ハンセン病問題に関する検証会議委員、及び、同検討会委員 御中

 

新訂・増補 ハンセン病問題検証会議の関係者は、「日本の植民地支配下にあったミクロネシアのハンセン病隔離政策の被害と国家責任」を明らかにせよ!  

 

――ハンセン病問題に関する検証会議・最終報告書 批判(その1)――

 

                          2005年3月3日

 

                人権図書館・広島青丘文庫 主宰

                  (広島市安佐北区 口田南 3丁目 5−15)

                           尾 英 二 (TAKIO EIJI)

 

1、はじめに

 

先に、@ 「2003年度ハンセン病問題検証会議報告書」(2004年4月)への意見書・質問書」を、2004年6月11日に書き、ハンセン病問題検証会議へ提出し、回答がないまま、今日に至っている。その内容の一部は、滝尾英二著『ソロクト(小鹿島)裁判のための資料・研究ハンドブック――「国の行為による加害責任」は明らかである』人権図書館・広島青丘文庫(2005年1月発刊)の56〜63ページに収録し、発刊した。

さらに、「ハンセン病問題検証会議への意見書――植民地下朝鮮でのハンセン病政策の被害とその責任所在を明らかにせよ――」を『飛礫』第44号(2004年秋季号)つぶて書房の100〜118ページに掲載し、ハンセン病問題検証会議報告書の内容に対して、意見と批判を行なってきた。

昨夜=2005年2月18日の深夜、ハンセン病問題検証会議のホームページで、2005年1月27日に、実施した「ハンセン病問題に関する事実検証調査事業 第25回検証会議・第17回検討合同会議」記録を見ることができた。これが、検証会議が最終的な合同の会議となり、3月1日に最終報告書は、午後1時からこの委託機関である厚生労働省の長である厚生労働大臣に手渡す予定だと金平輝子座長は発言している。

 

こうした事実を受けて、「ハンセン病問題に関する検証会議・最終報告書 批判(その1)」として、表題のことに関して、「検証会議」の最終報告を批判してゆくことにする。なお、千数百ページあると内田副座長・起草委員長が『最終報告書』1月27日の「検証会議・検討合同会議」で報告している。3月1日に金平座長から厚生労働省の委託事業として、厚生労働大臣に手渡されるという。当然のこととして、人びとにも広く公表されると思う。それを通読した後、あらためて「報告書」に対する意見及び批判はしようとおもっていることを前もって通告しておきたい。

 

A 以下、滝尾の本記述はつぎのように、略称する。

 

A、「ハンセン病問題に関する事実検証調査事業 第25回検証会議・第17回検討合同会議」記録(2005年2月19日1月27日の会議録)=「検証会議記録」

B、南洋庁著『昭和八年版 南洋群島要覧』南洋庁発行(1933年12月28日発行)=「南洋群島要覧」

*註;『南洋群島要覧』は、国立国会図書館が「昭和七年版、八年版、十年版、十一年版、十二年版、十六年版、十八年版の各年度版を所蔵している。滝尾は昭和八年版意外は、未見である。」

 

C、南方年鑑刊行会編纂『南方年鑑・昭和十八年版』東那社(1943年9月30日発行)=「南方年鑑」

D、大蔵省管理局編・著『日本人の海外活動に関する歴史的調査、通巻第二十冊 南洋群島篇

第一分冊 第一部 総編』大蔵省管理局(1947年?発行)=「日本人の海外活動に関する歴史的調査」

E、室伏高信著『南進論』日本評論社(1936年7月20日発行)=「南進論」

F、「日本植民地支配下のミクロネシア」マーク・R・ピーチィー著、我部政明(訳)(『岩波講座 近代日本と植民地 第1巻 植民地帝国日本』岩波書店、1992年11月5日発行)、189〜215ページ所収)=「日本植民地支配下のミクロネシア」

G、「南洋群島委任統治政策の形成」今泉裕美子著(『岩波講座 近代日本と植民地 第4巻 統合と支配の論理』岩波書店、1993年3月5日発行)、51〜81ページ所収)=「南洋群島委任統治政策の形成」

H、「植民地法(法体制確立期)」中村哲著(『講座 日本近代法発達史』第5巻 勁草書房、1958年10月20日発行、172〜206ページ所収)=中村哲著「植民地法」

I、藤野豊著『「いのち」の近代史――「民族浄化」の名のもとに迫害されたハンセン病患者――』かもがわ出版(2001年5月1日発行)=「いのちの近代史」

 

 

2、「検証会議記録」での藤野豊委員の「報告内容」の問題

 

ハンセン病問題に関する検証会議の委員であり、同会議の検討会委員でもある藤野豊委員は、「検証会議記録」において、つぎのような報告をしている。

 

――検証会議の藤野です。私の担当は多いので、簡単にやります。(中略)

