[日本・朝鮮近代ハンセン病史・考 P] 


小鹿島のハンセン病患者の生活と労働

滝  尾  英  二
(人権図書館・広島青丘文庫主宰)


  一九三九年十二月七日、小鹿島更生園長周防正季は、政務総監大野緑一郎あてに次のような書簡を送った。

    「謹啓  歳末の候と相成議会を前ニして御多忙の事と拝察申上候、何卒時分柄御自愛 
    専一ニ祈上候、 過去七ヶ年の工事も無事ニ終り世界一の療養所を完成、鮮内患者も二
    十年の後は解決致し得る見込も立ち、是程喜はしき事無之候、是れ一重ニ閣下の御配慮   の賜ものニて、全鮮として亦局二当る私共として感謝此上の事無之候厚く御礼申上候、      
    完成式ニは局長御派遣被下盛大ニ無事終了致し是亦御礼申上候   
    乱筆ながら書中御礼申上候  草々不一
      十二月七日       周防正季
    大野緑一郎様  玉机
      二伸
    甚だ粗果ニ候へ共、近日黄海道□□果樹園より林檎壱箱送附を申付け置き候間御笑納
    御子様方ニ御覧ニ入れ申候、末筆ながら皆々様ニよろしく御伝被下度候  家族一同」。

  一九四一年五月二十日、小鹿島更生園創立二十五周年記念式が行われ、大野政務総監、その他多数の来賓が出席した。園長周防正季は「式辞」として、次のように述べた。

    「……昭和七年十二月、財団法人朝鮮癩予防協会設立セラレ、小鹿島全島ヲ買収シ翌
    八年大拡張ノ工ヲ起シ爾来六年去ル昭和十四年十月予定ノ全工事ヲ完了シ、収容定員
    一躍五千七百七十名トナリ現在収容総数六千名ノ多キニ達シ、而モ内容外観共ニ充実
    シ、園内ノ空気一新シテ真ニ理想的楽園ヲ形成スルニ至レリ」。

  
  周防正季園長のいうように、小鹿島更生園は果して「世界一の療養所」であり、「園内ノ空気一新シテ真ニ理想的楽園」であったのか。小鹿島に隔離・収容されたハンセン病患者の生活と労働の実情をみていくなかで、明かにしていきたいと思う。
 
  小鹿島更生園『昭和十六年年報』の「第五 患者ノ状況」等に書かれた記述によって見ていくと、次のようになっている。

  「病室竝ニ日常ノ生活状況」は、軽症患者を収容する普通病舎と、重症・不自由患者を収容する重症病舎の二つにわかれている。周防園長による大拡張工事以前の普通病舎は、一舎一室に五人を入れていたが、一九三四年度以降新築の普通病舎は一棟四室で四十から四十八人を収容し、地勢の関係上一棟二室二十人収容のものもあった。更に、夫婦同棲患者の為、一棟六室十二人収容の病舎も新設された。

  『年報』は「重症全部及不自由患者ノ大部分ハ之ヲ中央病舎ニ収容シ重症ニハ一人ニ対シ一人ノ軽症者ヲ又不自由室ニハ盲目或ハ四肢不具等自由ヲ弁ジ得ザル者ヲ収容シ患者二人乃至三人ニ対シ軽症者一人ヲ附添ハシメ以テ日常ヲ看護処理セシメツツアリ」と記述されている。西川義方『朝鮮小鹿島更生園を通して観たる朝鮮の救癩事業』によると、一九四〇年当時「全盲」は三百八十人であったという。
   一部屋に十人以上もの患者を収容し、その上、重症患者や不自由患者の日常の看護・附添を軽症患者にさせたことに問題である。当時、収容した患者数六千人に対し、職員数はきわめて少なく、一九四一年についてみると、わずか二七九人に過ぎない。内訳は、医官・医員十一人、薬剤官・薬剤手六人、看護婦・看護人(日本人五十九、朝鮮人七十二)百三十一人などとなっている。園長周防正季が小鹿島更生園を「世界一の療養所」・「理想的楽園」だといくら豪語しても、医療内容の伴わない療養所は、単なる強制収容所に過ぎない。
  西川義方の「前掲書」では、「朝鮮の更生園の開園以来の死亡患者千三十四名の死因(昭和十四年調査)を見ると、(一)結核は第一位を占めて二六七名……周防園長の話では、結核死は八〇%である。それから、癩者は、一般に肺炎には弱い。感冒が流行すると、ばたばたと死亡して行くといふ。斯様に結核死の多いといふことは、集団生活の密度にも原因してゐたことであらう。古い療養院ほど、結核死が多いやうである」と述べている。西川義方は、皇太后の侍医で医学博士である。

