ずることもあり、ひそかに夫婦関係を結ぶ者も出ずるに至りました。これを放任いたしますと、患者間にいろいろ問題を起こし、園内の平和を乱す虞れがありましたので、男子に断種手術を施して夫婦関係を公認し、これに子供一人をつけて夫婦病舎に収容して同棲せしめることに致しました。断種手術については、はじめは園当局の意図を疑い、容易に応じませんでしたが、だんだん進んでこれを希望する者が多くなり、夫婦生活に入る者が多くなりました。」(三六頁)。

 ここに書かれた断種を小鹿島更生園当局が行なったことについての「こころの痛み」が吉崎庶務課長には全くないことである。しかし、小鹿島へ終身収容された朝鮮人ハンセン病患者にとって、断種がどのような苦悩な生活を送らざるを得なかったかということへの認識が日本人職員にみられないのは何故なのだろうか。

(4)小鹿島更生園で罰として「断種手術」を受けた李東の詩

以上見てきたような公式に『年報』が明記した「精系手術」して同居した患者(一九四〇年末には、八四〇組)以外にも、処罰としての「断種手術」が行なわれている。その人数は当時の公式な行政文書が記載されている書類を私は未だ見ていないが、多くの証言から伺い知ることができる。監禁室の隣り建物の「解剖室」と隣にある「遺体安置室」で、看護手などが監禁室を出所する際に行なったという。解剖室の壁には、罰として「断種手術」を受けた人物=李東の詩が、現在の国立小鹿島病院当局によって、韓国語で書かれた詩文が掲示されている。

その昔、思春期に夢みた

愛の夢は破れ去り

 今 この二十五の若さを

 破滅させゆく手術台の上で

わが青春を慟哭しつつ横たわる。

 将来、孫が見たいと言った母の姿‥‥

 手術台の上にちらつく。

精管を絶つ冷たいメスが

 わが局部に触れるとき‥‥

 砂粒のごと 地に満ちてよとの

 神の摂理に逆行するメスを見て

 地下のヒポクラテスは

 きょうも慟哭する   (李東)

(註)詩中の「ヒポクラテス」とは、医学の父と呼ばれる古代ギリシヤの医学者である。

シム ジョンファン著『あゝ、七〇年〜輝かしき悲しみの小鹿島〜(一九九三年七月)のには、つぎのような一文が書いてある(五八頁)

「南生里に入院した()(ドン)という青年は、敬虔なキリスト教徒で、たくさんの患者仲間から尊敬を受けていた。ある日、原土場で採土作業をしていたが、作業の障害になる松の木二本を植え替えろと、佐藤主席看護長の命令を受けた。その時、自分の病舎の同僚患者が急病で倒れたので、 医者の治療を受けるために患者を背負い、治療本館内科室に行った。そして、佐藤の命令をすっかり忘れてしまった李東は、その次ぎの日、煉瓦原土場現場に出頭しろという命令を受けた。佐藤はその原土場の上にうつ伏せにした李青年を、靴で首根っこをむちゃくちゃに蹴りながら、『貴様のようなももの生命は、あの松の木より劣るのだ』と棍棒で殴った後、監禁室に入監させた。出監した日は手術台に載せられ、例によって断種手術を受けたが、断腸の思いを込め一編の詩を書いて、静かに医者のメスを受けた」と‥‥。

【備考】このシム ジョンファンさんの著書(の一部分)は、滝尾らが『日帝下朝鮮の「癩」に関する資料集−第3輯(下)−』として翻訳し、人権図書館・広島青丘文庫より一九九六年三月に出版した)。

(5)小鹿島更生園で罰として「断種手術」を受けた入所者の被害の証言

TBS(東京放送)の筑紫哲也ニュース二三・特別番組「追跡・強制不妊、第三弾」の取材のため、一九九七年一二月上旬に小鹿島病院を訪れて、日本の朝鮮統治時代に小鹿島更生園に強制入所させられ、断種手術を受けた入所者の聞き取りを行なった。その際、同月九日の午前一〇時から約二〇分間、インタビューしたCさん(当時七〇歳・男性)の証言をつぎに述べよう。このCさんら四名の証言は、同年一二月二二日の夜、TBS(東京放送)「筑紫哲也ニュース二三」から全国に放映された。また、滝尾英二著『朝鮮ハンセン病史―日本植民地下の小鹿島―』未來社(二〇〇一年九月)にも、その証言内容は掲載された。その書籍に掲載された証言から、つぎに紹介したい(二九七〜二九八頁に収録)

「(Q―断種手術は誰が、何故、どんなふうにされたのですか?)

 私は断種手術を一九四一年に受けましたが、断種は四一年から始まったのではなくて、その前からです。そして佐藤院長(主席看護長=滝尾)のときには、あまりのひもじさと重労働と過酷な扱いのせいで脱走する人が出ました。脱走してもつかまるともう有無を言わさず断種手術です。

また、他にも院内でも反日的だとか、反抗的だとか決めつけられれば断種です。それから院内で盗み等の事件が起こったら断種。

断種ということがはじまると小鹿島では、男女の営みをしたりすれば有無を言わさず断種手術が加えられるようになりました。

何故、そんな断種などをするようになったかというと、ドイツで癩病患者などにそれをする法律があったでしょう。だから日本政府も『癩患者には全く治る見込みはない。子供を産んだって、カラスの子はカラスだし、山犬の子は山犬になるのだ』という考えで、患者が子供を持つことが出来ないようにしてしまったのです。

断種なんて本当に残虐なやり方です。あー、全く何とも口にはいえません。時代の過ちだったというにも。考えるほど憤りを感じるし、悔しくて、私の国、韓国という母国で、一体どうしてあんなひどい目に会わなければならなかったのか。

ハンセン病患者も世界のあちこちでちゃんと暮らしていて、患者の息子や娘たちも元気に育っています。病気(ハンセン病)にもならずに。私は子供をつくれる体に戻れない。たとえ、『対馬(つしま)』を私にくれたって、私は子供一人つくることは出来ません。この年齢(とし)になって、この恐怖(こわ)さを噛みしめて生きていますが、もし、私が神を信じていなかったら、自殺していたかも知れません。

病にかかり、そんな手術までされて患者たちはこの世を去りました。もう、ほとんどの人が世を去りました。私は幼くして入所して、患者のうちでは若かったから今までいますけれど、断種の経緯はこんなことでした。」(二九七〜二九八頁)。

(※Cさんは、一三歳の時薪用にと無断で木の小枝を切ったというだけで、処罰として断種手術を受けた)

第三節 医療・看護態勢の不備と診療の放置(前述の重症患者付添い看護参考)、死亡患者の増大

澤野雅樹は、自著『癩者の生―文明開化の条件としての―』青弓社(一九九四年)のなかで、つぎのような記述をしている。卓見であると思う。

「救癩事業の最大の意義は、患者を差別の悲惨から救済するというよりも、国家を野蛮国の汚名から救済することにあった。だからこそ内地の政策を反復しながら、反復のさなかに、日本的な政治体は、かつて自分に注がれた眼差しをようやく自分のものにしえたのだ。(中略)かつて外国人が日本にしたように属領地の野蛮を告発し、社会の後進性を愚弄したうえで、文明の高みから手を差し延べたのである。しかし、結局のところ、小鹿島更生園がいかに巨大であろうとも、それ自体はひとつの些細な契機にすぎない」(一七三頁)

「小鹿島更生園は、ほんとうに光田が誇るほど優秀な施設だったのであろうか。それは単に敷地が広く、収容定員が巨大な施設でしかなかったのではないか? 一九三五年の定員比較表をみると、当時の全生病院における患者の定員が千百人、医師の定員が九人であるのに対し、小鹿島更生園における患者の定員は三千七百七十人であり、医師の定員は僅か十人でしかなかった。患者の定員が全生の三・五倍に達していながら、医師の定員は僅か一人を超えているにすぎない」(一七三頁)

「看護手および看護婦は合わせて五十人、これだけの人員で年間の延べ患者数十二万人を各科において看護しなければならなかった。また、専門科とは別に包帯交換を要する患者が延べ人数にして五十二万人、大風子油注射を要する患者が二十二万人いたのだ。(中略)はたして、これが光田のいう『医療本位の療養所』なのであろうか」(一七三頁)。

こうした澤野雅樹さんの記述をより詳細にするために、つぎに幾つかの資料をあげておきたい。

【其の一】

患者千二百余人中、医者はたった五人――不幸児の楽園(其の三)小鹿島癩療養所訪問記――」(見出し)

金昌洙(『東亜日報』一九三四年九月一三日付け記事。記述された文は朝鮮語である。)

 

現在、彼らの医療施設としては、患者が医師の勤務する病院に行って診察を受け治療するのではなく、彼らが収容されている各病舎には治療所が別にあり、医師と看護婦が消毒服に着替えて、治療所に行き、患者を診察し、治療します。ところが、現在六百五十人余りの患者が収容されている北病舎にも治療所は一ヵ所だけだというから、医療機関としては、現在の施設はあまりにも不足している感がなくはありません。

 現在医師が五名、看護婦十六名、看護手が二十数名います。看護手は全部男性で、患者看護の責任もなくはないけれど、主に患者たちの生活改善、知力向上、風俗改良、作業奨励、耕作指導などの責任を負う、いわば指導員のようなものです。看護手の中には農業学校出身もいるそうで何の責任も持っていないというのが妥当でしょう。

 したがって患者治療に直接当たる責任者は、医者と看護婦になりますが、現在の医師と看護婦の数からして、患者二百四十名あたり平均一名にしかならず、治療上の不都合や矛盾がないと、だれがいえましょうか。しかも患者が一ヵ所に集まっているわけでもなく、東、南、北の三病舎に散らばっていて、治療所も三病舎に、それぞれあるというから、不足な人員をもって、毎日三ヵ所に適当な配置をするのも難しいのではないかと思われます。

 患者にとって隔離収容だけが唯一の目的ではなく、できるかぎりの治療も目的であるならば、医療施設にも最善の方針を尽くすべきなのは、いうまでもないことです。

 小鹿島にムンドゥン病患者を収容しはじめて以来、十八年という長い歳月を経た今日にも、まだひとりの全快者もいないというから、いくら病気自体が難病だといっても、それは当局者の責任問題になるだろうし、事実上恥ずべきことだといわざるを得ないでしょう。」(滝尾英二編『〜資料集成』第5巻の新聞資料、一二四頁に収録)。

 

【註=滝尾】『昭和四年度・小鹿島慈恵員概況』の記載中、「七、累年収容癩患者人員転帰別表(昭和四年十二月末調)」の表中には、大正十一年以来昭和四年まで、「治癒退院」が計二九名と書かれていた。ところが、第四代周防正季園長時代作成の小鹿島更生園『昭和十年年報』以降の記載の「五、開園以来収容患者ノ転帰及異動別表」には、「大正十一年以来昭和四年まで、「治癒退院」が計二九名」と書かれていた過去の事実まで抹消し、これをすべて「軽快退園」と書き換えている。これは過去の事実にさかのぼり「改ざん」である。第四代園長周防正季の「癩病は治らぬもの、治癒退院はありえない」という絶対隔離収容の考えから過去の記述までも行なった「改ざん」だと思う。金昌洙(『東亜日報』の記事も、「改ざん」された小鹿島更生園『年報』の記載によったものとおもわれる。

【その二】

医療問題――夜間の異状

 中央に中央病室があり、一二〇〇名入室してゐる。全患者は四〇〇名(ママ、四〇〇〇名=滝尾)だ。それだのに当直医師は一人なり。当直看護手は一人づつ。各部落の詰所にゐる。看護婦は当直なし。中央病室にゐる者はいざしらず、部落にゐる者の夜間の異状に対しては手当をうけ得る事は稀であつて、頼んでも頼んでも医師が来ず、遂に医師の診察を受けぬまゝで死亡するのが多いといふことだ。他の事はとも角も、死ぬ際はだけはね、と病者は淋しそうに云つた。」(宮川量『小鹿島更生園訪問記録』一九三六年七月より。滝尾英二編『〜資料集成』第6巻、資料六六、二四三頁に収録)。

【その三】

患者の死因

寒冷の癩に与へる影響の悪いことは、寒冷の季節になると、皮膚の血液循環が不満足であり、そのために、潰瘍が発生し、結節が崩壊し、また、神経痛や結節痛を起し易く、且つ暖房のための火傷などを起し易いことからも明かなことである。

 内地でも、全生病院での十年間に亘る調査では、そのやうな悪化は、暖季に較べて寒季に倍加はするといふことであるし、(中略)

