「ハンセン病問題」と優生思想・政策の推移

2005年9月Blog「滝尾英二的こころ」掲載


1. 安部磯雄の場合@


 「ハンセン病問題と優生思想・優生政策」に関する資料として、まず『廓清』に掲載の安部磯雄、および『婦人新報』に掲載の高野六郎の「著述」を「滝尾英二的こころ」に長期に連載することにした。「ハンセン病問題を考える」上で、優生思想・優生政策を正確、かつ的確に把握することは、極めて重要だと考えるからである。
 同時に、『ハンセン病問題に関する検証会議・最終報告書』が、今年の3月に出た。その「第七 ハンセン病政策と優生政策の結合」191〜208ページにこの問題が取り上げられている。「要約版」は、「13:日本におけるハンセン病政策と優生政策の結合 #7」29〜31ページが、それである。
 『ハンセン病問題に関する検証会議・最終報告書』が全ページが、886ページもあるなかで、「第七 ハンセン病政策と優生政策の結合」にさかれたのは、わずか20ページに過ぎない。


 「検証会議委員兼検討会委員に藤野豊氏(富山国際大学人文社会部 助教授)と検討会委員には松原洋子氏(立命館大学大学院先端綜合学術研究科教授)の両氏がこの、『ハンセン病問題に関する検証会議・最終報告書』の作成に加わっている。両氏とも、優生思想・優生政策研究者として著名である。
 しかし、『ハンセン病問題に関する検証会議・最終報告書』を一読しる限り、記述内容は意外に弱く、且つ薄い。優生思想・政策は、日本におけるハンセン病問題を考える場合、極めて重要な問題=根幹の問題であるが故に、私は「〜最終報告書」の内容を批判し、また、その記述を資料を示し補う必要を感じている。「滝尾英二的こころ」の読者には、「資料紹介」が多く、読みにくいことを気にしながら、あえてこのような文を書かなければならないことをお許しいただきたい。

 安部磯雄の著述を四編紹介するに際して、廓清会本部発行『廓清』会本部理事長・安部磯雄とは、どのような人物かをはじめに紹介してみたい。鷹柳光寿・竹内理三編『角川・日本史辞典(第二版)』角川書店(1987年)にとると、つぎのように書かれている。

 <あべいそお 安部磯雄 1865〜1949(慶応1〜昭和24) 社会運動家。福岡県の生まれ。同志社卒業後アメリカに留学、キリスト教社会主義の立場から1898(明治31)社会主義研究会に加わり、1901には幸徳秋水らと社会民主党を創立、その宣言文起草。日露戦争では非戦論を唱え、05 石川三四郎らと雑誌「新世紀」を発刊したが、10大逆事件後は実践運動から離れた。大正デモクラシーの興隆とともに復帰し、社会民主主義右派の長老と目された。24(大正13)フェビアン協会長、26社会民衆党委員長、28(昭和3)代議士に当選、32年社会大衆党委員長、戦後は日本社会党顧問。また、早大野球部の創設者。熱心な産児制限論者として有名。主著「地上の理想国瑞西」「社会問題概論」>(29ページ)。

 宮川寅雄解説『世界婦人』(復刻版)全三八号、龍渓書舎(1981年5月)発行によると、『世界婦人』は、1907年1月1日に創刊され、毎月2回、後に月1回刊行され、福田英子が編集・発行したのであるが、安部磯雄は福田英子を助けて、女性解放紙に、「女性解放」の記事を多くの寄稿している。『世界婦人』の寄稿者としては、堺利彦、幸徳秋水、大石誠一郎、田中正造、神川松子、石川三四郎などがいた。

 『廓清』一九一一年七月、創刊され、以降一九四五年一月発行の終刊号に至るまでの長きにわたって刊行された廓清会の機関雑誌である。廓清会文部役員は、顧問・大隈重信(伯爵)、会長・島田三郎(衆議院議員)、副会長・矢島揖子(婦人嬌風会頭)と安部磯雄、機関誌『廓清』編輯人・益富政助などである。廃娼運動の全国組織として知られている。安部磯雄は早大の講師から教授となり、多く同誌に寄稿している。一九二三年の島田三郎会長の死去に伴って、安部磯雄は廓清会の理事長となっており、安部は、『廓清』の巻頭言を書き、その時々の時流において、自説を述べている。
 『廓清』を中心として、安部磯雄の新マルサス主義の理論家がどのように議論を変化させ、侵略戦争の進行とともに、「国策としての早婚」「なるべく早くお国の為めに結婚する」ことを繰り返していったか『廓清』を読みながら思った。藤目ゆき著『性の歴史学―公娼制度・堕胎罪体制から売春防止法・優生保護法体制へ』不二出版(一九九八)の第十章 優生保護法体制』343〜377ページの中で、鋭くその点を指摘している。

 安部磯雄は、廓清会本部発行『廓清』第二六巻第二号(一九三六年二月)に「最高峰に立てる社会事業」という巻頭文である。そのほゞ全文を紹介しよう。

 「困難なる癩病救済事業  大体今日の社会事業と云ふものを観察して見ると、その精神に於いては、何の社会事業を見ても、実に麗はしいと云はんか、或は尊いと云はんか、何れも立派なものである。今や社会事業は欧米諸国に於いて盛なるは、私がこゝに申すまでもなく、我が国でもだんだん盛んになつて来た。勿論日本では昔から社会事業としては立派なものがあるから、今更ら新らしい事業とは云へないかも知れないが、社会事業が社会的に認められるやうになつた事は悦ぶべき事である。殊に社会事業の中でも、代表的――と云つては適当でないかも知れないが――社会事業として最も困難であり、或る意味で非常な犠牲を払はねばならぬ社会事業は、癩病人の為めに設けられて居るものである。外の社会事業も何れも困難な事業であるが、癩病患者を取扱ふ事から云ふと、他は比較的の云ふと、犠牲を払ふ点も少いと思ふ。かう云ふ意味で私は如何なる社会事業を見ても感服するが、殊に癩病患者の為めに尽して居る人を見ると、感服では云ひ足らない。自然に頭が下るやうな感じがする。自分自身で考へて見へも、他のものなら自ら進んで従事出来ると云ふ確信があるが、癩病救済の事業は今すぐに飛び込んで行くか何うかと考へる時に、何とも云へない感じが涌いて来る。でさう云ふ事業に従事して居る人に、満腔の敬意を払ふものである。

 台湾に於ける癩患者収容所  先頃台湾の旅行中に、癩患者を収容して居る病院を二ヶ所見たが、一ッは講演を頼まれたから行つたのである。台湾にも癩患者の収容所は二ヶ所しかないであろうと思ふ。それを大体話して見たい。一つは台北の北の方淡水と云ふ処にある癩患者の収容所であるが三十年前に出来て居るやうである。それの経営者は英国人ドクトル・テイラーと云ふ人であるが、そこへ行つて見た。(滝尾註=マッカイ医院のこと。清水寛著「植民地台湾におけるハンセン病政策とその実態」2001年6月刊、一四六〜七ページ参照)そこは道がよくないので、総督府で自動車を出してくれたのであるが、行つて見ると場所はよい処であつた。そこは淡水と云ふ川が流れて居るが、病院はその岸の一方にあり、海に近く、農業によく、土地が肥えて居る。病院は少し小高い方に向つて居て、建物は赤煉瓦で造られ、幾棟にもはつて居る 一棟に四人が住ふ(ママ)事になつて居る。そして気候が一年中暖かいから、室の中は簡単で、下はコンクリートの床になつて居り、一人々々のベットがあつて、綺麗になつて居る、室もよく出来て居る。大体男女を別々にするやうに寄宿舎は出来て居る。その他毎朝集る礼拝堂や事務所は大きなものがある。他に病院に属する畑があつて、それは入院患者が少しづゝ農業をやるやうになつて居る。だから野菜は自分で作つたものを食べる。耕作の方法は各々受持がありそれを耕して居る。人々は競争心があるから、よいものを作る。そして時々展覧会をやつて、優勝者には賞品を与へる。そこに収容されて居る人数は割合に少い。それは経費の関係であらう。総督府からも補助しては居るが、その額は余り多くないので、経営は自身がやつて居る。恐らくテイラー氏が維持費を自分で稼いで居るのげはないかと思ふ。テイラー氏は台北に普通の病院をもつて居る。そこで病人を診察して居るのであるが、癩病で入院の必要なものは、淡水の癩病院にやるやうにして居るのではないか。私の行つた時はティラー氏は台北に行つて居て逢えなかつたが、細君に逢ふことが出来た。その他に本島人の牧師が居た。私はミセス・ティラーに逢つて見て、理想的な婦人であると思つた。柔和で、親切であつた。あゝ云ふ態度で患者に接したならば、癩病患者も何んなに感謝するか知れない。その後台北で講演した時に、会後牧師館で懇談会があり、その時ドクトル・ティラーにも逢つた。このティラー氏夫妻は三十年近くかうしてやつて居るのではないか。かう云ふ人に逢ふと、実際私の頭は自然に下るやうに思つた。この外にこれは台北の近くに、総督府が経営して居る癩患者の収容所がある。それに行つて見た。それは総督府が金を出して居るから、収容して居るから、収容して居る患者の数は多い。百五十人から二百名位の患者が居るやうである。収容されて居るものは本島人が多い。私の行つたのは講演の為めであつたが、患者中の日本語の解るものが出席したのであらう、それが二三十人居り、外に事務員が二十人近くも居て、その人々に講演した。私は患者よりも、事務員に話す積りで話した。病院のある場所は、街から隔つた閑静な処で、建物は木造であるが小ざつぱりしたものであつた。台湾にはこの二つの癩病院があるのであるが、果してこれで全部の癩患者が収容されて居るか同うか知らない。この事から考へて、私は更らに日本全体の癩病が、何う扱はれて居るかと云ふ事に興味を感ずるものである。

 外人に先鞭付けられた癩病院  日本内地の患者収容所は、昔は外国人の手で経営されて居た。これは日本人はその人々に感謝する共に、肩身が狭かつた、誰れでも知つて居るのは、熊本の癩病院であるが、これはレデル嬢によつて設立経営されて居た。この人は先年亡くなつて、全国にセンセイションを起した位に有名であるが、長い間癩病患者の為めに、無理をして一生を捧げ、日本で亡くなつた。第二は群馬県草津にある癩病院であるが、これはリー夫人が経営している。この人も大分前からやつて居る。もう一ッは箱根にあるが、これは天主教の方でやつて居るので、仏蘭西人か或はその他の外国人によつて経営されて居る こう云ふ事を考へると、日本の社会事業として困難なものは外国人の手によつてやられて居る。これが外国では何うなつて居るかと云ふに、癩病患者の多いのは、米国のハワイが一番有名であるが、このハワイは島から成り立つて居るから、大小合せせると沢山あるが、その中にモロカイと云ふ島があり そこが一番癩患者が多い。そこに天主教の僧でダミエンと云ふ人が行つて、患者の世話をして居たが、後には自分が感染して死んだ。私は人間の犠牲的精神と云ふか、愛の精神と云ふか、このダミエンなどのやつた事はその代表的のもので、キリストの精神をそのまゝ生して行くと云ふ事は、このダミエンの生涯などはさうではないかと思ふ。かう云ふやうに癩病の救済に対しては、外国人によつて、手を附けられたのである。

 国立癩病院に働く二友人  この困難な事業に対して、外国人にのみ委せて居たのを肩身が狭く思つて居たが、私は幸ひにして近頃日本人の間に癩病の救済事業に従事して居る人があることを知つた。それは国立の癩病院に働いて居るが、役人でも余程の篤志家でないと出来ない。私は不幸にして二人しか知らない。二人でも熱心に従事して居るのは心強い。一人は元東京に居た人で、東村山村の療養所に居て、院長をして居た光田健輔と云ふ人で この人には前から逢ひたいと思つて居たがその機会がなくて逢えなかつた。今は岡山の永島(ママ)に国立癩病院が出来て、そこの院長に転任した。何日かは訪問したいと思つて居たが、昨年或る事情の為めに急に逢ふ用事があつたので、丁度内務省では癩病に関係して居る人の人の大会があり、幸ひ光田氏の下に働いて居る林文雄と云ふ人も来て居たので、二人に逢つた。それ以来年報なども送つてくれるので、事情を知ることが出来る。その林と云ふ人は癩病研究の為めに留学した専門家である。昨年鹿児島県に収容所が出来て、そこに院長として赴任した。収容所は鹿児島湾の東海岸に当る所に出来たので、林さんはそこへ行つた。私は機会があつたら、岡山へも鹿児島へも行つて見たいと思つて居る。これが私が癩病院に就いて自分の知つて居るものである。