  花井善吉二代院長時代より一人一日の主食定量は、患者は男子白米三合と桜麦・粟計三合(合計六合)、女子白米二合五勺と桜麦・粟計二合五勺(合計五合)と決められていた。食物は患者の物質的慰安として最も重要なものである。ところが、園当局におもねる患者代表朴順周などの提唱によって、一九三八年の「紀元節(二月十一日)」から患者一人一日五勺を減量した。そのために、園当局は年二万円の余裕を生じたのである。「癩療養所の一人一日分の食費は、昭和十五年現在、内地では、国立療養所では二十六銭、府県立療養所(全生)では二十二銭五厘(昭和十年は十九銭五厘)であるが、朝鮮のこの更生園では、以前は十五銭七厘、昭和十三年は十七銭九厘、昭和十四年には二十一銭九厘となってゐたのである」(西川義方『前掲書』)。
 
  『年報』に記述されている小鹿島更生園の建物一覧をみると、精神病舎及監禁室五一・九一坪(一七一平方メートル)、附属煉瓦塀七七・九七坪(二七五平方メートル)、女監房一三・七八坪、男監房六八・九一坪(計二七三平方メートル)とある。更に、西川義方『前掲書』をみると、小鹿島にある建物として「刑務所」のことが書かれている。
   
    「治刑及救癩を目的とする特別の刑務所が、園内に設立されてゐる(中略)。
  煉瓦造の庁舎の他に、三九九坪(一三一七平方メートル)の建坪で、現在の監房数は、十二室、男子は、監房雑居七名、独居三名であり、女子は、監房雑居一名、監房雑居一名である。
   昭和十年に開庁されてから、十五年九月一日までの収監者数は、二百三十八名で、内、刑期を了へて出所したものは、二百四名だから、現在は三十四名である。監守は、男子十名、女子一名である。二千坪の転耕地で働いたり、草履や、網を、編んだり作業をさせて、無聊を慰めてゐるのである。(中略)釈放されたものは、総て小鹿島更生園に収容されつゝあるのである。中には、相当不良の徒輩もあるけれども、他の普通患者と区別することなく、常に、強力な指導を加へて、其の改過遷善を促し、療養に努めつゝある」。

  つづいて、小鹿島に収容されたハンセン病患者の労働について見ていくことにしよう。
(一)土木工事      
  第一期拡張工事においては、「職員地帯」の土木工事は普通人夫を使用したが、「患者地帯」は主として患者の労力に依ったため、軽症病舎、各種附属建物、公会堂、刑務所、運動場等の敷地工事の全部及び道路並びに埋立工事の大部分は患者の手に依り行われた。また、患者地帯における煉瓦、木材、栗石、砂利、砂等建築材料の陸揚または運搬、基礎コンクリート工事、各病舎の温突貼り等もまた大部分は患者の就役であり、また、煉瓦製造も出役し、その出役総延人員は九万八千余人におよんだ。就役した患者に対しては、僅少な作業手当が支給された(『朝鮮癩予防協会事業概要』一九三五年十月)。
  第二・第三期工事では、鐘楼(一九三六年九月)、納骨堂(一九三七年九月)、灯台(同年十月)、病舎地帯桟橋工事(一九三九年十月)、皇太后歌碑(同年十一月)などの建設が患者の作業で行われた。

  『昭和十六年年報』によると、「今次事変(日中全面戦争)ノ進展ニ伴ヒ各方面ニ深刻ナル影響ヲ及ボシ物資ノ供給愈々困難トナリ当園内需要物資ノ入手ニ就テモ大ナル支障ヲ来スニ至リシヲ以テ患者ノ作業ニ依リ園内ニ於テ生産シ得ル物資ハ自給自足ヲ計リ更ニ進ンデ園外ノ需要ニモ応ズルコトトシ木炭ノ製造、肥料用叺ノ製織、煉瓦ノ製造、粗製松脂ノ採取、兎毛皮ノ製出等ヲ為シ居レルガ何レモ地方ヨリノ需要旺ニシテ相当多量ノ供給ヲ行ヒツツアリ」とある。このことについて、いま少し問題を掘り下げてみよう。