 それから、癩者の死因の三分の一は、結核である。之に亜いで、腎臓炎が多く、死亡者の約一五%は、これに因るのであつて、結節癩では腎変性や、腎硬変であり、神経癩では、腎硬変が多いやうである。

 朝鮮の更生園の開園以来の死亡患者一千三十四名の死因(昭和十四年調査)を見ると、(一)結核は第一位を占めて二六七名、その内訳は肺結核二一八名、腹膜炎三二名、肋膜炎一七名である。(二)次は癩性衰弱の一九五名、(三)それから、腎臓病が八三名で、その内訳は腎臓炎五五名、萎縮腎二八名である。(四)その次は肺炎の六二名と、(五)敗血症の二七名、といふことになつてゐる。周防園長の話では、結核死は八〇%である。それから、癩者は、一般に肺炎には弱い。感冒が流行すると、ばたばたと死亡して行くといふ。斯様に結核死の多いといふことは、集団生活の密度にも原因してゐたことであらう。古い療養院ほど、結核死が多いやうである。」

(西川善方著「朝鮮小鹿島更生園を通して観たる朝鮮の救癩事業」五〜六頁より。滝尾英二編『〜資料集成』第6巻、資料八二、三一三頁に収録)。

【その四】

貧弱な医療は、小鹿島更生園の医師・看護婦の数が、患者数に比して圧倒的に少なかっただけでなく、患者の治療が満足にできる状態にほど遠かったことである。そのことを数値的にみていこう。

『「らい予防法」違憲国家賠償請求事件・原告最終準備書面(事実編)』(二〇〇〇年一二月八日)は、その記述のなかで、「貧困な医療」として、「まず、何よりも医師・看護婦の数が、患者数に比して圧倒的に少なく、満足な治療ができる体制にはほど遠かった。」として、「例えば、戦前の大島青松園では、医師・看護婦数は以下のように推移した」として、明治四二年から昭和一五年までの医師・看護婦数を表示している(九一〜九二頁)

「大島青松園時系列表など」、大島青松園入園者自治会編・発行『閉ざされた島の昭和史―国立療養所大島青松園入園者自治会五十年史(一九八一年)および国立療養所大島青松園発行の記念誌ものから集計したものであるが、それによると、つぎのようになっている。

明治四二年  医師 二名 (六〇名) 看護婦 六名(二〇名) 在園者 一二〇名

大正一〇年     五名 (五一名)    一〇名(二五名)     二五四名

大正一五年     三名( 九四名)    一四名(二〇名)     二八三名

昭和 五年     四名(一〇二名)    一四名(二九名)     四一一名

昭和一〇年     六名(一〇二名)    一四名(四四名)     六一三名

昭和一五年     五名(一二八名)    一一名(五八名)     六三八名

(  )内は、在園者ひとり当りの医師および看護婦の数。滝尾が表から算出した。

ところで、滝尾英二編著「日帝下朝鮮の『癩』に関する資料集―第3輯(下)―」『小鹿島「癩」療養所と周防正季−「癩」に関わった朝鮮総督府の医務官僚たち−〔研究、資料解説編〕』をわたしは一九九六年三月、人権図書館・青丘文庫から(自家本)で出版した。そのなかで、つぎのように記述している(七五〜七六頁を参照)。

――医療の欠如 ―職員一人当りの患者数―

表・一九三二年度小鹿島「癩」療養所の医師一人当りの収容患者数(一九三二〜一九四二年)」として、「年度(年末)、医官(日本人・朝鮮人別)、医員(日本人・朝鮮人別)、計。収容患者数(現員)、医師一人当りの収容患者数」を年度ごとに表示している。

 本「意見書」は、一九三二年度、一九三四年度、一九三七年度、一九四〇年度、一九四二年度の五年度分のみ表示する。詳細については、滝尾英二編著の前掲書をみていただきたい。なお、本表は、各年度の朝鮮総督府編纂『朝鮮総督府統計年報−衛生の項』および国立小鹿島病院『小鹿島』(一九九二年)の統計資料を参考として、滝尾が作成したものである。

年度(年末) 医官(日本人・朝鮮人)  医員(日本人・朝鮮人)   計 収容患者数(現員)

一九三二年度    一名   −    一名  二名   四名     七九二名

一九三四年度    −    −    三名  二名   五名    二一九八名

一九三七年度    四名  一名    五名  一名  一一名    四七八三名

一九四〇年度    五名  三名    一名  二名  一一名    六一三六名

一九四二年度    五名  二名    二名  一名  一〇名    五六六七名

 表でわかるように周防正季が、小鹿島「癩」療養所長に就任した年の一九三二年度には、小鹿島「癩」療養所の医官・医員一人当りの収容患者数は、一九八名であったものが、一九三三年には四四〇名となり、それ以後も三八九名から五八九名の間を行き来する。特に、第二次拡張工事がはじまり、収容患者が増えつづける医官・医員一人当りの収容患者は「一九三五年には四一五名」となり、周防園長が患者の李相春によって刺殺された一九四二年度には、医官・医員一人当りの収容患者は五八九名にも達している。

 これを、一九三五年の日本国内に療養所に比べると、次表のようになる。

(なお、患者数は、外島委託患者を含む。医員数は澤野雅樹著『癩者の生』青弓社−一九九四年−により、患者数は各国立療養所入園者自治会編・発行『〜自治会史』による)。

 療養所    医員数(院長を含む)   患者数    医員一人当りの患者数

長島愛生園      六名     一一六三名         一九四名

栗生楽泉園      四名      三六六名          九二名

全生病院(多磨)   九名     一〇〇九名         一二一名

三療養所の合計   一九名     二六一九名         一三八名

長島愛生園は、長島事件(一九三六年八月)の前年の統計で、患者の定員七三二名に対し四三一名過員の患者を収容しており、現員一一六三名となっていて、定員通りだと医員一人当りの収容患者は一二二名のところを一九四名の過重になっている。国内の三療養所を平均すれば一三八名である。ところが、日本植民地下の小鹿島更生園では、驚くことに、日本国内のほぼ三倍のハンセン病患者を医員が診ているのである。

わたしは、国内の療養所の医療体制、とりわけ医員の数が充実していたといるのでは決してない。国内の療養所でも極めて劣悪な医療体制のなかで、収容患者は欠乏と忍耐を強いられた生活をいていた。しかし、それに比べてもなお、さらに劣悪なっ植民地下の小鹿島更生園の医療内容だった。いや、医学的判断によった療養所ではなく、ハンセン病患者の統制を目的とした国家権力による「強制隔離・収容所」に過ぎなかった。そして、収容された患者は小鹿島更生園に終生収容されてしまい、そこから抜け出すことのできない施設であった。

【その五】

死亡患者の増大――日本植民地下の死亡患者および死亡率を表示してみよう。

   年度   収容患者数  死亡患者数    死亡率       備 考

一九一七年度    九九名  二六名  二六・二六%  初代小鹿島慈恵医院長に蟻川亨              

一九一八年度    九九名   八名   八・六〇%   

一九一九年度    九六名   七名   七・二九%  三・一独立運動、斉藤誠朝鮮総

一九二〇年度   一〇四名   七名   六・七三%  督赴任し、「文化政治」を標榜

一九二一年度   一三四名   八名   五・九七%  二代院長に花井善吉が赴任

一九二二年度   一八七名   二名   一・〇七% 

一九二三年度   二二三名   五名   二・二四%   

一九二四年度   二二二名   四名   一・八〇%   

一九二五年度   二七六名   五名   一・八一%   

一九二六年度   二七五名   七名   二・五五%     

一九二七年度   二七一名   七名   二・五九%  小鹿島慈恵医院拡張反対運動  

一九二八年度   四九〇名  一五名   三・〇六% 

一九二九年度   八一一名  二一名   二・五九%  二代院長に花井善吉が死亡   

一九三〇年度   八一九名  二三名   二・七六%   

一九三一年度   八一〇名  一四名   一・七三%  「満州事変」はじまる 

一九三二年度   八一一名  一八名   二・二二%  朝鮮癩予防協会設立

一九三三年度    八八名  二一名   二・三七%  四代医院長に周防正季が赴任

一九三四年度  二一九六名  三八名   一・七三% 

一九三五年度  三七三三名 一〇三名   二・七六%  制令で「朝鮮癩予防令」公布

一九三六年度  三八三八名 一三八名   三・六〇%   

一九三七年度  四七八三名 一〇二名   二・一一%  「日中戦争」はじまる

一九三八年度  五〇二五名 一七三名   三・四四%  第三期拡張工事がはじまる              

九三九年度  五六七五名 二八二名   四・七二%   

一九四〇年度  六一三六名 二九四名   四・七九%  第十四回癩学会が小鹿島で開催

一九四一年度  五九六九名 四三二名   七・二四%   

一九四二年度  五八八七名 三八七名   六・五六%  周防正季園長、患者により刺

一九四三年度  五五七五名 三九九名   七・一五%   

一九四四年度  五四〇七名 四一二名   七・六一%   

一九四五年度  四四一六名 九三一名  二一・〇八%  ポツダム宣言受託、敗戦

小鹿島更生園『昭和十六年年報』一九四二年、中央癩療養所小鹿島更生園『国務概要』一九五〇年より。

この表からみられる小鹿島へ収容された患者の死亡者数および死亡率を考えてみよう。死亡率でいえば、初代医院長蟻川亨の時代が七乃至二六%と高い。二代院長花井善吉の時代の死亡率は一乃至三%で低くなっている。花井園長の在職中の八年間で五三名の死亡者しか出していない。ところが、四代小鹿島更生園長の第三期拡張工事をはじめた一九三八年以後、患者死亡率は三・四%から四・八%と上昇し、一九四一年度には七・二四%(四三三名)になり、さらに四二年度は六・五六%、四三年度は七・一五%、四四年度は七・六一%となり、遂には四五年度になると二一・〇八%(九三一名)に達している。

 小鹿島更生園に収容された患者に、適切な保護・治療を行なわないまま、患者の殆んどは小鹿島で死亡している。こうしたことは、国内の療養所でもいうことが出来る。

 栗生楽泉園患者自治会編『風雪の紋−栗生楽泉園患者五〇年史−』(一九八二年発行)は、つぎのような表をあげ、所見を述べている(二〇六頁)

 

「右の表で慄然とするのは、あまりに多い死亡者数である。二〇年(一九四五年)には何とその率入所者数の一〇%を超えるに到るのだ。このことからしても、当時患者の置かれた所内生活が、いかに劣悪をきわめたか想像するに難くない筈である。」

年 次    収容者数    死亡者数    入所者数      死亡率

一九四三年   一八九      九四    一三二二    七・一一%

一九四四年   一八三      九七    一三三五    七・二七%

一九四五年   一六七     一三八    一三一三   一〇・五一%

ところが、植民地朝鮮の小鹿島更生園では、一九四一年には、二年はやく既に収容患者の死亡率は七・二四%に達し、栗生楽泉園の一九四三年・四四年の状況になっていた。敗戦の年である四五年の小鹿島更生園の患者死亡率は二一%を超えている。

第四節 担当職員数の欠如と患者に対する暴力の日常化

小鹿島更生園の「担当職員数の欠如と患者に対する暴力の日常化」について述べてみたい。まず、職員一人当りの患者数を、国内の栗生楽泉園と比べながら小鹿島更生園の場合をみていこう。栗生楽泉園を選んだのは、統計資料が得られ易かったからである。

小鹿島更生園と栗生楽泉園の職員一人当り患者数の比較統計(一九三三〜四二年度)

年度(年末)    小鹿島更生園(慈恵医院)          栗生楽泉園

     職員数 患者数(現員) 職員一人当り患者数 職員数 患者数(現員) 職員一人当り患者数  

三三年度  六七名  一二一二名   一八・一名    二八名    九五名    三・四名 

三五年度 一六〇名  三七三三名   二三・三名    五七名   三六六名    六・四名

三七年度 二〇三名  四七八三名   二三・六名    七七名   四三三名    五・六名 

三九年度 二六一名  五九二五名   二二・七名   一〇五名   九六二名    九・二名 

四二年度 二七九名  五八八七名   二一・一名   一一七名  一二六三名   一〇・八名 

  *『各年度の朝鮮総督府編纂『朝鮮総督府統計年報−衛生の項』および国立小鹿島病院『小鹿島』(一九九二年)の統計資料を参考として、滝尾が作成したものである。

小鹿島更生園と国内の栗生楽泉園の職員一人当り患者数をみると、一九三八年までは小鹿島更生園の方が四倍前後、職員一人当り患者数が多いことがわかる。一九三九年を境にして栗生楽泉園の収容患者が急増し、職員一人当り患者数は一〇名前後となる。楽栗生泉園と小鹿島更生園との比率は一対二強と縮まっている。しかし、問題は両者の単なる「職員一人当り患者数」だけ考えてはならない。

