不二出版「植民地下朝鮮におけるハンセン病資料集成」  第3巻

解説――朝鮮総督府の「癩」政策と患者殺戮


滝尾 英二

総務處政府記録保存所と朝鮮総督府文書

第8巻に収録した朝鮮総督府関係文書は、ソウルと釜山の二箇所にある「総務處政府記録保存所」にある所蔵資料を複写したものである。ソウルにある総務處政府記録保存所は、景福宮の正面にある光化門から北西に歩いて約10分、孝子路に沿った西側に建つ五階建ての白亜の建物である。釜山にある同所は、釜山市内中央から北方の東莱区へ行くと厳重な警備された建物である。両保存所とも閲覧できるのは、原本から作成されたマイクロフイルムである。

 政府記録保存文書は、朝鮮が日本植民地支配期に関していえば「総括目録」第一輯から第三輯と三冊あり、「索引目録」は第一輯のTからZまで七冊あり、計十冊から成っている(一九七四〜八四年に発行)。一冊の目録は、一〇〇〇ページ前後の大部な冊子で、「日帝期」に関する資料は膨大に存在する。「癩」政策に関する資料は「索引目録」は第一輯の第七巻「日政時代」文書編(一九八四年発行)の第二編の第九章「保健社会」の保健の項に「小鹿島慈恵医院関係書類」(檀紀四二五八〜四二六七年衛生種記録第四四号)「自大正十四年〜至昭和九年小鹿島慈恵医院関係綴・衛生課」が収録されている。生産機関名は「総督府」である。
この綴りは、索引に、「大正十四年六・一八、全南知事発・政務総監宛『小鹿島慈恵医院収容人員増加及ヒ経費ニ関スル件』」、「大正十五年二・二三、警務局長発・内務局長宛『小鹿島慈恵医院敷地買収ニ関スル件』」など三十九の件名が記載されている朝鮮総督府の行政文書である。各件名は、更に細かく起案書や報告書などにより成り立っている。総督府の中で、誰が起案者であり誰が決済しているかが、その起案書や報告書などで知ることが可能である。第八章・建築の項には「一九二九年小鹿島慈恵医院病舎其他新築工事関係綴」が収録されている。
更に、総督府の内務局地方課の「昭和八年地方庁予算関係綴」も政府記録保存所の「日政時代」文書編には収録されている。件名としては、総督府の「内務局長発・全羅南道知事宛『癩療養所用地買収ニ伴フ経費予算配付ノ件・通牒(対四月五日附)』」の起案書、「昭和八年四月五日、全羅南道知事発・内務局長宛『癩療養所用地買収ニ伴フ経費予算配付ノ件』」の報告文である。これらは、一九三三年に朝鮮癩予防協会が、大規模なハンセン病療養(収容)所を設立するため小鹿島全島を買収した時の行政文書である。

いま、私たちがハンセン病関係の朝鮮総督府行政文書を見ることのできるのは、限られたものである。これら総督府文書は、一九五〇年六月二五日未明、北朝鮮軍が三八度線をこえて南へ進撃して朝鮮戦争が勃発する中を、ソウルにあった朝鮮総督府行政文書を、戦火をくぐって南部の釜山まで運ばれたものである。その後、文書が収納された保管の建物の一部が消失している上、現在、原本は釜山の総務處政府記録保存所に保管され、それを私たちは原本をみることは出来ず、マイクロフイルムとされたものを閲覧することが出来るだけで、総ての朝鮮総督府行政文書をみらたというわけではない。しかしながら、その一部だけではあるけれども、ハンセン病関係の朝鮮総督府行政文書を見ることが出来た。
現在、わが国では過去の歴史にさかのぼってハンセン病患者の隔離政策などの真相究明のため、厚生労働省が設置した第三者機関「ハンセン病問題検証会議(座長・金平輝子元東京都副知事、十三人)」が真相究明をしているという。ここで、日本政府が所蔵しているはずの戦前・戦後を通した「行政が所蔵する起案書や報告文書」などが、政府(厚生労働省)から提出されて、真相究明が検討なされているのだろうか。