‥‥‥それから、植民地の問題がありまして、これが第十二の項目です。「旧植民地におけるハンセン病患者の処遇と政策」韓国と台湾、目次には落ちていますが、第3に満州があります。それからあと、ここは旧植民地だけになっておりますが、さらに旧占領地も入っております。中国、それから東南アジア、これは目次に欠けておりますが、入っております。特に昨年の中間報告では、韓国と台湾が非常に弱かった。特に韓国についてはかなりご批判もある内容でした。そこで今年は、特に韓国と台湾についての調査、執筆を補強しまして、小鹿島でも、実際にクリチスチャンであるがために神社参拝を拒否して断種をされたという方の聞き取りも行いまして、被害実態が去年よりもより鮮明になりましたし、まさに日本の植民地政策の一環としての小鹿島の、韓国の隔離という問題がより鮮明になりました。また、台湾でもやはり断種が行われておったこと、あるいは堕胎があったことも、楽生院の入園者の人たちからの聞き取りで明らかになり、また楽生院から戦前の日本統治時代の資料が何点か出てきまして、こうしたものも最終報告書に反映することができました。

検証会議としては、全国の13箇所を回ってきましたけれども、やはり全国の13園だけではなく、台湾や韓国の療養所も含めた、日本の一貫した隔離政策というものを今回の報告書でははっきりと打ち出すことができたんではないかと考えております。」(「検証会議記録」34〜35ページ)。

 

『2003年度ハンセン病問題検証会議報告書』の「第十 旧植民地、日本占領地域におけるハンセン病政策」中の「第一 旧植民地におけるハンセン病患者の処遇と政策」中の「一、韓国」の記述では、「日本のハンセン病対策の全体像を明らかにする一助として、植民地時代における韓国のハンセン病対策について現地調査と文献調査を行った」という滝尾が指弾した箇所が、「‥‥被害実態が去年よりもより鮮明になりましたし、まさに日本の植民地政策の一環としての小鹿島の、韓国の隔離という問題がより鮮明になりました」と最終報告書と書き改められ、また、藤野委員の報告によると、「検証会議としては、全国の13箇所を回ってきましたけれども、やはり全国の13園だけではなく、台湾や韓国の療養所も含めた、日本の一貫した隔離政策というものを今回の報告書でははっきりと打ち出すことができたんではないかと考えております」云々という内容のことは、評価できることではあると思う(下線は滝尾)。

 

内田博文副座長の「検証会議記録」の発言によると、最終報告書は1,200ページという膨大なものになるという(「検証会議記録」43ページ)。前述したように、後日、どのような内容の記述となっているか、見る機会があれば、私なりにこの「最終報告書」の内容に対する見解は述べようと思う。しかし、藤野委員の報告を読んで気がかりなことがある。「日本の植民地支配下にあったミクロネシアのハンセン病隔離政策の被害と国家責任」を明らかになっているか、否かである。以下、この問題について述べてみようと思う。

 

「いのちの近代史」で、藤野豊さんは同著の「あとがき」でつぎのような反省を書いている。

 

――「私は、これまでも近代日本のハンセン病の歴史についていろいろな場で発言してきたが、『日本ファシズムと医療――ハンセン病をめぐる実証的研究――』(岩波書店、一九九三年)の最後で、反省をこめて次のように記した。

 

 今後の研究課題という点では言及することができなかった、奄美・沖縄のハンセン病患者の問題がある。(中略)それのみならず、本書では台湾・朝鮮・「満州」・「内南洋」等の日本の植民地・準植民地、あるいは戦時における占領地のハンセン病対策についても、断片的にしか論じることができなかった。これら、本書で十分論じられなかった地域についても研究を進めていかなければならない。

 

本書では、植民地等の問題については、何とか論じることができたが、奄美・沖縄については詳論できず、結局、一九六一年の「ハンセン氏病予防法」をめぐり戦後の沖縄のハンセン病対策を概観したのみに終わってしまった。」

 

以上のように藤野さんは書いている。

 

一体、1993年=約12年以前に書いた「内南洋」に関して、この12年の間、「検証会議」での場でもいい、どのようにこの「内南洋」=ミクロネシアの島々のハンセン病患者に対する隔離収容した日本政府の加害責任を明らかにしたのだろうか。「検証会議記録」の藤野委員の報告文を読む限り、このことは、何ら述べられていない。オーストラリアの委任統治下にあった赤道直下にあるナウル島を占領し、日本の占領時、この島には患者が39名いたとされるが、このハンセン病患者は、約1年後の報告によると、ハンセン病患者を一隻のボートに追い集め、銃撃され、1人の生存者も見つかっていない、という「ナウルの集団虐殺事件」を何度も書いている。

 

