姜尚中氏からの手紙に答えて


 

人権図書館・広島青丘文庫の滝尾英二です。「ハンセン病回復者とともに歩む関西連絡会」のホームページ「掲示板」を見ておられるRさんが、(メールで)おっしゃいました。

 

「〜おそらく高飛車で、屁理屈をこね回した内容だろうことは想像に難くありません。朝日新聞からの「訂正」だけで、姜尚中さんからも、どちらからも「お詫び」は無いだろうとも予想はしていました。
 私信を外に明らかにすることはお避けになるべきだとは存じますが、ニュアンスだけでも分かれば如何に対処するべきかの判断材料にはなると思います。よろしければお教え下さい。
 いずれにしろ官僚や学者が、理屈で相手を凹まそうとすることには、断固として闘いたいと思っています」と。

 

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まったく、Rさんが言われる通りです。『朝日新聞』3月16日の「訂正」文にしても、「‥‥‥『ハンセン病問題に関する検証会議最終報告書』について『植民地朝鮮に触れていない』とあるのは誤りでした。報告書は朝鮮を含む旧植民地におけるハンセン病政策にも言及しています。訂正します」と述べるにとどまり、検証会議に対しても、小鹿島の原告たちにも、読者に対しても、誤った記事を掲載しておきながら「謝ったり、お詫びすること」は、いっさい『朝日新聞』の「訂正記事」にはありませんでした。

 

後に、詳述しますが、『朝日新聞』編集委員の藤森研氏は、「ハンセン病問題に関する検証会議」委員であり、今年の1月6〜7日には、検証会議の訪問委員の小鹿島に金平輝子座長ら5名が訪ねており、報道関係の委員としては『毎日新聞』論説委員の三木賢治氏が国立小鹿島病院(韓国)を訪問していることを『朝日新聞』編集委員の藤森研氏は検証会議委員として知っているはずです。その訪問記録は、『〜検証会議最終報告書』にも掲載されています(『最終報告書』837〜840ページ収録)。さらに藤森研氏は、本年1月23〜24日に、台湾の楽生療養院に金平輝子座長ら訪問委員5名と、旧日本植民地でのハンセン病政策などを検証するため、楽生院を訪問しています(『最終報告書』840〜844ページ)。

『毎日新聞』の3月2日付けの「検証会議最終報告書(要旨)」の記事には、「旧植民地、日本占領地域におけるハンセン病政策」の項目が最終報告書の構成として掲載されています。『朝日新聞』編集委員の藤森研氏は、『毎日新聞』論説委員の三木賢治氏とともに、旧植民地におけるハンセン病療養所を訪問しているのに、両紙の違いはどうして出たのでしょうか。

 

『朝日新聞』の3月2日の「検証会議最終報告」は「隔離 惰性で継続、国が差別拡大と指摘」と一面に4段抜きで掲載、さらに、24面には(編集委員・藤森研、寺崎省子)の名前入で、紙面の全面をつかって「ハンセン病問題検証会議最終報告」を書いています。また、38面のも、「ハンセン病検証会議最終報告」にも、「『嘆き放題』90年の罪」との見出しで記事が書かれているのです。

しかし、『〜検証会議最終報告書』の「第十七 旧植民地、日本占領地域におけるハンセン病政策」(703〜732ページ)が書かれていたこと、また、「第1 韓国」として、小鹿島に強制収容された植民地においての朝鮮半島のハンセン病患者のことは、ほぼ「的確に言及」されているのです(705〜718ページ)が、『朝日新聞』の紙面には何故だか書かれていません。

 

ところが、編集委員・藤森研氏は3月2日の『〜検証会議最終報告書』の「第十七 旧植民地、日本占領地域におけるハンセン病政策」の記事を書かなかったばかりか、『朝日新聞』(大阪本社版)の3月13日の37面、「時流自論」で姜尚中「わしゃ、生きるけんね」の記事の中で、「‥‥先の最終報告書は『大日本帝国』の版図だった植民地朝鮮に触れていない」と書いてしまったのです。

姜尚中氏の「手紙」(3月22日受信)によると、「‥‥確かに私が依拠した資料は、新聞社がまとめた要約でした。この要約が報告書を『客観的に』圧縮した内容であると思い込んだのは私の落度でした」と書いてきました。

 

それならば、なぜ、「‥‥先の最終報告書は」〜と書かず、「最終報告書の『○○新聞』の最終報告書の「要旨」によると〜」とは書かなかったのでしょう。

――『毎日新聞』(大阪本社版)の3月2日の26面には、「最終報告書の構成」として、「28 旧植民地、日本占領地域におけるハンセン病政策」をあげています。だから、姜尚中氏は「時流自論」で「わしゃ、生きるけんね」の記事を書くに際して、私宛ての「手紙」の中で書いたように、「‥‥確かに私が依拠した資料は、新聞社がまとめた要約でした」と書くのなら、「新聞社がまとめた要約」ではなく、おそらく、『朝日新聞』など(『毎日新聞』を除いた新聞でした)の要約新聞の内容で書いたのだと、姜尚中氏は「わしゃ、生きるけんね」の記事で書くべきでした。