 断種法を実行した達見  私が光田院長に興味を感じたのは、今それをやつて居られる何うか知らないが、東京郊外の東村山村の癩病院に居る時に、収容者は癩患者として収容して居るから、始め男女を別けて、その間に大きな溝を堀つて、一方から一方へは行けないようにして収容した。それでも何うして行くのか、男の方が溝を越えて女の方を尋ねると云ふ事実が解つた。本人を召んで怪しからんではないかと責めると、患者の云ふには、では先生は奥さんと別々の室で寝ますかと云はれたので、成程かう云ふ不幸な位置に居る人々だから、性欲の満足までも奪ふ事は残酷であると思つて、断種法を行つたら問題は解決さるゝであらうと決心して患者を集めてその話をした。男子の方はこの手術が容易だから、この理屈を男の患者に云つて断種法をやれば、子孫が出来ないから、それをやつたら夫婦になりたければ許すと云ふ事にした。これは普通の人では考へられないがそれを実行した。さう云ふ訳で一度光田と云ふ人に逢ひ、親しく事情を聞いて見たいと思つて居たが、幸ひに知己になつたから、岡山や九州へ行く場合があつたら、訪問して見たいと思ふ。兎に角癩病を救済する事が、外国人だけがやつて居るのではなく、日本の医者にもやはりさう云ふ事をやつて居る人があることを知つて私は大変愉快に感ずるものである。

 人生最大の悲惨事  最後に一言述べて置きたいのは、癩患者が収容されて居るから人の目に触れないので、実際を知らないから同情が起らないかも知れないが、仮りに自分の近親が罹つたら何うであらうか。これは一家が死の宣告を受けたやうなものである。社会からは交際を絶たれるし、若い人々は結婚も出来ない。こんな悲惨な事はないから、国家は速かに癩病だけは力を尽せば、根絶が出来るから、この方に力を尽して欲しい。日本全国では何萬人がこれに罹つて居るのであるが、昔は天刑病などゝ云つて嫌つた程であるが、これは国家の力で無くするより外はない。そして思ひ切つて沢山の収容所を作つて、山の中であるとか、人里離れた処に収容して癩病を根絶する。これより外に方法はない。

*註:(「資金捻出方法の一私案」、「諸外国の例を研究せよ」の項は、省略する。=滝尾)

 

2.安部磯雄の場合A


  前回に引き続き、廓清会本部発行『廓清』に掲載された安部磯雄の「優生思想」および「断種」の奨励、「体力の充分な人が殖へる事が国家の為めである。さうなれば国家の利益である。頭数の殖える丈けが国家の強みではない」とする「断種」を国家の為めとする「国家主義」に注目する必要がある。それが、廓清会本部発行『廓清』に掲載された安部磯雄理事長の主張であるだけに、ことは重大である。
 光田健輔の「優生手術」は、こうした『廓清』理事長・安部磯雄らの支持・声援のもとに拡大・強化されていく。『廓清』という廃娼運動の全国組織の機関誌の「巻頭文」の主張が、阿部磯雄の「優生思想と優生施策の実施」を主張していることである。こうした事実を『ハンセン病問題に関する検証会議・最終報告書』は書こうとしない。こういうことは、後稿にも数多くあるということを「滝尾英二的こころ」の読者は考えて欲しいと思う。日本基督教婦人矯風会の機関誌『婦人新報』の記事にも見られることである。
 「ハンセン病政策と優生政策(優生思想)」を考える際の大きな視点であろう。この点に注目して、以下挙げる諸資料を読んでいただきたいと思う。(滝尾)

 「そのA」の資料は、廓清会本部発行『廓清』第二六巻第五号(一九三六年五月)に掲載された安部磯雄著「国民生活と人口問題」と題する巻頭文は、「断種法」に関して、つぎのように述べている。
 *註:(「人口問題は国民生活を基礎に」「空頼みの移民政策」の項目は省略=滝尾)

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 第一に手数の掛らぬ方法  今日でも産児制限が広く行れて居る事は事実であつて、政府でも喧しく干渉はせぬし、可成多く行れて居る。これは教育のある知識のある人々の間に行れて居るが、最も必要のある労働階級には、方法が解らない為めと、解つて居ても、実際に実行出来ない為めに、徹底して行はれて居ない。これは有る意味から云ふと矛盾である。行はなくともよい人々の間に行はれて居て、必要のある方面に行はれて居ない。勿論産児制限と云ふ事は、国家が率先してやるべきものか何うかは議論の余地があるが、邪魔をしてはいけない。個人の自由に委せねばならぬ。で制限と云ふ事に就いて、何う云ふ方法が行はれて居るかと云ふに、それは色々であるが、サンガー夫人の方法なども悪くはないが、これは知識階級、中流階級にはよいが、下層階級には向かない。私の云ふのは、間違つて居るかも知れないが、手数のかゝらぬ方法は行れ悪い。実行が出来るや否や疑問である。で手数のかゝらぬ方法を考へねばならぬ。手数のかゝらぬ方法ならば、断種法と云ふ方法を考へれば、制限法としては有効である。それなら手数はいらない。これは何う云ふ事であるかと云ふと、簡単な手術である。それはこの手術を行へば、絶対に子供は生まれない。

 悪質遺伝と断種  子供が絶対に生れないと云ふのだから、一寸考へると恐ろしいやうであるし、普通の人は恐ろしがる。けれどもその方のよい方面を見れば、そうかなと思はれる節がある。独逸でもヒツトラーが人種改善の為めに断種法と云ふのを奨励して居る。悪質の遺伝とか、低能者とか、子孫に悪質の遺伝をするやうなものを挙げて、例へば癩病と云つたものには、強制的に断種法を行はせる。国家の法律を作つて実行して居る。これは我々が広い考へで云ふと、人種の改良と云ふ事から考へて、悪質の遺伝である癩病患者と云つたものに、この断種を行へば心配はないと思ふ。この断種法は子供を残さない。けれども性欲までも奪ふのではない。だから癩病院の如きでは安心である。癩病患者でも性欲がある。これを奪ふ事は人道上出来ない事である。処が断種法は簡単で性欲は奪はない。唯妊娠しないだけであるから、これ位便利な方法はない。日本でも東京の東村山村には癩病院があるが、こゝに院長をしていて居た光田健輔氏が、癩病患者でも男女の取締か六カ敷、そこで断種法を行へば夫婦になつてもよいと云ふ人情味のある仕方を取つた。子孫を遺さないと云ふことが重要な事である。男女の欲を奪ふ事はよくない。断種法をやれば夫婦生活を許すと云ふ事にした。今その院長は岡山県の瀬戸内海に面する長島に、癩病患者を収容してゐる国立病院があつて、そこへ行つてやつて居らるゝが、かう云ふ場合には断種法が悪いと思ふ人はなからう。

 米国白痴院に於ける実行  私は先年アメリカへ行つた時に思つたのであるが、アメリカと云ふ国は進んだ所があると共に、又一面保守的な処があつて、ヒツトラーのやうには思ひ切つた事は出来ない。併しカリフォルニャ州では感服した事はある。それは白痴院であるが、低能者を世話する病院であるが、その病院では父兄親戚の承諾を得れば、男女共断種法を行ふ事が出来る。本人は馬鹿だから何んな事になるか解らないので、安心の為めに行ふのである。報告書のやうなものを読んだが、それによると白痴でも顔の美くしい女があるから、そう云ふのは何うかするとだまされて妊娠すれば、親の苦痛でもあるし、国家としても考へなければならない。それで断種法をやるのであるが、女の方は手術が少し面倒である。併し親の承諾を得れば娘にも断種法を行ふ。さうすれば妊娠は避けられるから悲惨な事は起らない。アメリカのやうな六ヶ敷国でも、白痴院には実行して居る所を見ると、日本でも考ふべき問題である。

 別名は若返り法  断種法と云ふと人々は嫌かも知れないが、(中略)若返り法と云ふと言葉は穏やかであるが、断種法である。私は果して若返るか何うか知らないが妊娠は確かにせぬ、夫婦ならば男がやればよい。婦人は六ヶ敷から男の方がよい。この手術は法律違反でないから、産児制限にはこの方法が簡単でよい。手術料は二十円から二十五円位で出来るやうである。併し或る人は安くして十円位でやつて居る人もある。又中には出せる人ならば二十五円位出して貰ひたいが、出せなかつたら五円位でもよいと云ふ人もある。兎に角一へんでよいから、それを行えば子供は絶対に出来ない。一生子供がいらない人なら、安心する事が出来る。概して云へば悪質の遺伝があれば、国家の為めに子孫を遺さないやうにしたい。出来れば国家の力で実行すればよいのであるが、それも今の処出来ないから、個人の自由に委せるより仕方はあるまい。

*註:(「貧乏救済策として」の項目は省略=滝尾)。

 「そのB」 廓清会本部発行『廓清』第二六巻第八号(一九三六年八月)に掲載された安部磯雄著「人問題から観た産児制限」と題する巻頭文で、つぎのように述べている。
 *註:(「統計に現れた農村の健康状態」の項目は省略=滝尾)。

 人口増加と健康の因果関係  でこれを問題として考へねばならぬのは、今日のやうに人口が増加すると、生活程度が低下するから、従つて健康に影響を及ぼして来る。これは都市と農村とは問はない。毎年全国では百萬の人口が殖へて行くとなると、結局は生活程度が下ると云ふ事になる。生活程度が下ると云ふ事は国民の健康上悪い条件である。それが為めに健康情態が下つて行く、これは見やすい道理ではないかと思ふ。で私共はかねて称へて居る通り、この健康情態の低下を防ぐ為めには、何うしても産児制限と云ふ事を考へざるを得ない。所が現在のやうな情態になつても、未だ多数の人がこれに反対であるやうに思ふ。この産児制限に対する反対論は大体今まで考へられた処によると、理論から来て居るのではなく、一つの感情の上で反対する場合が多いやうである。感情と云ふ言葉が不適当なら、常識論として産児制限に反対して居ると云つてもよいのではある。それ等の人は研究しないで反対して居る。これについて反対論の主なるものは二つある。一つは申すまでもなく、宗教思想から来たもので、あらゆる宗教はその立場から、大体産児制限に反対して居る。今一つは国防とか軍備とかの立場から、産児制限に反対して居る。先づ大体反対論はこの二つに別けて考へられる。これについて大ザッパではあるが以下説明したい。

 産児制限は宗教に反せず  最初に宗教の方面から云ふと、反対論の根拠は子供の生れるのは人間業ではない。神や仏の力である。是を人間が人為的に制限するのは宗教の精神に反すると云ふのである。則ち自然の道理に反するものであると云ふ簡単な趣意から来て居る。併し私はさうは考へない。(中略)
地球上は手を入れずにほつて置いたら雑木や雑草は繁茂して人間が参つて終ふ。それを人間は自然に打勝つて雑草や雑木を引抜いて行く、林野もよい樹木を植へる為めには、よい木丈けを残して間引く。農業でも雑草は引抜いて終ふ。山林事業でも間引をやつてよい樹に育てる。だから一部の宗教家が考へて居るのは全く根拠がない議論である。自然のまゝに委せ置いたのでは、農業も植林も出来ない。併しこの場合一寸誤解を解きたいのは、産児制限は昔は堕胎を意味したのであつた。だから堕胎は間引くと云ふ文字を使つた。然しこれは人情に反する。生れて来たものを間引くのは人情に反するから、私はそれには賛成せぬ。併し今の産児制限は生れたものを間引くのではなく、生れないやうにするのであるから堕胎ではない。堕胎は法律でも禁止して居るから、宗教の立場から計りでなく、又国法にも反するから、それは考へて居ない。唯未然に防ぐと云ふ産児制限法と云ふものは、何等宗教に抵触せぬから、安心して実行して差支はない。

 国力の充実には産児制限  第二の軍隊と兵力を増す為めには、人間が多くなければならないと云ふ論議である。これも実際上から考へると空論である。国が小さくて、人口が百萬とか二百萬しかないと云ふのならば、いざ戦争と云ふ時には、五萬か十萬の兵隊しか出せないから心細い。けれども日本のやうに一億の人口をもつて居れば、どんな戦争になつても、武器や食糧さへあれば、人間に不足は考へられない。武器や食糧の不足と云ふ事がなければ、千萬でも二千萬でも動員出来る。だから兵隊が少くて困ると云ふやうな事は問題にならない。小さい国では兎に角我が国では心配はない。寧ろ産児制限をして財政を豊かにすれば、常に国民兵として訓練して置けば一朝戦争があれば国民が悉く兵隊だから、兵隊の少ないのを憂ふる必要がない。だから国防上よりと云ふ議論にも根拠はない。私共は反つてこれと反対に産児制限を行ふ事によつて、生活難が緩和されたら、国防の為めに何れ位貢献するか知れないと思ふ。兵隊の量よりも質が大切である。量に就いては日本では心配はない。財政が豊かなら良い武器を造ることも出来る。日本は国民全体が兵隊であるから、何を苦しんで頭数丈け殖やすか。(中略)