南洋庁サイパン医院長の藤井秀旭が、1936年10月1、2の両日、内務省に召集されて、官公立癩療養所長会議に出席していることは、この会議が同年8月に始まった「長島事件」に対応するため、急遽召集されたことは、長島愛生園の「愛生編集部」の書架に「島田等ファイル」中に綴じこんであり、滝尾が不二出版発行の『植民地下 朝鮮におけるハンセン病資料集成』第6巻の259〜277ページに、「資料69」として、癩癩官公立療養所長会議の議事録を収録しているので、藤野さんは「内南洋」=ミクロネシアの島々のハンセン病患者に対する隔離収容した日本政府の加害責任をご存知のはずである。なぜなら、「いのちの近代史」の中で、藤野さんは「長島愛正園の『愛生』編集部に、故島田等さんが収集された「宮川量資料」が多数保存されていることについてはすでに述べた。」(415ページ)と書かれているから、上述した「島田等ファイル」は見ているし、そのファイルは、そんなに大部なものではないからである。ハンセン病研究者として「ミクロネシアの島々のハンセン病患者に対する隔離収容した」史実に、さほど関心がなかったからではないか、と思っている。

 

それがこの度の「検証会議記録」には、一言もふれられず、さらに「検証会議最終報告書」にも書かれてないとすれば、まさに、つぎにいうような『岩波講座 近代日本と植民地 第1巻 植民地帝国日本』岩波書店の「解題」者である大江志乃夫の意見いうような事実そのものであろう。大江はいう。

 

――日本人のミクロネシア認識は現在においても驚くべきほど低い。年配者にとってはミクロネシアは太平洋戦争の熾烈な戦場としての記憶が大部分であり、若い世代にとってはエスニックな空気をただよわせたトピカル・リゾートの島と海という感覚での受け止め方が圧倒的であろう。これら太平洋に広く散在する群島がかつて日本の植民地」であり、そこで日本がどのような植民地統治をおこない、これらの群島が日本の植民地のなかでどのように位置づけられていたかを系統的に学ぶ機会はほとんどない。

ミクロネシアは台湾・朝鮮の植民地が「伝統的に中国文化圏に属し、日本とからりの文化的類似性をもっていた」のに対し、まったく異なった文化圏に属する群島であり、その植民地としての地位も、国際連盟の委任統治領という特殊性をもっていた。この特殊性はそれ自体としては日本の植民地統治に大きな影響力をもつものではなかった。(中略)

「特権という地位で見ると、日本本土から来た日本人、その下に沖縄人と朝鮮人がいて、底辺にミクロネシア人がいた」という(マーク・R・ピーチィー)論文の指摘は、‥‥‥興味深い」。

 

こうした大江教授の指摘が、今回の「ハンセン病検証会議」の報告内容にもそのミクロネシアのハンセン病患者への認識にもいえるのではなかろうか。そういうことを念頭に入れながら、日本の植民地統治期のミクロネシアにおける「ハンセン病隔離政策」に関して、人権図書館・広島青丘文庫というささやかな蔵書をひもといて、日本の植民地統治期のミクロネシアにおける「ハンセン病隔離政策」の実態とその経緯について、紹介したいと思う。

 

 

3、日本の植民地統治期のミクロネシアにおける「ハンセン病隔離政策」

 

まず、「南洋群島要覧」に書かれている内容をあげておこう。この「要覧」は南洋庁が編著し、発行しているB6判で、297ページの冊子で、発行年月日は、前述したように「昭和8年12月28日である。口絵写真が多く91葉にも及んでいる。その中には、南洋庁サイパン医院、サイパン医院患者待合室の状況(患者が17名写っている)、トラック医院が2葉、南洋庁ポナベ医院が掲載されている他、女子カナカ族、ヤルート島などの女子固有風俗など上半身は裸で、乳房を出し腰に箕や布を巻いて写されている。それが、ヤルート島民女子の現代風俗の写真は、洋服を着て写されている場合が多い。

 

「南洋群島要覧」には、第9章 第4節の「四 癩療養所」の項には、「癩は群島各地に之を見る、未だ其の数明らかならざるも、由来島民はその伝染性を信ぜず、従つて適当の方策を講ずるの要ありと認め、大正十五年「サイパン」島に「ヤルート昭和二年」島に昭和六年「パラオ」島に、昭和七年「ヤップ」島に各療養所を設け患者を収容隔離することゝせり。而して之が養護は恩賜財団慈恵会其の任に当りつゝあり。」と書かれている。さらに、「恩賜財団・慈恵会」の説明は、第十三章において、つぎのような記載がある。

 

第十三章 第一節「賑恤救護」には、恩賜財団・慈恵会として、

一、沿革 昭和二年二月七日 大正天皇御大喪の儀るゝに際し、慈恵救済の資に充てしむるの 聖旨を以て御下賜相成りたる内帑金壱千円を基金として、昭和二年五月二十七日設立す。