こうした「孫引き」まがいの姜尚中氏の記事の書き方は、単なる「資料調査不足」といった内容とは異質のものであります。それは、研究者・学者がしてはならない行為だといわざるを得ません。きついいい方をすれば、私が学生時代、恩師の家永三郎先生から学んだこと、=「歴史研究報告書を書く時は絶対してはならないことは「孫引き」である」ことの教えていただきました。今回の姜尚中氏は、研究者・学者がしてはならない「孫引き」行為を犯したことになります。

 

私は、この姜尚中氏の「わしゃ、生きるけんね」の記事を見たには、記事掲載の翌日、3月14日(当日は、新聞の休刊日でした)です。この姜尚中氏は「わしゃ、生きるけんね」の記事を読んで、驚いてしまいました。さっそく、『朝日新聞』大阪本社に電話しましたが、適切な対応はしていただけませんでした。記事の執筆者が「東京大学教授の姜尚中氏」ということでしたし、この「時流自論」欄の下には、メールアドレスが書かれていましたので、そこにメールを送信し、姜尚中氏の「わしゃ、生きるけんね」の記事内容の誤りの箇所を送信しました。同時に『朝日新聞』東京本社の知り合いの記者に電話し、同じことを伝言しておきました。

 

 ほどなくして、『朝日新聞』東京本社の「企画編集部」のG〜デスクに電話が通じ、「検証会議最終報告書の要約版で確認したが、『〜最終報告書』について『植民地朝鮮に触れていない』とあるのは誤りでした。今夜、「訂正」記事を書き、それを『朝日新聞』に掲載します。」ということでした。また、「姜尚中さんとは、携帯で連絡したが、電話がつながりません」ということでしたので、私は、「たとえ、姜尚中さんに連絡できなくても、企画報道部が記事の誤りを確認すれば、その責任で『訂正記事』は出せるでしょう」と、東京本社の「企画編集部」のG〜デスクには伝言しておきました。

 

「企画編集部」のG〜デスクは、「姜尚中さんの原稿が、新聞の締め切りぎりぎりに新聞社に届いたので、東京本社の「企画編集部」で姜尚中さんの原稿のチェックは出来ませんでした」ということなので、私は、「それはないでしょう。姜尚中さんの原稿を掲載することは、すでに決まっていたことだし、そんなに長文ではない姜尚中さんの原稿なので、朝日新聞がそれをノーチェックで紙面に掲載することは、遺憾なことです」と言って置きました。

 その時まで、『朝日新聞』東京本社の「企画編集部」のG〜デスクは、「わしゃ、生きるけんね」の記事の中で、「‥‥先の最終報告書は『大日本帝国』の版図だった植民地朝鮮に触れていない」と書いた姜尚中さんの間違いに気付いていなかったし、当然のこととして、「わしゃ、生きるけんね」の記事の中に、「誤りがあった」ということを姜尚中さんには、『朝日新聞』東京本社の「企画編集部」からはこの時点では連絡しておりませんでした。

 

 先に書きましたように、『朝日新聞』編集委員の藤森研氏は、「ハンセン病問題に関する検証会議」委員であり、当然、『〜検証会議最終報告書』の内容は、3月1日に金平輝子検証会議座長から、尾辻秀久厚生労働大臣(=この検証会議の報告書=ハンセン病患者・病歴者への隔離政策の原因や隔離被害の実態を究明することを委託した側です)に手渡した以前から『最終報告書』の内容は、知っていたと思います。

 

 検証会議委員と検討会委員の「最終報告書提出」について、今年=2005年1月27日に合同会議が星陵会館ホールで開かれ、席上、検証会議委員であり、かつ検討会委員でもある藤野豊さん(富山国際大学人文社会部助教授)から、可なり詳細な「旧植民地、日本占領地域におけるハンセン病政策」、とりわけ、『2003年度ハンセン病検証会議報告書』(2004年4月発行)の「韓国=小鹿島における日本植民地政策」の弱さを、最終報告書は、書き加えたという報告がなされています(検証会議・議事録より)。

 また、3月上旬には、「ハンセン病問題に関する検証会議」のホームページには、「(要約版)最終報告書」が掲載され、その中でも可なり踏み込んだ内容の「韓国=小鹿島における日本植民地政策」が書かれていました。私は、何箇所かの記載の誤りは散見するけれど、この最終報告書の内容の「韓国=小鹿島における日本植民地政策」の記載を評価し、その努力を多とするという文を書き、あるホームページに掲載しました。

