[日本・朝鮮近代ハンセン病史・考L]


       皇太后節子さだこ周防正季すほう まさすえ  (続)

滝  尾  英  二
                                                  (人権図書館・広島青丘文庫主宰)


  日本統治下の植民地朝鮮に於いて、ハンセン病患者への「皇太后の御仁悲」をどのように称えたか。つぎに見ていこう。前述の関屋貞三郎は、『皇太后陛下の御仁悲と癩予防事業』(一九三四年)の中で、「朝鮮に於ける癩予防協会」の項目をあげ、つぎのように述べている。

   「此の機会に予防協会の事に就て申上げますと、内地はさう云ふものが出来ましたし、又朝鮮でも矢張り、此の御思召に依りまして、癩予防協会が出来たのであります。是は実は愉快な話でありまして、多分昨年か、一昨年内地の予防協会よりずつと遅いのでありますが、初め五、六拾万円の金を募集しやうと計画したので御座いますが、忽ち其の倍額百二、三十万円の金が朝鮮で集つたのであります。而も其の金を出した人は、大部分朝鮮人の諸君で、こんな有難いことはないと云つて喜んで、多額の金を出し、予想以上の成績を挙げたのであります」。

  皇太后節子が、「下賜」金を一九三三年三月、毎年一万円づつ三ヶ年「下賜」したことは、事実である。しかい先に、本稿「一〇  朝鮮癩予防協会の設立」で述べたように、「下賜」金が朝鮮癩予防協会設立に大きな契機となっているわけではない。まして、関屋が「大部分朝鮮人の諸君で、こんな有難い事はないと云つて喜んで……」というような事実はなかったと思う。  
  小鹿島更生園発行『年報』の各年版を見ていくと、それまで書かれていなかった皇太后に関する記載が出て来るのは、一九三八年以降である。それも、それ以後は毎年、『年報』は冒頭に「皇室の御仁慈」として、皇太后節子の「癩についての事績」を掲載し始めた。
 『昭和十三年年報』には冒頭の口絵に「皇太后陛下ヨリノ御下賜品」の写真を掲載している。木箱が二つと野菜で、木箱の中には周防が皇太后からもらった「鶏卵、鶉卵及び菓子」が写っている。さらに『年報』には、つぎのことが記載されている(原文はかた仮名)。
   
  「皇室の御仁慈  昭和五年十一月十日畏くも  皇太后陛下に於かせられては癩患者に対し殊に深く御軫念遊ばされ全国官公私立癩療養所に対し患者慰安の為多額の御内帑金御下賜(中略)、昭和七年十一月十日畏くも   皇太后陛下には特別の思召に依り大宮御所御歌例会の砌「癩患者を慰めて」との御兼題を賜り  陛下を初め奉り各宮殿下其の他宮中高官の一部及皇太后太夫入江子爵の御副翰を内務省より伝達せられ同月三十日恭しく之を拝受し昭和八年一月七日拝受式を挙行せり
超へて昭和十年一月十八日畏くも  皇太后陛下に於かせられては全国官公私立癩療養所長に対し大宮御所に伺候し御座所に於て拝謁を賜はり当園事業の大要を言上種々の御下問に奉答し、(中略)更に同年十一月十日畏くも   皇太后陛下の御思召に依り諸般設備等の費に充つる為御内帑金五千円御下賜の御沙汰あり……患者は孰れも聖恩の深きに感泣しつつあり
更に昭和十三年五月十七日畏くも   皇太后陛下にに於かせられては全国官公私立癩療養所長会議に出席中の当園長に特に単独拝謁被仰付旨の有難き御諚を拝したるに依り園長周防正季は同日大宮御所に伺候し御座所に於て一時間十分の長時間に亘り単独拝謁を賜はり当園の現況及鮮内の癩患者に関し委曲言上し……退下の節御所内及新宿御苑内に於て御栽培の各種野菜一籠、鶏卵、鶉卵竝御菓子を御下賜ありたる等重ねて救癩史上前例なき破格の光栄に浴せり……皇室の御仁慈に深く感激しつつあり」。