二、維持の方法 基金より生ずる利子、寄附金其の他の収入を以て維持費に充つ。

 三、事業 本会は恵恤の儀に付賜はりたる、詔勅の趣旨を奉戴し慈恵救済を行ふを以て目的とし、凡そ左の事業を行ふものとす。(中略)而して現在実施せる主なる事業は癩患者の養護及貧困患者の救療にして其の成績左の如し。

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 癩患者養護

癩療養所名=ヤルート癩療養所  サイパン癩療養所  パラオ癩療養所  ヤップ癩療養所         計

年度別  =昭和六年度                                

     患者           7                7              18               14              46                           

          養護人         6                2              18         ―            26                 

       支出額  265、70      503、85    131、27     5、90    905、72

 

癩療養所名=ヤルート癩療養所  サイパン癩療養所  パラオ癩療養所  ヤップ癩療養所         計

年度別  =昭和七年度                                

     患者           7                              18               14             4                         

          養護人         6                              18         ―           25               

       支出額  329、10      398、48    732、68   602、19  2,062、45

 

癩療養所名=ヤルート癩療養所  サイパン癩療養所  パラオ癩療養所  ヤップ癩療養所         計

年度別  =昭和八年度                                

     患者           7                             1              14              46                           

          養護人         6                2              18         ―           26             

       支出額  81955      700、95   1,182、00    950、80  3、653、30

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 この表から分かることは、この3年間に支出額が急増していることである。養護人と患者数は変化がない。支出額の増加は「隔離病舎」の増設を意味しているかとも、思われるがそれは、滝尾の推測で、今後の調査・研究を待ちたいと思う。

 

「南方年鑑」の1161ページには、下記のような記述がある。昭和十八年度版『南方年鑑』なので、昭和8年度版から、10年後の出版である。

 

――「太平洋諸島」に「第三節歴史(二)衛生」の項の記述である。

 

「‥‥‥癩病患者があり相当数に上つてゐる如くである。彼等はその伝染性を信じないので絶滅困難である。今サイパン、ヤルート、パラオ、ヤップの四箇所に療養所が設けられ、患者を、収容、隔離している。

医療機関としては、サイパン、ヤップ、パラオ、パベル、ダオプ、トラック、ポナベ、ヤルートに官立機関、クサイに分院を置き‥‥」

との記述があるところから、ヤルート、パラオ、ヤップの四箇所に療養所は官立=国立療養機関であり、1936年10月1,2両日、内務省の召集した官公立癩療養所会議出席者として、「南洋庁サイパン医院長・藤井秀旭」と記述されているところから、医院所属の「癩患者の収容、隔離施設」があったのではないか、と推測している。

 

――「日本人の海外活動に関する歴史的調査」の第十一章 衛生 第二節 衛生施設の「八、癩療養所」の項には、つぎのような記述がみられる。

 

「癩は本群島に相当古くより分布して居た様で、島民は未だ医療を乞う者尠ない。従つて其の数を明にする事を得ない。由来島民は其の伝染性を信じないので当局は常に適当なる方策を講じ隔離治療を行う要あるを痛感し大正一五年(一九二六年)サイパン島に癩療養所を設け、之に患者を収容して診療は凡て官費を以てし、糧食等は夫々親族縁故者の負担としたが、とかく糧食の給与行届かず、又収容患者も少ないので看護人の同居を許さなかつた結果もあり、生活単調の為め、不便と寂寥を感じ之を厭忌脱所するものあるに至つた。昭和二年(一九二七年)ヤルート島に療養所を設くるにあたつては右事情を考慮し、診療用建物の外官費を以て患者毎に別棟の住宅を設け、看護人及び患者と別居する事態はざる事情のある家族の別居を認め、療養亦官費に依る外、糧食其の他療養の費用を本人又は縁故者に於て、負担し得ない場合は恩賜財団慈恵会に於手負担せしむる事とした。患者は安じて受療し、成績甚しく良好を見るに至つた。

その後サイパン島に於ける療養所は暴風の為め、大破使用不能となつた。昭和六年(一九三一年)パラオ島に昭和七年(一九三二年)ヤップ島に設けられ、引続き今日まで隔離治療を為した。」(150〜151ページ)。

「ヤップ島(本島)島民死亡者病名別」統計資料

 昭和4年(1929)死亡者数195名中「癩」1名。昭和5年(1930)死亡者数167名中「癩」1名」という記載がある。

 

 

4、ミクロネシアの領有とハンセン病療養所の設立

 

ナサチューセッツ州立大学のマーク・R・ピーチィー教授は「日本植民地支配下のミクロネシア」のなかで、つぎのようにいっている。

 