 

 3月15日の午前中に、『朝日新聞』東京本社の「企画編集部」のG〜デスクから電話があり、姜尚中さんに連絡がとれた。姜尚中さんは滝尾宅へ明日中に電話連絡をする。住所、電話番号、メールアドレス、昨日、滝尾さんが『朝日新聞』充てに送信されたメール内容も、姜尚中さんには連絡してある。姜尚中さんは、電子メールでは失礼なので、手紙で滝尾さん宛てに連絡するという伝言だった。訂正文は明日、3月16日の朝刊に掲載する」という内容でした。

 その姜尚中氏からの電話は、現在(=3月26日、午後6時までに)、かからず、また、3月22日には下記のような手紙が、滝尾宛てにきました。その姜尚中氏の「手紙」の末尾には

――「私の最終的な回答に返させていただきます。」と書かれていました。

 

 『〜検証会議最終報告書』が書かれるまでに、検証会議と私とは、特に、『2003年度ハンセン病検証会議報告書』(2004年4月発行)の「韓国=小鹿島における日本植民地政策」の記述をめぐり、はげしいやり取りがありました。むしろ、私の一方的な検証会議の、『2003年度ハンセン病検証会議報告書』への意見・批判だったかと思います。その意見・批判内容は、季刊雑誌の『飛礫』第44号、2004年10月発行)の「ハンセン病問題検証会議への意見書――植民地下朝鮮でのハンセン病政策の被害と責任所在を明らかにせよ」(100〜118ページ)を掲載し、また、滝尾英二著『ソロクト(小鹿島)裁判のための資料・研究ハンドブック――「国の行為による加害責任」は明らかである――』人権図書館・広島青丘文庫発行(2005年1月)所収の「『2003年度ハンセン病問題検証会議報告書』への意見書」(2004年6月11日)56〜64ページにも買いておりますので、これらを参照して下さい。

 

 このような経緯を経て、『〜検証会議最終報告書』の「韓国=小鹿島における日本植民地政策」の記述がなされたのです。そのはしがき「一 はじめに」で、検証会議最終報告書は(705ページで)、つぎのように書いています。

 

――「‥‥植民地下朝鮮のハンセン病対策について、戦後、植民地時代の記録を残すために設立された財団法人友邦協会は『人間愛と規模の大きさにおいて世界の視聴をあつめ、わが朝鮮統治の本質を表徴する善政として讃えられた、総督政治の誇るべき偉業である』と述べ(荻原彦三編『朝鮮の救癩事業と小鹿島更生園』、財団法人友邦協会、1967年)、総督府のハンセン病救療上を強調する。これは、ハンセン病政策を『人間愛』『善政』という語を使用して絶賛することをとうして、日本の植民地支配を正当化するものであり、こうした恣意的な自画自賛の評価をそのまま受容することは、真相究明上、慎まなければならない。(中略)

 なぜならば、滝尾英二が『朝鮮ハンセン病史―日本植民地下の小鹿島』(未来社、2001年)、『小鹿島更生園強制収容患者の被害事実とその責任所在』(人権図書館・広島青丘文庫、2004年)、および『植民地下朝鮮におけるハンセン病資料集成』1〜8巻(不二出版、2001年〜2003年)により、植民地時代の韓国のハンセン病施策を詳しく調査、紹介し、日本の植民地支配のもとでのハンセン病患者への日本国内以上の虐待の実態を詳細に明らかにしているからである。滝尾は『朝鮮総督府』のハンセン病政策の本質は絶対的隔離の強化、および断種による癩患者の撲滅であった。日本統治下での強制隔離による被害は過酷を極めた。植民地においてよりストレートに遂行された」と述べている。検証会議が受け継ぐのは、こうした滝尾の視点であって、前掲した植民地官僚のそれではない」(705ページ)と述べています(下線は滝尾)

 

以下、「検証会議最終報告書」の記述に沿って、姜尚中氏が「手紙」で書いたような「‥‥ただご指摘の通り、不十分ながら、最終報告書には朝鮮半島への若干の言及が盛り込まれていたわけで、これによって私が最終報告書の全文(点、点のルビが「全文」についている=滝尾)に目を通していないことが明らかになったわけです。確かに私が依拠した資料は、新聞社がまとめた要約でした。この要約が報告書を『客観的に』圧縮した内容であると思い込んだのは私の落度でした」(下線は滝尾)云々と書かれていました。またもや、「最終報告書」を読まずに書いたのだと思われる内容の手紙でした。私は、姜尚中氏から、3月22日に「手紙」を受け取りました。この姜尚中氏から届けられた「手紙」の内容が、いかに「問題のことば」で書かれているかということを、以下に述べてみたいと思います。

 