小鹿島の拡張工事と島民の反対闘争

 一九一六年二月、朝鮮総督府はハンセン病療養所として官立の全羅南道小鹿島慈恵医院を開設したが、それ以後、二度にわたり大規模な拡張工事とそれに伴う島民からの土地取り上げを強行した。一度目は一九二六年の第二代園長・花井善吉の時代である。二度目は一九三三年の朝鮮癩予防協会による小鹿島の全島の買収と島民の全島外の移転、第四代園長・周防正季による同三三年九月から第一期工事着工、一九三九年十一月に完了した第三期工事によって拡張工事計画は終了する。収容患者数六千名余、収容人員は世界一のハンセン病療養所となった(『〜資料集成』第2巻・資料2=昭和十四年年報、参照)。
 本巻は、ハンセン病関係の朝鮮総督府行政文書のうち、主として一九二六年の島民からの土地取り上げ資料を収録した。本『〜資料集成』第4巻の一九二六年九月から十月の新聞記事以外には、資料は収集していない。二度目の朝鮮癩予防協会による小鹿島の全島の買収と島民の全島外の移転については、本『〜資料集成』の第6巻へかなりの資料を収録した。

 本『〜資料集成』解説者は、長島愛生園慰安会発行の『愛生』誌の一九九七年第三号と第四号において、「小鹿島慈恵医院拡張による土地取上げと島民の反対闘争――一九二六年の場合(上)、(下)」として掲載した。のち、この論考は、加筆・訂正されて『朝鮮ハンセン病史――日本植民地下の小鹿島』(未來社二〇〇一年発行)に収録した。
 従来は、大韓癩管理協会『韓国癩病史』(一九八八年発行)が記述するように、「‥‥拡張事業に着手した花井院長は、現地住民の目をそらすために、月夜を利用し技術者とともに土地を実施した。しかし、秘密は守ることが出来ず、拡張事業計画は露出され、これに反撥した住民たちは院長自宅に押し寄せ、強力に抗議し、計画破棄を要求した」(原文は韓国語)ということとされていた。
 しかし、この度、『〜資料集成』第8巻に収録した朝鮮総督府行政文書にみるように、この島民の土地取上げと施設の拡張工事は、朝鮮総督府中枢の首脳たちが全羅南道の地方官に指示・命令して、強行したものであり、それに反対する小鹿島の農漁民の闘争に対して弾圧した事件であった。
 たしかに初代園長・蟻川 享は「武断政治期」の植民地医療を実施して朝鮮の生活習慣の身についたハンセン病患者たちに日本式生活様式を強制し、患者の自由を奪った。しかし、蟻川に代わった第二代園長の花井は、サ三ミ・ル一独立運動(一九一九年)の後の朝鮮総督・斎藤実による「文化政治期」(一九二〇年代)を反映し、朝鮮総督府の朝鮮支配に抵触しない範囲で、「癩」政策医療を行ったのである。その場合、朝鮮ブルジョアジー、地主などの有力者たちを取り込んだ。「文化政治」の基本は民族運動を分断・弱体化を図り、植民地支配を維持することをこの一九二六年の花井善吉園長時代に行われた「小鹿島慈恵医院拡張による土地取上げと島民の反対闘争」に関する総督府行政文書を読むなかで、痛感せざるを得なかった。
 
ハンセン病患者の殺戮

 『〜資料集成』第8巻の資料にはまた、一九四五年八月の朝鮮解放後に書かれた手記や聞き取り五編を収録した。収集した資料は、戦争中のきわめて厳しく管理・統制された小鹿島の入所していた患者たちの生活と労働の実態を語る手記、および一九四五年八月二一日に行われた日本当局が朝鮮人を職員として採用した者たちの手で、自治会員を中心として患者たち八四名の大殺戮が行なわれた事件に関するものである。森田芳夫は自著『朝鮮終戦の記録』巌南堂(一九六四年)には、『同和』第七〇号に掲載された第五代小鹿島更生園長を務めた西亀三圭の「終戦当時の小鹿島」という記録に依りながら、次のような記述を行っている。

――(前略)朝鮮職員が自分の手で更生園を経営しようとするのに対して、患者(朝鮮人)側は、自治委員会の名の下に、みずから経営する方針をたてて、二〇条にわたる主張をして譲らなかった。十九日に小鹿島刑務所にいた受刑者七〇名が脱獄し、一般患者とともに、朝鮮人職員を襲撃した。朝鮮人職員はのがれて、対岸に救いを求めたので、武装した朝鮮人がはせつけて暴動する患者に対して発砲したために患者側の犠牲者は数十名に上ったという。

ムンドンンイ詩人・ハン韓ハ何ウン雲(一九一九〜七五年)は「韓国癩患者虐殺史」のなかで、「‥‥祖国が解放・光復した天空のもと、同民族のライ患者が無辜に虐殺されたばかりか、歴とした法治国家であるこの国において、何らの法的制裁も科せられなかった。これは、『ライ病人殺して殺人だと』という呆れんばかりの古い諺を弄んでいるかのようである。(中略)無慈悲な虐殺を、全人類の前に残忍なる事実として公開することによりその慰霊を果たさんとする」と述べている(『〜資料集成』第8巻所収資料ふぬ)。

