[日本・朝鮮近代ハンセン病史・考K]


       皇太后節子さだこと周防正季まさすえ

滝   尾   英   二
(人権図書館・広島青丘文庫主宰)

     『宇垣一成日記』(みすず書房)の一九三五年七月十三日の箇所には、つぎのような記述がみられる。

十三日大宮御所〔皇太后御所〕に伺候  皇太后陛下に拝謁、朝鮮の社会事業就中癩予防及び患者退治に関する状況を約二十余分に亘り言上せり。色々と慰労、奨励の難 有御言葉を拝して退下。鮮魚を下賜ありたり」。

  宇垣朝鮮総督が大宮御所に皇太后に拝謁、「朝鮮に関して下問」を受けたのは、以前にもある。一九三一年七月八日の箇所には「色々と余の健康、朝鮮の事情に関して御下問あり且御慰問の難 有御言葉を拝して退下せり」といったことも、書かれている。
  それでは、いつから皇太后節子がハンセン病全般に立ち入るようになったのか。島田等はそれについて、つぎのように述べている。

  貞明皇后(皇太后節子)が……日本のらい事業全般に立ち入るようになったいきさつについては、内務省のはたらきかけがあったといわれる。それについて側近であった筧素彦元皇太后宮職事務主管は次のように回顧している。

「貞明皇后の救らいの思召しは、昭和五年、当時の内務省地方局長次田大三郎の献策により、内務大臣安達謙蔵が願い出たことが一つのきっかけとなって活発かするに到ったものであるが……」(『創立三十周年誌』藤楓協会、一九八三)。

  次田大三郎がどういう経緯でそうした献策を考えついたのか詳らかでないが、光田をはじめとして当時の政策推進者たちは、予防事業発足当初の部分的隔離政策を転回して、全面的隔離を立案したものの、財源獲得に困難し、(中略)昭和五年、皇后(皇太后節子)が手許の二十四万八千円をらい事業のためにといって下賜したことは、事業の拡張推進にとってこの上ないはずみとなった。かれらは一斉に皇室の深い思召しを内外にアピールし、下賜金の中の十万円を基金にして、懸案の「癩予防協会」を発足させた(島田等遺稿集『花』手帖舎、一九九五年)。

 

  関屋貞三郎(前宮内次官)も一九三四年四月五日、「皇太后陛下の御仁慈と癩予防事業」と題して交詢社で、つぎのように講演している。

昭和五年になりまして、前宮内大臣一木男爵を御呼びになりました。あの御金(節約の経費)が相当の額に達して居る、之を癩予防事業に使って見たい……と云ふ事になり、昭和五年十一月十日、当時の内務大臣安達謙蔵、拓務大臣松田源治、此の両大臣を大宮御所に御呼びになりまして、御下賜金の御沙汰があつたのであります。第一は近く設立されるべき癩予防団体、即ち只今の癩予防協会に対しての御下賜金、第二には日本の国内の私設の療養所に対しての御下賜金、即ち内地に六つ、朝鮮に三つ、台湾に一つ、丁度十ヶ所の私設の療養所に対して、年々御下賜金があると云う事になつたのであります。第三には、当時官立は出来て居らなかつたと思ひますが、公私立の療養所の職員に対して、御品物と御金を賜はつたのであります。例へば、院長等には銀の花瓶、医員、或は事務員又は看護婦等の中で長い間療養所の方面に骨を折つた人に対しては硯箱を賜はつたのであります。……小使炊夫等で、長い間療養所に勤めた人には御菓子料を賜はつた。斯くの如く行き届いた例は、私は殆ど知らないのであります。又、其の賜はりました御品物に着いて居ります御模様が実に有難いのであります。其の御模様は、昭憲皇太后様(明治天皇の正妻・)の御使用になった御だ相であります。宮中には色々の御標がある。竹の御標の方もあり、梅の御標の方もあり、松の御標の方もあるのですが、昭憲皇太后様は、若葉の御標だつた相であります。其の賜はりました物に就ては、楓の若葉を皇太后陛下が御工夫になつて、之を賜はつたのであります。……昭憲皇太后様の記念御事業がないのだから、此事業を昭憲皇太后様の御事業にしたいと仰せられた相で、賜はり物にも昭憲皇太后様の御標を御着けになつたのでありまして、全く其の御思召になつて居ると拝察するのであります。