この論文を書いている最中に、この問題に関して意見を聞いた親友から幾らかの方からのメールが返ってきました。この中のメールの中から、3点ほど紹介して前へ進みたいと思います。その一つは最近、「メール友」になった方からのものです。

 

――「カン教授・・・、「カン様」と呼ぶ・・・その一人だったのかもしれません?彼の冷静さから成る物言いと、状況分析及び問題提起の投石術そして気骨から成る威圧感には、なぜか惹かれるものを感じていた一人です。

カン教授の便箋5枚からの丁寧な経過報告が、滝尾先生を更なる疑心暗鬼に落とし召したことは、残念この上なき出来事です。「便箋5枚」が届きました・・・この事実に、「カン教授!私がのぞむむ方だったのだ」と、勝手に思い込んでいましたが…。滝尾先生がこの件に関し、皆様の意見を求めているところに、じっくりと対処されることを私は望みます! ただ・・・先生が「許せない!」成る心境を、お持ちであるなら、即、国民に問うて頂きたい!と、切にお願いしたい思いです。どんなに人気者であるにせよ、自戒と自身の叱咤、真意の真実に気づいた謝罪を忘れた研究者は、その影響力から考えて見ますと、今後のカンさん次第では国民を催眠させてしまう可能性も考えられると思います。滝尾先生がテキストにと、ノ・ムヒョン大統領の韓国国民へ宛てた談話の全文の翻訳に一通り目を通しましたところで、カンさんの便箋5枚が真意無きものであったことは推察されます」云々と。(一中年の男性より)」

 

――「滝尾さん、私は、あなたから本当に多くのことを学んでいる自分が見えます。はた目には強引と見える行動・言動は、半端ではありませんよ。13日の記事は、朝、読んですぐに切り取りとっていました。以前からカン・サンジュンさんは、私の好きな人でしたから。滝尾さんから、韓国の状況を少し聞かせてもらっていたけど、不勉強の私には、あの記事は、彼の「日本と韓国、北朝鮮が共同で過去の認定を行い、将来への提言を出して欲しい」の文面に共感しました。これまで何度か新聞やテレビでの意見も賛同していました。「難しくても1冊、彼の著書買ってみようかなあ」と考えたぐらいです。

そんな時、滝尾さんからのメールでした。あらためて「人間、滝尾英二」を思い知らされました。あなたは、どんなときも、一貫して「現在の中身」でのみ闘うのですね。相手が社会的に評価されている肩書きを持った人物であれ関係ないのですね。言葉では「学歴なんて・・・」と言ってる人でも、「東大教授」の肩書きは決して軽くはありません。ましてや「政治思想」の分野です。教育界の頂点の東大と新聞界のトップクラスの朝日新聞の肩書きも、滝尾さんには重くも、軽くもないのですね。こんな当たり前のことを、ず〜と当たり前のように行動し、生きている「滝尾英二」の存在は、権力欲・名誉欲・金銭欲に毒されている多くの人間は”恐い存在”であるのは当然です。(中略)。しんどくても”事実”と向き合うことから逃げたり、ごまかしたりしない生き方を滝尾さんから学んでいます。カン・サンジュンさんと、どのような話になるかとても楽しみです。滝尾さんの主張は間違っていないのだから・・・」。

(2年8ヶ月前、私とともに、小鹿島を訪問した一女性から)。

 

――「滝尾英二さま
 朝日新聞の訂正記事と、Tさん宛てのお手紙をありがとうございます。
 知人のなかには
尚中論文を読んで、「植民地問題にふれていないとは検証会議はけしからん」と思った人がいました。滝尾さんのきびしい批判と問題提起で最終報告書に植民地については書き替えられれていること。しかし南太平洋諸島の実態が脱落しており全体像はまだ明らかになっていないことなどを説明しておきました。
 ハンセン病問題に関心のなかった多くの人たちは朝日新聞などのマスコミで認識を作っていきますから、やはり、影響は大きいですね」。(一出版社で編集をなさっている女性)。

 

 こうした知人・友人たちの声にどのように応えるか、考えました。これは姜尚中氏も3月13日の『朝日新聞』の「時流自論」にも書かれているように、「昨年、韓国の療養所入所者が日本政府に補償を求める訴訟をおこし」ています。第4回のこの行政訴訟は、東京地裁で、4月13日に開廷され、小鹿島から原告が来日されます。このハラボジやハルモニの「叫びにも、うめきにも似た『恨』のことばを聴く」ため、当日は私は東京地裁の法廷を傍聴し、その後にある「報告会」に出席したいと思っています。

 