(二)製炭事業
  小鹿島更生園では、毎年相当多量の木炭を購入していたが、一九四〇年頃になると、木炭の入手が、すこぶる困難となったので、朝鮮癩予防協会の事業として、収容患者の作業による木炭の自給自足を計った。同時に、園外の需要にも応じることとし、全羅南道山林課から派遣された技術員の指導に依って、炭焼窯六基を築造し、附近の島嶼地帯の森林より入手した炭材で一九四〇年十一月九日から試験的に製炭を開始した。ところが、その成績がきわめて良く、園外よりの需要も盛んなので、四〇年度には、更に炭焼窯十二基を増築し、将来は三十基まで築設すべく努力中で、年産約三万俵の生産を行い、その大部分を地方に供給するよう計画中であるという。
  なお、小鹿島更生園長西亀三圭が長島愛生園長光田健輔に送った手紙が、『愛生』一九四四年四月号に載っている。戦争末期の小鹿島の状況を知る貴重な資料であるが、それによると、「炭俵製造 約二万枚生産予定(地方の需要)、木炭製造 主として自家用、数量未定、松脂採取 十八年度約二百缶」と記述されている。木炭製造の落込みを感じさせる。

(三)叺(かます)の製造 
 『昭和十五年年報』の記述を要約すれば、次のようになる。
  従来、収容患者の作業に対しては、それを奨励するいみで、僅少ながら作業賃を支給(日額二銭乃至五銭)し、患者はこれを貯めて小遣銭に当てていた。しかし、この給与は主として軽症で働くことが可能な患者に偏在し、一部不自由者(障害者)に対しては養兎を奨励して、その欠陥を補ってきたが、近時、時局の影響に伴って、叺の需要が激増したのを機に、叺の製織作業を主として、不自由患者にこれを行わせ、作業賃金関係の欠陥を補足するとともに、一面においては当局の奨励生産品の充足の一端になるよう計画し、全羅南道当局とも打合の結果、時局柄最も好適の目論見であるとして、賛意を得たので、昭和十六年中に差当り肥料用叺三十万枚を製造すべく、技術員を聘し在園者に指導をした。
  叺の製造作業は、主として外部作業に当り得ない不自由者及び女性患者に従事させた。既に製織機五百台の準備を終わり、材料である藁の入手も大体順調に進捗したので、昭和十六年二月より本格的製造に着手し、前述の目標数量の製織に向って努力中である。

(四)松脂の採取
  松脂は軍需その他の資材として、相当用途が多く、殊に日中戦争以来その需要は特に著しいものがあり、松脂の採取に関しては、国策的に奨励せられている。小鹿島更生園の病舎地帯には採取に適する樹齢の松樹が茂る広範囲の山林があり、昭和十四年以来、松脂の採取を行ってきた。年々約六千キログラムの粗製松脂を生産し、これを全羅南道山林会を経て需要会社に供給し、今後も継続実施の予定である。

(五)兎毛皮の生産
  小鹿島更生園の収容患者が食用並びに日常慰安のため、飼育していた家兎は数千頭を数え、この兎を屠殺に際し、毛皮は全く顧みるところなく脱毛の上、皮肉は全くかえりみることなく脱毛の上、皮肉ともに食用に供されていたが、日中戦争(一九三七年)以来、兎毛皮は軍需品として、相当重要な地位を占め、多量の需要があるに鑑み、屠殺の都度完全に剥皮させて、規格に適合する製法に依り、消毒保存し、年々約千五百枚を当局に供出するようになった。『愛生』一九四四年四月号に西亀園長の「小鹿島更生園近況」によると、養兎は「飼育数五千頭以上なるも内三千頭分毛皮は軍需に供出、肉は患者食用」とある。

(六)煉瓦の製造
  一九三八年以来、六ケ年にわたる小鹿島更生園の拡張工事に際し、建物はすべて煉瓦造とした為、莫大な煉瓦が必要になった。しかし、近隣にその生産地がなく、これを遠隔地から買い求めるとなると、多数の日時と多額の輸送費を要し、一方建築工事は、急増する患者の収容上急速な進捗を必要とした。そこで、園内に工場を設置し煉瓦の自給自足を計ることとし、土質調査の結果、豊富な原料土があることが分った。そこで、技術者を聘して焼窯を築設し、一九三三年十二月より煉瓦の製造を開始した。これが、園内における煉瓦製造の始まりである。
  爾来、一九三九年末に至る満六ヶ年間に建設した患者六千名の収容病舎を始め、事務・治療両本館、各種の倉庫、職員三百名の官舎その他、総べての建築物は全部園内で生産した煉瓦を使用した。煉瓦製造の就労は軽症患者をあてた。拡張工事後半以降は、技術職員の監督の下に殆ど患者が製作したものである。
  以上のように、島内の殆ど全地域のわたる莫大な建物は、患者が製造した煉瓦でつくられたものである。この園内で生産の煉瓦は南部朝鮮地方各地から、頻繁な需要があり、殊に、大陸侵略戦争の影響による物資欠乏の深刻化にともない、需要が特に激増したため、一九四〇年現在の年産百四十万個の製造能力をもってしても、到底供給が困難の状態にあったと、『昭和十五年年報』は報じている。