  『小鹿島更生園』の「昭和十四年年報」口絵冒頭の写真は「竣工セル皇太后宮御歌碑」である。そこには、「皇太后陛下  御歌」と「つれづれのともとなりても  なぐさめよ  ゆくことかたき  われにかわりて・皇太后宮太夫  大谷正男閣下書」との記載がある。
  同年報には、同年九月二十一日「現園長周防正季勅任ニ陞叙セラレタリ」と書かれてあり、また『朝鮮総督府官報』第三八三二号(一九三九年十月二十七日)の「叙任及辞令」によると、周防正季は同年十月二十一日付で「陞叙高等官二等」と記載されている。勅任官は勅命により任命するもので、官記には「御爾」を押し、内閣総理大臣が年月日を記入しこれを奉ずとあり、「高等官二等の官名(例)」として「内閣・各省局長、各省外局部長、陸海軍少将」があげられている(『事典昭和戦前期の日本・制度と実態』)。愛知医専を卒業し、総督府の一技官に過ぎなかった周防にしてみれば、小鹿島更生園長となり、癩患者六千人収容の拡張工事を完成させ、救癩の功により自分は皇太后に目をかけられて、皇太后に長時間にわたり単独拝謁を賜わることは、破格の出世をしたとの思いがあったにちがいない。
  この『年報』の巻頭の文は次のような書き出しで始っている(原文はかた仮名)。

皇太后陛下御歌碑の建設   皇太后陛下の癩に関する数々の御仁慈に対し奉りては職員始め患者一同只管恐懼感激措く能はざる処にして殊に曩に下し給へる「つれづれの……」の御歌を拝誦しては厚き御心の程身に滲みて自ら感涙の禁じ難きを覚ゆる次第にして園内適地に此の御歌碑を建設し朝夕之を拝することに依りて……御高徳を偲ぶことを得更に之に依りて常に御心を体し愈一致団結各々其の分を尽し以て鴻恩に応へ奉らんことを期すべく之が建設を計画し居りしが偶々昭和十三年六月二十五日  皇太后陛下御誕辰日に際し患者一同の零細なる醵金に依りて相当の資を得ると共に爾来碑石を物色中の処幸に島内病舎地帯山林中に石材を発見したるが推定重量四千貫あり……職員と共に運搬に着手したる処重症、不自由を除き全患者出動協力一致之に当りたる為予想外の進捗を見僅々数日を出でずして建設予定地たる中央公会堂前に搬入を了へたるが右運搬は碑石建設全工程中最も難事とする所にして職員の指導宜しきを得たると患者の赤誠を籠めたる団結の力に外ならず
  而して御歌の揮毫は予て大谷皇太后宮太夫に依頼しありしを以て之に依り……昭和十四年十月下旬全工程を完了し十一月二十五日……盛大なる除幕式を挙行したり
  碑石 ―― 高さ 一丈三尺、 幅 七尺、  厚さ 二尺  」。  

  小鹿島更生園『昭和十五年年報』の口絵の冒頭には、「皇太后陛下御下賜ノ楓」と「皇太后陛下御下賜ノ楓苗圃ニ仮植」(昭和十五年五月十三日)の二枚の写真が載っている。次ページに「周防園長銅像除幕式」(同年八月二十日)の写真三枚が掲載されていることについては、後述する。本文冒頭の皇太后の記述から紹介しよう(原文はかな文字)。