 また、『検証会議最終報告書』の「韓国=小鹿島における日本植民地政策」の記述姜尚中氏の滝尾宛てに書かれているように、「最終報告書には朝鮮半島への若干の言及が盛り込まれていた」だけか、どうか。そして、姜尚中氏が『朝日新聞』の書いた「新聞社がまとめた要約」を「最終報告書」の全文を見たかのような誤まちを「手紙」の記述の中で、再度しているのではないか、と私は推測しています。この疑問に姜尚中氏は答えていただきたいと思います。

 それは、姜尚中氏の「手紙」の中に、「最終報告書には朝鮮半島への若干の言及」と書かれたことに関してです。滝尾に手紙した段階でも、実は「最終報告書の全文に目を通していない」まま、植民地朝鮮の検証会議の「韓国=小鹿島における日本植民地政策」の記述は「若干の言及」との評価をしている節が感じられるからです。その点を、同『最終報告書』の「韓国=小鹿島における日本植民地政策」の記述に即して、考えてみたいと思います。

 

 たしかに、私は『検証会議最終報告書』の記述に、日本の植民地支配下のミクロネシアに設置されたハンセン病隔離収容した四箇所の記述内容が殆んど書かれていないことを3月3日付けで書いています。しかしまた、その中でつぎのよにも記述していることをご理解いただきたいと思います。

 

――「ハンセン病問題に関する検証会議の委員であり、同会議の検討会委員でもある藤野豊委員は、「検証会議記録」において、つぎのような報告をしている。

 

――検証会議の藤野です。私の担当は多いので、簡単にやります。(中略)

‥‥‥それから、植民地の問題がありまして、これが第十二の項目です。「旧植民地におけるハンセン病患者の処遇と政策」韓国と台湾、目次には落ちていますが、第3に満州があります。それからあと、ここは旧植民地だけになっておりますが、さらに旧占領地も入っております。中国、それから東南アジア、これは目次に欠けておりますが、入っております。特に昨年の中間報告では、韓国と台湾が非常に弱かった。特に韓国についてはかなりご批判もある内容でした。そこで今年は、特に韓国と台湾についての調査、執筆を補強しまして、小鹿島でも、実際にクリチスチャンであるがために神社参拝を拒否して断種をされたという方の聞き取りも行いまして、被害実態が去年よりもより鮮明になりましたし、まさに日本の植民地政策の一環としての小鹿島の、韓国の隔離という問題がより鮮明になりました。また、台湾でもやはり断種が行われておったこと、あるいは堕胎があったことも、楽生院の入園者の人たちからの聞き取りで明らかになり、また楽生院から戦前の日本統治時代の資料が何点か出てきまして、こうしたものも最終報告書に反映することができました。

検証会議としては、全国の13箇所を回ってきましたけれども、やはり全国の13園だけではなく、台湾や韓国の療養所も含めた、日本の一貫した隔離政策というものを今回の報告書でははっきりと打ち出すことができたんではないかと考えております。」(「検証会議記録」34〜35ページ)。

 

『2003年度ハンセン病問題検証会議報告書』の「第十 旧植民地、日本占領地域におけるハンセン病政策」中の「第一 旧植民地におけるハンセン病患者の処遇と政策」中の「一、韓国」の記述では、「日本のハンセン病対策の全体像を明らかにする一助として、植民地時代における韓国のハンセン病対策について現地調査と文献調査を行った」という滝尾が指弾した箇所が、「‥‥被害実態が去年よりもより鮮明になりましたし、まさに日本の植民地政策の一環としての小鹿島の、韓国の隔離という問題がより鮮明になりました」と最終報告書と書き改められ、また、藤野委員の報告によると、「検証会議としては、全国の13箇所を回ってきましたけれども、やはり全国の13園だけではなく、台湾や韓国の療養所も含めた、日本の一貫した隔離政策というものを今回の報告書でははっきりと打ち出すことができたんではないかと考えております」云々という内容のことは、評価できることであると思うと書いています(下線は滝尾)

 

 再び、『検証会議最終報告書』の「韓国=小鹿島における日本植民地政策」の記述に即して、考えてみたいと思います。3箇所に分けて書かれています。最初の記述は「第十七 旧植民地、占領地域におけるハンセン病政策」の章に書かれています。そのうちの「一 はじめに」は前述した通りです。「三 朝鮮癩予防協会の設立」では「‥‥朝鮮癩予防協会設立を主導したのは、朝鮮総督宇垣一成、朝鮮総督府政務総監今井田清徳、同警務局長池田清、同警務局衛生課長西亀三圭らで、1932(昭和7)年12月27日には財団法人「朝鮮癩予防協会」が発足、事務所は総督府警務局内に置かれ、会長には政務総監今井田、副会長・理事長には警務局長池田、常務理事には警務局衛生課長西亀三圭が就任した。以下のメンバーからわかるように、朝鮮癩予防協会は、実質的には朝鮮総督府の支配下に置かれていた」(710ページ)と書かれています。さらに、