――日本が植民地を拡大していく際に、ミクロネシアは、当初、主として戦略的な価値があると考えられていた。そのため、一九一四年にチャンスが訪れたとき、日本はこれらの島々を占領したのだった。其の後にすぐ、経済的にも価値があるとして占領を正当化した。いったん、ミクロネシアに日の丸が掲げられるや、日本は他の地域の植民地政策と連動させ、集中的にミクロネシアを開発、搾取した。それは、他の列強がもつ太平洋の植民地に比較にならないほどの激しさであった。(190ページ)

 

19世紀、ドイツ領のマーシャル諸島を除いて、ミクロネシアはスペイン統治下におかれていた。米西戦争の後、ガァムを除くミクロネシアはスペインからドイツに割譲された。当時、海軍国に成長し太平洋地域に利権を求めていた日本と米国は、ミクロネシアに戦略的価値を見出していた。第一次世界大戦の勃発を機会に、日本はミクロネシアのもつ戦略的利益を求めて速やかに行動を起こし、これらの島々を植民地に吸収した。‥‥‥戦後、開かれたヴェルサイユ講話条約は、‥‥戦勝国による敗戦国の植民地獲得を認めることであった。国際連盟規約のなかで、委任統治国に対し、現地住民の幸福と発展を促進し、その結果を国際連盟へ定期的に報告する、という最小限のことを義務づけた。(中略)国際規約にもとづいて作成された委任統治事項により、ガアムを除くミクロネシアは、一九二二年、国際連盟がすべての委任統治国に課した限られた義務を条件として、日本が法的に不可分の一部として支配する委任統治領となった。(中略)

ミクロネシアでは、四年にわたる一連の経過をへて海軍軍政から民政への移行が進んだ。一九一八年、軍政下で文官が任用され、一九二一年、すべての民政部門の権限はパラオのコロールにいる民政長官に移された。国際連盟の委託統治と基地建設が決まると、海軍基地は順次撤去された。一九二二年三月、新しく領土となったミムロネシアの統治と、委任統治の下での国際連盟に対する義務の遂行のため、純然たる民政機関である南洋庁が設立された。(193ページ)。

 

問題の一つは、1926年にサイパン島に、つづいてヤクート島に1927年に設立された各「癩療養所」が、どういう法的根拠で設立されたのかということである。中村哲著「植民地法」を読んでも、台湾・樺太・朝鮮における「植民地法」は記述されているが、南洋庁がどのような「植民地法」で、ミクロネシアに各4箇所の「癩療養所」を設立したのかは、定かではない。「ハンセン病問題に関する検証会議」報告書にも、2003年度版にも書かれていない。また、本年「ハンセン病問題に関する事実検証調査事業 第25回検証会議・第17回検討合同会議」記録(2005年2月19日1月27日の会議録)を見ても、植民地としてのミクロネシアについて、その項目も報告されず、内容も定かにはされていない。日本人のミクロネシア認識は現在においても驚くべきほど低い」といわれたマーク・R・ピーチィー教授の指摘がこのハンセン病問題に関しても言えそうに思う。

 

それでは、1926年にサイパン島に、つづいてヤクート島に1927年に設立された「癩療養所」が、どういう法的根拠で設立されたのか。これについては、ミクロネシアが軍政から民政機関である南洋庁が設立された当初の1925年5月、「芸妓、酌婦等の営業は特に取締に意を用ゆるの要ありと認め、大正十三年五月之が取締規則を制定発布せり」という「南洋群島要覧」の記述がある。また、「権威と権力に溢れる朝鮮・台湾の両総督府に比べて小規模であった南洋庁は、樺太庁と関東庁とほぼ同列におかれた。一九二九年の拓務省の設置にともなって、南洋庁は拓務省の監督下におかれ、(中略)当時の国内の県知事に比べると、南洋庁長官の権限は実質的に小さかった」(マーク・R・ピーチィー教授は「日本植民地支配下のミクロネシア」194ページ)という。

第八章          第三節 十三 芸妓酌婦 群島に於ては其の環境上芸妓、酌婦等の営業は特に取締に意を用ゆるの要ありと認め、大正十三年五月之が取締規則を制定発布せり。而して本令は芸妓、酌婦は全部許可主義を採り、有夫の婦及十六歳未満の者は絶対に之を禁じ、伝染病疾患ある者其の他支庁長に於て不適当と認むる者に対しては、之を許可せざることを得しめ、雇主又は抱主との契約に干渉し、又妊娠、産婦の従業を禁じ、健康診断を強制する等之が取締を励行しつゝあり。(「南洋群島要覧」121〜122ページ)。

 