それぞれの療養所の職員が、患者を治療・保護し、福祉の向上を担当していたか、または、患者を監視し統制・抑圧の強化を担っていたかどうかを見極めなければならない。小鹿島更生園の場合、憲兵・警察官あがりの職員を数多く採用し、生里(部落)ごとに鞭を置いていて患者を鞭打った。

長島愛正園の職員である宮川量が一九三六年七月に小鹿島更生園を訪問した記録によると、つぎのように書いておる。

「職員間―大部分が官憲(註・「官憲=官吏。特に警官。『広辞苑』より」)あがりの人。イバリたい人が多くて職員間の暖かいなりは、愛生園の如くならずといふ。」

「患者対職員―昨年頃迄は各生里(部落)の詰所に笞を置いて患者の従はぬ時は之でぶった。矢氏(註・牧師=滝尾)が、これは患者にぶつ事を教えへるのであり、やがて幾千もの此の患者が心を合はせて職員をぶつ日が来るぞと、職員にその非を悟して大へんにくまれた。園長は之を知らないふりをしてゐた」(滝尾英二編『〜資料集成』第6巻、資料六六、二四〇頁に収録)

患者たちは、天秤棒でも始終叩かれていた(現在、補償申請した小鹿島病院入所者の被害実態の証言で、後に詳述する)。職員地帯と患者地帯の境界には監視所を置き、巡視長とそのもとに巡視一〇名が患者の監視に当たる、これも小鹿島更生園の職員である。こうしたことを考えると、患者の治療・福祉を担当する職員の数は、さきにあげた「小鹿島更生園と栗生楽泉園の職員一人当り患者数の比較統計(一九三三〜四二年度)」の数より更に少数であったと思わざるを得ない。

長島愛正園の光田健輔園長は、皇太后侍医の西川義方とともに一九四〇年九月四・五両日、第十四回日本癩学会に出席し、岡山に帰った後に『愛生』誌に「小鹿島更生園参観」の記事を書いている。そのなかで、つぎのように述べている。

「要するに世界第一と云はれた比律賓「クリオン」に比するに収容人員は相同じである(中略)。近来南米の「コロンビヤ」には七千人を入れる療養所が出来たと聞いたが恐らくは設備満端に於て更生園の右に出でるものはないであろう。多年外国人から愚弄視せられた我が国の救癩施設が朝鮮台湾に於て画期的に発展を遂げ能率を挙げるに至った事は御同慶の至りである」(『愛生』一九四〇年一〇月号、「小鹿島更生園参観」五頁より。滝尾英二編『〜資料集成』第6巻、資料八四、三五〇頁に収録)。

しかし、巨大な施設をつくり、収容人員の多さを誇っても、患者のいのちと生活が守られず、患者は医療者・権力者におびえて日々を送る施設であれば、療養所でなく「強制収容所」に過ぎないといわざるを得ない。

 日本統治時代に小鹿島更正園の職員によって、収容患者が棍棒や角材で叩きのめされていた体験を現在の小鹿島病院入所者はつぎのように話してくれた。「証言」したのは、Mさん(八三歳)とNさん(八二歳)で、いずれも小鹿島で二〇〇三年八月八日に聞いたものである。

Mさん(八三歳の男性)の証言――私は赤レンガを作る工場でも働いたことがあります。その工場での怪我がもとで、戦争の終わった年に片足を切断しました。作業のせいで片足を失うったようなものです。

辛かったから逃亡する人もたくさんいました。逃亡した人は陸地のほうで捕まると船に乗せて連れてこられ、四つんばいにさせられて棒で打たれました。私自身は逃亡しなかったのでそんな目にあうことはありませんでしたが、そういう光景をたくさん見ました。打たれたあとはその人は監禁室に入れられました。監禁室は今もソロクトに残っていて建物はそのままですが中の方は変わっています。当時はセメントの床で布団もありませんでした。打たれて監禁室で死んだ人もいます。生きていればまた引き出されてまた打たれました。それが死ぬまで繰り返されることもありました。

監禁室に入れられた人は多くが罰として断種されました。日本人はその当時、本当にひどいことをしたのです。」(ハンセン病小鹿島更正園補償請求弁護団ホーム・ページ「ソロクトからのこえ」二〇〇四年二月一二日更新より。HP担当 弁護士 上田序子)。

Nさん(八二歳の男性)の証言――ソロクトでの懲罰には、冷たい水をかけられたり、打たれたりなどたくさんありました。作業に出て行かなかったりすると、本当に病気だとわからない限り仮病とされて懲罰を受けました。監禁された人の中には断種された人もたくさんいました。

 日本人の職員に佐藤という看護長がいました。佐藤というのはひどい人で、しょっちゅう入園者を打ったりしていました。佐藤は私たちを獣のように扱いました。当時島の松の木は松根油をとったりする大切な資源とされていましたが、佐藤は私たちの『お前たち一〇人よりも山にある松一本が大切だ』と言っていました。」(ハンセン病小鹿島更正園補償請求弁護団ホーム・ページ「ソロクトからのこえ」二〇〇四年二月一二日更新より。HP担当 弁護士 上田序子)。

シム ジョンファン著『あゝ、七〇年〜輝かしき悲しみの小鹿島〜(一九九三年七月)は、つぎのように書いている。(原文は韓国語である。)

「五〇〇メートルにも及ぶ海岸線の石積み工事のピッチをあげるため、真昼のように仮設した電灯をつけて、潮の引く刻に合わせて夜間工事を続けていたある日のことだった。病舎の患者たちは、つるはし、スコップ、負い荷などを持ち、男性は負い、女性は頭で運んで成土し、患者全員くたくたに疲れきってしまった。

 『みなの衆、新風が吹く前に一服休んで仕事をしよう。』

 いつから、また、誰の口から言われるようになったか、朝鮮では、しばしば災害をもたらすことで恐れられていた北西の風をもじって「新風」といえば看護長・佐藤を指し、「新風が吹いた」との隠語をいえば、佐藤看護長が現れるので、作業する格好をしようという意味だった。そうでなくても棍棒か笞で叩かれるのだ。それもそのはず、十二時が過ぎれば必ず佐藤看護長が現場に現われる時間である。日頃、仕事をよくする天秤棒職人で有名なパク・スドゥンが、天秤棒を投げ捨てて、海の潮に積み出した石の上を踏んで、天秤棒人夫と一緒に不平を並べたてた。(中略)

 ちょうどその時、背中の後ろで、『いったい、なにを言っているのか?』

 瞬間、声を大きくしながらパク一人の胸ぐらをつかみ、むちゃくちゃに叩き出した人がいたのだが、それはその後ろで、その会話を聞いていた保田(竹次郎)看護長だった。石を積んだ山の横で隠れて悪口を聞いていているのも知らず、そのため日本人の看護長に大変な目に会ったのだ。急に胸ぐらをつかまえられたパクは、逃げることも出来ず、そのままいたら死ぬほど笞で叩かれそうになり、一瞬看護長に抱きつき、一緒に海の中に飛び込んだ。その後、パクは監禁室に入監され、その罰で強制断種手術を受けたのだった。」

(原文は五四〜五六頁に収録。滝尾英二編・著『日帝下朝鮮の「癩」に関する資料集−第3輯(下)−』一九九六年三月、人権図書館・広島青丘文庫に翻訳・発行の二二頁に収録)。

一九三九年一月から第三次拡張工事が二七万余円で始まり、小鹿島の「患者地帯」大桟橋を昼夜兼行で一二〇日で完成させた時、職員が収容患者を棍棒、角材や笞で叩きのめして強制労働させていた際のことの記述である。なお、大桟橋の患者労働の様子の写真は、小鹿島更正園『昭和十四年年報』に収録されており、滝尾英二著『朝鮮ハンセン病史−日本植民地下の小鹿島』未来社(二〇〇一年)の表紙に使用した写真も、大桟橋の患者労働の様子を写した写真を使用しているので参考にしていただきたい。

第五節 監禁室・刑務所の設置、憲兵・警察官あがりの職員たち

(一)官公立癩療養所所長会議・下打合会議事録から周防正季園長の発言内容

「小鹿島刑務所の実現説明 周防院長――刑務所の設置には司法省の上の方が熱心でなければ駄目である。最初、未決拘留場を作るやうに計画したが用ひられなかつた。現在、警手十三名と監守長一名でやつている。表面は司法省の管下であるが実際は院長の自由になるやうに出来ている。この間二名を撲殺した。刑務所は取扱困難なり。」

(「所長会議々事録」、昭和十一年九月三十日より。滝尾英二編『〜資料集成』第6巻、資料六九、二六九頁に収録)。

(二)官公立癩療養所所長会議議事録から周防正季園長の発言内容

「周防園長――刑を重く見させることが第一.一反刑を了へて出たものは視察を厳重にす。私は法に付ては冷膽である。私の方の監禁室は刑務所以上にひどい所である。」

(「所長会議々事録」、昭和十一年十月一、二日より。滝尾英二編『〜資料集成』第6巻、資料六九、二七一頁に収録)。

(三)財団法人・友邦協会発行『朝鮮の救癩事業と小鹿島更生園』(一九六七年九月)に掲載された当時小鹿島更生園庶務課長であった吉崎達美は「小鹿島更生園の建設及び運営」と題して、つぎのように書いている。

 

「小鹿島では、重症者及び身体不自由者以外の者は、これを東西南北の四地区の部落に分けて居住せしめ、看護長(判任官、警察官出身者を採用した)指導の下に、部落部落で各独自の特色ある生活をさせることにしたのであります。各部落の略中央に、職員詰所がありますがありまして、看護長、看護婦、看護手が控えておりましたのです。看護長は、患者の日常生活を指導し、彼等をして園内に安住して療養に専念し、余生を全うせしめる任務をもつていたのです(中略)、要するに、看護長は常時一般患者の動向を

未然に察知し、機宜の措置を講ずることが最も重要であります」(三五頁)

【註】@ 一九四二年職員録『癩療養所小鹿島更生園』(一九四二年六月二十日〜七月三十一日)によると、看護長として、「佐藤三代次、水田喜平、保田竹次郎、入田康夫、松本正弘」の五名の名前が記載されている。

A 大正十四年(一九二五年)『朝鮮警察職員録』の「京畿道―警察部衛生課」には、「課長四等四級 正六 周防正季 滋賀、警察十医務嘱託 佐藤三代次 大分」と書かれている。 周防正季と佐藤三代次は、かなり早くから同じ警察部で知り合った仲であった。

(四)大韓癩管理協会編・発行『韓国癩病史』(一九八八年)は、つぎのような記述がある。

「患者の上に君臨し、ほとんど絶対的権威を行使することの出来る看護主任は、だいたい恩給がおりるようになった前職警察官あるいは憲兵経歴をもった日本人であったし、この下の患者用務員は日本語が堪能な人であった。

 看護主任のなかで佐藤三代次は、周防園長がより信任する腹心であった。幼くして孤児になった彼を周防ははやくから養子にし、獣医学校を卒業させた後、京畿道警察部衛生課に勤務させ、部下としての連れていたのを呼び寄せたものである」(一〇五〜一〇六頁)

第六節 神社参拝と偶像礼拝、仏教信仰の強制

 

「小鹿島神祠は小鹿島慈恵医院開設に伴ひ大正六年八月十九日長谷川総督の勧請に依り旧慈恵医院庁舎前小丘に天照大神の御霊代を鎮座せられたる次第なるが癩療養所拡張の為奉遷を要することとなり在来祠殿は極めて小さく且年所の経過久しき為腐朽せるを以て新に造営の要あるに依り、昭和荒れた十年度に於て新規に之が経費一千円を計上したるが最初の予定より規模を大にし島内事務本館北方高地に鉄筋「コンクリート」造とし四月工を起せり而して予算額は建造材料購入費を支ふるに過ぎざるを以て不足額は主として島内居住職員の寄付に依りたるが神祠の造営に付ては更生園職員及新営工事の為来島せる職工人夫等競ふて労力奉仕を為したる結果五月末を以て拝殿、鳥居、石段、手洗所、燈籠等を配したる神厳なる祠殿の造営を竣成して奉還せり尚病舎地帯には分祠を建設せり」。

(発行所・朝鮮癩予防協会、西亀三圭・編輯発行、『朝鮮癩予防協会事業概要』一九三五年一〇月、一六〜一七頁より。滝尾英二編『〜資料集成』第3巻、資料二四、二七七〜二七八頁に収録)。 