――「1933(昭和8)年2月、朝鮮総督府はハンセン病患者の一斉調査をおこなった。その結果、患者総数1万2269人のうち、浮浪する患者が2461人に達したため、朝鮮癩予防協会は2000人収容予定の計画を3000人に変更し、1933(昭和8)年い400人、1934

(昭和9)年に1600人、1935(昭和10)年に1000人の収容設備を3年間にわたり整備して、総督府に寄付する計画を立てた。

 そこで、朝鮮癩予防協会は3000人収容のためのハンセン病療養所の場所選定をおこない、小鹿島に決定した。1ヵ所に収容する人数が増えたことで、1人当りの経費が安くなり、同一予算内でより多くの患者を収容できることになった。

 1933(昭和8)年4月、朝鮮癩予防協会は小鹿島の残りの土地すべてを買収し、全島をハンセン病療養所として使うようにした」(711〜712ページ)。

 

「朝鮮癩予防協会と周防正季は、1933(昭和8)年9月より工事費115万5969円をもって、3000人増収計画のための第1期拡張事業を開始した。(中略)費用はすべて朝鮮癩予防協会の資金でまかなわれた。1935(昭和10)9月、右記の拡張事業は島外の技術者と人夫数百人、患者2000余人の2年間の作業により完成され、3770人が収容できるようになった。

 こうして、1934(昭和9)年9月14日、朝鮮総督府癩療養所官制(勅令第260号)の公布により、10月1日から従来の全羅南道所属の小鹿島慈恵医院は朝鮮総督府癩療養所となった。また、同年9月29日の朝鮮総督府令(第98号)により小鹿島更生園と改称され、周防は更生園の初代園長となる。

 1935(昭和10)年4月20日、朝鮮総督府は日本の「癩予防法」に倣って、ハンセン病患者管理の法的措置である「朝鮮癩予防令」(制令第四号)を制定・公布し、隔離政策を強化した。(中略)同施行規則(府令第62号)とともに6月1日より施行された。そのなかで「朝鮮総督ノ定ムル所に依リ入所患者ニ対シ必要ナル懲罰又ハ検束ヲ加フルコトヲ得」(『朝鮮総督府官報』第2479号)と療養所所長の懲罰検束の権限を強化している。

一方、療養所内にハンセン病患者の刑務所設立が決まった。(中略)1935(昭和10)年9月、小鹿島内に光州刑務所小鹿島支所(収容人員50人)が工事費3万7500円癩朝鮮予防協会の寄付)を以て新築され、法務局が看守長1人、看守9人の職員を配置している。当時の日本のハンセン病療養所のなかでは国内および植民地で唯一、小鹿島更生園のみが刑務所をもっていた。

1935(昭和10)年末に韓国全土の刑務所に服役中のハンセン病囚人59人を収容した。刑期が終了すると、引き続き小鹿島更生園に収容された。このときから小鹿島療養所は一般のハンセン病患者のほか、ハンセン病患者の受刑者も収容するようになった。また、刑務所の設置と療養所所長の懲戒検束権の強化とにより一般のハンセン病患者に対しては「療養の場所でなく、処罰収容の場所」となった(滝尾英二前掲『小鹿島更生園強制収容患者の被害事実とその責任所在』)」(712〜713ページ)。

 

「更生園における生活」の項では、『最終報告書』はつぎのようにも書いています。

――「小鹿島更生園が生まれた1934(昭和9)年、収容患者は一気に2196人に達し、患者数の増加(医員数は4人)のみによりさまざまな問題が発生した。医療問題について、1935(昭和10)年9月に小鹿島更生園の入所者であった三井輝一が語った記録によると「医療問題―最近治療ヲウケズシテ死ヌモノ多シ‥(中略)‥四ヶ月イテモ診療ニハ一度トシテ来タタメシナシ。医員ハ来テ印ヲ押スノミ。役ハ看護婦、看護手ノ代行(滝尾英二編前掲『植民地下朝鮮ハンセン病資料集成』第6巻)と書かれ、医療・看護体制の不備と診療の放置、死亡患者の増大を指摘していた。

 更生園当局は生活安定を理由に、1936(昭和11)年4月1日に朝鮮総督府の許可を得て「隔離収容ノ意義ヲ沈却スルニ至ルベキヲ以テ予メ本人ノ申出に依リ断種法ヲ行ヒタル」ことを条件に夫婦同居の許可を公布した。夫婦同居により「患者ノ気分非常ニ緩和サレ島内生活ノ安定ニ大ナル効果ヲモタラスニ至リツツアリ」であったという(『小鹿島更生園年報』1937年版)。1941(昭和16)年までには「断種」手術を受けた夫婦は840組に達した。