 「第十三章 衛生 第二節 療養機関 七 種痘及健康診断 ‥‥‥芸妓、酌婦等の接客業婦に対しては庁令(=南洋庁の令こと、滝尾)芸妓酌婦取締規則の定むる所に依り、所轄支庁長に於て各業態に従ひ毎月一回若くは数回、全身の健康診療を行ひ伝染性疾患ある者に対しては就業を停止し、以て公衆保健に努めつゝあつた。」(「日本人の海外活動に関する歴史的調査」150ページ)。

こうしたことを考えると、南洋庁が官立=国立の「癩療養所」は、特別にミクロネシアのみに施行する目的で制定された法律を除くほかは、内地の法令が適応される所謂、樺太のように内地法が適応され、ミクロネシアに設置された「癩療養所」も、国内同様に「癩予防ニ関スル件」(明治40年法律第11号)が「法律の依用」ないしは準用されて設立されたのではないか、と推測するが、この点は近代法律発達史の「植民地法」の研究成果を期待したい。

 

1930年代に「ミクロネシアを訪れた西洋人の記録は、島から溢れるほど日本人移民が急増したこと、多数を占めてイタミクロネシア土着の人口が大きな島では少数へ転落したこと、日本政府の役人の過度なまでの秘密主義的な態度を記述している」(「日本植民地支配下のミクロネシア」196ページ)。「日本人の急増に直面してミクロネシア人への医療サービスは実質的に低下し、その結果、かれらの健康状態は一層悪化した(「日本植民地支配下のミクロネシア」198ページ)。

 「慈悲深く博愛精神に富む大日本帝国というスローガンは、日本の植民地のいたるところでまるで呪文のように際限なく唱えられた。だが、文化的にほ地理的にも遠いミクロネシア人は、大日本帝国臣民の最下層に位置づけられて、「三等国民」と称されていた。ミクロネシア人の地位を長期にわたり下層に固定化するのは国際連盟規約に違反しており、日本の統治政策は同化政策そのものであった(「日本植民地支配下のミクロネシア」200ページ)。

 

こうした歴史的事実を念頭にして、下記の「両陛下の訪問検討 マーシャル群島・ミクロネシア・パラオ、政府・戦後60年「慰霊の旅」という『毎日新聞』が報じた2005年2月16日の記事を植民地におけるハンセン病療養所の設立と運営などを考えていただきたい。

 

両陛下の訪問検討 マーシャル群島・ミクロネシア・パラオ、政府・戦後60年「慰霊の旅」
(見出し)――『毎日新聞』2005年2月16日(大阪本社・13A版)一面

 

政府は、天皇、皇后両陛下の太平洋諸群島のマーシャル群島・ミクロネシア連邦、パラオの3カ国への年内訪問について具体的な検討に入った。3カ国は太平洋戦争末期まで日本が統治した地域で、戦場にもなった。戦後は皇族の訪問例はなく、今回の訪問を戦後60年の節目での「慰霊の旅」と位置付け、太平洋諸島の諸島との友好親善を図る。
 今後、過去の問題に関する「お言葉」の内容について、内閣官房と宮内庁を中心に検討を進めることになる。

両陛下は今年5月にノルウェーとアイルランドを訪問予定。太平洋諸島訪問具体的な日程は固まっていないが、終戦記念日をにらんだ夏ごろが有力視されている。サイパン経由でマーシャル群島、ミクロネシア、パラオを訪問し、戦没者慰霊碑への献花や現地日系人との交流などを検討している。
 この地域への訪問計画は、00年4月に宮崎市で開かれた「太平洋・島サミット」の際に、当時の森喜朗首相が南太平洋の島しょ国への政府開発援助(ODA)拡充などを打ち出し、参加した首脳から両陛下の訪問を要請されたのがきっかけ。
 政府は昨年、パラオなど3カ国への両陛下の訪問を計画したが、03年1月に前立腺がんの摘出手術を受けた天皇陛下の体調問題や、現地での移動手段、通信事情、警備面などを総合的に判断して見合わせた。

<‥‥‥しかし、歴史的な経過や親日国であることを考慮、「戦後60年の節目に両陛下が訪問する意義は大きい」(政府筋)として、具体的な検討を進めている。
 第一次世界大戦がぼっ発した1914年に、日本はパラオを含む独領ミクロネシア(南洋群島)を占領。20年に当時の国際連盟から同地域の委任統治が認められた。多くの日本人が移民したが、第二次世界大戦では戦場となり多くの犠牲者を出した。=「毎日新聞HP」 2005216日 300分>

 

「戦没者慰霊碑への献花や現地日系人との交流」とは、なにだろう。「戦没者慰霊碑」には、サイパン島ハンセン病療養所に強制隔離収容された患者が含まれているのであろうか。ミクロネシアの人たちに関する一般的な認識、平均的認識は、当時の日本大衆文化のなかで描かれるミクロネシア原住民は、裸体で、無知で、好色で、褐色の肌をもつ『野蛮人』だと理解していたのではなかろうか。日本の小学生が好んで読んだ「冒険だん吉」という漫画本を思し、ステレオタイプのミクロネシアの人たちをイメージ形成させていったのではなかろうか。