 「島の中には山も起伏しているが、此の山は松の緑を以て掩はれて居ること内地の島山と同様である。其の緑を縫つて自動車道路が全島に開通してる。自動車は暫く走つて小鹿島神社の鳥居前で停る。神社は丘上にあつて眺望開闊、恰も京城にある朝鮮神社を思はせる。更生園普請の余つたコンクリートで築いたので頗る安く出来上つたと、西亀課長が神威を冒涜しない程度で自慢する。社前からは海が見え対岸も見た海には海苔シビの立つてるのも見える。此の辺の海は浅草海苔の本場だといふから驚く。附近の産額約三百萬円、その何分かは小鹿島の産であつたが、今後本島産の海苔は本島で使用し、市場へ出すことはないといふ話である。海苔ばかりではない、患者は全海岸線で魚を漁ることも出来る。是等も一寸驚いた話。神社の裏手の密林の中では雉子が啼いてる。(中略)」(一七頁)。「公会堂の附近に小鹿島神社の分社がある。学校もある。此の高台は一種の公園風景をなして居る。」(一九頁)

(内務省衛生局予防課長・高野六郎著『小鹿島見聞』より、『公衆衛生』第五号第十一号=『愛生』一九三六年一月号より。滝尾英二編『〜資料集成』第6巻、資料六一、二二六頁および二二八頁に収録)。

【註記=滝尾】「病舎地帯」にあった小鹿島神社の分社は、一九四五年の解放と同時に朝鮮人たちにより焼け打ちにあい、破壊された。しかし、「職員地帯」にあったコンクリート造りの小鹿島神社の本殿・拝殿など建物が、現在なお破壊されずに残っている。日本統治期の朝鮮での各地の神社の建物は、解放後にことごとく破壊されているなかで、堅いコンクリート造りだった故か、小鹿島神社の本殿・拝殿などの建物が破壊されずに残っているのは、当時の状況を知る上で歴史的遺跡として貴重である。

「鐘楼、納骨堂の建設竝落慶式、慰霊祭の状況」

「昭和十一年来本派本願寺派朝鮮開教総長の尽力に依り同派所属の朝鮮仏教婦人会より当園患者の為大梵鐘を寄附すべく計画し爾来後藤前開教総長竝藤井現総長を始め全鮮同派寺院住職及各地に於ける本派本願寺派仏教婦人会幹部等の斡旋奔走に依り予定の寄附金募集を終り昨年八月三十日京都の於て梵鐘鋳造式を行ひ越えて九月三日鋳造を完了し同十四日当園に送付を受けたるが該梵鐘は高さ龍頭下三尺三寸五分、口径二尺六分、重量百四十二貫、価格一千参百七十六円余にして大梵鐘の正面には京都本願寺執行津村前財務部長の揮毫に係る南無阿弥陀仏の六字尊号を側面に同派仏教婦人会総裁大谷?子裏方の華になる

    安かりし今日の一日をよろこびて

           みほとけのまへにぬかつきまつる

との感謝の歌を鋳刻しあり。

而して先之当園患者は昭和五年十一月十日畏くも 皇太后陛下の御下賜金拝受当日を記念し感謝報恩の誠意を表する為報恩更生日と定め荀くも働き得る患者は全部出動し奉仕作業に従事し来り之に対し園に於て僅少の奨励金を支給したるが患者は之を蓄積し相当額に達したるを以て有意義なる使途に充つべく協議中なりしが偶々前記梵鐘の寄附さるゝことなるや該金を以て病舎地帯中央部に鐘楼を建設することゝし又一面大正六年以来物故したる患者五五九名の内引取人なき遺骨二四九体の祭祀所なき為之が納骨堂をも右蓄積金を以て鐘楼下、山麓の適地に築造すべく決定し昭和十二年七月工を起し爾来数回の謝恩更生作業に於て敷地々均しを始め石材運搬鐘楼石垣積み道路の開設整理に従事したるが之が建築費竝労力費を合算約四千円を要し同年九月初旬竣工したるを以て十月十五日を卜し本願寺朝鮮開教総長藤井玄瀛師導師として鐘楼落慶式初式竝物故者慰霊祭を挙行したるが当日警務局長代理を始め全南警察部長、道内本願寺派寺院住職、仏教婦人会代表、各官庁代表、地方有志等多数参列極めて盛大且崇厳裡に執行されたり。」

小鹿島更生園発行『昭和十二年年報』資料六、二九頁より。滝尾英二編『〜資料集成』第1巻、四二九頁に収録)。

「思想方面に於ても在園患者の多くは文盲にして之が導指亦極めて困難なるものあり、殊に患者の多数は基督教信者にして当初渠等は殊に之が儀式集会にのみ重きを置き、寧ろ国家の祝祭日及之が儀式を軽視せんとするの風あり就中神社参拝の如き一部頑迷なる基督教徒等と策動に依りの相当動揺せんとするの兆ありしを以て数次に亘り我が国体の根本観念を強調して神社と宗教の相違を説示し宗教の自由は之を認むるも神社不参拝者に対しては絶対に之を容認せず仮借なく処断すべき旨を確然宣言すると共に最も強力なる指導を加へて之を実施せしめたるが、爾来年と共に著しく敬神の念高調せらるゝに至り病舎地区に於ける分社は恰も各自の祭神なりとし尊崇し、尚十月一日を例祭として神輿の渡御を行ふ等全く旧態を一変するに至りたり、又一面常に皇室の御仁慈と国家の恩恵に対し感謝の誠意を持すべく強調しつゝある為日と共に報恩奉仕の観念篤きを加へ克く大勢を制して専ら職員の指示に従ひ真に感謝の意を表しつゝ何等の不平なく最も平穏なる情勢を持続しつゝあり」。

小鹿島更生園発行『昭和十五年年報』資料三、三五頁より。滝尾英二編『〜資料集成』第2巻、二七七頁に収録)。

鐘楼 これは浄心楼と名づけてゐる。その朝鮮様式の建物も、あの高い石垣も、皆患者の勤労奉仕である。患者全部が、石を一つ一つ運び。一日でこれだけの石が集まつたのである。

 吊鐘 これは京城本願寺婦人会の寄贈である。午報として、毎日十二時に撞いていてゐる。これに譯されてゐる、「安かりし今日の一日を喜びて御仏の前にぬかつきまつる」といふのは、西本願寺?子裏方の歌である。

 納骨堂 これは、萬霊堂と名つけてゐる。死亡者の内、僅かにその一割か五分ぐらゐだけしか、死体の受取人がないのである。納骨は、只今のところ九百名である。」(西川善方著「朝鮮小鹿島更生園を通して観たる朝鮮の救癩事業」資料八二、一二頁より。滝尾英二編『〜資料集成』第6巻、三二〇頁に収録)

【註】「当時、日本人の医者のなかには、遺体の解剖ができる、とソウルからわざわざ小鹿島へ行く人がいました。朝鮮では植民地時代、死亡した患者は必ず解剖される。死亡した患者を解剖しに行くんです。

 しかし、これは風土の違いがあって、体を切り刻んで火葬にするということは、朝鮮ではあり得ないことなんです。基本的には土葬で、切り刻まれて焼かれたら魂がふるさとに帰れないという思想がある。日本ではいま、お骨をふるさとに返そうという運動がありますが、韓国では焼かれた骨だけふるさとに帰っても、魂は小鹿島にさまよっていると思うわけですよ。

 文化がこれほど違うから、今度の裁判でも、日本の文化をそのまま韓国にもっていって同じ方法で解決しようと思っても、できないだろうと思います。『断種』一つとっても、その苦痛というのは日本では想像もできない。族譜があったりする儒教の社会で、お家のための子孫繁栄をすべて絶たれるということですから。」

(滝尾英二「インタビュー・小鹿島ハンセン病補償訴訟が問うもの」、『世界』二〇〇四年四月号・第七二五号、岩波書店、二二三頁より)。

「その収容所のすぐ東手に、周防園長の銅像がある。この銅像の建設についても、患者達の幾多の美はしく涙ぐましい至情と奉仕の佳話がある。結局患者達は、父と慕ひ救世主と仰ぐ園長への感恩やみ難き願望がかなへられて、こゝにその具現を見たのである。だから朝まだ太陽の上らないうちから、全患者がこの銅像の前へ跪きに来るのである。重症者は他のものゝ背に負れても此処に朝の感謝を捧げに来るといふ――患者達にとって、今は生きるも死ぬるもない。唯だ園長を崇め、園長の導きのまにまに生きることが、唯一つの有難い人生なのである。」

(相馬美知「小鹿島更生園訪問記」五〇頁、『文化朝鮮』、一九四二年五月発行より。滝尾英二編『〜資料集成』第6巻、資料九六、三八四頁に収録)。

現在の小鹿島病院入所者のNさん(八二歳)とSさん(七七歳)は、つぎのよう話してくれた。「証言」してもらったのは、Nさんは二〇〇三年八月であり、Sさんは同年一〇月である。

Nさん(八二歳・男性)の証言――医者や看護婦が日本人であると診察を受けに行っても日本語でしゃべらないと診察してくれませんでした。日本語は強制的に覚えさせられました。

 私も一度だけ監禁されたことがあります。当時入園者には毎日神社の参拝に出ることが強制されていましたが、私はそれがいやで出なかったのです。私はクリスチャンでしたから神社参拝は私の信条に反していました。それがわかって一週間監禁されました。そのとき私はまだ若かったので打たれたけれどあまりひどくはありませんでした。監禁室での食事は、何もくれなかった日もあるし一食だけのときもありました。床はセメントで冬は寒かったです。それ以後は参拝に行くようになりましたがおじぎはしませんでした。見張られていたので、もし見つかればまたやられたと思いますが、見つからないようにしていました。」(ハンセン病小鹿島更正園補償請求弁護団ホーム・ページ「ソロクトからのこえ」二〇〇四年二月一二日更新より。HP担当 弁護士 上田序子)。

Sさん(七七歳・女性)の証言――逃げたり、さぼったりした人は、担当者にどこまでも追いかけられて監禁室に連れて行かれ、殴られ、半殺しのようになって出てきました。院の中の責任者はみんな日本人でしたが、韓国語を話す通訳がいました。また、当時は一人残さずみんな神社参拝をさせられました。」(ハンセン病小鹿島更正園補償請求弁護団ホーム・ページ「ソロクトからのこえ」二〇〇四年二月一二日更新より。HP担当 弁護士 上田序子)。

第七節 皇民化政策の強制、宗教・思想の弾圧 および民族教育の否定

(1)小鹿島のキリスト教と当局の宗教弾圧

田中真三郎牧師が総督府から許可を得て小鹿島で始めての布教をしたのは、一九二二年一〇月二二日のことであり、第二代の花井善吉院長の時に当たる。三・一独立運動(一九一九年)以降の「文化政治」を反映してとられた施政のあらわれであろうか。初代蟻川院長の患者にとられた日本式生活様式に代わって、民族的生活様式となり、キリスト教を信仰する患者も多くなった。

「……宗教ニ帰依セシムヘク礼拝堂ヲ設ケ毎月一回二日間牧師ヲ聘シテ神ノ福音ヲ伝ヘ」るキリスト教患者に、施設の使用だけでなく、癩患者慰安会の会費から、復活祭費・感謝祭費・降誕祭費を充当している(朝鮮総督府編・発行『小鹿島慈恵医院概況 昭和四年度』二二〜二三頁より。滝尾英二編『〜資料集成』第1巻、三八頁に収録)。花井院長は、患者たちの宗教指導にホーリネス教会に入会しキリスト教の福音を聞き洗礼を受けたハンセン病患者・三井輝一を日本から連れて来た。三井輝一はキリスト教雑誌『ラザロ』を小鹿島で自家出版し、神の福音と島の患者たちのことを広く各地に伝えている。林文雄愛生園医務課長はつぎのように書いている。

「……彼の出して居る『ラザロ』は僅か十二頁の謄写版の小冊子であるが、全く独特のものである。一頁の上半部は日本語、下半部は鮮語である。表紙裏には必ず彼の手になる小鹿島内の生活の断片が写真となって入つて居る。鮮女が水をくみ甕を頭に載せて歩いて居る処、洗濯をして居る処、つけ物瓶、島の林の鵠、」(『日本MTL』第二〇号、一九三二年十月発行、林文雄「忘れ得ぬ兄弟」。滝尾英二編『〜資料集成』第6巻、資料二四、八三頁に収録)。