 しかし、断種は処罰としてもおこなわれた。木を切ったとか、脱走したとか、反抗的、反日的であるという理由で断種されたという証言もある(1997年12月22日、TBS系列「ニュース23」の特集「もう一つの強制不妊 韓国・植民地下での強制断種」)。族譜があったりする儒教の社会で、子孫繁栄をすべて断たれることは日本社会以上に耐え難い苦痛であったと考えられる」(714ページ)。

 

 「過酷な状況下で患者作業を進めるため、ほとんどが警察や憲兵出身である看護長が厳しく監督した。とくに首席看護長の佐藤三代治(周防園長の養子)は患者を酷使したことで有名であった。「佐藤は患者にとって非常に怖い存在であった。作業の強制性と職員の横行により、毎日死ぬほどつらい日々であった」と元入所者のSさん(2002現在、ハンセン病患者の定着村益山農場に居住、「断種」も経験)は証言する。

 過酷さに耐えられず、1935(昭和10)年以降、逃走を企てるものが目立ってきたが、1941(昭和16)年までの男患者は280人に及んでいる(『小鹿島更生園年報』1937年版)。それにもかかわらず、朝鮮癩予防協会と周防は第3次拡張工事(1939年1月〜11月)を予算27万1380円で始め、収容定員5770人規模のハンセン病療養所を作りあげたのである。(中略)療養所拡張の事業の終了後の1940(昭和15)年からは重症患者、不自由者も含めて木炭、肥料用叺(かます=ルビ)の製造、松脂の採取、ウサギ皮の生産など軍用物資の生産に動員された。ずっと続いた労役で、「入園患者は病勢が悪化し、耐えきれない患者は脱走したり、自殺したりした」という(Sさんの証言)。

 

 戦争のなか、在園冠者は毎月1日と15日は神社参拝、20日は周防の銅像参拝を強制され、毎週月・金曜日は愛国班会や随時に開かれる時局講演会に参加させられたが、周防のこのような小鹿島更生園の運営は、韓国を日本の兵站基地化するという当時の社会情勢の影響を受けてのものであった。1942(昭和17)年6月20日の入所者による周防園長の刺殺事件は、こうした療養所運営への入所者の不満が顕在化した結果である。

 周防の死後、園長には西亀圭三(三圭=滝尾)が就任する。戦局の悪化のなか、過重な強制労働と営養障害などにより死亡率は高まり、表2に示したように、長島愛生園と同様の変化を示した(滝尾英二前掲『朝鮮ハンセン病史―日本植民地下の小鹿島』)。そして、1945(昭和20)年の日本の敗戦を迎え、総督府による小鹿島管理も終わりを告げる」(716ページ)。

 

 「まとめ」の項では、

――「以上、小鹿島慈恵医院・小鹿島更生園に代表される植民地下の韓国のハンセン病政策は、日本国内の絶対隔離政策の一環であり、すくなくとも韓国のハンセン病患者は日本のハンセン病患者が受けた人権侵害と同様の被害を受けている。しかし、その人権侵害に植民地支配下の民族的感情が加わり、被害の程度は日本国内のそれをはるかに上回るものであった。処罰としての断種、笞を使った入所者の殴打などは、それを象徴するものである。ハンセン病患者への差別、植民地民族への差別により韓国のハンセン病患者に対しては、二重の人権侵害があったという事実を認めざるを得ない」(717ページ)。

 

 『検証会議最終報告書』の「第十七 旧植民地・日本占領地域におけるハンセン病政策」の章には、705〜718ページにわたっての記述があります。(私の「抜粋」ではありますが、多くの貴重な記述がされています。

さらに、最終報告書の「第二十 療養所における検証会議実施報告等」の章の837〜840ページには、2005年1月6日〜7日に、検証委員の金平輝子(座長)、鮎京真知子、藤野豊、三木賢治、光石忠敬の5名が国立小鹿島病院を訪問し、中央里の集会所に70人ほどの入所者が詰め掛け、2名の入所者が戦前の体験を語り、やりとりを真剣な眼差しで見守ったということが、書かれています。

 

 また、小鹿島の調査訪問の「証言」が印象深かったのか、『検証会議最終報告書』の巻末の「おわりに」の中で、「財団法人日弁連法務研究財団ハンセン病問題に関する検証会議一同」として、つぎのような「小鹿島病院での証言内容」が書かれております。

 

 ――「日本の統治下、誤った日本のハンセン病政策によって小鹿島に強制隔離され、今も同島に住む1921(大正10)年生まれの男性は、訪問した検証委員の聞き取りに応じてくださった。15歳のとき発症し、巡査が来て『小鹿島に行けば病気は治る』『食糧も十分にある』といわれ、1941(昭和16)年に隔離に応じたが、食糧は乏しく、毎日、星を見て労働に出かけ、星を見て帰るという生活であった。労働の内容は、レンガ作り、たきぎ集め、叺作りなどで、看護長は『患者10人より松の木1本の方が大事』といって憚らず、この強制労働で傷を負っても、働かされ続け、それが原因で、手の指10本と両足を失った。食事の量は、男性ひとりが1日、米2合とサクラ麦で、それを3回に分けて食べた。このような内容であった。日本文化の全面開放が進む韓国にあって、彼が描く日本、日本人とはどのような像であろうか」と。