 貧民階級は産児制限をしたくとも産児制限の方法を知らない。これは手数が要るから出来ない。相当の教育のある人でなければ面倒でやれない。で私は附け加へて実際問題として、私の意見を述べて見たい。

 寧ろ国家の幸福なり  私共は貧乏問題を常に考へて居るから、生活苦に陥つて居る人を救ひ上げたいと心掛けて居る。それで多産で困つて居ると云ふ場合に特別の制限法を国家として考へるか、実行してやる必要がないかと思つて居る。知識階級と云ふ言葉は面白くないが、この階級はやらうと思へばやれるから、これはほつて置いてもよい。それ等の人々は産児制限の方法は知つて居る。やらうと思へばやれる。唯無学な貧民階級になると子供が多くて困つて居るが、どうしたら生まないかその方法を知らぬ。だから私は将来国家が相談所を設け、この人は制限すべきだと認定した時は、医者にそこから相談してやるやうにしたい。今では絶対に子供を生まない手術が出来るから国家が調べて貧民階級に属するもので、子供が幾らかある人には、国家の費用でさう云ふ方法を教へてやるやうにしたい。これは国家としても親切な遣り方である。これによつて幾らか貧乏を緩和することが出来る。最もここでは知識階級は取扱はない。貧民にのみ手術してやる。(中略)一方貧民階級と貧乏から救済されるし、又国民全体の問題としては不健康なものを少くして、健康の低下をなくする。そして国民全体の健康を維持すると共に、貧乏を緩和する事が出来る。だから人口の殖えるのを国家が延びて行くと考へるのは間違である。体力の充分な人が殖へる事が国家の為めである。さうなれば国家の利益である。頭数の殖える丈けが国家の強みではない。私はさう思ふのである。

 


3.安部磯雄が長島愛生園を訪問すB


 廓清会本部発行『廓清』第二六巻第十一号(一九三六年十一月)は、理事長・安部磯雄著「国立癩病院訪問記」と題する巻頭文を掲載し、その中で安部磯雄は、つぎのように述べている。

 「‥‥‥長嶋の光田健輔院長の話では、大体全国で一萬五千人位だと云つて居る。又これは誰れであつたか忘れたが、五萬人位は隠れて居ると云ふ事であつた。併し何れにしても少くて一萬五千人、多くて五萬人であるから、この五萬人であるから、この五萬人を処分することは大して六ヶ敷ない。この病気は伝染は酷くないがかう云ふ病気が国内にあると云ふ事は、悲惨でもあり、耻かしい事でもあるから、国家は全力をさゝげてこれが絶滅をやらねばならぬ。(中略)費用は殖えない。そこで待遇が悪くなる訳であるが内務省からは幾らと極つて居るから、すぐに殖やされない。切り詰めた費用でやるから、そこに無理が生ずる。(中略)もつと多く国立病院を造つて、一人も個人の家には置かないやうにしたい。瀬戸内海などには幾らでも島があるから、仮りに五萬人の患者があるとしても、何はさて置いてもこれを収容することにしたい」。

 つまり、阿部磯雄は、日本にいるハンセン病患者をすべて国立病院を瀬戸内海の島につくって収容せよと主張しているといえよう。阿部磯雄は、先に述べてように、ハンセン病患者の子孫を絶つため、患者の「断種」を強制せよと主張し、また、長島愛生園を訪問して、一萬五千人乃至五万いるとされるハンセン病患者をすべて、国立病院を瀬戸内の島々に収容せよと主張しているのである。そして、ハンセン病患者を収容しる国立病院への「絶対隔離収容」を主張した「巻頭文」を『廓清』誌上に「国立癩病院訪問記」として書いている。(滝尾)

 (そのC)廓清会本部発行『廓清』第二六巻第十一号(一九三六年十一月)理事長・安部磯雄著「国立癩病院訪問記」より。

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沖之島から長嶋へ  今月の半過ぎに岡山の山陽高等女学校の五十年期に当るので、岡山に旅行した。私は山陽高等女学校の創立当時暫く教へて居た関係で、今度招かれて講演の為めに行つたが、その序手に多年希望して居た国立公園大山(ダイセン)に登り、引続いて沖の島にも旅行した。これは兼ねての希望であつた。十四五才の頃山陽先生の日本外史を読んだ時からの希望で、後鳥羽天皇、後醍醐天皇の旧跡を訪れたいと思つて居た希望が、今回達せられた訳である。その目的を達して再び岡山に立ち帰つて来てこれも兼ねて訪問したいと思つて居た瀬戸内海にある長嶋の国立癩病院の参観をした。その日は日和でもあり、丁度村の記念日でもあつて、色々な催もあると云ふ事なので、二三の知人とその島を訪問することになつた。その癩病院は国立であるから、総ての施設はよく出来て居る。治療室、事務所、集会所などあり、集会所は七八百人位は裕に這入ることが出来る施設である。唯この癩病院の一つの特色は患者の這入る家は、全部個人もしくは団体からの寄附によつて建てられたもので、建物も十坪を標準にして居る。十坪で五百円かゝる。これが島全体では千二三百人が収容されて居るが、住宅は全部十坪住宅で、日本の所有慈善団体の名が附いて居て、その名札には何々寮と書いて居り。例へば山陽高女寮と云ふ名が附いて居る。沖の島(長島カ?=滝尾)は景色のよい処で、私の行つた時には天候もよかつた。島それ自身が瀬戸内海の大きな島で、島全部は癩病院に占領されて居り、千二三百人居る。病気から云ふと気の毒であるが、あゝ云ふ美くしい島で、静かな生活をして居られる事は、或る意味で幸福だと思つた。何だか癩病患者がうらやましい気がした。

悲惨なる癩患者  私は癩病患者を如何にし(ママ)べきかと云ふ事を前から考へて居た。併し私の意見を発表する事は、世間から非難されるだらうと思ふて、発表を遠慮して居たが、もう発表してもよいと思ふから具体的な方法を述べて見る。最近私は有名な草津の温泉に行つた時に、癩病患者を見たが、あそこに居る患者は大体三通りに別れている。国立病院に収容されて居るものが一つ、次ぎは英国人のリー夫人が永い間世話をして居る癩病院がある。もう一ッは入院して居ないが、ある部落に全国から集つて来て居る。これが二百四五十人位であつたが、或はもつと多いかも知れないが、私は希望に応じて講演したが、その時集つたのは、二百人から二百四五十人位であつたから、もつと多いだらうと思ふ。そこに居る人は自分で働いて金を得て居るものもあるし、又故郷から秘かに金を送つて貰つて居る人もあるが、さう云ふ人でも、故郷とは音信が出来ない。もし草津に居ると云ふことが知れると、家族や親戚の間で悲劇が起る。さう云ふ事が知れた為めに縁組が破れると云ふやうな事が起るから、秘密にして居る。私はこれを見た時に、堪えられない感じがした。台湾に行つた時にも、台北の近くの淡水に行つたが、そこには英国のテイラーと云ふ医者夫婦が、自分で台北に病院を経営し居て、そこの利益で淡水の癩病院をやつて居る。それから熊本ではミス・リデルと云ふ人が、長い間癩病患者の世話をして居たが、日本で遂ひに死んだ。かう云ふ事を考へて見ると、癩病患者の救済と云ふ事に就いては心を痛めて居るのであるが、外国人の厄介にならねばならぬ程国民の手が充分延びて居ない。それでも国立病院が処々に起されるやうになつたのは、非常に悦ぶべき事である。かう云ふ風になつて来たので、最早時期が来たやうであるから、私の考へて居る事を天下に発表して世間に批判して貰ひたい。

癩の存在は国辱  一口に云ふと癩病があると云ふ事は国辱だと考へる。これが非常な人数ならば如何ともする事は出来ないが、数は多くない。長嶋院長の話では、大体全国で一萬五千人位だと云つて居る。又これは誰れであつたか忘れたが、五萬人位は隠れて居ると云ふ事であつた。併し何れにしても少くて一萬五千人、多くて五萬人であるから、この五萬人であるから、この五萬人を処分することは大して六ヶ敷ない。この病気は伝染は酷くないがかう云ふ病気が国内にあると云ふ事は、悲惨でもあり、耻かしい事でもあるから、国家は全力をさゝげてこれが絶滅をやらねばならぬ。序手にお話するが、先頃長嶋の癩病院でストライキが起つた。それも色々説明の仕方があるが、根本問題はかう云ふ処にある。それは患者が無理に押し掛けて来るのがある。さうなると院長も患者の人数が殖えるが何うするかと患者に謀ると、患者も承知するから後から来たものを収容するが、費用は殖えない。そこで待遇が悪くなる訳であるが内務省からは幾らと極つて居るから、すぐに殖やされない。切り詰めた費用でやるから、そこに無理が生ずる。それが不平となつて爆発した。だから癩患者を否応なしに収容して貰ひたいと云ふならば、もつと多く国立病院を造つて、一人も個人の家には置かないやうにしたい。瀬戸内海などには幾らでも島があるから、仮りに五萬人の患者があるとしても、何はさて置いてもこれを収容することにしたい。その光田健輔併し政府の財政も困難であるから、さうたやすく出来ない。緊急な用事に要るから、癩病の方までは廻はらない。そこで何うしたらその財源を得られるかに就いて、二三十年来考へて居る。その案を出したい。
*註:(「富籤も一種の娯楽」の項目は省略=滝尾)

悲惨な生活に泣く人々を救へ  日本では社会事業をやるのに、寄附金を募集して居る。併し金はなかなか集らない。そして費用はかゝる計りである。だから国家は富籤をやつて、金を集めたらよいと思ふ。それも何んの為めでもよいと云ふのではなく、目的は癩病患者を救済すると云ふこと、これに対して異存はあるまいと思ふ。さうなれば全国に癩病人が五萬人あるとしても、一時に収容することが出来る。私は三十年もこの事を考へて居る。それは悪い事ではないと思ふ。さう云ふ風にて社会事業の為めに金を得ることを考へて居るが、今は不敢取癩病を撲滅する為めに富籤をやることにしたい。それが終つたら肺結核の撲滅の為めに施設することにしたい。かう云ふ病気にかゝるものはかゝる人が可愛想であるから、さう云ふ人達を優待する為めの、博愛心がなくてはならない。かう云ふ事に就いてもし調査する必要があつたら、政府で調査をやつたらよい。富籤は博打とは違ふから、目的が社会事業に限ることにして、今日一番よい方法であると思ふ。癩病を撲滅出来ないなど云ふことは耻辱である。一度さう云ふ病気になつたら、実に可愛想であるから、これを救済してやらなければならない。私は草津へ行つた時にその人々の悲痛の訴を聞いたが、たまらない思ひがした。あの人々は親戚知己からも見難され、生きながらにして孤独の一生を送らねばならぬ。その悲惨な事実を見ては国民全体が慎重にこれが救済について考へて貰はねばならぬ。  (十月二十八日)」と。

              

4.『婦人新報』は、予防局長・高野六郎の「人工問題と民族優生運動」を掲載


 (資料D)日本基督教婦人嬌風会発行『婦人新報』第五一六号(一九四一年三月号)は、厚生省予防局長医学博士・高野六郎の第五回純潔講座に於ける講演の概要=「人口問題と民族優生運動」を掲載し、その中では、高野六郎予防局長は、つぎのように述べている。

 <一口に人口問題と云つても、時と場所によつてその考へ方がつがつて来てゐる。日本に於ても世界大戦後の不況時代には今とはまるでちがつて、人間の数が多すぎるから失業者が多く、又食料も足りなくなり、生活文化の低下を来して来る、人口の多すぎる事が世界不安の根本問題であるから、適正な人口に喰止める事が必要であると云ふマルサス流の考へ方であつた。政府は人口食料問題調査会が設けられたのもその意味からであつた。
 然るに十数年を経た今日では国民の世界観は根本的に変つて来た。彼の独逸に於ても欧州の秩序を維持し指導するには独逸民族の優秀性を増すと同時に数を増す必要があるとして、これを第一義に取上げてゐる。独逸に限らず新興民族はいづれも、如何にして自民族の血を純潔に、然して多く保つかと云ふ事に全力を注いでゐる。我が国に於ても日本民族が東亜共栄圏を指導する実力を持つ為には、数と質に於て圏内で最も優秀でなければならぬとして、日本国民の繁栄を目標として取扱ふ様になつて来た。