 

  ハンセン病療養所・静岡県御殿場にある神山復生病院・院長岩下壮一も『祖国の血を浄化せよ』(一九三七年六月・関西MTL発行)のなかで、皇太后節子の「下賜」品について、つぎのようにいっている。これは、一九三五年十一月十日に大阪朝日新聞社で行われた「御恵みの日」記念講演会での講演内容の一部である。「御恵みの日」とは、皇太后節子が大宮御所の歌会で、「つれづれの友となりても……」という歌を詠んだ日である。岩下壮一は故レゼー神父のあと、神山復生病院長になった。彼も敬虔なキリスト教徒(カトリック)である。

「一昨年五月二十八日、昭憲皇太后様の御誕生日には正式に(入江)太夫閣下を御派遣され大宮御所の楓の実生を賜りました。皇太后陛下におかせられては慈善を遊される時には常に昭憲様が御在世中は御多忙のため慈悲の御志を十分に御果し遊ばされませんでしたのを常に残念に思召されたのでその御志を継承遊ばされおらるる由を洩れ承つて居ります。まことに御孝心のきはみであります。楓の実生には七首の御歌が添へられてありました。その大体の意味を申上ぐれば

    この楓の葉は昭憲様の御紋章である。だからこれを受けて大切に育てよ、やがて成長の暁には夏になつたらこの青葉の蔭で憩ふやうに、秋にはこの紅葉の色を賞で昭憲様の御恩を忘れる事のないやう、こうしてお前達が慰められてゐるのを昭憲様はどんなにかお喜びなさるであろう

というやさしい御心のこもつたものであります。又御帰りの日に白色レグホーンを二十羽私共に下されました。献上者の志を汲まれ御所へ御持帰りになつたやうですがこれは今日百羽程に増えて病院中の患者がその卵を頂き喜んでゐます」。

 

  「皇太后(皇室)の御仁悲」を行政関係者たちは、放送・出版・レコードなどを通して内外にキャンペーンをした。一九三二年六月二十五日、皇太后節子の誕生日であるその日を「癩予防デー」と定め、六月二十五日を中心にした一週間を癩予防週間として全国各地で講演会など、「救癩」運動をおこなうこととなった(『倶会一処』)。

   国立療養所・長島愛生園の医務課長・林文雄(一九〇〇〜四七年)は、同三二年六月の「癩予防週間」に大阪放送局から「癩を救ふ三つの力」と題して放送し、つぎのように述べている。

「……私は今日癩を救う三つの力と題を付けて置いた。その第一は何か、昭和五年、皇太后陛下が癩の為に御内帑金二十四万八千円を下された。而も之は陛下畏れ多くも御調度費を御節約いたせられたのである。我々国民として最も尊ぶ皇室、皇太后陛下が日本で一番虐げられて居る、踏みにじられて居る癩者に御手を下し給うた。之は癩救済の大きな力である。此の六月二十五日は陛下の御誕生日である。我々はこの日を慈しみの日として憶え又前後一週間を癩運動の週間として多くの人に陛下の御仁慈と癩救済の急務を叫ぶのである。上皇室の御恵み之は癩を救う第一の力である」(塩沼英之助編『林文雄遺稿集』一九五九年)。

 

  林文雄も敬虔なキリスト教徒(プロテスタント)であった。彼は長島愛生園医務課長から一九三五年十月、鹿児島県に新設された国立癩療養所・星塚敬愛園長として赴任している。翌三六年五月十五日に、自ら編集した『星座』第一輯 建設篇(星塚敬愛園慰安会発行)の冒頭に「美しき誕生」と題して、つぎのように書いている。