御下賜金   昭和十五年十一月十一日、紀元二千六百年祝賀の佳辰に際し畏くも 皇太后陛下に於かせられては癩救療事業助成の思召を以て全国十七ケ所の官公私立癩療養所に対し多額の資を御下賜あらせらるゝ旨仰出され当園も此の御恵沢に浴することゝなりたるを以て……右御下賜を以て病舎地帯適地に「修道館」(煉瓦造平屋、建坪五〇坪)を建設し患者をして永久に陛下の御仁慈に浴せしめ以て御思召に副ひ奉るべく計画中の処設計を始め資材の入手其の他諸般の準備完了し不日起工の運びとなりたり。……(二度に亘り)多額の御下賜金を給ひ今回亦此の有難き御仁慈を拝し恐懼感激措く能はず、患者一同此の深厚なる御恵沢に浴し皇国に生を享けたる有難さに感泣せざるものなし」。
皇太后陛下御下賜の楓  昭和十五年五月十日より厚生省に於て開催されたる官公私立癩療養所長の会議に出席中の周防園長に対し五月十三日大宮御所に御召しの御沙汰あり当日園長は恐懼御所に伺候したる所大谷皇太后宮太夫には園長を召され「今回、畏くも  皇太后陛下に於かせられては癩療養所に病を養ふ病者の身上を憐れませ給ふ御深情より楓の実生を小鹿島更生園に御下賜あらせらる」との有難き御沙汰ありて楓実生苗三籠百五十本及御菓子二箱を拝受し園長は恐懼感激して御所を退下し……患者慰安場(公園)の適地に夫々定植を了へたるが此の御下賜の楓は  昭憲皇太后の御印章の若葉に因まされたる御由にして成木の暁は夏は青葉の蔭に遊び秋は紅葉の色を愛でて   昭憲皇太后の御徳を偲ばしめんとの深き思召に出でさせ給ふと漏れ承る、洵に恐れ多き極みなり畏くも  皇太后陛下の御仁慈の広大無辺に亘らせ給ふことは国民の等しく欽仰し奉る所にして殊に癩者の上に憐れみを垂れさせ給ふこと特に厚く……我国に於ては往古  光明皇后御自ら尊き御手を癩者の上に下し給ひし世界に無比無き歴史を有し今又昭和の聖代に於て皇太后陛下より無限の御仁慈を拝す」。

  『昭和十六年年報』冒頭は皇太后の「御写真奉安庫」と「御下賜金ニテ建立ノ修道館」の写真から始る。本文は「皇太后陛下ノ御写真御下賜 」と題するつぎのような内容が、記述されている(原文はかた仮名)。

「昭和十六年七月十五日より厚生省に於て官立癩療養所長会議開催の砌各療養所に対し御思召を以て皇太后陛下の御写真御下賜の趣を拝承周防園長は吉崎事務官、仁田薬剤官、大坂医官等を帯同七月九日小鹿島出発東上す斯くて七月十六日大宮御所より御召に依り各療養所長と共に伺候し御写真を拝受恐懼感激して退下御写真を奉持して帰途につき七月十九日午後三時周防園長は恭しく御写真を捧持して更生園桟橋に帰着  此の日当園全職員小鹿島小学校生徒小鹿島刑務所支所職員愛国婦人会員等全島をあけ奉迎し御写真は直ちに事務本館会議室の奉安殿に奉安し奉戴式を行ひ同五時三十分滞りなく式を終了御写真は予て設備せる奉安庫に無事奉安せり(中略)。
畏くも皇太后陛下の御写真御下賜の御沙汰は全く前例なきことにして斯くも癩患者の身上に深き御軫念を垂れさせ給ふこと恐懼に堪へさる処にして之か職を奉する三百余名の職員の感激は素より入園患者六千のものは此有難き御思召に唯々感泣し厚く御恩恵に対し衷心より感激の情を現し愈々皇国臣民たるの自覚を深め赤誠以て之に酬ひ奉らむことを期し居れり
        奉 戴 式 次 第
一、 一同敬礼
二、 開会の辞
三、 御 開 扉     低頭(君ケ代奏楽)
四、 国歌合唱
五、 奉    拝
六、 御 閉 扉     低頭(君ケ代奏楽)
七、 園長訓話
八、 皇国臣民の誓詞斉誦
       〔「一、我等ハ皇国臣民ナリ  忠誠以テ君国ニ報ゼン……」といった三項         
               目よりなる。注;滝尾〕
九、 閉会の辞
十、 一同敬礼     」。

  以上述べたように、植民地を含む日本の「らい事業」全般に対し皇太后節子(「皇室」)は立ち入ってきたし、光田や周防をはじめとする当時のハンセン病政策推進者たちは、「皇室の御仁慈」を内外にアピールしながら、全面的隔離・統制を強行したのである。朝鮮総督府の「御用新聞」である『毎日新報』や『京城日報』もたびたび、「皇室の御仁慈」を報道した。一九四〇年十一月十三日の『毎日新報』は「皇太后陛下御仁慈/癩予防協会に御下賜金」と報じた。また、『京城日報』も一九四二年十一月十一日に「畏し皇太后陛下/癩療養所(朝鮮二ケ所)に御下賜金」の見出しで、次のような記事を掲載している。