 生めよ、ふやせよ、よき子孫を作れと云ふ。よき子孫を作る事は即ち優生運動であつて、如何に数がふえても劣悪な者ばかりでは何にもならない。下村海南博士は貴族院に於て「人間の中にはマイナスの者とプラスの者とある。マイナスの人間がいくらあつてもだめだ」と簡にして要を得た演説をされたがまことにその通りである。

 優生運動は医学の知識を基礎にした運動であるが、一体医学と云ふものも、その理想とするところは次第に変つて来てゐるし、又医学に対する国家国民の要望も色々に変化して来てゐる。以前は医学は病気を治すおとだとされてゐた。しかし現在では、国民の健康を維持するばかりでなく、これを向上させる事が理想だとされて来たので、(中略)即ち内因としての生来性のもの、つまり遺伝病は後から取除くわけにはいかない。

 遺伝とは一口に云へば親から子へ、子から孫へつたはるものであるが、そもそも人間は無数の細胞から成立つてゐるものであるが、最も大切なのは次の時代の人間を作り出すところの生殖細胞であつて、男性の精子と女性の卵子が半分づつ寄つて来て一つになり、それが次第に分裂して一個の人間を形成するに至る。その時、そのもとになる生殖細胞の核を成す染色体に、遺伝の因子がついてゐると生物遺伝学では結論してゐる。つまり受胎の時にその計画図は出来上つて了ふので、宿命的に悪い疾病の素因を受けた子供は、生れ乍らにして甚だ気の毒な状態である。それを未然に防ぐにはどうしたらよいかと考へるのが、優生運動による疾病予防であつて、医学はどうしてもこゝまで遡らなければならない。(中略)

 先に政府は人口政策要綱を閣議に於て発表した。日本民族は非常に優秀であるから、これが発展してゆかねばならぬ。東亜共栄圏指導者としての権威を保持する為に、従来の個人主義を排し、民族主義を基盤とした新しい世界観の上に立つて増殖力及び資質に於て他の民族を凌駕しなければならぬ。数に於ても質に於ても優秀なる民族になるには大約次の方法によることが考へられる。

 一、 人口を増加すること。
1 多く生むこと
2 生れたら殺さないこと――少し殺すこと

 二、 資質をよくすること
1 予防医学の活動により弱い体をなくすること、
  強いものは鍛錬してよりよくすること
2 よく生みつけること
 この最後のものが優生運動である。

 まず第一に多く産むこと、
 人間も生物学的にみればかなり大きい産児能力を持つてゐる。女は月経来朝後一二年すれば可能だし、男も相当早くから生殖能力はある。しかし文化の向上した、文芸・科学を好む人種は生殖に興味を持たず、産児能力が低下する。が如何に文化生活が向上しても、生理的に生めなくなるものではない。生まうとする興味と、保育する経済力があれば、相当生めるものである。事実は生めないのではなく、生まないのである。かうなると事は思想問題になつて来る。
 産児報国! 子を生む事は民族興隆の義務だ! (中略)

 それでは如何にして多く生ませるかと云ふ事になるが、厚生省に於ても未だその具体的方法はきまつてゐない。政府の人口政策では今後十年間に結婚年齢を現在のそれより三年位引き下げて、男子二十八歳を二十五歳に、女子二十四歳を二十一歳位にしたい、又一夫婦の産児数を四人から五人にしたいと希望してゐる。(中略)国によつては既に健康結婚法が実施せられてゐて、米国では花柳病患者、独逸では遺伝的悪質者及びユダヤ人は結婚を許可されない。(中略)

 次は資質増強のことである。
 世間には質の心配をしてゐては数の方が間に合はぬから、まず数を第一として質はそんなに問題にしないでよいと云ふ説もあるが、それはいけない。どこまでも優秀な者を数多くといふたてまへでなければならない。(中略)否今一歩進んで胎児のうちから、否それ以前の健康結婚法から指導してゆきたいのである。この結婚法によつた夫婦から生れ出る子供は優生学的にみてよい子供の筈であるから、これを十分保護し鍛錬して、優秀な日本人に作り上げたい。国民皆兵が日本人の義務であるならば、一人の落伍者もない事が理想でなければならない。
 生れ出る者の素質をよくする為には、優生の施設を十分に、生れ出た者はより良く鍛錬すること、それが日本民族の資質増強の為になさねがならぬ当面の急務である。

 彼の要項の中に「優生思想の普及をはかり、国民優生法の強化徹底につとめる」とあるが国民優生法とは何か、その大要は次の通りである。此の法律は前議会を通り此の七月頃から実施すべく目下準備中であるが、その目的は、国民の中から悪質の遺伝素因を除くこと、即ち遺伝学上からみた国民の素質を高める事である。実際の方法としては、甚だしい者は断種するといふより他にはない。勿論十分な診断と精密な検査によつてきめるのであるが、去勢手術は人体に故障を生じるので、それ以外の簡単で確実な方法による事になつてゐる。この為に人口が減ると云ふ事は問題にならない。然しこれは一般には法が強制するのではなくて、医者が十分診断して決定したらば、その当人が手術を受けたいと申出る、さうすれば政府はこれを許可する事といふたてまへである。本人の代りに医者が申請する事も出来るし、甚だしい悪質の遺伝を有する者に対しては本人の意思を尊重しない場合もあるが、大体に於て決して圧迫的に強制するものではない。

 又劣性遺伝を有する者同志の夫婦で当人達はそれ程でなくても、一人二人生れた白痴であり、今後生れるものもさうなるみこみであるといふ場合、断種を申出られた府県知事は優生審査委員会を設けて、こゝに於てよいときめられればその手術を許可する事になつてゐる。
 一方この法律はその裏に於て、単に産児制限を希望して断種の手術を受けたがる者があるのは、人口問題の一障害であり、社会風潮上甚だ面白くないので、故なくして断種や妊娠中絶の手術を行つた医者を罰することになつてゐる。
 即ち此の法は人口問題に関し、数に於ては不埒な親をいましめて生産を促し、質に於ては悪いものを淘汰すると云ふ大役を荷ふものである。(文責在記者)>。

 

 以上、厚生省予防局長医学博士・高野六郎の第五回純潔講座に於ける講演の概要=「人口問題と民族優生運動」が、基督教婦人嬌風会発行『婦人新報』第五一六号(一九四一年三月号)に掲載されたものであるが、この「第五回純潔講座」はどのような講座なのか、基督教婦人嬌風会発行『婦人新報』第五一五号(一九四一年二月号)に掲載記事を紹介してみよう。(滝尾)

 

 <第五回 純潔講座――日時 昭和十六年(1941年=滝尾)二月五日〜二月八日
           場所 神田区駿河台一ノ一 佐藤新興生活館
    講義及講師
二月五日(水) 午後六時〜同七時三十分
「大政翼賛会と純潔運動」   衆議院議員  杉山元治郎
同日  午後七時三十分〜同午後九時
「現下の社会情勢と純潔運動」   衆議院議員前司法次官  星島二郎

二月六日(木)午後六時〜同七時三十分
「公娼廃止運動と純潔運動」   国民純潔同盟顧問  安部磯雄
同日  午後七時三十分〜同九時
「性教育と純潔運動」   国民純潔同盟総主事  岩間松太郎

二月七日(金)午後六時〜同八時
「民族優生運動と純潔運動」   厚生省予防局長  高野六郎
同日  午後八時〜同九時
『座 談 会』
二月八日(土)午後一時〜同二時三十分
  (東京帝大病院三階皮膚科外来第一号室)
「性病予防問題」  聖路加病院皮膚科部長・日本性病予防協会常務理事  飯田英作
同日  午後二時三十分〜同四時
  性病予防映画観賞及び土肥教授記念標本室見学の予定
    ――――― ○ ―――――
    聴講規定
一、 聴講者は満十八歳以上の男女にして当方の承認を得たる方に限ります。
一、 聴講者は原則として四日間皆出席を望みます。但し止むを得ざる差支へある方には希望講義の聴講を許します。
一、 聴講希望者は二月二日迄に御申込みの事
   神田区錦町一丁目(基督教会館内)   国民純潔同盟>。

 

 机上には、日本キリスト教婦人嬌風会編集『日本キリスト教婦人嬌風会百年史』ドメス出版(1986年12月)がある。A5判で1062ページの大部な本であうが、「国民優生保護法」についても、「優生保護法」についても、「年表」には、「一般情勢」として、1940年の項で「国民優生保護法公布(5月)」及び、1948年の項で「優生保護法公布(7月)」と出てくるもみである。それは、なぜ故なのだろうか。(滝尾)

 

5.優生政策を推進した人たち@

 『ハンセン病問題に関する検証会議・最終報告書』(2005年3月発行)は、全886ページと大部なものである。しかし、先に述べたように、「優生思想・優生政策」とハンセン病政策については内容が薄く、且つ軽い。書かれた分量もすでに指摘したように、「第七 ハンセン病政策と優生政策の結合」は、わずか20ページほど述べられているに過ぎない。
 この項で、どんな人物が何回出てくるか調べてみた(引用文献された人は除く)。光田健輔をはじめ全部で30名の人物名が載っている。――光田健輔、氏原佐蔵、牧野英一、林芳信、菅井竹吉、今田虎次郎、ハンナ・リルデ、大澤謙二、シャルマイヤー、丘浅次郎、福原義柄、湯沢、日戸修一、高野六郎、赤木朝治、中野一、藤田敬吉、野島泰治、玉村孝三、矢嶋良一、青木延春、鈴木文治、田中養達、加藤久米四郎、小野清一郎、平塚らいてう、中馬興丸、荒川五郎、八木逸郎、谷口弥三郎である。
 この内、光田健輔は、「第七 ハンセン病政策と優生政策の結合」の中で35回も名前が出てくるが、光田健輔意外の29名は、1度か2度、多い人でも5度ほど書かれているに過ぎない。前述した安部磯雄の名前も出てこない。

 『ハンセン病問題に関する検証会議・最終報告書』の記述内容が、国内中心意識をなっている上、政策史・医学史的なアプローチに終始する面が強いということは否めない。私が、若い学徒であったとき、大きな影響を受けたものとして、アイリーン・パウアの著書がある。三好洋子訳で東京大学出版会(1954年12月)発行された『中世に生きる人々』である。著者の社会史学者・アイリーン・パウアは、つぎのように述べている。

「‥‥歴史小説が今なお歓迎されているにもかかわらず、歴史を書棚から追放したのは、歴史は死んだものを対象とするという通念であり、困ったことには、歴史は生きた人間の労働や感情とはほとんど関係ない事件や状態をとり扱うものだという通念である」と。

 私は、日本ハンセン病問題を考えるとき、また研究するとき絶えずこの著名なイギリスの社会史研究者アイリーン・パウアのことばを思い出す。この度、『ハンセン病問題に関する検証会議・最終報告書』を読んで、とりわけ日本ハンセン病政策を人権抑圧した過去の歴史と「優生思想・優生政策」を考えるとき、「歴史は生きた人間の労働や感情とはほとんど関係ない事件や状態をとり扱うもの」であってはならないということを強くもつ。

 その「ハンセン病政策と優生政策の結合」として、わずか20ページほど述べられていること自体、設定されたテーマ、また仮説設定の立て方において適切であったとは言えまい。また、個々の資料の扱いや1948年7月13日、法律第156号をもって「優生保護法」が公布され、同年9月11日から実施された。これが廃止された1996年6月までの約半世紀にわたって廃止されることなく続いたのである。また、96年4月1日まで「優生保護法」のなかには、優生手術及び人工妊娠中絶を行なう対象に「ハンセン病の項目」が残っていた。長きにわたるその経緯や責任の追及がなされていないのではないか。『ハンセン病問題に関する検証会議・最終報告書』の記述内容を読んで、率直に私はそう思った。
 また、「民族優生思想・政策と植民地下朝鮮。朝鮮と日本の優生主義とハンセン病問題」という内容記述も『最終報告書』にはなされていない。これは、検証会議委員、および検討会員の「自国民意識」「自民族一国意識」の故に、そのようになったのであろう。これまた、検証会議委員、検討会委員の怠慢というべきである。