「小鹿島だより」と題して『ラザロ』誌が、『日本MTL』第四九号に転載されている(滝尾英二編『〜資料集成』第6巻、資料四六に収録)。しかし三井輝一は終生、小鹿島にいることは出来なかった。内村鑑三の門下生で「無教会主義」「朝鮮的基督教」を標榜し『聖書朝鮮』を創刊していた(キム)(ギョ)(シン)に、小鹿島更正園の患者・金桂花が書信を送り、三井輝一が小鹿島を離れ、帰国することを伝えている。当局の圧力と排除の抗し切れなかったのだ。一九三五年一一月一日の『聖書朝鮮』第八二号には、そのことを伝える金桂花の書信が掲載されている。

前記の滝尾英二編『〜資料集成』第6巻(不二出版)に載せた「癩訪問の記録 宮川量」のも記述されている矢田文一郎牧師は、一九三二年末に小鹿島の教会に赴任している。教会はより活気に満ち、発展の途に入った。「一九三四年六月七日には、小鹿島清潔教会を小鹿島キリスト教会に改称する同時に中央教会という連合団体をつくり、(中略)同じ年の末には新生里教会も建設された。(大韓癩管理協会編『韓国癩病史』一九八八年発行、一一四頁より)。

一方、更生園当局は総督府から許可をとり、職員地域に小鹿島神社をつくり、その分社を患者地域につくって、患者や職員に礼拝を強制した。一九三六年九月には朝鮮仏教婦人会から大梵鐘が小鹿島更正園に寄付された。同年一二月には小鹿島キリスト教会の矢田文一郎牧師が更生園当局により追放された。「一九三八年一月、中央教会の設立をはじめ六つの部落にそれぞれ教会が出来、それから信者参拝拒否事件が頻繁に起こり、迫害を受けることとなった。太平洋戦争の勃発とともに、より緊急を強要され、戦争物資生産を強制的にやらそうとする周防園長は教会堂まで叺(かます)を編む場所として転落させ、キリスト教抹殺政策を露骨化したし、信徒たちに対する圧迫もより強化された」(大韓癩管理協会編『韓国癩病史』一九八八年発行、一一四頁より)という。

一九四二年三月、『聖書朝鮮』第一五九号の巻頭文「弔蛙」という一文を契機に「聖書朝鮮事件」が起き、執筆者の金教臣など十三名が検挙された。小鹿島更正園の『聖書朝鮮』の読者も家宅捜査を受け、警察署に拘置された。周防更生園長刺殺事件が起きたのは、それから三ヶ月後のことである。

(2) 収録資料『日本MTL』と『朝鮮』

 賀川豊彦を中心に一九二五年六月に設立された「日本MTL」は、月刊の「NIPPON MISSION TO LEPERS」の月刊機関誌を発行していた。同会は、キリスト教者を中心としての民間団体で、ハンセン病患者への宣教と慰問を中心に活動した団体である(藤野豊『日本ファシズムと医療』岩波書店、一九九三年、一二七〜一三二頁)。機関紙『日本MTL』は、はじめはA4判、やがてB5判で八ページほどの新聞パンフレットで用紙も粗雑である。国内では「無癩県運動」への積極的支援、ハンセン病患者への「皇恩」への感謝を宣伝すると共に、植民地下朝鮮のハンセン病患者の小鹿島更正園への収容を賛美している。

 日本MTLは、一九四二年には会の名前を「楓十字会」と改称、機関紙も『楓の蔭』としている。「楓」は昭憲皇太后美子(はるこ)(明治天皇の妃)の宮中の印章に因んだものである。一九四二年七月一日発行の『楓の蔭』第一三五号は、「周防更正園長を悼んで、特殊療養所の急設を望む」と題する記事を載せ、ハンセン病療養所に刑務所をつくれと主張しているのである。

 一九四〇年八月、周防正季の銅像が作られ、患者たちは「報恩感謝日」ごとに銅像に誰一人参拝しなければならなかったし、新たにきずいた夫婦もやはり、その初日には銅像の前で参拝をしなくてはならなかった。キリスト教を信じる患者の中には、偶像を拝むことを拒否して「結婚」を忌避する者もいた。ところが、一九四〇年八月一日の『日本MTL』第一一二号では更正園長「小鹿島、周防園長の寿像建つ!」とそれを賛美している。

第八節 死亡遺体の解剖と火葬、人体実験の可能性

朝鮮総督・宇垣一成は、一九三五年四月二二日、制令第四号「朝鮮癩予防令」を公布。同年六月一日より、朝鮮総督府令第六十一号「朝鮮癩予防令施行規則」が制定されるのであるが、その「〜施行規則」     第十条で「朝鮮総督府癩療養所に入所中死亡したる癩患者の死体は療養所長に於て火葬すべし但し其の相続人、家族又は親族より死体引渡の請求ありたる場合に於て病毒伝播の虞なしと認むるときは之を引渡すことを得」と書かれてある(滝尾英二編『〜資料集成・第3巻』資料二二、二二三頁に収録)。荼毘に付すというのは、日本人の風習で、当時の朝鮮の風習では基本的に土葬であった。

岩波書店発行の月刊誌『世界』の二〇〇四年四月号(第七二五号)に掲載したインタビュー記事「小鹿島ハンセン病補償請求が問うもの」のなかで私(滝尾)は、つぎのように述べておいた。

「当時、日本人の医者のなかには、遺体の解剖ができる、とソウルからわざわざ小鹿島へ行く人がいました。朝鮮では植民地時代、死亡した患者は必ず解剖される。死亡した患者を解剖しに行くんです。

 しかし、これは風土の違いがあって、体を切り刻んで火葬にするということは、朝鮮ではあり得ないことなんです。基本的には土葬で、切り刻まれて焼かれたら魂がふるさとに帰れないという思想がある。日本ではいま、お骨をふるさとに返そうという運動がありますが、韓国では焼かれた骨だけふるさとに帰っても、魂は小鹿島にさまよっていると思うわけです。」(二二三頁)

「患者死亡したる場合は必要に応じ学術研究の為屍体の解剖を行ふことあるへし。右心得に違反したる者に対しては審査の上相当処分す」。以上のような内容の「収容患者心得」は、小鹿島更生園の『昭和九年年報』(滝尾英二編『〜資料集成』第1巻、資料三、二〇七頁参照)以降、毎年度の『年報』に掲載されており、収容患者の管理統制の基本として小鹿島更生園当局は遺体解剖を実施してきた。そのことは、先に述べた通りである。

 

小鹿島更生園当局が、人体実験を行なったという文献は未だ見ていないが、小鹿島病院入所者の幾人から人体実験を行なったという話しを聞いてきた。その「証言」をつぎに紹介しておこう。

 【その一】

一九九七年一二月の上旬、TBS(東京放送)「筑紫哲也ニュース二三」の取材協力のため小鹿島へ行ったときの病院入所者のインタビューで、Dさん(当時七九歳・男性)は、――「大阪の医者という人がいましたよ。日本の軍人、ほら、軍隊で医者をやる人。そう、軍医。その軍医が断種手術もしたし、医学の研究をいろいろやっていて。二四時間でひきつる注射。みんな、「ひきつる注射」と呼んでいました。頭がこんな風にひきつるんですよ。注射されると。そして二四時間で死ぬ。そのために人がものすごくたくさん死んだんです。」と証言した。(滝尾英二著『朝鮮ハンセン病史―日本植民地下の小鹿島―』未來社、二〇〇一年、三〇〇頁)。

【その二】

二〇〇三年八月八日、日本から小鹿島を訪問した弁護士や報道記者の面談で、Mさん(当時八二歳・男性)は、――「入園者の中には日本人の医者に注射をされて神経が引きつれてねじれて死んだ人が何人もいました。診察を受けに行ってこんな目にあった人がいるので、こわくて診察には行けませんでした。これは何か研究のための注射だったと思います。でも私たちには何の説明もないので、それがいったい何だったのかは今でもわかりません。それで二〇人くらいは死んだと思います。みんな人体実験だと噂していました。」と証言している。ハンセン病小鹿島更正園補償請求弁護団ホーム・ページ「ソロクトからのこえ」二〇〇四年二月一二日更新より。HP担当 弁護士 上田序子)。

第九節 衣食住の欠乏と不備 〜飢えと凍死〜

 大韓癩管理協会編・発行『韓国癩病史』(一九八八年)は、戦争末期の食料の欠乏をつぎのように書いている。

「戦争が終りの段階に近づくや、米とか麦を支給していた食糧は、獣も食べることの出来ないような粗悪なとうもろこし、油かす、きびに変わっていった。それも足りなくて、あいた土地にはかぼちゃや、さつまいもなどを植え、食糧の足しにした。そして海草とか草の根っこ、木の皮などで腹の足しにした。重労働と収奪それに飢餓まで重なり、苦難をがまんできない患者たちの脱出は、このとき最高潮に達した。」(一一六頁)

皇太后節子の侍医・西川義方は『朝鮮小鹿島更正園を通して観たる朝鮮の救癩事業』(九頁)によると、

「(一)従前の病舎。これは、大体一舎一室とし、その一室には五人を収容する温突暖房である。十二畳の六人部屋に、南京虫が、一合もとれた部落もあつたさうである。ゲーラン粉末で退治するさうである。

(二)昭和九年以後の病舎。これは、(い)一棟四室、四十人収容を原則とする。(ろ)しかし、地勢によつては、一棟二室、二十人を収容するものも建築されてゐる。(は)更に一棟六室、十二人収容の病棟も作られている。これは夫婦同棲者のためである」(滝尾英二編『〜資料集成』第6巻、資料八二、三一七頁に収録)。

しかし、西川義方は同著の別の箇所で、「周防園長の話では、結核死は八〇%である。それから、癩者は、一般に肺炎には弱い。感冒が流行すると、ばたばたと死亡して行くといふ。斯様に結核死の多いといふことは、集団生活の密度にも原因してゐたことであらう」(滝尾英二編『〜資料集成』第6巻、資料八二、三一四頁に収録)と述べて、暗に小鹿島更正園が一室に一〇名収容を原則とした「集団生活の密度にも原因」を指摘していることは注目される。なお、実際は、滝尾英二編『〜資料集成・第8巻』資料二〇に書かれている入所者・Sさん(七九歳・女性)がいうように、「宿舎の中はとても寒くて、人があふれていました。今のようなベッドなどは全くありませんでした。あふれた人はかますを敷いてその上に寝たりしましたが、そのかますを敷く場所さえもないことがありました」という実態があったのである。

「ハンセン病小鹿島更正園補償請求弁護団ホーム・ページ『ソロクトからのこえ』(二〇〇四年二月一二日、HP担当 弁護士 上田序子)」に書かれている入所者たちも、衣食住の欠乏により苦しかった数多く話が書かれている。

Mさん(七八歳・男性)――食事は一日に干し麦二合と米が二合与えられました。ほかには漬物も何もありませんでした。自分で飯をたいて、塩だけで食べたりもしていました。自分たちで作った野菜を塩で味付けして食べたりしましたが、それは野菜が収穫できる秋だけの話でした。

 飯をたくには薪が必要ですが、この島で木を切ることは許されませんでした。落ちている葉っぱを拾っただけでも断種されました。薪は船で別の島へ行き取って来なければなりませんでした。」

Tさん(七九歳・女性)――宿舎の中はとても寒くて、人があふれていました。今のようなベッドなどは全くありませんでした。あふれた人はかますを敷いてその上に寝たりしましたが、そのかますを敷く場所さえもないことがありました。

 食料は、麦・米がほんの少し与えられて、それを茶碗に入れて水を注ぎ、それを大きな釜の中に入れて炊きました。量が少ないものですから、半分だけを食べて、後の半分を残して後で残りを食べるということもありました。とにかくお腹がすいて言葉にできないくらいでした。労働をしない私(註・体が不自由だった私は、作業の分担はありませんでした。私の介護は、同じ院生の患者がしてくれました)でさえそうなのですから、他の重労働をしていた人たちは、もっと大変だったと思います。」

Sさん(七七歳・女性)――食事は、一日につき決まった量の麦と米しか割り当てられませんでした。三食分にはとても足りない量でした。一人ずつ個々に麦と米を割り当てられるので、自分のお椀に、水と一緒に少量の麦か米を入れて、そのお椀ごとに釜に入れて炊きました。お椀には水をたくさん入れて、できるだけ増やして炊きました。同じ部屋の足が不自由な人が、作業をしている間に炊いてくれるのですが、できあがるものは、ご飯といっていいのか、お粥といっていいのか、わからないものでした。

お腹がすいても、それ以外には食べ物がなく、せいぜいカボチャを蒸したものが、特別に重労働をした人に与えられるだけで、煉瓦づくりくらいだけでは、与えてもらえませんでした。

宿舎ごとに数坪の田圃を与えられて、白菜などのキムチ用の野菜を作ったりもしましたが、ほんの少量で、食料は全然足りませんでした。私の同じ部屋の人で、あまりにお腹がすいたので、食べ物を盗んで、事務室で怒られたという人がたくさんいました。」