ハンセン病問題の被害実態が次第に明らかになり、その責任が問われている時、わたしを含めて、どれほど南洋庁が設立したミクロネシアのハンセン病療養所と、そこで繰り広げられたハンセン病患者の被害実態を明らかにする努力を現在までしただろうか。

 

今泉裕美子著、「南洋群島委任統治政策の形成」は、1922年4月に南洋群島の統治機関として設立された南洋庁は、――「官制」上では純粋な民政機関であり、したがって、内務省の管轄下に南洋庁長官が最高権限をもっていた。しかし、実際には、海軍省が統治に関与できる強力な権限をもっていた。(中略)南洋群島の委任統治とは、南洋群島を日本に「統合」する一つの過程であり、結果的にみれば、「太平洋の防波堤」となるべき状況を「水面下」で準備する過程でもあった、と。(「南洋群島委任統治政策の形成」浅田喬二・第4巻のまえがき)。

 

日本政府が、ミクロネシアの人たちに何よりもしなければならないことは、植民地支配によるミクロネシアの人々への被害の責任の明確化であり、その被害事実の謝罪でなくてはならない。

満州事変=中国大陸の全面的侵略行為により、日本の国際連盟関係は悪化し、1933年3月27日、日本は国際連盟から脱退する。室伏高信著『南進論』のなかで、伊佐秀雄はいう。「日本の委任統治後は次第に日本の植民地化して、昭和八年十月一日現在における総人口9万651人のうち日本人は4万215人、島民5万336人で、その他の外人は僅か100人に過ぎない。政治、経済共に主要なる地位は日本人によって占められてゐることは勿論で、」云々(「南進論」272ページ)。問題は、強制隔離収容されたサイパン島「癩療養所」などハンセン病患者の戦争中の状況である。『南方年鑑・昭和十八年版』によると、「島民間には癩病患者があり相当の数に上つてゐる如くである。彼等はその伝染性を信じないので絶滅困難である。今サイパン、ヤルート、パラオ、ヤップの四箇所に療養所が設けられ、患者を収容、隔離あしている」と書かれている。1944年6月15日、アメリカ軍、サイパン島に上陸し、7月7日守備隊3万人全滅。住民死者1万人を数える。その際、強制隔離収容されたサイパン島「癩療養所」などハンセン病患者は、一体どうなったのであろうか。ハンセン病問題検証会議最終報告書はこの事実をどう記述しているのだろうか。ミクロネシアのハンセン病患者を「内地」の療養所に送致したということを私は聞かない。

『2003年度ハンセン病問題検証会議報告書』財団法人 日弁連法務研究財団 ハンセン病問題に関する検証会議』2004年3月31日発行の282ページには、「第1 日本占領地におけるハンセン病患者の処遇と政策」のうち、「一 中国占領地」、「二、東南アジア」、「三、太平洋地域」の3項目をあげている。その中での「三 太平洋地域」として、4行ほど「南洋庁がそれぞれ小規模なハンセン病療養所を設置した」(282ページ)と記述しており、その後、21行にわたって「1942年(昭和17年)8月25日、海軍はオーストラリアの委任統治下にあったナウル島を占領した。」云々と書き、末尾に「なお、2004年度は東南アジアと太平洋地域について、更に詳細に検証する予定である。」(283ページ)と記述している。

わたしは、今年3月1日に『〜検証会議最終報告書』を読んでいない。しかし、「ハンセン病問題に関する事実検証調査事業 第25回検証会議・第17回検討合同会議」記録(2005年2月19日1月27日の会議録)には,ハンセン病問題に関する検証会議の委員であり、同会議の検討会委員でもある藤野豊委員は、「検証会議記録」において、つぎのような報告をしている。

 

――検証会議の藤野です。‥‥‥それから、植民地の問題がありまして、これが第十二の項目です。「旧植民地におけるハンセン病患者の処遇と政策」韓国と台湾、目次には落ちていますが、第3に満州があります。それからあと、ここは旧植民地だけになっておりますが、さらに旧占領地も入っております。中国、それから東南アジア、これは目次に欠けておりますが、入っております。特に昨年の中間報告では、韓国と台湾が非常に弱かった。特に韓国についてはかなりご批判もある内容でした。そこで今年は、特に韓国と台湾についての調査、執筆を補強しまして、小鹿島でも、実際にクリチスチャンであるがために神社参拝を拒否して断種をされたという方の聞き取りも行いまして、被害実態が去年よりもより鮮明になりましたし、まさに日本の植民地政策の一環としての小鹿島の、韓国の隔離という問題がより鮮明になりました。また、台湾でもやはり断種が行われておったこと、あるいは堕胎があったことも、楽生院の入園者の人たちからの聞き取りで明らかになり、また楽生院から戦前の日本統治時代の資料が何点か出てきまして、こうしたものも最終報告書に反映することができました。