  朝鮮総督府鉄道局内・東亜旅行社朝鮮支部発行『文化朝鮮』第四巻・第三号(一九四二年五月)は、「小鹿島更生園」を特輯している。その掲載記事に相馬美知「小鹿島更生園訪問記」があり、そのなかで、保導課長高橋留之進や庶務課長横川基が、小鹿島更生園の収容患者の労働について語っている。その語りを通して、小鹿島へ収容されたハンセン病患者の過酷な労働の一端にふれてみたいと思う。

  自動車は、東生里病舎の方へ上つてゆく。眼下に海が展けた。静かな春の海である。下つて東生里桟橋に出た。
  「この桟橋も患者の手で造つたのです。請負に頼めば十五万円かゝるといふのです
  が、それを僅か四箇月で竣工したのです。」
といひながら、横川さんは自動車に停車を命じた。
  「……昨日から高興郡の豆源面に、六千叺の籾を受取りに出かけてゐますが、今日              
  午後四時に帰つて来ますから一つその勤労力を見て下さい。」と。  (中略)

  船はいよいよ桟橋に着いた。船から総指揮官の高橋保導課長が、意気揚々と上つて来られた。……船の叺が、一人々々の背にしよはれて運び揚げられ、精米所に運搬される。何百人といふ癩者の列、すれはちつとも癩などゝ考へられない壮者の列である。それがずつと海岸へつゞく。凄まじい壮観である。誰一人愚図々々してゐない。きびきびしい活動である。高橋さんはその活動の前で語るのであつた。
「患者の治療にとつて、精神の転換といふことが重要です。勤労による救ひ――そこにこの更生園の特色があります。病気といふことを忘れさせることです。今年も叺十万枚、木炭三万俵、煉瓦百七十万枚、松脂六千瓩、兎毛皮五千枚、この毛皮製造は重症者の仕事になつてゐますが――癩は動物には伝染しませんし、またすべては立派に消毒して出します。――随分な勤労実績ですが、それをねらつてやつてゐます。その労働力は陸の人夫の三倍半ありますよ。叺二俵、それは約三十貫(約百十三キログラム)ですが、それを一人で担ぐ。さうして三十町を運んで、船にのせる。これは全く精神力です。感謝観念の力なのです。」

  一九三四年十月から一九四一年九月までの七年間、小鹿島更生園の庶務課長を勤めた吉崎達美は『朝鮮の救癩事業と小鹿島更生園』友邦協会(一九六七年)に掲載した「小鹿島更生園の建設及び運営について」のなかで、次のような回想をしている。

「患者の不満とするところを挙げれば、島外と自由な交流ができないこと、信書が消毒の際検閲される疑いのあつたこと、給与される衣服が白色でなく鼠色であつたこと、及び神社参拝が励行させられたことであろうかと存じます。患者には多くのキリスト教信者もありましたから、患者の精神指導を神社崇敬によつて行なおうとする園の方針には、若干の抵抗もありました……」。
「手足切断などのため身体不自由の患者は、重症病棟に収容され、軽症患者が付添いとなり、食事、用便等一切の看護をしておりました。この付添いには看護手当を与えるのですが、多くはこの付添いとなることを嫌い、唯キリスト教を信仰する者だけが長期に亘り、重症者、身体不自由者の世話を引受けるような実状でありました。」

  小鹿島更生園長・周防正季は、同園を「世界一の療養所を完成」と政務総監大野緑一郎に書簡を送っている。第三期拡張工事の完了により、小鹿島更生園は敷地総面積百四十八万七千五百九十五坪(約四百九十一万平方メイトル)、一九四〇年末現在々園患者総数六千百三十七名、煉瓦造の巨大な施設を誇る療養所が完成したことに間違いない。しかし、周防が「創立二十五周年記念式」で述べたような「真ニ理想的楽園ヲ形成スルニ至レリ」には程遠く、「世界一の療養所を完成」は、収容患者にとって、差別からくる悲惨さを救済することとはならなかった。 
  かつて、朝鮮癩病根絶策研究会趣旨文のいう「隔離するには、その安全と慰安及び医療がなくてはならず、これには予防と救済の二つが欠かすことが出来ない」という精神を、この小鹿島更生園の「救癩事業」から見出すことは困難といえよう。