皇太后節子の侍医・西川義方の「前掲書」は、つぎのような小鹿島更生園に収容された患者に支給された「被服」に関する記述がみられる。

「被服として、(一)朝鮮式袷二枚、(二)朝鮮式単衣二枚、

以上は、いづれも、白地の朝鮮木綿で作つてある。日支事変後は、混紡製である。(中略)

被服の色は、一般に白である。両斑は淡青色を用ゐる。常民以下は、色物の上衣を着けぬことになつてゐたのである。両斑とは、特別の上流である。女子は、水色を好むやうである。白以外の色物は、夏季の淡色を除いては、紅、黄、青のやうな鮮麗な原色や、或は濃厚な対色配合を好むやうである。

なぜ、朝鮮人が、白色を好むか。(中略)この白衣好尚は、本質的に好むといふても、やはり習慣であらう。」(一七〜一八頁)。(滝尾英二編『〜資料集成』第6巻、資料八二、三二五〜三二六頁に収録)。

果たして、西川義方が書いているように「被服として、(一)朝鮮式袷二枚、(二)朝鮮式単衣枚。以上は、いづれも、白地の朝鮮木綿で作つてある」ということは正しいか。否である。小鹿島更生園当局から収容患者に支給されている被服は、「白地ではなく鼠色」であり、患者の不満とするところであった。このことについて、財団法人・友邦協会発行『朝鮮の救癩事業と小鹿島更生園』(一九六七年九月)に掲載された「〜園の建設及び運営について」当時小鹿島更生園庶務課長であった吉崎達美は、つぎのように書いている。

「患者の生活は、完備した医療施設、豊富な衣食の供給、立派な宿舎、作業手当の給与、夫婦関係の公認など極めて気楽で、格別の不満もなかったのでありますが、強いて患者の不満とするところを挙げれば、島外と自由な交通ができないこと、信書が消毒の際検閲される疑いのあつたこと、給与される衣服が白色でなく鼠色であつたこと、及び神社参拝が励行させられたことであろうかと存じます。患者には多くのキリスト教信者もありましたから、患者の精神指導を神社崇敬によつて行なおうとする園の方針には、若干の抵抗もありました」(三六頁、傍線箇所は滝尾)。

吉崎達美が小鹿島更生園庶務課長として勤務していたのは、一九三四年十月十八日から一九四一年九月十八日までの約七年間である。吉崎は庶務課長として周防正季園長に次ぐ地位にあって、小鹿島更生園の建設及び運営に当たっていた。

一九三四年九月十四日、天皇の名と印に基づき、内閣総理大臣兼拓務大臣・岡田圭介は「勅令第二百六十号・朝鮮総督府癩療養所官制を裁可し之を公布」するとしている(『朝鮮総督府官報』第二千三百十号による)。この勅令の第一条において「朝鮮総督府癩療養所は朝鮮総督の管理に属し癩患者の救護及療養に関することを掌る」とし、第三条で「所長は医官を以て之に充つ、朝鮮総督の指揮監督を承け、所務を掌理し所属職員を監督す」と定めている。総督府警視であった吉崎は「朝鮮総督府癩療養所官制」が定まった直後に、その庶務課長として赴任している。

吉崎が、小鹿島更生園庶務課長を辞したのは一九四一年九月十八日である(『朝鮮総督府官報』第四千四百三号による)。その九ヶ月後には、園長・周防正季が同園患者により刺殺されるという事件(一九四二年六月二〇日)が起きている。

吉崎が、友邦協会発行『朝鮮の救癩事業と小鹿島更生園』(一九六七年九月)に掲載したのは、今から三七年前の一九六七年九月。この執筆を依頼したのは朝鮮総督府の上級幹部であった萩原彦三(拓務省管理局長、総督府官房総務課長、道知事を歴任)である。それにしても、小鹿島更生園に収容された患者の生活や不満を程度にしか捉えていないのかと思うと腹立たしい。しかし、吉崎のいう傍線の箇所にみられるように、小鹿島更生園に収容された患者に「給与される衣服が白色でなく鼠色であつたこと」は明白である。

朝鮮民族は「白衣の民」といわれていたが、日常生活では色物も着ていた。しかし、園当局が患者に給与される衣服が白色でなく鼠色というのは、適切とはいえず、患者が不満を受けるのは当然だと思われる。

「色衣着用・奨励」は「農村振興運動」として、一九三〇年代の第六代朝鮮総督・宇垣一成の施政期に朝鮮総督府によって立案されたもので、三三年から「物心一如」の運動として展開され、戦争の拡大とともに皇民化政策の一環として精神運動の面が強化されたものである。その運動の「生活改善に対する更生計画」として、「国旗掲揚、色衣着用、貯金励行」等が掲げられた。朝鮮総督府の八尋生男著『農村更正計画樹立方法解説』一九三四年(友邦シリーズ・第二五号『 資料選集・朝鮮における農村振興運動』一九八三年八月発行に収録)には、「生活改善に対する更生計画」の(二)色衣着用として「色衣を着用すれば挙動活発となります、営農、家事労働がかるくなることによつてその作業能率は上ります、又洗濯手入の煩雑を軽減します。即ちその費されつゝあつた時間は今や有用に営農家事の方面に利用せられませう」と書かれている。

元朝鮮総督府殖産局長の穂積真六郎は一九五九年六月十日の口述『歴代総督統治通観』で、「『色服奨励』にしても、白い着物を着ていると墨をぶっかける等昔は随分ひどいことをしたこともあったようですが、(中略)元々『色服奨励』の趣旨は、『農村振興運動』は一家を挙げて働なければならぬ。白い服では洗濯に時間や仕事をとられて了い、本当の生活にはならない。汚れない着物を着て婦人にも働いて貰うということから来たものでした」と述べている(友邦シリーズ・第三十号、四〇頁に収録)

小鹿島更生園に収容された患者に、「白色」ではなく、「鼠色」の衣服を支給し着せて、患者が不満を受けたことの意味を理解してほしい。白衣でなく、汚れの目立たない鼠色の着用をさせた当局は、収容患者の民族意識の逆撫でした行為であり、また小鹿島更生園が療養所ではなく、「労働力」目当ての強制収容所であった左証である。

第一〇節 小鹿島の子どもたち「病舎地帯」の子どもたち

 日本の植民地支配にあった時期の「小鹿島慈恵医院・小鹿島更生園の子どもたち」について見ていくことにする。

  小鹿島慈恵医院が開設されて間もない一九一七年五月三十一日の『毎日申報』は、「小鹿島の別天地――ムンドゥン病患者収容する所」との見出しで朝鮮総督府医院長芳賀栄次郎の談話を掲載している。その記事に次のような内容が見られる(原文は韓国語である)。

   

「夫婦の患者はいないが、乳飲子をかかえた女性が一人おり、最初はその子供を離すよう強く命じたものの、女性は子供を非常にかわいがり、死んでも離さないと言っていたが、そうこうする間に、子供にも病毒が伝染したというかわいそうな話もあった……」。滝尾英二編『〜資料集成』第3巻、資料四、三五頁に収録)。

 

 開園当時、一九一七年四月から十二月までの収容患者数は九十九人、うち死亡患者数二十六人でその死亡率は二六・三%にも及んでいる。翌一八年の患者死亡率は八・六%に下がってはいるが、それにしても高率である(一九二九年度『小鹿島慈恵医院概況』より。滝尾英二編『〜資料集成』第1巻、資料一、五二頁に収録)。初代小鹿島慈恵医院長には、陸軍一等軍医の蟻川亨が就任し、慈恵医院の運営に当った。そして、植民地医療と患者に対する日本式生活様式を強制した。前述の乳飲子に対して、院内で保育することなど、望むべくもなかった。

  一九二九年二十八日、病死した花井善吉院長の後任として、三代院長に矢澤俊一郎が小鹿島へ着任した。二代院長花井善吉は、初代院長蟻川亨の「患者に対する日本式生活様式を強制」を改革した。即ち、「服は従来の韓式に改め、中央配給式の食事も各病室ごとに口に合ったように食べるようにした。家族と通信と面接も自由に許し、一時帰郷も許可した。信仰の自由も保障し、キリスト教と仏教を自由に信じるようにし、彼等たちの礼拝堂も、教会専用を許した」(『韓国癩病史』大韓癩管理協会、一九八八年、七五頁)

  ところで当時、小鹿島慈恵医院には子どもたちが何人いたのだろうか。一九二九年度『小鹿島慈恵医院概況』に依って、入院患者の年齢別調査表をあげておこう。

  五歳から十五歳までの少年・少女が二十九人、収容されていることが分かる。小鹿島慈恵医院は、教育についてどのような考えで、どのような取組みを行なったか。再び、一九二九年度『小鹿島慈恵医院概況』(朝鮮総督府発行)の記述を見ていこう。

 

「患者の多数は無教育者なるを以て是等に対し智徳涵養の目的を以て患者中学識ある者を撰ひて南北両舎共に普通学校教科書を授けしめ居れれか次第に文字を解する者多きを加へつつあるは誠に喜はしき現象にして目下其の生徒数百八十七名を算するに至れり今現在患者の教育別を挙げくれは左の如し」。滝尾英二編『〜資料集成』第1巻、資料一、四四頁に収録)。

   

  患者学校の建物は、一九三五年についてみると、一棟・九十九坪二三、それに附属の家屋一棟十六坪一五であり、一九四一年においても患者学校の建物坪数は、一一九坪二三に過ぎなかった。職員の子どもの通う小鹿島公立小学校に比較して、極めて狭隘といわざるをえなかった。

小鹿島慈恵医院で行なう教育は、学齢期の子どもだけでなく、成人も加わり、普通学校教科書を使った文字の習得が中心であることが窺われる。教師は患者中学識ある者から選ばれている。この時期には「未感染児童」(前号で述べたように「未感染児童」という用語は不適切語である。また、各年度の小鹿島更生園『年報』にには、「未感児童」という用語が使用されている)の教育は行なわれていない。

 「未感染児童」の教育が行われ、「小鹿島更生園年報」に記述されるのは、『昭和十年年報』(一九三六年十月一日発行)からである。そこには、次のような内容が書かれている。

 

未感児童保育所の新築 ――癩患者中には未た癩に感染せざる子女を携帯せる者相当多数ありて之が分離保育は人道上よりするも将又癩の根絶を期する上に於ても最も必要なるに依り近々之れが分離保育の行はるるに至るべきを慮り既定の癩療養所拡張工事以外に新に昭和十年度に於て未感児童保育所を新築することとし経費二万四千円を以て島内病舎地帯と健康地帯の中間に一区画を設け昭和十年五月工を起し同年八月竣工したり」。滝尾英二編『〜資料集成』第1巻、資料四、二五九頁に収録)。

 

  さらに『年報』には、「建物――未感知児童室(一棟・三十九坪七二)、 未感知室(一棟・五十七坪三九)、未感児童学校(一棟・三十六坪六三)」といった記述が見られる。また、木造平屋建て三棟の「未感児童保育所」写真 が『年報』の口絵に載せられている。 患者学校に比べ、少人数のわりに建坪はひろい。現在、中央公園の入口にある小鹿島「資料館」となっている建物である。

  一九三四年九月十四日の朝鮮総督府「癩」療養所の官制公布に伴い、同年十月一日より道立小鹿島慈恵医院は国立療養所となり、名称も小鹿島更生園と改称した。翌三五年十一月、収容患者千五十名の増員を行ない、第一期拡張三千名増員計画が完了した。その結果、一九三五年十二月末の収容患者数は、三千七百三十三名の多数を算した。それを年齢別に表示すると、次のようになる。

二歳から十五歳までの乳幼児・少年少女の数は、男子九十七名、女子五十九名、計百五十六名である。その内、「未感児童の収容及保育」されている者は、一九三六年の小鹿島更生園『昭和十一年年報』によれば、下記のように記述している。

「……之等児童の分離養育は最も急務にぞくするを以て有毒地帯及健康地帯の中間に一区画を設け収容、保育設備の完成を見たるを以て昭和十一年度に於て十四歳以下四歳以上の児童二十五名(男一二、女一三)を収容せり」滝尾英二編『〜資料集成』第1巻、資料五、三三五頁に収録

 

「感染していない入園者の子女を保育するために病舎地帯と職員地帯の中間に建てられた保育所は、親から子どもを引き離して癩を根絶することはもとより、女性を強制労働に動員するにも有利であった」国立小鹿島病院編『写真で見る小鹿島八十年』一九九六年発刊、二五頁に収録。原文は韓国語)。