 そう思いながら、竹田津六二著『図説・妊娠調整法』白揚書館(1932年1月初版、1946年10月重版)の小冊子を紹介することにした。
 この冊子は、B6判で138ページ。敗戦直後の‘46年10月に重版するということもあって、用紙は粗悪である。最近、古書店で購入したのだが、医学博士・北井啓之の「序」、竹田津六二の「自序」についで「X光線レントゲンの装置と婦人に対し避妊実施の図」という写真2葉が載り、さらに、その裏ページには「第一図・女子生殖器。第二図・男子生殖器」の解剖図が図示されている。
 第一図の説明文は「之は、正面から子宮を中心として観た処の解剖図で左右両方に卵巣があり其の上方には輸卵管(ラッパ管)があり各々子宮口に通じてをる。素と卵巣に因って生じた卵子は大抵この輸卵管に於て精子と出会ひ、それから子宮腔に出、そこで胎児として成長し、十ヶ月の後、子供になって生れるのである。」と書いている。
 第二図の説明文は、「睾丸の裏にある副睾丸から輸精管が出て尿道に合してをる。この輸精管を結紮する避妊法・即ちスタイナハ氏の所謂「若返り法」の於ては、図面十の部分を少し切り開き輸精管×を結紮するのである。」と述べている。
 竹田津六二著『図説・妊娠調整法』はさらに、「避妊する必要ある人々」として、つぎのように書いている。

A 黴毒・癩病・精神病その他悪性遺伝の傾向ある者
 劣悪・病弱な仕様の無い人間が増加すれば、健全な国民は其の為に多大な負担を受け、国家は甚だしく発展を阻害される。とにかく不良素質者は、国家国民にとつて厄介極まる重荷である。
 優生学上から観て、最も恐るべき病気は黴毒である。(中略)次に癩病。我日本国は、世界文明国で第一等国の癩病国であり、毎年行はれるゝ陸海軍の壮丁検査で発見されゝ患者だけでも一千人を降らない由。当局の調査に拠ると、全国の癩患者総数は一万四千人位らしいが、実際は十万内外だらうとの事である。其の内現在隔離されてをる者は三千人程に過ぎず、此方面に対する政府の施設は甚だ薄い。英国では百年以前に於て癩病は絶滅され、其の他の欧米諸国でも今日極めて稀に有る位しかない。此病気は学問上は遺伝で無いやうだけども、非常に伝染し易い故治療と共に患者を隔離しなければならぬ。されど現今の我国に於ては総ての患者を挙げて隔離収納(ママ)する迄には迚も手が届かないから、せめて避妊だけでも十分励行して、早く此の患者の種を絶ちたい。
 おほよそ、所詮癒る見込めない精神病者其の他確実に遺伝或は伝染あする不治の者には、外科手術を以て永久的絶対避妊法を施す方が吾人の幸福に副ふ所以である。(72〜74ページ)

 さらに、竹田津六二著『図説・妊娠調整法』は別項でも、つぎのように主張している。それは、個人の「生きる」という人権を無視した優生思想に基づく「富国強兵意識」であり「国家中心意識」であるといえよう。

 ――現在我国の人口は約六千三百万人であるが、それは優劣混淆の(即ち城弱な者、無教育な者、失業者、無頼漢、犯罪人、白痴低能、不愚者、廃人等其の他劣悪な者をも皆算へた)総計で、若し劣等な者が無くなつて優秀な者ばかりになれば、其の六千万が五千万に減じたとテ国力は少しも減退せず、否却つて国家は富強になる。戦争の場合に於ても、精鋭は能く烏合の衆に勝つ。
 妊娠調節は、一概に人口を減少させるものではない。詰り厭ふべき不幸な出産を予防して、真に健全有為な人口の増加を図るのだ、国家を衰退させるものではなく、又民族の自滅を馴致するものでもない、此事は尚ほ後章の処々に於て詳しく説く。(30ページ)

 『図説・妊娠調整法』を書いた竹田津六二という人物を私は知らない。医学博士・北井啓之の「序」によると、「竹田津君は熱情に富む沈着な警世家、世故に長け、人情に通じ、別けても却々の能文家で‥‥‥殊に其の朝子夫人は産婆として陰に陽に夫君を援けて行かるゝ、まことに本邦の産児制限運動に先駆をなす好夫人であり、日本民族の将来を益する事決して尋常で無からうと存じます。」と書いている。(3ページ)
 この小冊子を読みながら、特につぎのことを強く思った。

 第一は、戦後のことであるが、広島のある女性障害者・Sさんのことである。彼女は施設への入所する際、広島市内の病院でコバルト60による放射線照射を受けるように言われ、不妊にさせられた。その後遺症で現在もなお、Sさんは苦しんでいるという事実である。

 第二は、石川達三著『生きてゐる兵隊』に書かれたことや、先に私が書いた「七三一部隊」の人体実験や小鹿島更生園での人体実験した軍医たちも、はじめから「悪魔」ではなかった。家では、よき夫であり、父親であった。ところが、「組織」に入ると一転して「悪魔」になって人の尊い「いのち」を奪ってしまうことである。

 犀川一夫医師も冬敏之さんの「手紙」に書かれている田尻敢医師にしても、私が知る限り人柄のとて、とてもいい人だということは、長島愛生園の当時の入所者からしばしば聞いている。しかしその一方で、患者に「優生手術」を数多く執刀した医師であった。
 この行為は事実として研究・検証しなくてはならないと思う。私が藤野豊氏が『飛礫』第47号(2005年・夏季号)に書いている「‥‥検証会議が、解明すべきことは、誤った隔離政策を推進した国家とそれの関わった関係各界の責任であり、個々人の責任ではないのである。」(157〜8ページ)に問題を感じるのは、このことと関わっている。つまり、個々人の主体的責任が問われていくことが、優生政策の問題を、ハンセン病問題として解明する上でどうしても必要だと思うからである。

 

 

6.小鹿島療養所患者に対する性管理と優生思想の展開 @

   初代の蟻川園長につづく二代目園長の花井善吉時代の「患者に対する性管理」は、園長が、朝鮮内のキリスト教療養所に倣って園内での「男女分離性管理」を行ない、その男女分離性管理のために宗教の自由、慰安の推奨、教育の推進などを行なった。
  ところが、四代園長・周防正季の時代となると園の管理上から、一九三六年四月より、「夫婦同居」を認めると共にその男女同居者には、「断種手術=精系手術」を実施する。また患者の管理強化を徹底さすために、同園職員により処罰としての「断種」も行なっている。これは国内でもハンセン病療養所長であった光田健輔たちが行なっていた患者に対する性管理の方法である。(「処罰」としての断種は、国内の療養所でも行なわれていたが、小鹿島ほど大規模には行なわれていない。)

 こうした性管理は、一方で、ハンセン病患者を劣った存在、淘汰し絶滅しようとした優生思想でもあったが、「朝鮮における優生思想の展開」=朝鮮民族の優秀性をいう「朝鮮優生協会」が一九三四年九月一四日に各界有志を網羅して発起された。それには、「朝鮮癩患者救済研究会」の執行医院長・尹致昊も参加している。「同優生協会」は『朝鮮日報』の一九三六年一一月八日の「新刊紹介」記事によると、『優生』第三輯を定価十銭で発行している。発行所は京城府寿松町四六の一九である。しかしこの「朝鮮優生協会」は、一九三八年九月二八日付け『東亜日報』の「学芸小抄」の記事によると、朝鮮総督府により解散させられている。理由は不明であるが、日本のファシズムが進行するなかで、日本民族の優位性を主張した優生思想が、精神障害者、癲癇、ハンセン病患者、刑務所収監者、娼婦、同性愛者、乞食などを「劣性」とする優生思想と相俟って、そうした主張がされ、かつ実施されていく。

  『「らい予防法」違憲国家賠償請求事件・原告最終準備書面(事実編)』(二〇〇〇年一二月八日)にいうように、「戦前に行なわれてきた断種・堕胎の目的が、ハンセン病患者の子孫を根絶やしにするまさに『患者撲滅政策』そのものであったこと」、「そして断種・堕胎のもたらしたものは、患者の人間性を毀損し心身に大きな傷を与えたことと、人間的な家族生活の喜びを奪い、社会復帰や老後の支えとなる家族や子孫を持つことを不可能としたことも忘れてはならない。」(一一八頁)と述べられている。そのことと関わって、朝鮮の場合の「断種」のもつ意味を人材育成研究所代表の辛 淑玉(シン・スゴ)さんは、つぎのように書いている。

  ――「朝鮮半島に根付いた儒教文化は、子孫繁栄を絶対的な義務としました。その善し悪しは別として懲罰のために断種をされるとはどういうことか、断種が失敗して妊娠した女性がどのような扱いを受けたか、あなた(小泉首相)は一度でも想像したことがあるのか?」(兵庫部落解放研究所『ひょうご部落解放』二〇〇二年・一〇三号)。
  さらに、『世界』第七二五号(二〇〇四年四月号)の「小鹿島ハンセン病補償請求が問うもの」インタビュー記事で滝尾英二は――「文化がこれほど違うから、今度の裁判でも、日本の文化をそのまま韓国にもっていって同じ方法で解決しようと思っても、できないだろうと思います。『断種』一つとっても、その苦痛というのは日本では想像もできない。族譜があったりする儒教の社会で、お家のための子孫繁栄をすべて絶たれるということですから」と述べている。

  こうしたことを前提として、「小鹿島療養所患者に対する性管理と優生思想の展開」について、植民地朝鮮ではどのように推進していったかを、日本国内の優生思想の関わらせながら書いてみたい。

第一節  断種手術を前提にして所内結婚をみとめたそれ以前の「性管理」

 (その一)花井二代園長を小鹿島慈恵医院に訪ねた木浦の三木冠者は、『朝鮮司法協会雑誌』一九二九年七月号の「レプラ島を訪問して」と題して次ぎのように花井善吉院長(一八六三〜一九二九年一〇月一六日)のことばを書いている。花井最晩年のことである。

  「院長曰く内地の癩療養所の統計に依れば逃亡者三千余なるも当所は一人もいない。又性の問題が却々困難で窃にステリリゼーションが行はるか、此処では其の問題が起きない、御覧の通り男女収容舎は余り隔り居らず、又何等の障壁なきに好成績である、之には二つの試みがある。其一は患者のじ治制である即一舎の患者十人中選挙して舎長を定む、此上に契長一人を選挙する、飲食其の他の配給に、炊事に皆舎の自治である、舎中は舎長取締り解決する、舎間の問題や舎長の決せぬ事柄は契長の下で解決する、契長も捌けざるに於て院長に持ち出すと、又性の悩みに付ては、彼等を宗教信仰に入らしめる、一番入り易き基督教を入れた、牧師が一二回は島に来る、信者は毎日一度は礼拝堂に集まる、斯くて信者は信者として又無信者は無信者として互に相戒めて居るとの事である。」(滝尾編『〜資料集成』第6巻所収より)。

 花井院長の患者の「性管理」をわれわれは、どのように考えたよいのだろうか。そのことと関連して、シム ジョンファン著『あゝ、七〇年〜輝かしき悲しみの小鹿島〜』(一九九三年七月)は、つぎのように書いている。(原文は韓国語である。)

  私が最初にワゼクトミーの傷跡を見たのは、韓国全羅南道の南端にある国立小鹿島病院を訪れた時である。TBS(東京放送)筑紫哲也の「ニュース23」の特別番組「もう一つの強制不妊――韓国・植民地での強制断種――」の取材協力のため、国立小鹿島病院に行き、日本統治時代に「断種」を受けた人びとを尋ねた時だった。TBSのカメラマンやデレクターを屋外で待たせておいて、通訳を依頼した李さんと二人で障害者病棟の当時七十歳のハラボジ(おじいさん)の部屋を訪れ、取材のため予定されていた部屋へ連れ立って行った時のこと。ハラボジはまったく失明していたのが、部屋に入るなりパジ(朝鮮式ズボン)とパンズを脱いで、股間の断種の傷跡を日本人の私に見せるのであった。肌は驚くほど白かった。陰嚢のうしろの部分に横長に二、三センチほどの「みにくい」傷跡があった。あれは、手術台で正式に医者がメスで執刀した傷跡ではない。一瞬の出来事だったので、私は茫然として、それを見た。通訳の李さんを通じて、ハラボジにパジを穿くようお願いした。
  そのあと、TBSのカメラマンやデレクターを屋内に入れ、聞き取りや撮影を行った。私は、そのハラボジの掌をたゞ握っているだけだった。その場面の一部は、TBS系統のテレビ局を通じて、九七年一二月二二日の夜、全国に放映された。このテレビの放映を見、更に、『未来』一九九八年五月号(第三八〇号)の拙稿「ハンセン病療養所・小鹿島入園者の証言」を読んだ畏友の石岡隆充さんから、次のような私信が送られてきた。