検証会議としては、全国の13箇所を回ってきましたけれども、やはり全国の13園だけではなく、台湾や韓国の療養所も含めた、日本の一貫した隔離政策というものを今回の報告書でははっきりと打ち出すことができたんではないかと考えております。」(「検証会議記録」34〜35ページ)」と述べているのみで、ミクロネシアのハンセン病患者の「処遇や政策」のことはなんら述べていない。

 

なぜミクロネシアにおいて、1926年以来、ハンセン病患者を「南洋庁」は島民の意思に反して、4箇所のハンセン病収容所に強制隔離収容し、俗悪な生活をミクロネシアのハンセン病患者に対して強制しながら、この事実を第十二の項目のなかで「第1 旧植民地におけるハンセン病患者の処遇と政策」韓国と台湾と併置して論述せず、ミクロネシアの問題を「第2 日本占領地におけるハンセン病患者の処遇と政策」のなかで、しかも、2003年度の「検証会議記録」において、わずか4行ほど、しかも如何なる資料に基づいて記述したのか不明であるが、各4箇所のミクロネシアのハンセン病「療養所」の「設置」の年をわたしの利用した「南洋庁」の『要覧』とは異なる記述にしたのだろうか。『2003年度ハンセン病問題検証会議報告書』には、単に、その「設置」年のみを記述して、つぎのように書いている。

 

――日本は、1919(大正八)年以降、マリアナ・マーシャル・パラオ・カロリン諸島を国際連盟の委任統治として事実上、植民地支配し、1928年(昭和3年)にヤルート島に、1929(昭和4)年にサイパン島に、1930(昭和5)年にヤップ島に、1931(昭和6)年にパラオ島に、南洋庁がそれぞれ小規模なハンセン病療養所を設置していたが、1941(昭和16)年12月の対米英開戦以降、太平洋地域の島嶼の占領を拡大した」(282ページ)。

 

こうした「ハンセン病問題に関する検証会議・検討会の検討事項」(2003年度の「検証会議記録」別紙2=330ページ)からの検討事項そのものから、「ボタンの掛けちがえ」をしている。それが尾をひいて、検証会議委員や検討会委員のミクロネシアの認識の欠如が『〜検証会議最終報告書』の問題になったのではなかろうか、とわたしは思っている。ミクロネシアのハンセン病問題は、台湾・朝鮮・樺太と併置して、日本の植民地支配・統治下の問題として、考えなければならない問題であった。

「日本のハンセン病対策の全体像を明らかにする一助として」((2003年度の「検証会議記録」264ページ)ではなく、その一環として、且つその本質として、認識すべきであったのだ。こうしたわたしの提議に、関係者は答えて欲しい。

 

 

 5、提 言

 

 (1)『南洋群島要覧』は、国立国会図書館が「昭和七年版、八年版、十年版、十一年版、十二年版、十六年版、十八年版の各年度版」を所蔵している。これらを含めて、ミクロネシアのハンセン病患者の実態、及び「南洋庁」=日本政府が設立した国立の四箇所(サイパン、ヤルート、パラオ、ヤップ)のハンセン病療養所への患者の隔離・収容した実態を示す行政資料を、早急に調査する必要がある。

 

 (2)@ 当時の生存者の聞き取りの実施、 A 当時、「南洋群島」で発行された新聞を含む諸資料を国の責任で調査すること。「患者を収容して診療は凡て官費を以てし、糧食等は夫々親族縁故者の負担としたが、とかく糧食の給与行届かず、又収容患者も少ないので看護人の同居を許さなかつた結果もあり、生活単調の為め、不便と寂寥を感じ之を厭忌脱所するものあるに至つた」という問題をも明らかにし、サイパン島に於ける激戦のどで、隔離収容されたハンセン病患者が一体、どうなったか、その実態も明らかにしてもらいたい。

 

 (3)以上のことを実施するため、現地調査を早急に行うよう、「ハンセン病問題に関する検証会議」の最終報告書とそれに基づく「国への提言」内容に記述すること。

 

 以上の滝尾からの「検証会議最終報告書」批判文を、ハンセン病に関する検証会議の委員、及び検討会委員に2005年3月1日、午後1時〜3時にある「合同会議」の席上で配布していただくよう要請するとともに、「国への提言」内容に、このミクロネシアに於ける「国=南洋庁」が設立した四箇所のハンセン病療養所とハンセン病施策の実態調査の結果を本年3月末日までに、人権図書館・広島青丘文庫の滝尾英二宛に連絡していただきたいことを強く要望する。