これは、一九九六年四月に国立小鹿島病院が発刊した『写真で見る小鹿島八十年――九一六〜一九九六』に書かれている「未感染児童」保育所の設立目的についての説明内容である。「未感児童保育所」の建物の前で、十六名の子どもが一名の指導員とともに収まっている当時の写真である。

ところで、『昭和十四年年報』(一九四〇年八月発行)は、「(第一期工事)未感児童保育所の新築」として、「癩患者中には未だ癩に感染せざる子女を携帯せる者相当多数ありて之等の患者を収容するときは未感染児童は其の扶養者を失ふを以て之が保護救済は人道上よりするも将又癩の根絶を期する上に於ても最も必要なるに依り近き将来に於て之が分離保育の行はるるに至るべきを念ひ既定の癩療養所新営設備計画外に新に昭和十年度に於て未感児童収容所を新築することとし経費二万四千円を計上し小鹿島内病舎地帯と健康地帯の中間に一区画として五月起工し煉瓦造瓦葺の嬰児室、児童室、学習室、倉庫及木造瓦葺の浴室を新営し昭和十年八月竣工せり」と述べている。滝尾英二編『〜資料集成』第2巻、資料二、一八六頁に収録)。

  次に「患者学校」について見ていこう。小鹿島更生園『昭和十年年報』には、次のような記載がある。更生園当局の「患者学校」設立の意図が窺がえる。

「患者中幼少者の多数は無教育者なるを以て智徳涵養の目的にて職員及患者中学識ある者を撰びて講師とし学園に於て普通学校の教科書に依り其の教科を授けつつあるが次第に国語竝に文字を解する者多きを加へつつあるは誠に喜ばしき現象にして目下其の生徒数二百八十八名を算するに至れり而して現に収容患者中青年にして克く園則を守り中堅人物として他患者の範となり居れるは学園出身者に多きを以て一層之が充実に努めつつあり」。滝尾英二編『〜資料集成』第1巻、資料四、二四八〜九頁に収録)。

  「患者学校」は小鹿島神社分社前の「病舎地帯」に建てられた。建物は一九三五年度で患者学校一棟・九十九坪二三、同附属家一棟・十六坪一五であった。一九四一年度『昭和十六年年報』には、患者学校の建坪は百十九坪二三で、職員に子どもの通う小鹿島尋常・高等小学校に比べ、建坪から見ても非常に劣っていた。患者学校では、「普通学校の教科書に依りその教科を」教えている。佐野通夫著『近代日本の教育と朝鮮』社会評論社(一九九三年)によると、この時期の普通学校教科書は、朝鮮総督府によって編纂が行われて、日本語で書かれ、「皇民化」教育の内容のものが実施されている。小鹿島更生園の「患者学校」の行なった教育も、その例外ではなかった。

  患者に「国語」つまり日本語を習得させ、「収容患者中青年にして克く園則を守り中堅人物として他患者の範となる」ことを園当局は生徒に期待していた。学園教師は七名で、うち六名は患者教師で、体操とか手工などなく、必スウ科目のみ教え、日本人職員は一名で矢田牧師が修身のみ教えている(長島愛生園書記・宮川量が一九三六年七月に小鹿島更生園訪問した際のメモ。滝尾英二編『〜資料集成』第6巻、資六六、二四八〜九頁に収録)

  学園の患者教師は「学識ある者を撰びて講師とし」、患者教師が日本語の指導にあたった。一九三七年に「皇国臣民の誓詞」が定められると、学校でも患者たちに唱えさせた。すべての患者たちがそうであるように、「常ニ皇室ノ御仁慈ト国家ノ恩恵ニ対シ感謝ノ誠意ヲ持スベク強調」(『昭和十六年年報』)された。学園教師・姜甲壽は、一九四一年五月二十日の小鹿島更生園創立二十五周年記念式において、「患者学園教師トシテ多年児童ノ教養ニ努メ其功労大ナルモノ」として、特に、更生園当局から表彰されている。朝鮮人患者教師のなかには、早稲田大学など日本の学校を卒業した者もいた。

   収容患者入園前の職業(各年十二月末調べ)をみると、「普通学校(小学校=滝尾)児童」の数が各『年報』に載っている。それを表示すると、次のようになる。 普通学校から児童が小鹿島更生園に収容されていたことが分る。一九四一年には、百七十一名にも達している。                        

 ところで、「朝鮮総督府官報第千九百九十六号、大正八年(一九一九年=滝尾)四月八日は、つぎのような内容を「府令」として公示している。

朝鮮総督府令第六十号、学校伝染病予防及消毒方法左の如く通定む。

   大正八年四月八日         朝鮮総督 伯爵長谷川好

学校伝染病予防及消毒方法

    第一章 予防方法

第一条 学校に於て特に予防すへき伝染病の種類左の如し

  第一種

   甲 痘瘡及仮痘、ヂフテリア、猩紅熱、発疹チフス、ペスト、流行性脳背髄膜炎

   乙 百日咳、麻疹、流行性感冒、流行性耳下線炎、風疹、水痘、肺結核、癩

  第二種 

     赤痢、コレラ、腸チフス、パラチフス

  第三種

   伝染性皮膚病、伝染性眼病

第二条 第一種甲又は第二種の伝染病に罹りたる職員生徒は昇校することを得す(中略)

第三条 第一種乙又は第三種の伝染病に罹りたる職員生徒は其の病状に依り医師に於て適当の処

   置を施し伝染の虞なきことを証明したる後に非されは昇校することを得す」。

               (滝尾英二編『〜資料集成』第3巻、資料五、三七頁に収録)

 『東亜日報』一九三七年十月二十一日の見出しは、三段抜きで「癩患家の児童を突然退学処分/理由は児童衛生強化策―漆原公立普通学校で断行」の記事を載せている。

「【漆原】癩病全体に関してはまだ具体的法令が制定できていないため一般社会に及ぼす弊害が大きく、一方では患者数が日に日に増える現状は、まことに憂慮すべき問題である。それで慶南道ではこのような弊害を減少させるため、まず学園から癩病を駆逐することにし、各学校に在学している癩病患者であるならばすべて退学させることにしたという。これにより漆原公立普通学校(朝鮮人児童が通学する小学校=滝尾)でも五、六名の児童を校医が検査したところ一名の保菌者がおり、すぐに退学させることにしたという。」(滝尾英二編『〜資料集成』第5巻、新聞資料編、二三〇頁に収録)

同じ『東亜日報』は一九三五年四月十七日に「小鹿島施設近々完成、男は耕作し女は織る、―幼い患者には文字を教える―別天地で陸地とは没交渉となる、今秋には癩病患者を千名収容」という見出しの記事を掲載している。そのなかで「更生園では……幼い患者のため普通学校も設置、現在、児童百五十名を収容しているという」との記事が書かれている。滝尾英二編『〜資料集成』第5巻、新聞資料編、一六三頁に収録)

ハンセン病の子どもは、家庭や各地のハンセン病集落から特別列車や特別仕立ての船で、小鹿島へと収容されて行く。小鹿島へと収容された子どもの生活や教育を、当時の日本人関係者の目には、どのようにうつっていたのか。

 

一九三六年七月のはじめに、小鹿島更生園を訪れた愛生園書記の宮川量の残したメモ及び一九四二年五月発行の『文化朝鮮』第四巻・第三号の取材のため訪れた相馬美知、三枝記者による記事・座談会の内容についてみていき、小鹿島更生園の子どもの実態を窺がっていくことにする。

 

 「昭和十一年七月はじめ、小鹿島上陸。

慈恵丸、鹿洞―小鹿島間を往復、有料船、船賃片道金五銭也。(門衛詰所の職員に支払ふ)。官舎住民その他渡航者より徴収する船賃は官舎の子供の小学校の費用に当てる」。

「職員と患者が親しくする事を園長はイヤがるそうだ。一寸患者の舎にでも行つて(勤務以外に)子供でもだつこしたりして遊んでゐるとすぐ事務の人に叱られると三木看護婦さんは言つた」。

「少年少女について

一、少年舎……少年舎はある。少年の全部ではないが、十名は入つてゐる。患者がそれのお父さんとなり、キリスト教主義にて、寄宿舎といふよりも、良い意味の修道院の様だといふ。お父さんが先にたって便所掃除もやる。庭などきれいに手入れされてゐた。

二、少女……少女舎はない。親につれられたり、他の大人にまぢつて住んでゐる。

三、普通教育……更生園に籍を置いてゐる者、男子・女子二五〇名。

        毎日出席する者、約二百名。

    教師、七名。六名……入園者、……体操とか手工などなく、必スウ科目のみ教へる。

                一名    矢田牧師(職員)……修身科のみ教へる。

四、日曜学校……毎日曜日に殆ど全少年少女がこれに出席する。

五、少年少女は割合に性質がよく、困る様な者はないといふ事である。

      未感児童について

(七月三日現在)男子八名、女子四名、いづれも七才より十三四才までの学童のみ。

乳幼児のうちにどれだけの未感児があるかよくわからぬ。

中を歩くと母に或は父に抱かれた赤ん坊や、我等をとりまいて集つて来る幼児は相当にあつた。保母がないのと手がかゝるので、収容してゐないといふ事であつた。

職員  男の先生一人……子供がねれば官舎にかへる。

      女の先生一人……以前京城の小学校教師であつた人。現在刑務所の布教師である僧

                      侶の妻。勿論通勤。

      他に鮮人の炊夫一人。健康になつたといはれる患者一人、此の人が保育所にねる。

          どんな人か見ることが出来なたつた。

          附記  大きい子供の家はオンドル。乳幼児の家はスチームが通つてゐる。

   保育所はあたかも患者区域の中にある如し。小高い丘の上ではあるが、すぐ下には患

者がいるし、上のレンガ工場では患者も働らく。

彼等子供にたつたこれだけの塀の中の天地では余り(にも)可愛相だ。

   職員は二人共一所懸命に蚊帳を張つたりしてゐたし、子供の面倒もよく見る様であつた。唯困つたことには子供は両親の感化にて(中から来た子供ばかり)いづれもクリスチャンだが、先生は僧侶の妻等。子供が終始うたふ唄も一緒にうたつてやることが出来ない。子供は内地語がろくに語れない。又よく聞けない。二人の職員もよく鮮語がワカラない。これが眼についたこと感じたことだ。

それでも、子供は此の先生方から教へられた「空も港も夜は晴れて」とか「雀の子」とかの歌をうたつた。

愛生園の子供らの絵でも送つてあげたら、よろこぶだろふ。彼らはお習字が上手だか   ら、お習字と交換したらどうかと思つた」。滝尾英二編『〜資料集成』第6巻、資料六六、二四〇〜二五二頁に収録)。

  次に、アジア・太平洋戦争中の一九四二年五月に朝鮮総督府鉄道局内にある東亜旅行社朝鮮支部が発行したものである。編集後記には「本号はその燦やかしい聖戦の銃後に、文化聖戦としての『小鹿島更生園』の存在を、世界に誇りたい。……『小鹿島更生園』の事業と生産的資源と共に人道的資源として、立派に東亜日本のための今後に役立つ『価値』なのである」と述べている。

  さて、『文化朝鮮』の本文にはつぎのように「小鹿島の子ども」のことを書いている。

「小鹿島更生園訪問記」相馬美知

「……東の海岸の松並木に近い谷に、広い運動場をもつた島の国民学校がある。更生園職員の児童が百五十名余りゐて先生が五名だといふ。(中略)

  この治療本館と中央病舎とを出て、未感児童収容所を訪う。未感児!、たとへ肉親とはいへ既発患者と同一に取扱ふことの憐憫と非人道性から、この更生園では分離して保育してゐる。かうした処にも、小鹿島更生園の人道的価値の高さが存在するのであつて、僕は頭を垂れずにゐられなかつた。その収容所のすぐ東手に、周防園長の銅像がある。(中略)

  それから患者三千人を入れることの出来る中央公会堂を見て癩児の学園を見る。教師は早稲田大学を出たやはり癩者であるが、全く感謝に暮し、児童達に皇国に生を享くるものゝ幸福を説いてゐた」。滝尾英二編『〜資料集成』第6巻、資料九六、三八二〜四頁に収録)。           

「更生園現地座談会(更生園倶楽部に於いて)

 記者  癩は一般社会ではこれまで遺伝のやうに思はれてゐましたが、今では伝染と決定したのですね。

  市原技手  伝染です。幼児に伝染しやすいのです。発病は大体十五歳から二十歳までが多いのですが、中には七歳位で発病するのもあります。

  記者  胎盤伝染はしませんか。

  市原技手  鼠癩ではある程度あるからといつて、人体の場合も同様だとはいはれません。

  竹内医官  こゝでは七歳が一番下で、もう結節を見せてゐます。

  市原技手  ……菌がゐて病状が進行する以上明らかに伝染です。かゝり易い体質といふことは認められはしますが。

  記者  生れ出る新しい生命は、分離すれば大丈夫なのですか?