  「……ハンセン病になること、朝鮮民族に生れたこと(だから、処罰としての「断種」を受けた―滝尾)、そこからくる一切の不幸は、当人にとっては不条理そのものであり、いかなる言葉からも癒されることは、たぶんないでありましょう。
  この情況においては、生きているということが、そのことにおいて、一つの宇宙です。宇宙は抹殺されてはならぬ、という大兄の息づかいを感じとり、慄然とします。前便の葉書に書いた「宝石の輝き」とはこのことです。生の根源をかいまみる思いで読みました。ここまでくると、すべてが空しくなり、結局は写真になってしまうのでしょうか。テレビで拝見したときに、目の不自由な人の掌を大兄がしっかり握って、「おじいさん」と心を込めて聞き出しておられた、ご様子をみました。活字ではそのことが一切ありません」。

  ハラボジは、十三歳のとき、薪用にと無断で木の小枝を切ったというだけで、処罰として断種手術を受けた。同年一二月九日 午前一〇時〇二分から一〇時二〇分までの小鹿島でのインタビューの一部である(拙著『朝鮮ハンセン病史―日本植民地下の小鹿島ー』未来社、2001年9月発行の「補考1」で全文掲載した)。

 「私は断種手術を一九四一年に受けましたが、断種は四一年から始まったのではなくて、その前からです。そして佐藤院長(首席看護長―滝尾)のときには、あまりのひもじさと重労働と過酷な扱いのせいで脱走する人が出ました。脱走してつかまるともう有無を言わさずに断種手術です。
  また、他にも院内でも反日的だとか、反抗的だとか決めつけられれば断種です。それから院内で盗み等の事件が起こったら断種。断種ということがはじまると小鹿島では、男女の営みをしたりすれば有無を言わさず断種手術が加えられるようになりました。
 何故、断種などをするようになったかというと、ドイツで癩病患者などにそれをする法律があったでしょう。だから日本政府も「癩患者には全く治る見込みはない。子供を産んだって、カラスの子はカラスだし、山犬の子は山犬になるのだ」という考えで、患者が子供を持つことが出来ないようにしてしまったのです。
 断種なんて本当に残虐なやり方です。あー、全く何とも口にはいえません。時代の過ちだったというにも。考えるほど惰りを感じるし、悔しくて、私の国、韓国という母国で、一体どうしてあんなひどい目に合わなければならなかったのか。
 ハンセン病患者も世界のあちこちでちゃんと暮らしていて、患者の息子や娘たちも元気に育っています。病気「ハンセン病」にもならずに。私は子どもをつくれる体に戻れない。たとえ、″対馬〃を私にくれたって、私は子ども一人つくることは出来ません。この年齢(とし)になって、この恐怖(こわ)さを噛みしめて生きていますが、もし、私が神を信じていなかったら、自殺していたかも知れません。
病にかかり、そんな手術までされて患者たちはこの世を去りました。もう、ほとんどの人が世を去りました。私は幼くして入所して、患者のうちでは若かったから今までいますけれど、断種の経緯はこんなことでした。」

 日本統治下の小鹿島更生園では、一九三六年四月には、従来の夫婦患者別居の頂則を改め「内地の如く」夫婦同居を許可したが、その条件として男性患者の精管切除手術(「断種」)を施した。小鹿島更生園『昭和十六年年報』によると、一九四〇年末現在の夫婦同居者は八四〇組に及んでいる(この事実は、一九九七年一一月七日付『毎日新聞』で報道された)。
 患者の「断種」は、職員に反抗する者や逃亡する者などに対して、処罰としても行れた。同島には日本統治時代につくられた赤レンガ造りの監禁所や、刑務所の建物が残されているが、監禁所の建物に隣接して「解剖室と遺体安置室」があり、遺体安置室には「断種台」が置かれている。ハラボジは、十三歳のとき、看護手の執刀で処罰としての「断種」が行われたのである。

 

7.小鹿島療養所患者に対する性管理と優生思想の展開 A  


 光田健輔たちによって、推進められた「断種」(輸精管切徐手術)は、朝鮮にも持ち込まれ、施術されるようになった。その経緯について述べてみたい。
  一九二七年四月十三日、朝鮮総督府医院長志賀潔は、東京の帰りに釜山経由でソウルに帰ったが、その帰路、記者たちに「癩病の根絶」について談話している。『東亜日報』及び『大阪朝日新聞・朝鮮版』は、つぎのように報じている。

   『癩病の根絶は、去勢の他は無道理/去勢で遺伝防止 ◇志賀博士 談』(見出し)。
                      (一九二七年四月一五日付『東亜日報』)
   東京で開催された日本生理学会に出席した滋賀総督府医院長は、十三日夜に帰郷た。氏は、朝鮮に比較的多い癩病に対して「癩病絶滅策に関しては以前から研究もし、相当なる意見も持っているが、最も近道は去勢して遺伝しないようにすることが一番いいようだ。しかし、これは、人道上において問題があるので簡単に採用することはできないが、かといって現在、朝鮮に約三万名の患者がおり、今後もっと増えることが予想されるので、去勢に関する法律でも制定し根絶を期することなしには、将来、恐ろしい結果を導くことになるだろうと語った」。

   『患者の希望で去勢を実行し、癩患の撲滅を期する/志賀博士の内地帰来談』(見出し)。
                                 (一九二七年四月十四日付『大阪朝日新聞・朝鮮版)
 「総督府医院長志賀博士は十三日朝釜山通過帰城したが氏のはなしに、鮮内における癩患の現在数は警察当局の調査をみると七千人といふことになつてゐるやうだがその実数はすくなくも三、四万人はゐる、癩の撲滅予算をはかるため内地では患者の希望によつて去勢を実行してゐるが、その徹底を期するには鮮内でもこれを実施するに如くはないと思ふ、いろいろ治療法も講究されてゐるが未だに適確なものは発見されず全治者は三、四パーセントしかない有様で患者の血族関係者を引離し別居せしむるなどいふことは実際問題として行はれないことではないかと思はれる=釜山」。

  志賀潔のこの談話が『東亜日報』などに報道された六年後、光田健輔は長島愛生園書記の宮川量(一九〇五〜四九)を伴って、小鹿島慈恵医院など朝鮮の「癩」療養所を視察の旅に出た。一九三三年七月十六日から十一日間の視察中、大邱に立寄り『大邱日報』
に、つぎのような記事談話をしている。

  「レプラ患者は隔離すれば減る/輸精管断切は自他とも幸福/来邱中の光田健輔氏談
                                          (一九三三年七月二五日付『大邱日報』)

 癩患者の救主とまで云はれてゐる権威者岡山邑久郡国立癩療養所長島愛生園長光田健輔氏はこの程来鮮、全南順天、小鹿島両地の癩患状況を視察し京城を経て二十四日大邱府外内塘洞大邱癩病院を視察後同日慶州に向け出発したが氏は語る、
  「朝鮮には皆様の御尽力の御陰で癩予防協会が建設されることとなつたのは病人は勿論一般社会のために慶賀に堪へない、この癩病は隔離療養すれば次第に減少するもので将来朝鮮の癩患も年を逐ふて影が消えて行く事と思ふ、内地には明治三十九年想定二万四千名も居つたが隔離して爾来その数を減じ現在は一万四千三百六十一名(警察の調べ)しか居らず国立七ヶ所、私立六ヶ所の療養所に約五千名が収容してゐるが従来は流浪患者のみを収容してゐたけれども数年前より普通患者でも伝染され易い危険な患者に対しては県知事が強制的に入院隔離せしめる権力を有することとなつた。
 而して療養所に入れば見違へる程病気が癒り入所してない患者とは比較にならない、然し七年十四年も立つて再発することがあるから之には困る、尚ほ本能性の異性接近問題についても各人各説があるが、僕の所では希望者に限り男の輸精管を切つて自由に夫婦生活をさせてゐるが之はたゞ子を産まないだけであつて普通の夫婦関係と豪も変りはない。そこで近来夫婦にならうと云ふ患者は進んで申込み手術を受けることとなつた大正(大正四・一九一五)年来、僕の手術してやつたのが三百名に上つてゐるこの病気は遺伝するのではなく全身に拡つてゐる母の病菌が軟弱な胎児を襲ひ伝染するのであるから自分の為子の為社会の為に子を産まぬのが最も良策である。
 今日府外、内塘洞の患者部落を視た時数多い子供が居ることには心から気の毒で見られなかつた今のところ内地では東京療養所その他でも輸精管切断を実施中であるが成績良好である、朝鮮における患者も自発的に手術すれば結構なことであらうと思ふ」。

  光田健輔が朝鮮の視察旅行した一九三三年、九月一日には周防正季が小鹿島慈恵医院の四代院長に任命された。小鹿島慈恵医院第一期拡張工事の始まりである。第一期拡張工事の落成式は、一九三五年十月二十一日挙行された。翌三六年四月には小鹿島更生園でも断種(輸精管切断)手術が、夫婦同居の条件として施術されることとなった。収容患者の急増による園側の、患者に対する「管理・統制」の強化である。また、日本国内の療養所とは異なり、植民地朝鮮の小鹿島更生園では、収容患者の処罰としての「断種」が加わり、実行された。妊娠した女性は堕胎させられ、胎児は殺された。

 小鹿島更生園『昭和十二年年報』(一九三八年七月)は、「夫婦患者ノ同居」の項でつぎのように記述している。

 「一、当園患者ハ大正六年開園以来男女別居制ヲ維持シ来タルガ昭和九年以降ノ大拡張ニ伴フ多数患者ノ増加収容ニ依リ夫婦患者ノ数又著シク増加スルニ至リ之ヲ此ノ侭抑制シテ依然別居制ヲ維持スルニ於テハ自然渠等ノ気分ヲ荒廃セシメ遂ニハ物議ヲ生ジ事端醸成ノ因ヲ為スニ至ルベク看取セラレタルヲ以テ寧ロ渠等ノ要求ニ先タチ一定ノ条件ノ下ニ夫婦同居ヲ認ムルコトヲ決シ昭和十一年四月ヨリ之ヲ実施セルガ現在同居者四百七十一組ニシテ尚相当増加ノ傾向ニ在リ而シテ之レガ為渠等患者ノ気分非常ニ緩和サレ自然島内生活ノ安定ニ大ナル効果ヲスニ至リツゝアリ其ノ収容状況左ノ如シ。
      夫婦同居者
中  央  三九        旧北里  一九四        西生里    六
南生里  七六        新生里  一〇〇        東生里  五六
  計  四七一組

二、夫婦同居ノ許可標準
1.戸籍上ノ夫婦タルモノ
2.戸籍上ノ夫婦ニ非ザルモ事実正式ニ婚姻ノ式ヲ挙ゲタルモノ
3.古ク収容前ヨリ内縁関係ニ在リタルモノニシテ一般ニ認メ得ルモノ
4.5.(略)
6.以上ノ各項ヲ具備スルモ之ヲ其ノ侭同居セシムルニ於テハ隔離収容ノ意義ヲ
  忘却スルニ至ルベキヲ以テ予メ本人ノ申出ニ依リ断種法(精系手術)ヲ行ヒタ
  ル上同居セシムルコトニ為シ居レリ」。

「夫婦患者同居者」の数は毎年増加しているが、その他はまったく同じ文面の記述が、一九三七年から四一年までの小鹿島更生園発行の各年度『年報』に書かれている。
  つぎに各年度ごとの「夫婦患者同居者」数を示しておく。(以下省略)。

 以上見てきたような公式に『年報』が明記した「精系手術」して同居した患者(一九四〇年末には、八四〇組)以外にも、処罰としての「断種手術」が行なわれている。その人数は当時の公式な行政文書には記載されてはいないが、多くの証言から伺い知ることができる。監禁室の隣り建物の「解剖室」と隣り部屋の「遺体安置室」で、看護手などが監禁室を出所する際に、行なったという。解剖室の壁には、罰として「断種手術」を受けた人物=李東の詩が、現在の国立小鹿島病院によって、韓国語で書かれた詩が掲示されている。

 その昔、思春期に夢みた
 愛の夢は破れ去り
 今 この二十五の若さを
 破滅させゆく手術台の上で
 わが青春を慟哭しつつ横たわる。
 将来、孫が見たいと言った母の姿‥‥
 手術台の上にちらつく。
 精管を絶つ冷たいメスが
 わが局部に触れるとき‥‥
 砂粒のごと 地に満ちてよとの
 神の摂理に逆行するメスを見て
 地下のヒポクラテスは
 きょうも慟哭する (李東)