「本園の如き療養所が新設されると云ふ事は、皇太后陛下を初め奉り皇室の御恩沢なくしてどうして在り得やふ。然も本園の如く開園怱々にして千載一遇の光栄に浴した処が何処に見出し得やう。即ち十月二十八日開園式を挙げ、後僅か二週間、十一月十一日には侍従御差遣の光栄に浴し又同日同刻即ち午前十一時には大宮御所に於て御下賜金三千円を戴いたのである。……併し宛も秋期特別大演習地たる鹿児島、宮崎県は、演習地の病者を一掃する為演習前の患者収容を要求したのである。大演習のために貨物輻輳し、列車輸送の大困難を忍んで開園後四日にして収容を開始したのは一に両県の熱望に出たものである。……大演習中収容は御遠慮申し上げ御還幸後、二十日頃より活動を開始し、翌月六日には三百五十人の病者を収容し定員突破五十人に至つたのである」。

 

  星塚敬愛園書記の井上謙も、前掲『星座』の中で、「鹿児島、宮崎両県の如きは大演習前に必ず患者の収容を願ひ度しと、再三申込み……十一日一日には、鹿児島県庁に到り、患者送致の手配なれるや否やを聞くに、大体の調査なれるのみにして、未だ何ら具体的方策あるを聞かず、又警察電話によりて宮崎県に照会するも、……演習前の患者収容の如きは甚だ覚束なき実情である」と書いている。

  そこで、星塚敬愛園は直ちに行動を開始し、十一月二日には、初めて鹿児島県姶良郡から七名の患者を収容、つづいて宮崎県三名、福岡県十二などと併せ計二十三名を同日、同園に収容した。十一月十一日、陸軍特別大演習のおり、天皇は久松侍従を星塚敬愛園に差し遣っている。同日、林文雄園長は大宮御所に「参伺」していたので、塩沼英之助医官が侍従に、つぎのように「言上」している。

「現在の収容定員は三百人でありますが去る十一月二日より収容を始め只今五十六人入園致して居る次第で御座います。……只今は大演習地に居住して居つた特に必要の者のみを収容して居る次第で御座います」。

 

  星塚敬愛園長の林などのいう「鹿児島、宮崎両県にまたがる特別秋期大演習」について、当時の新聞をくってみると、つぎのような記事が、五段抜きの大見出で出てくる。

   「大元帥陛下、けふ宮城御発輦/御海路・南九州へ、御召艦比叡にて御進発/大演習を御統裁 ――大元帥陛下には来る九日より四日間にわたつて挙行される壮烈なる本年度陸軍特別大演習御統裁ならびに十四日より五日間地方行幸のため今六日宮城御発覧、燦たる錦旗を皇祖発祥の御由緒深き南九州に進めさせ給ふ……」(一九三五年十一月七日付・『朝日新聞』)。

   「大元帥陛下、けふ聖地日向路へ錦旗を進ませ給ふ/御愛馬『白雪』に召され、戦線を親しく御巡視(陸軍特別大演習第二日)―― 十日錦旗を鹿児島より天孫降臨の聖地日向路に進ませ給ふ、薩日隅三州の山河は光栄に輝き……御統裁を仰ぐ両軍の精鋭は士気いよいよあがり、最初の衝突が国分平野に展開され大演習はいよいよ本舞台の幕をあげるのである」(一九三五年十一月十日付・『朝日新聞』)。

 

  つまり、国立癩療養所・星塚敬愛園長の林文雄は、天皇裕仁が陸軍特別大演習に来るので、鹿児島・宮崎両県は「演習地の病者を一掃する為演習前の患者収容を要求したのである。……開園後四日にして収容を開始したのは一に両県の熱望に出でたものである。……翌月六日には三百五十人の病者を収容し定員突破五十人に至ったのである」と述べているのである。