  市原技手  すぐ分離すれば救へます。こゝの未感児童は五歳か六歳かまでは父母と一緒にゐたのを未感児として分離してゐるのですが、中間的存在ですね。……大人はさうかゝるものではありません」。滝尾英二編『〜資料集成』第6巻、資料九七、三八八頁に収録)。

  私は、これらのメモや記事を読んで、更生園当局側の決めたコースに従って、林立する小鹿島更生園の建物を短時間見て廻った人の「小鹿島更生園訪問記」だという感を深くした。更生園の職員たちも、実は全島を六つの集落(生里)に分け、六千名も収容した患者の生活や労働、医療の実態を知っていないし、また、知ろうとしなかったのではないか。日本人職員の多くは朝鮮語を読めず、患者たちと朝鮮語で話そうとする努力もしなかった。

  小鹿島に収容されたハンセン病患者たちは「皇室の御仁慈」とか「皇国に生を享くるものゝ幸福」といっても、植民地支配を受けている朝鮮人患者には、隔離・断種・虐殺……の生活の連続であり、信仰や言論の自由も認められない日々に過ぎなかった。小鹿島を訪問する日本人には園のお決まりコースを歩き、「この島の癩療養所を見るとき、静かな海、松のみどり、高度な文化的施設と医学、いやそれらの一切にもまして更生園そのものゝ愛情」(『文化朝鮮』の序文)と小鹿島を賛美する。それが、患者にとって、いかに白白しいものであったか。

  宮川量のメモを読むと、更生園職員の収容された子どもの扱いに、宮川はかなり批判的である。しかし、日本の療養所に勤務し、愛生園長光田健輔の信奉者であった宮川は、虚構の「家族主義」を信じ、子どもの「隔離」を当然してきた。その宮川ですら、小鹿島の実態に対し疑問を抱くところに、日本の植民地下の医療・教育の「本質」の一端があったともいえよう。

第一一節 国防献金の将兵慰問金献納の強制、官給主食物(食料)減量の強制

「在園患者は日常作業の外総ゆる方面に積極的奉仕活動を続け来りしが支那事変勃発以来機会ある毎に訓話其の他の方法に依り患者をして時局の認識に努めたる処渠等も之を克く理解し此の重大なる時局下に於て吾々多数の患者が何等の不自由なく極めて平穏に園内生活を為し得るは偏に 皇室の御仁慈と国家の恩恵に依るものなることを深く痛感し患者と雖銃後国民の一員として晏如たるを許さずと為し自発的に国防並将兵慰問の献金を為すと共に国策に順応し金並金製品を政府に売却したるが其の状況左の如し

尚昭和十三年二月十一日紀元節を卜し在園患者一同自発的に官給主食数を減量し以て時局下に於ける国家経費の節約に資せんとの請願書を提出したるを以て熟考の上其の真摯なる願意を容れ従来の支給量より主食米麦中一人一日当五勺宛を減ずることとし同年二月十九日より実施し現在に及びたるが癩は其の疾病の性質上食欲方面に於ては普通健康者と何等異なる点なく殊に患者の大部分は収容前労働に従事し居りし者又は浮浪徘徊者なる為其の習性上食餌の量極めて大なるを以て右減量に依り相当苦痛を感じ永続困難に非ずやと思料せられたるも渠等は克く之を克服し何等の不平不満なく経過し来れるが右減量実施に依り一箇年に於ける食費中約二万円の余裕を生ずるに至れり、如斯は時局の重大性が患者の脳裏に如何に大なる反響を与へたるかを如実に物語るものにして此の機を逸せず愈々其の指導統制上萬遺憾なきを期すべく努力中に在り」。小鹿島更生園発行『昭和十六年年報』、「時局に対する患者の認識」四四〜四五頁より。滝尾英二編『〜資料集成』第2巻、資料四、三六四〜五頁に収録)。

「『患者は時局について?』と聞けば、(横川庶務課長は言う=滝尾)――

『それについては、我々といへども国家のためお役に立ちたいと、二百三十三の愛国班をもつて活動し、先づ節約を申出ました。此処で使ふ繃帯は年四万反で、値が五万円に上りますが、その巻替へ回数を自発的に減ずると一緒に、一方洗濯のきくかぎり使つて一万反ですましてゐるし、木炭製造・叺製造・松脂採取・兎毛皮生産・煉瓦製造等の作業に服して、銃後増産に一心になつてゐますし、献金なども一日二銭から五銭の作業奨励金を貯金して醵出し、今までに八十七回金額で二千数百円に達してゐます。今度も飛行機献納金として一ぺんに三千円も集めたといふ赤誠振ですよ。』(相馬美知「小鹿島更生園訪問記」、『文化朝鮮』、一九四二年五月発行より。滝尾英二編『〜資料集成』第6巻、資料九六、三八四頁に収録)。

第一二節 一九四五年八月二一日の自治会員ら患者八四名の虐殺の責任

『同和』第七〇号に掲載された第五代小鹿島更生園長を務めた西亀三圭の「終戦当時の小鹿島」という記録に依りながら、森田芳夫は自著で『朝鮮終戦の記録』巌南堂(一九六四年)には、つぎのような記述をおこなっている。

「朝鮮人職員が自分の手で更生園を経営しようとするのに対して、患者(朝鮮人)側は、自治委員会の名の下に、みずから経営する方針をたてて、二〇条にわたる主張をして譲らなかった。十九日に小鹿島刑務所にいた受刑者七〇名が脱獄し、一般患者とともに、朝鮮人職員を襲撃した。朝鮮人職員はのがれて、対岸に救いを求めたので、武装した朝鮮人がはせつけて暴動する患者に対して発砲したために患者側の犠牲者は数十名に上ったという」(九一頁)

ムンドイン詩人・韓何雲(一九一九〜七五年)は「韓国癩患者虐殺史」のなかで、「‥‥祖国が解放・光復した天空のもと、同民族のライ患者が無辜に虐殺されたばかりか、歴とした法治国家であるこの国において、何らの法的制裁も科せられなかった。これは、『ライ病人殺して殺人だと』という呆れんばかりの古い諺を弄んでいるかのようである。(中略)無慈悲な虐殺を、全人類の前に残忍なる事実として公開することによりその慰霊を果たさんとする」と述べている(滝尾英二編『〜資料集成』第8巻、資料二一、二七二〜二八〇頁に収録)

この患者殺戮事件について第五代園長・西亀三圭ら日本人職員がどう関与したかの真相は明らかでない。しかし、森田芳夫著『朝鮮終戦の記録』のつぎのような記述を読むと、小鹿島更正園長西亀三圭や朝鮮総督府行政当局が無責任であったといえるのではなかろうか。

「二十二日に日本軍が出動して、騒ぎはようやく静まった。その間、在島日本人約二百名は公会堂に集結して、事件にまきこまれず、犠牲者もなかった。二十四日に日本軍が撤退する際に、日本人は軍と行動をともにし、筏橋を経由して麗水に出て引き揚げた。」(九一頁)。

日本人職員たちの「いのちの安全」の確保ははかっても、患者たちの「安全と治安確保」については西亀園長の念頭にはなかった。当時、朝鮮南部の日本軍、警察の力は未だ健在であった。だから、「二十二日に日本軍が出動して、騒ぎはようやく静まった」のであろう。ところで、なぜ、前日の八月二十一日に、患者たち八十四名が虐殺された時、小鹿島療養所に入所している患者の生命を守るという措置がなぜとられなかったのか。患者たちを虐殺した朝鮮人職員たちは、西亀園長が総督府と図って採用した人たちである。直接、日本人が患者虐殺に手を貸さなくても、西亀三圭園長らの責任は免れることは出来ない。また、朝鮮総督府の「癩」政策の当然の帰着であったといえよう。

二〇〇二年三月に聞き取りした七十七歳になるハルモニが、押入れの行李の中から出してくれた手記がある。このハルモニは、解放直後に起きた八月二十一日の大虐殺事件の体験の私の問いに答えて、「私は自室にいたので直接、殺害現場は見ていないが、中央公園あたりから松根油で人びとが焼かれる煙の強い匂いがしたことを、今でも記憶しています」、と答えてくれた。

二〇〇二年の八月六日から九日まで、私は小鹿島で行なわれた市民団体「チャムギル」が主催するボランティア活動に参加した。その最終日の八月九日に小鹿島入所者自治会の姜大市(カンデシ)会長から、八月二十二日に自治会が主催して行なう「哀恨之追慕碑」除幕式参加の正式要請を受けた。

「哀恨之追慕碑」は小鹿島病院本館前に建てられ、その除幕式は同日の午前十時より挙行された。車椅子に乗り付き添われた人、白い杖をつく失明した人、両脇に松葉杖を使う人、それらの入所者に付き添う小鹿島病院の職員たち、来賓として招待された人たちと併せて二百名ほどが、「哀恨之追慕碑」除幕式に参列した。当日、日本から来たのは私一人だった。

大きな「哀恨之追慕碑」には、虐殺された八十四名の名前が刻まれていた。

 「哀恨之追慕碑」除幕式でのチャムギル代表・鄭 鶴理事長のあいさつは、非常に感動的なものであった。本章を終えるに当たり、鄭 鶴理事長の挨拶内容を紹介しておきたい。

まず、今日のこの意義深い除幕式が行われるまで、もしかしたら歴史の蔭に埋もれてしまったかも知れない真実を悟らせてくれた小鹿島の自治会のカンデシ(姜大市)会長をはじめ、患友のみなさま、そして韓星協同会の会長と関係者のみなさま、殊に小鹿島病院の院長と職員のみなさまに、より感謝致します。
 思えば半世紀前に、ここで行われたその日の惨状は、今でもわれわれを戦慄させます。それほど長く、かつ酷かった日帝の暗闇を耐え拔き、やっと迎えた希望にみちた解放の初日を、痛恨の殺戮による血で染めてしまったその日の記憶は、その時にそのように倒れ去った八十四人の霊魂とともに、未だにこの地の平和を渇望する全ての人々の胸に、消すことのできないハン()のせせらぎとなって流れています。
 今日、われわれはこの悲劇の現場に石碑ひとつ刻み立て、とうていこの地の言葉では慰めようのない彼らの魂を鎭魂しようとしております。目に見えるものを評価するのは、そのように目に見えたものが過ぎ去った後にも、永遠に残っている、目に見えないものであります。ですから、その日の惨状の痕跡をさがし、その絶叫の意味を反芻してみようと思います。
 全ての人間は「生命」以外のものによって区分されてはなりません。したがって、「生命」以後になされるすべての人間のわざは、互いに分かち合い、互いに仕えることでなければなりません。そして、その「生命」を踏にじって何かを得ようとする如何なるわざも、決して赦されるべきものではないということを、われわれはこの涙の島で悟らなければなりません。再びこの地で、このようなとんでもない蛮行が起きないよう、残っているわれわれは正義に則った生活を営んでいくことを、改めて彼らの霊前に頭を下げて誓います。
 いつかわれわれもこの地を去り、涙の無いところで彼らに会った時、われわれの手が血で染まっていないよう、そして貪欲の河を所望で渡り、悲しい隣人の涙で濡れた愛のハンカチを見せてあげることのできるよう、仕えの道を行こうと思います。その残酷の夏、この場所で息絶えた彼らの開けたままの目を、今日、このように悔恨の手をさしのべて眠りにつかせながら、海風に沁みついている生臭さを感じます。
 世の中には十字架を背負って生きている人がいるかと思うと、その十字架に乗って生きていく人もいます。つらい荷を背負って行く十字架の人のお陰で幸せを満喫する悦楽の人もいます。わけもなく虐められる人々は、十字架を背負って生きる苦難の人々です。その荊棘の道を生きた名もない人々のお陰で、今日もわれわれは日常の幸せを享受しております。
 五十七年前の今日、ここで倒れた八十四人の方々も、そのように十字架を背負って生きた人々です。
 最後に、改めて今日の除幕式が行われるまで、助けてくださった皆さまに深く感謝すると共に、特に遠い日本からお越し頂いた滝尾英二先生に心より御礼申し上げます。
 ありがとうございました。                  (訳・金在浩チャムギル事務局長)

除幕式が終った頃、急に天気が悪くなり雨が降り始めた。自治会室に帰った姜大市自治会長が小さな声で「この雨は、なみだ雨さ!」と呟かれたのが、とても印象的だった。