(註)詩中の「ヒポクラテス」とは、医学の父と呼ばれる古代ギリシヤの医学者である。

シム・ジョンファン著『あゝ、七〇年〜輝かしき悲しみの小鹿島〜』(一九九三年七月)には、つぎのような一文が書いてある。――南生里に入院した李(イ)東(ドン)とい う青年は、敬虔なキリスト教徒で、たくさんの患者仲間から尊敬を受けていた。
ある日、原土場で採土作業をしていたが、作業の障害になる松の木二本を植え替えろと、佐藤主席看護長の命令を受けた。その時、自分の病舎の同僚患者が急病で倒れたので、 医者の治療を受けるために患者を背負い、治療本館内科室に行った。そして、佐藤 の命令をすっかり忘れてしまった李東は、その次ぎの日、煉瓦原土場現場に出頭しろという命令を受けた。佐藤はその原土場の上にうつ伏せにした李青年を、靴で首っこをむちゃくちゃに蹴りながら、「貴様のようなももの生命は、あの松の木より劣るのだ」と棍棒で殴った後、監禁室に入監させた。出監した日は手術台に載せられ、例によって断種手術を受けたが、断腸の思いを込め一編の詩を書いて、静かに医者のメスを受けた。


 

8.朝鮮の新聞紙上に書かれた「断種」と民族優生思想

 滝尾は、自著『朝鮮ハンセン病史―日本植民地下の小鹿島』未来社(2001年9月)で『「優生思想」とハンセン病』を198〜212ページに書いた。その中で1938年2月2日付の『朝鮮日報』に掲載された「時事解説・断種法立案説」という記事を紹介しておいた(209ページ)。また、同書の脚注の中にも、「○ 朝鮮総督府の御用新聞『京城新聞』(本社・ソウル)に一九三八年四月二一日から二三日まで工藤武城(婦人科学専門)が三回にわたり「断種法を?る是非」と題して連載記事を書き、その中で、「婦人は最近実行されてゐる断種法は、精神にも身体にも、何等の有害なる作業を残すことなく」、「唯々生殖力を除くのみ」で、「これに因って、将来生れても、単に世人の迷惑計りではない、生れた当人も終生悲惨なる劣敗者として自分自身を呪ひ親を呪ふ。子供を生むと、何れが幸福なるべきやは論ずるまでもない」と述べている(209ページ)。

 滝尾英二 編・解説『植民地下 朝鮮におけるハンセン病資料集成』第5巻「新聞記事のみるハンセン病 U」、2002年7月発行に収録した記事のうち、「断種に関する記事」や、「優生思想・優生政策」を書いた「記事見出し」および、この『〜資料集成』発刊以後に収録した新聞記事も、その「見出し」を掲載しておいた。なお、「断種、優生思想・政策」に関する『朝鮮日報』『東亜日報』などの記事本文について、若干の記事を日本語に訳して掲載しておいた。

◎ 断種法について  医学博士・金重華 『東亜日報』、1933・06・08
◎ 優生学協会発起 民族社会の将来を思い 十四日千代田グリルで 『朝鮮日報』、
1933・09・13  ⇒【日本語訳】
◎ 優生学大講演会 朝鮮優生協会主催で 『朝鮮日報』、1933・09・26
◎ 講話・人類の優生学的思想とその運動 『朝鮮日報』、1933・10・03
◎ ナチスの怪法令―男女強制断種法 来年一月から実施、白痴と精神病者を防止するため、経費として七百万円計上 『朝鮮日報』、1933・12・22 ⇒【日本語訳】
◎ 新刊紹介・優生 第一輯、朝鮮優生協会 定価十銭 『朝鮮日報』、1934・09・02
◎ 不幸児の楽園―小鹿島癩療養所訪問記(6) 異性問題の葛藤に地方熱の軋礫 金昌洙 『東亜日報』、1934・09・19
◎ 優生大講演会 『東亜日報』、1934・09・26
◎ 朝鮮優生協会主催 日時・一月二十二日午後七時半、場所・鐘路中央基督教青年会 第二回優生大講演会、東亜日報社学芸部後援 『東亜日報』、1935・01・21
◎ 優生講演会会場{写真} 『東亜日報』、1935・01・23
◎ 社説・優生思想普及の必要 『東亜日報』、1935・01・26
◎ 殺人犯と悪疾者には子女生産を禁止 梅毒患者も手術してから結婚 今度の議会に上程された断種法案 『東亜日報』、1935・03・08 ⇒【日本語訳】
◎ 断種手術を受ける人が一年に二十万人 『東亜日報』、1935・04・05 ⇒【日本語訳】
◎ 新刊紹介・優生 第三輯、 定価 定価朝鮮優生協会十銭 『朝鮮日報』、1936・11・08
◎ 優生学と優境学 遺伝・環境・教養等に関して(一)(二) 梨花女高教員・李徳象 『朝鮮日報』、1937・06・10〜12 ⇒【日本語訳(1)(2)】
◎ 時事解説・断種法立案説 『朝鮮日報』、1938・02・02 ⇒【日本語訳】
◎ 〔学芸〕断種法の科学的根拠―人間楽園を建設する第一歩(一)〜(三) 世専教授 ・金鳴善 『朝鮮日報』、1938・02・10〜12 ⇒【日本語訳(1)〜(3)】
◎ 天刑病者 小鹿島更生園訪問記 C 情熱は人間の本能―廃人にも愛・愛 光州特派員・崔仁植 『京城日報』、1938・03・09 
◎ 〔趣味と学芸〕断種法を?る是非(一)〜(三) 工藤武城 『京城日報』、1938・04・21〜23
◎  優生学から見た断種とはどんなもの? 帝大病院岩井内科・金思□ 『東亜日報』、1938・05・05  ⇒【日本語訳】
◎先天性劣悪民族防止のため断種法制定についに到着、厚生省民族優生会が決議、遠からず具体案作 『東亜日報』、1938・06・19
◎ 朝鮮に重大影響 総督府態度が注目 『東亜日報』、1938・06・19
◎ 社説・説 断種法施行説 『朝鮮日報』、1938・06・20 
◎ 〔学芸・小抄〕優生学会解散 『東亜日報』、1938・09・28 ⇒【日本語訳】
◎ 〔科学〕断種法に関して@〜C 李重K 『東亜日報』、1938・11・01〜09
◎ 民族優生保護法(断種法に代わる名)、本会議通過は疑問 『東亜日報』、1939・02・19 ⇒【日本語訳】
◎ 新断種法の目標、悪質増加の沙汰 民族変質の防止、但反対論も相当強硬 『東亜日報』、1939・10・13 ⇒【日本語訳】
◎ 議会へ提案する優生法、悪質遺伝素質を持った人口の増殖防止 『東亜日報』、1940・03・01
◎ 優生法案に賛否両論 『東亜日報』、1940・03・10
◎ 国民素質向上促進 断種法を実施することに 新年度には内地では実施 『東亜日報』、1940・03・13
◎ 優生法の実施期は一個年後? 1940・03・15
◎ 国民優生法案 希望決議附可決 貴族院委員会にて 『東亜日報』、1940・03・27
◎ 優生法公布 実施は明年七月頃 『東亜日報』、1940・05・01

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 以上、37タイトルの新聞記事の「見出し」と、その新聞記事の日本語の訳文を17ほど掲載した。また、私の机上には何冊かの「優生思想・優生政策」の研究書籍が置かれている。まず、その書籍をあげておこう。

@ 太田典礼著『堕胎禁止と優生保護法』経営者科学協会(1967年4月)発行
A 小泉英一著『堕胎罪の研究』敬文堂(1956年9月)発行
B 藤野 豊著『日本ファシズムと医療→ハンセン病をめぐる実証的研究―』岩波書房(1993年1月)発行
C 藤野 豊著『日本ファシズムと優生思想』かもがわ出版(1998年4月)発行
D 藤目ゆき著『性の歴史学―公娼制度・堕胎罪体制から売春防止法・優生保護法体制へ―』不二出版(1999年3月)発行
E 日本性教育協会編『現代性教育研究〔隔月刊〕―人工妊娠中絶―』小学館(1982年12月)発行
F 神奈川大学評論叢書・第5巻『医学と戦争―日本とドイツ―』御茶の水書房(1994年6月)発行

 これらの「優生思想・優生政策」に関する書籍を読んで共通する問題は、日本が植民地支配をしていた地域=例えば、台湾・朝鮮・ミクロネシアなどの諸地域において、日本人関係者が犯した「優生思想・優生政策」に関した・政策・行為が、研究対象から外されていることである。
 藤野 豊著『日本ファシズムと優生思想』かもがわ出版を読んでも、527ページを割いて書かれた労作だとは思う。しかし、その中には日本国内の「日本ファシズムと優生思想」が論じられているが、日本ファシズムを論じているのに、国内問題のみを取り上げ日本が植民地支配をしていた諸地域を外して、果たして「日本ファシズム」政策なり、思想なりが全体像として歴史的に把握できるのだろうか、という疑問をもっている。私は植民地支配下の人びとの「歴史」を研究しないで、「日本ファシズム」の全体像は描けないと思っている。
 それが顕著に出ているのが、藤野氏が大きな役割りを果たしたと思われる「ハンセン病問題に関する検証会議」が出した『〜最終報告書』(2005年3月発刊)だと考えている。藤野氏は、検証会議委員と検討会員を兼ねていた。

 この『最終報告書』は、日本が植民地支配をしていた地域=例えば、台湾・朝鮮・ミクロネシアなどの諸地域において、ハンセン病政策がどのようになされたか、という検証・研究が極めて弱いと思う。それが、未だに植民地支配下にあった人たちへの国家謝罪、戦後補償がなされないことの大きな問題点の一つであると思われてならない。

 

9.ハンセン病療養所の患者に対する性管理と人権侵害


 日本において、ハンセン病療養所でワゼクトミーがいつから始まったのであろうか。ワゼクトミーを全生病院でハンセン病患者に、初めて施術したのは同病院長であった光田健輔であった。多麿全生園患者自治会編『倶会一処(くえいっしょ)―患者が綴る全生園の七十年―』一光社(1979年)には、つぎのような記述が「年表」の7ページに載っている。

 「一九一五年(大正四年)四月 ○断種手術を前提に、所内結婚を認める。療養所が終生の生活の場となる傾向を強めるに従い、患者両性間の交りが行われ、施設側は年々増加する出産児の措置に窮していたが、解決策として光田は、逸早くワゼクトミー(精系結絮手術)を採用することにした。最初の希望者三〇名。内務省は法的隘路を「患者から承認書を取って行う」よう指示し、それ以来婚姻の届出は断種手術の申込みと同義語となった。
○ 池田某(38才)に対し最初のワゼクトミーを行う(24日)」。

  光田健輔は、自ら行ったワゼクトミーについて、数多くの報告をしている。第25回日本皮膚科学会で「簡単なる輸精管切除術」を報告し、同題目で『皮膚科及泌尿器科雑誌』第25巻第6号(1924年)で発表している。その内容は、光田健輔著『癩に関する論文』第二輯・長濤会、1950年9月・出版、130ページをみることで容易である。その後、光田が報告・記述した「断種」に関する記述は数多い。その内容の中から、その一部を紹介しておく。

 「患者に「ワゼクトミー」を施せる患者の二〇ヶ年の経験よりして本法は被手術者に何等性欲の減退を招来することなく、母体の妊孕、分娩により病勢の悪化を予防し、然も其操作は極めて簡単にして癩の根絶法中白眉たることを強調す。而して其術式として演者は輸精管下部の切除、即ち局所麻酔の下に陰嚢後面皮膚を僅かに1cm切開し輸精管を露出し、其一部を切除することを推奨す」(「ワゼクトミー」に就て、『皮膚科泌尿器科雑誌』第41巻第3号・1937年・日本皮膚学会第32回岡山地方会で発表)。

 「……我等の癩療養所では男子患者にワゼクトミーが隠然行はれ一〇〇〇人を越えたと思はれる。(中略)本例研究の動機となつて、「ワゼクトミー」後二四年生存し社会的に活動を続けた、栗○に其の一側の睾丸を提供する様に勧告した。彼は全生病院に二〇年も療養を続け、引続き愛生園に来り活動を続けて居る神経癩である。彼は五一歳で……大正四年春二八歳の時、全生病院に於て率先して「ワゼクトミー」手術を受けた」(『レプラ』第10巻第1号、1939年、第12回日本癩学会に於て発表)。