「【東京電話】畏くも皇太后陛下には常に癩救済事業に深く御心を注がせ給ひ、年々有難き御沙汰を賜つてゐるが、十日小泉厚相をはじめ神山復生病院(静岡)身延深敬病院(山梨)待労院(熊本)朝鮮の大邱愛楽園、麗水愛養園ならびに台湾の楽山園の各私設療養団体に対し本年度分継続資金下賜の御沙汰あらせられたので厚生大臣代理灘尾衛生局長、竹内内務省監理局長は十日午前十一時大宮御所に伺候、有難き御下賜金を拝受、恐懼退出、内務省では井阪朝鮮総督府出張所長、島田台湾総督府出張所長にそれぞれ伝達した、度重なるこの有難き御沙汰を拝し小泉厚相、湯澤内相は次の如き謹話を発表した(中略)、
  内務大臣謹話   畏くも皇太后陛下におかせられましては常に癩救療事業に深く御心を注がれ給ひ年々有難き御沙汰を賜つてをりますが、本日またまた朝鮮、台湾における癩救療事業御奨励の特別の思召をもつて朝鮮の大邱愛楽園、麗水愛養園ならびに台湾の楽山園の三私設療養団体に対し本年度分継続資金下賜の御沙汰を拝しましたことは洵に恐懼感激に堪へぬ次第であります、御仁慈に浴しました患者はもとより事業関係者ならびに朝鮮、台湾蒼生の斉しく感泣致すことは申すまでもありません、朝鮮、台湾当局におきましては洪大なる御恵慈に副ひ奉らんがため夙夜事業の充実に努めその成果を収むべく専念力を致してゐる次第でありますが今回重ねてこの有難き御沙汰を拝しましたにつきましてはこの旨直ちに朝鮮および台湾両総督に相伝へ官民協力今後一層事業の完璧をはかりもつて鴻恩の万一に副ひ奉らんことを期す所存であります」。

  第十四回日本癩学会総会は、一九四〇年九月四日より三日間、小鹿島更生園と京城帝国大学医学部を会場に行われた。この年の日本癩学会会長は、周防正季であった。小鹿島で総会(第一日)があった二週間前の同年八月二十日、周防正季銅像除幕式が盛大に行われた。銅像の様子を『昭和十五年年報』小鹿島更生園によって見ていこう。

    銅像は「病舎地帯中央運動場の東方丘陵の中心地」に建てられ、その附近一帯は、「皇太后陛下より御下賜の楓を植栽して御仁慈に浴せしむることゝし……二百二十余日を経て八月十八日竣工」した。「銅像の総高さ三十一尺六寸五分(九・五メートル)、基礎三尺、台石十七尺六寸五分、銅像十一尺、像の重量約七百貫にして台石は岡山県北木島大浦産の御影石に兵庫県印南郡宝殿産の黄龍石を配したるものにして総工費一万二千円、石工二百十九人鳶人足十六人、在園患者の出役三千八百人を要」した。銅像題字は朝鮮総督南 次郎が揮毫し、銅像設計の付随した周囲一帯の工事は、京都山科の一燈園関係者が担当した。総工費一万二千円のうち、六千人の朝鮮人患者より約九千円を醵出させている。
  「結婚しやうとする場合、部落の代表に申出る。代表と代表との話合が行はれて、病舎主任に申出る。主任はそこで園長に届出て許可を仰ぐ。よからうと許可が下れば、神社に参拝してその契りを宣誓し、園長銅像の前に行って感謝の報告をするといふのださうである。勿論そんな場合、本人達の申出によつて断種法は行はれてゐる。」夫婦同居者は、八百五六十組だという(『文化朝鮮』第四巻・第三号、一九四二年五月)。
  周防の銅像は、このように収容患者たちの管理・統制の手段に利用されている。

  第十四回日本癩学会総会は、厚生省予防局、朝鮮総督府警務局、各官公立癩療養所など多数が参加して開催された。「大宮御所」より特に本総会を機とし、皇太后の侍医西川義方が、総会ならびに小鹿島更生園の状況を視察するため、来島した。その時の小鹿島視察報告は、後に西川義方が『朝鮮小鹿島更生園を通じて観たる朝鮮の救癩事業』いう、かなり詳細な内容で冊子(全三十六ページ)に書き残している。
  「皇室の御仁慈」を小鹿島更生園に収容されている朝鮮人ハンセン病患者たちに、どのように話したかについて、この冊子の中に書かれている文に則しながら、つぎに紹介したい。