  一九二二年三月二十五日の「別府的ヶ浜事件」も、閑院宮の別府来訪を間近にひかえ、別府警察署警察官に焼き払われた。別府的ヶ浜部落がサンカの集落で、その集落なかにハンセン病患者を含んでいたからである。天皇裕仁が陸軍特別大演習に来る前に、鹿児島・宮崎両県の要請で林が星塚敬愛園に多数のハンセン病者を、当時の差別的ことばでいうならば「癩患者刈込み」をしたのは、的ヶ浜事件と同質な「事件」であるといえよう。星塚敬愛園長の林文雄は、陸軍特別大演習「癩患者刈込み」をおこなった五年後、一九四〇年七月の本妙寺集落の患者一斉「検挙」に際しても、星塚敬愛園への患者輸送に二人の所員を派遣し、三十一人の患者を同園に収容している。

 

  天皇裕仁の陸軍特別大演習に関する同じ紙面に「皇太后陛下、御仁慈畏し」との見出しで二ヶ所記事が出てくる。

   「御仁慈畏し『恵の鐘』、名も光ヶ丘に完成の日ちかく/愛生園に喜び満つ ――生きとし生けるものゝ幸福をうしなつた癩患者のために厚き御仁慈を垂れ給ふ皇太后陛下の御歌

      つれづれの/友となりても慰めよ/行くことかたい/われに代りて

    を記念し奉るため岡山県邑久郡裳掛村国立長島愛生園では御仁慈をく久遠に伝へる『恵の鐘』建設を計画し昨年来毎月二十一日の奉仕デーには千二百名の収容患者が不自由な身体を苦にもせず光ヶ丘へ一斉に出動し重い道具を握り土砂を運ぶなど涙ぐましい労働仕事を続け遂に本月完成までに漕ぎつけたので同園では……本月末盛大な記念式を挙行することに予定し全島は祝賀に包まれてゐる」(一九三五年十一月八日付・『朝日新聞』)。

   「皇太后陛下、御仁慈畏し/私立の癩療養所にも五ケ年継続賜金、官公立には金一封宛を贈ふ ――皇太后陛下には予て癩患者に対しいたく御仁慈を垂れさせたまひ、さきに五ヶ年継続の下に多額の御手許金を全国並に朝鮮、台湾などの植民地の官公立の癩療養所に御下賜あそばされたが、畏くもさらに左記官公立十二療養所に対し金一封宛の一時金を、また私立十療養所に対してはさらに五ヶ年継続にて御下賜あらせられる旨御沙汰あり、赤木内務次官、入江拓務次官ならびに岡山県長島愛生園長光田健輔氏、草津栗生楽泉園長古見嘉一氏ら各癩療養所長は十一日午前十一時大宮御所へ伺候、入江皇太后宮太夫を経て右御下賜金を拝受退下した」(一九三五年十一月十二日付・『朝日新聞』)。

  私の手許にある『日本MTL』の機関紙・第五八号、第六〇号、第六六号(一九三五年十二月〜三五年八月発行)をみると記事の欄外に、つぎのようなスローガンが記載されている。

*「つれづれの友となりても慰めよ」……畏し、大御母心に対へよ。

* 救癩運動は愛国運動なり。

  財団法人・癩予防協会編『昭和十一年度・癩患者の指導』(一九三七年三月)には、各府県に於ける癩患家指導状況が「府県知事報告」として、記載されている。その中から、広島県と奈良県の状況の一部を紹介しよう。

  「(広島県)3、レコードに依る宣伝 ―― 癩予防協会より送付を受けたる、皇太后宮御歌並安達謙蔵氏の癩予防に関する講演レコードを以て六月二十六日より広島、呉、尾道の三都市内常設活動写真館一九ヶ所の於て幕間を利用し広く一般観衆に聴講せしめたり」。

  「(奈良県)5、皇太后陛下  御歌吹込レコード宣伝 ―― 貴会より送付を受けし、皇太后陛下御歌吹込レコードを各警察署長に回送し本期間中活動館の幕間を利用し一般に聴聞せしめ本病予防に努めたり」。

(つづく)