 「ライ夫婦は子供を生まないほうがいいので、これは人道上からもライ予防の見地からいっても、重大なことである。私は医者として真剣にこの問題を検討した結果、優生手術(ワゼクトミー)をやることが、いちばん適切な方法だと思った。これはその名の示すとうり、優生学にもとづいて人類の遺伝的な素質をなくするために、外国で早くとなえられていた。……その方法は男子の輸精管の一部を切って上下の端をしばり、流れを絶つのである。これは局部麻酔で二十分くらいでできる簡単な手術であった。
  だが、実施するとなると国法で禁じられていることであるから、念のため弁護士の花井卓造氏や、東大の牧野英一博士にたずねてみた。その回答によると、「他の第三者が告訴すれば傷害罪を構成する」ということであった。善意と誠実でやることだ。勇気を出さなくては、何事もできるものではない。私が告訴されれば刑務所へ行くまでのことだと覚悟をきめた」(光田健輔『愛生園日記』毎日新聞社、一九五八年)。

 しかし、これら光田の発表した報告文のなかで、私が一番腹立たしく思ったのは、第12回日本癩学会において発表し、『レプラ』第10号第1号、1939年に発刊した『断種手術を施24を経過したる患者の睾丸及び副睾丸の変化』という報告文である。(同報告文は、光田健輔著『癩に関する論文』第三輯、1950年12月に収録されている)。

 「……「ワゼクトミー」後24年生存し社会的に活動を続けた、栗○に其の一側の睾丸を提供する様に勧告した。彼は全生病院に20年も療養を続け、引続き愛生園に来り活動を続けて居る神経癩である。彼は51歳で……大正4年春28歳の時、全生病院に於て率先して「ワゼクトミー」手術を受けた」と書きつづけて、さらに、つぎのように光田は記述する。
 「(昭和13年)9月15日早田医官により左睾丸を摘出した。
栗○酒気 20余年思出記:
 ……昭和13年9月12日光田園長殿が輸精管削除手術を受けて24年間、性的生活をして居る者は珍らしい。医学上の貴重の資料であるから(左睾丸)を呉れぬかとの仰せがありました。私は言下に差し上げますと申しました。
そして左の「コーガン」一つ取る手術を受けたのであります……9月15日入室手術の準備をしたのでありまあす。局部注射で30分間で手術は終つたと思ひます。手術中さのみ疼痛も感じませんでしたが、コウガンを取る時は、実に下腹内まで異様の不快の感でウントキバッてこらへましたが、問はれても答への出来ぬ位イヤな疼痛苦悩が2−3分間いたしました。縫合する時少し痛みましたが、手術後はさのみ痛みはありませんでした。……全く手術症が癒えるまでには4週間かかりました。
 尚コウガンを取つた時は、筋を取つた時の様にボツキは、全くいたしませんでした。10月12日第2回の性交をこころみましたが、この時も精液はホンノ少しばかり出た様に感じました。
 性交の時のボツキ力は手術前の如くでありません。其の力弱く女はたよりないと云ふて居ます。」

 「人体実験とは、生きている人体を使って実験することにより、死や傷害をもたらす行為」だとしたら、長島愛生園で光田健輔、早田医師によって行なわれた入所者患者・栗○さんの左睾丸を摘出手術は、「人体実験」だと言わざるを得ない。ところが、寡聞にして「ハンセン病患者の被害事実」、とりわけ法廷で「優生政策」を批判する弁護士からも、藤野豊氏・藤目ゆき氏・松原洋子氏など「優生思想・政策」を研究している諸氏の研究物のなかにも、この「人体実験」の報告をきかない。『ハンセン病問題に関する検証会議・最終報告書』の中でも、この長島愛生園で光田健輔、早田医師が行なった栗○さんの左睾丸を摘出手術=「人体実験」のことは、ひどい人権侵害であるにも関わらず書かれていない。

 では、ハンセン病患者の男性患者に、光田健輔はどのような理由で、ワゼクトミーを実施したのであろうか。光田の記述の中から時代順に並べてみると、本音と建前とが見え隠れしてくる。一九二〇年六月、光田は「癩患者男女共同収容を可とする意見」を書く。それは全生病院で最初のワゼクトミーをはじめた一五年春から、五年後のことである。この意見書は、熊本の「回春病院」院長ハンナ・リデルが「政府にして近き将来に於て国立療養所を、設けらるるに於て男女を各別に収容せられんことを希望せりと云う、之に対して予は全く反対なる意見を有する者なるが故」書いたものだと、光田は「意見」書のなかで述べている。
  この「意見」書は、三節からなっている。「第一  管理上経済上男女共同収容の可なること」、「第二  両性各別隔離は却て自暴自棄的行為を助長すること」、「第三  次代の危険防止は容易なり」の三点をあげている。その中から、第二と第三の内容を次に述べておく。

 「第二  両性各別隔離は却て自暴自棄的行為を助長すること。 ……性欲の禁断は屡々情緒の変態を来し、尼院及女監獄にありては沈鬱悲観的の気分あり、男子のみの場所には乱暴狼藉の気分あり、殊に癩の如き自暴自棄的患者に在りては其の情調の激越なるに当らば癩病院を脱出して健康なる女子を犯すことなしとせず、明治四十二年某療養所の開院後間もなく男患者は看護婦に向て暴行を加えんとせるものあり、又近年某私立療養所に於て癩患者は教養ある尼僧を挑発し此れと相携へて噴火口の烟と消えし悲劇あり、夫れ性欲を抑圧せしむることは少数の患者に出来得べきも多数の患者を収容して終生此れを療養せざるべからざる療養所にありては困難と云わざるべからず、……男女の関係に於て乱暴狼藉を許さざるが故に如何なる自暴自棄の患者と雖も女性の歓心を得んとするに当りては、其の暴威を逞うする能はず、虎変じて反て猫の如き者となる、又如何なる莫連名淫なる婦人にしても其の適当なる配偶を得るに当ては恰も処女の稚態に変ず」。
 「第三  次代の危険防止は容易なり。  ……思うにリデル嬢が両性各別隔離所を設くべしとの説は内縁の夫婦が療養所内に続々成立し其の結果次代たるべき子孫の繁殖せん事を恐れ此の不幸なる児童の出産を防止すべしとの意に外ならざるべし、吾人も亦斯る児童の産れざらん事を欲す、若し療養所内に於て人生の好伴侶たる異性に求めんとする癩患者は予め極めて容易にして無害なる中絶法を行い、……蓋し癩に於ては睾丸は早期に犯され自然的中絶の事は早晩到来するものなれば、此の自然の妙機を補助すべき事は敢て天意人道に反するものに非らずと信ず」。

  光田健輔の「癩患者男女共同収容を可とする意見」の文章が、一九二〇年六月に出されていることに注目したい。その五年前の一九一五年春、光田は全生病院で最初の断種手術(ワゼクトミー)を施術している。また、前掲『倶会一処』の「年表」によると、「一九一六年(大正五年)三月 ○大隈内閣によって、癩予防に関する法律が一部改正され、「療養所の長は命令の定むる所に依り被救護者に対し必要なる懲戒又は検束を加うることを得」と規定された。(法律第二一号)(一〇日)。 「(同年)六月 ○癩予防に関する施行規則改正(内務省令第六号)。療養所長の被救護者に対する懲罰検束の権限が規定され、併行して監禁室が設置された」。

  こうした一連の歴史の動きをみていくと、光田のいう「癩患者は予め極めて容易にして無害なる中絶法」、つまり断種手術(ワゼクトミー)の施術が、療養所に入所しているハンセン病患者の医療・福祉が目的なのでなく、「癩療養所長」として療養所入所者の管理・統制が目的であったことは明白である。日本統治下の朝鮮での療養所入所者への断種手術(ワゼクトミー)の施術が、一九三六年四月から実施されたが、その目的も同一であった。
  光田健輔は、断種手術(ワゼクトミー)について、その後「医学的」な説明をしている。一九三六年四月の『愛生』に「「ワゼクトミー」二十周年」と題して書き、戦後の一九五八年五月、『愛生園日記』を毎日新聞社から発行し、同書に「ワゼクトミー」という項目でも、断種手術(ワゼクトミー)について記述している。光田の『愛生園日記』の中の該当箇所を、つぎに紹介したい。

 「子供が生れることも自然のなり行きであるから、そこに考えなければならないことが 起ってくる。結論からいえば子供を生ませてはならないのだが、子供を生んだ場合、どういうことになるか説明してみよう。
    一、彼らは伝説と経験から、ライの子はライになることが多いと考えている。
  二、母体がライであった場合の妊娠分娩はライ菌に対する抵抗力を失って、病勢つ
  のらせることは周知の事実である。
    三、男子の睾丸は、皮膚の最も繁殖する温床である」。

  一九三六年四月に発刊した『愛生』誌に掲載の「ワゼクトミー」の記述は、『愛生園日記』とほぼ同じ論旨である。「断種により男女並存せしめ得べし」の項では、「母体が癩であった場合に……潜伏したる癩菌が児童に出現発病しないとは保証は出来ないのである」、「斯の如き児童の将来は他の健康児と比較にならなぬ程暗黒で、父母として其責任を考えない者は人にあらずと云うてよいものである」。
 「第二、母体が癩であった場合妊孕分娩は婦人の癩菌に対する抵抗力を奪い急に病勢を増悪ならしむる事は周知の事実である。男性は此意味に於て傷害罪を犯したるものとして責任重大である。……第三、男子の睾丸は癩の好発する臓器であって、皮膚と共に癩菌の最も多く繁殖する源泉である。其精管内には精虫に混じって癩菌の存する事も事実である。……兎に角病的精液は妊孕せしむる力を有するものであっても生理的のものとは異なるもので虚弱児を孕ましむるものであり、又後来胎児に感染せしむる可能性のものである」。
 「以上の理由により癩夫婦は妊孕せしめざる事が人道上から云うも癩予防の見地から云うも重大なる意義を有す。妊孕を予防する方法は断種法を実行するにある」。

  光田のこのような見解に対して、藤野豊さんは「光田は、母親の胎内での感染や父親の精子からの感染、あるいは妊娠による母親の病勢の進行、乳児への母親からの感染を恐れてこうした処置(断種手術)をおこなったという(光田健輔「性の道徳」・『山桜』一二巻六号、一九三〇年六月)が、このような認識にもとづけば、ハンセン病自体は遺伝病ではないにしても、それに類似した形で、母子、もしくは父子感染していく危険性を内在させているとみなされるわけであり、ハンセン病は優生主義の対象に組みこまれうるのである」(『日本ファシズムと医療』岩波書店、一九九三年)と述べている。

  日本のハンセン病療養所では、どのくらいの患者が「断種手術」をうけたのか。光田健輔を含め、日本の医師たち自身の報告を通して、「断種」の実施の状況をみていくことにする。
  厚生省監修・犀川一夫編『らい文献目録(医学編)』長島愛生園発行、一九五七年に収録されている論文「内容抄録」のなかから、ハンセン病患者に断種手術についてみていくことにする。

@ 野島泰治(所属・大島療養所)「癩患者に行える輸精管切徐例に就いて」 *『レプラ』第二巻第三号(一九三一年九月)。
「一九二三年より一九三一年の間に五五名のらい患者に輸精管切徐術を施し……」。

A 榊原五百枝(所属・九州療養所)「癩患者に施せる輸精管切徐術に就いて」 *『レプラ』第七巻第四号(一九三六年一一月)
「らい患者三三例について余の方法による輸精管切徐術を実施した……」。

B 藤田敬吉(所属・全生病院)「癩患者に対する断種手術に就て」
*『レプラ』第一〇巻第六号(一九三九年一一月)
「断種手術として全生病院において大正四年より昭和一四年(一九一五〜三九年)まで男性三八五名輸精管切徐を行ったが……」。

C 玉村孝三、矢島良一(所属・楽泉園)「癩患者に対する断種手術に就て」 *『日本公衆保健協会雑誌』第一七巻第一一号(一九四一年一一月)
「七年間に男子一四〇名に対する輸精管切徐術を実施して来たが……」。

  以上、四施設の医師から収容している患者の断種手術の実施数が報告されている。この中には長島愛生園などお療養所は含まれていないし、断種手術の時期・期間も限られている。しかし、限定されたなかでも「断種」を受けた患者数は六一三人に及んでいる。いったい断種手術を受けたハンセン病患者数は全体で、なん人だったのだろうか。最初にこの断種手術を始めたのは光田健輔であるが、この件について、つぎのように述べてている。
「大正四年(一九一五年)「ワゼクトミー」を全生病院に実行して二十年になる。我々同志によりて行うたのは千人に垂んとする数である」(『愛生』一九三六年四月号)。それから十五年の後、『愛生』一九五一年二月号に掲載して、光田はつぎのようにいっている。
「毎年の産児問題の解決を、私は、漸く当時芽生えたばかりの優生術によって解決したが、それは実に一九一五年(大正四年)で、今から三六年前の事であった。……我が国では、ライ療養所だけでも二〇〇〇以上の材料がある」。

                                          (2005年9月9日  滝 尾 英 二・記す)