 

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私宛ての姜尚中氏の「手紙」は、終始、言い訳=それもその欺瞞性がすぐ分かる屁理屈の内容です。「手紙」には、四箇所の真実に、程遠いところがあります。その箇所を以下、紹介しておきます。

 

 第一の問題点は、「最終報告書には朝鮮半島への若干の言及が盛り込まれていたわけで〜」と姜尚中氏の手紙には書かれています。それは、姜尚中氏は本当に、『最終報告書』(全文)を読んで、最終報告書には「若干の言及が盛り込まれていたわけで〜」と理解し、「手紙」したのでしょうか。私には、『朝日新聞』3月13日の「時流自論」の「わしゃ、生きるけんね」の姜尚中氏の「最終報告書には〜」と同様、再度、『検証会議最終報告書』(全文)を読まずに、「ご指摘の通り、不十分ながら、最終報告書に若干の追及が盛り込まれていた」(下線は滝尾)と書き続けているのではありませんか。また「私が最終報告書の全文(● ●)に目を通していないことが明らかになったわけです」と自己責任の問題としてではなく、他人事のような手紙を私に届けている点も気になります。この「手紙」は、再び『朝日新聞』3月13日の「時流自論」の轍を踏んでいるのと違いますか、こんな気持ちで「姜尚中氏の手紙」を読みました。前述したように、『検証会議最終報告書』の「植民地朝鮮のハンセン病政策と患者の被害事実」は、姜尚中氏がその全文を読んでおれば、「不十分ながら‥‥若干の追及」などとは、「手紙」には書けなかったはずです。

 

 第二の問題点は、『〜最終報告書を「画期的」と評した点についてですが、内容よりも国の予算(この4文字には傍点あり)でそのような検証会議が報告を出した点を評価したからです〜」。だと書かれていることです。

 

 しかしこの事業自体が可能になったのは、原告や原告弁護団たち、支援者の皆さんなど多くの闘いの結果です。そして、厚生労働省は、財団法人日弁連法務研究財団ハンセン病問題に関する検証会議に、それを委託された事業それであります。本年度で、2年半の「検証会議」の終了。その『〜最終報告書』だということを、良く、姜尚中さんは分かっていないのだと思います。『検証会議最終報告書(要約版)』の「はしがき」にも「‥‥少なくとも一つの土台を提供しえたということであろう。ここにおいて、本事業が、2001年5月におけるハンセン病国賠訴訟の歴史的な司法判断から始まった問題解決の過程を、法廷という場から、より広い社会へ向けて、さらに一歩でも進め広げたとの評価をえることを、私たちは希望する」と書いています。

 

3月2日の各新聞が、「画期的」と書いたのは、 国の予算で出された点なく、その書いた内容でしょう。私も、『最終報告書』は「画期的」な内容だとは思いませんが、「真相究明」の第一歩だとは思っています。送られてきた『最終報告書』のCDを印字して、886ページもありました。パソコンの「黒インク」が2本もいり、紙も900枚ほど使いました。しかも、別冊として、写真集などもありますが、これは印字しませんでした。たしかに、『最終報告書』は、ハンセン病研究の一つの基本的資料とはなると思いました。だが「闇の中にともった一つの明かり」程度だとは思います。

 

 第三の問題は、つぎのように姜尚中氏は言います。「〜しかし植民地朝鮮について言及がない」点を指摘し、国の予算で南北朝鮮と日本が共同でさらにハンセン病問題の検証をして欲しいという趣旨を伝えるつもりでした、と。検証会議には、検討会委員にとの声を一度もかけられなかった私にとっては、姜尚中氏のこの言葉=南北朝鮮と日本が共同で検証会議を日本の国の予算でということは、あまりにも遥か彼方からの「提言」のように、感じました。理想と現実は、異なる現在があります。「時流自論」だから、自由なご意見はいいのですが、「国の予算」で検証をして欲しい云々というのは、あまりにも、非現実だと思います。「民間レベル」での共同研究は可能だと思いますが〜。

 

 第四の問題点は、姜尚中さんの私宛ての手紙の末文には、こう書かれていました。

――「私の最後的な回答に返させていただきます」と。この一文が、姜尚中東京大学 大学院教授の「評論家学者の体質」をあらわす見事なる「ことば」であると、私は、痛感しました。

 

  2005年3月28日(月曜日)  人権図書館・広島青丘文庫 主宰

                               滝尾 英二より