  私は、周防園長、その他の職員に導かれて、滋賀潔博士と共に、運動場の上の小高い平和の園に立つたのである。後ろには、患者全体の寄附で完成した周防院長の銅像の雄姿も、運動場に向つて立つている。
  運動場には、……患者が居並ぶ。左は男子で、右は女子である。聞けば、四千五百人だ。重症患者と看護や事務に必要なものを除いて、全患者が集合したのである。先づ、宮城遥拝をして、それから、何か私に訓話をせよ、との希望である。……私は、静かに患者に向つた。通訳は、元の名を、呉淳在、今の名の呉堂淳次さんである。呉さんは、看護長で、農業指導をしてゐる人である。(中略)
  「皆さん。皇国臣民として、御互に、茲に、相会ふことの出来ましたことは、 私  
には、いつまでも忘れられない喜であります。(中略)元来、幸といひ、不幸といひ、要するところ、それは凡そ、己れの心の裡、己れの心の底にあるものであります。私達は、皇国臣民としての幸福を、この心の底から、盛り上らせ湧きたぎらせるやうに、いよいよ、ますます、精進せねばならぬのであります。
  ……その上に、進歩した皇国日本の医学の恩沢を、遺憾なく受けてゐられる。このような幸福は、世界いづれの国の癩患者にありませうぞ。
  更に畏多いことは、皇太后陛下から、有難い御仁恵の御思召を、拝戴してゐることであります。而も、勿体ないことには、それが、数次にも渡つてゐるのであります。あの  御歌を拝しますと、「自分が行つて、じきに慰めて遺したい心は、山々であるが、その行くといふことには、事情が許さない自分である。どうか、この自分にかはつて、徒然の友となつて、不幸な人達の心を、慰めてつかはせよ」と、まことをおこめ遊ばした  御心が、勿体なく仰がれるのであります。皇国以外、世界のいづこに、いつに、感激の有難涙抑へ得ない、そのやうな幸福を、享け得た人がありませうぞ。
  どうか、皇国臣民として、更に強く、更に明るい生活を、続けられんことを、熱誠を以て祈願いたします」。

  第十四回日本癩学会総会が小鹿島で開催された九ケ月後の一九四一年六月、看護長佐藤三代治におもねって、園長周防正季の銅像建立を提案・実行した患者代表(顧問)朴順周が、患者李吉龍に刺殺された(李吉龍は刑務所内で自殺)。その事件があった一年後の一九四二年六月二十日、「月例報恩感謝行事」が周防園長の銅像前の運動場で行われた際、同所で、患者李春相によって園長周防正季が刺殺された。
  同年六月二十五日付『東京朝日新聞』は「【京城電話】周防正季小鹿島更生園長不慮の殉職に対し畏くも皇太后陛下には、同園長の生前癩救療事業に尽したる功績を嘉せられとくに祭粢料御下賜の御沙汰あらせられた」と報じた。 患者李吉龍や李春相が向けた刃は、実は 「皇室(皇太后)の御仁慈」に対してではなかったか、そのように思われてならない。皇太后節子は、敗戦間もない一九五一年五月十七日、狭心症で死去した。

  節子の死後、一九五二年六月に「癩予防協会」は解消し、新たに「財団法人藤楓協会」が設立、高松宮宣仁(節子の第三子)が、総裁になった。「藤」は節子の印章であり、「楓」は節子の義母である美子の印章である。
  藤楓協会は、毎年『藤楓だより』という小冊子を出版しているが、「らい予防法」改正問題を特集した「平成七年度」版(一九九五年六月発行)を見ると、冒頭に節子の写真を掲載し、つぎのような記事を載せている。
 「高松宮記念ハンセン病資料館が開館してはや二年。増えてきた若い見学者たちは、差別と偏見にあえいだ苦難の歴史をはじめて知ったといい、患者への皇室のご仁慈に深い感銘を受けております」。
   日本では、ハンセン病資料館を見た「若い見学者たちは、……患者への皇室のご仁慈に深い感銘を受けて」いると知ったなら、韓国小鹿島のハラボジ・ハルモニたちは、いったい何をいうだろうか。

                                                      (一九九九・五・一七  記)