この患者殺戮事件について第五代園長・西亀三圭ら日本人職員がどう関与したかの真相は明らかでない。しかし、森田芳夫著『朝鮮終戦の記録』の記述を読むと、小鹿島更正園長西亀三圭や朝鮮総督府行政当局が無責任であったといえるのではなかろうか。

――二十二日に日本軍が出動して、騒ぎはようやく静まった。その間、在島日本人約二百名は公会堂に集結して、事件にまきこまれず、犠牲者もなかった。二十四日に日本軍が撤退する際に、日本人は軍と行動をともにし、筏橋を経由して麗水に出て引き揚げた。

日本人職員たちの「いのちの安全」の確保ははかっても、患者たちの「安全と治安確保」については西亀の念頭にはなかった。当時、朝鮮南部の日本軍、警察の力は未だ健在であった。だから、「二十二日に日本軍が出動して、騒ぎはようやく静まった」のであろう。ところで、なぜ、前日の八月二一日に、患者たち八四名が虐殺された時、小鹿島療養所に入所している患者の生命を守るという措置がなぜとられなかったのか。患者たちを虐殺した朝鮮人職員たちは、西亀園長が総督府と図って採用した人たちである。直接、日本人が患者虐殺に手を貸さなくても、園長西亀三圭らの責任は免れることは出来ない。また、朝鮮総督府の「癩」政策の当然の帰着であったといえよう。

 哀恨之追慕碑

二〇〇二年の八月六日から九日まで、私は小鹿島で行われた大邱に事務局のある市民団体「チャムギル」が主催するボランティア活動に参加した。その最終日の八月九日に小鹿島入所者自治会の姜大市(カンデシ)会長から、八月二二日に自治会が主催して行う「哀恨之追慕碑」除幕式参加の正式要請を受けた。
「哀恨之追慕碑」は小鹿島病院本館前に建てられ、その除幕式は二二日午前一〇時より挙行された。車椅子に乗り付き添われた人、白い杖をつく失明した人、両脇に松葉杖を使う人、それらの入所者に付き添う小鹿島病院の職員たち、来賓として招待された人たちと併せて二百名ほどが、「哀恨之追慕碑」除幕式に参列した。当日、日本から来たのは私一人だった。
小鹿島中央教会の牧師のお祈りで除幕式は始まった。姜大市自治会長、小鹿島病院長、韓星協同会長チャムギルの・チョン鄭 ハク鶴理事長など各界の参列者のあいさつがあり、その後、看護師(女性)から虐殺された自治委員たち八四名の名前が読み上げられた。除幕する綱引きは、私もやらせていただいた。大きな「哀恨之追慕碑」には、虐殺された八四名の名前が刻まれていた。

 「哀恨之追慕碑」除幕式でのチャムギル代表・鄭 鶴理事長のあいさつは、非常に感動的なものであった。次にその挨拶内容を紹介したい。

まず、今日のこの意義深い除幕式が行われるまで、もしかしたら歴史の蔭に埋もれてしまったかも知れない真実を悟らせてくれた小鹿島の自治会のカンデシ(姜大市)会長をはじめ、患友のみなさま、そして韓星協同会の会長と関係者のみなさま、殊に小鹿島病院の院長と職員のみなさまに、より感謝致します。
 思えば半世紀前に、ここで行われたその日の惨状は、今でもわれわれを戦慄させます。それほど長く、かつ酷かった日帝の暗闇を耐え拔き、やっと迎えた希望にみちた解放の初日を、痛恨の殺戮による血で染めてしまったその日の記憶は、その時にそのように倒れ去った八四人の霊魂とともに、未だにこの地の平和を渇望する全ての人々の胸に、消すことのできないハン(恨)のせせらぎとなって流れています。
 今日、われわれはこの悲劇の現場に石碑ひとつ刻み立て、とうていこの地の言葉では慰めようのない彼らの魂を鎭魂しようとしております。目に見えるものを評価するのは、そのように目に見えたものが過ぎ去った後にも、永遠に残っている、目に見えないものであります。ですから、その日の惨状の痕跡をさがし、その絶叫の意味を反芻してみようと思います。
 全ての人間は「生命」以外のものによって区分されてはなりません。したがって、「生命」以後になされるすべての人間のわざは、互いに分かち合い、互いに仕えることでなければなりません。そして、その「生命」を踏みにじって何かを得ようとする如何なるわざも、決して赦されるべきものではないということを、われわれはこの涙の島で悟らなければなりません。再びこの地で、このようなとんでもない蛮行が起きないよう、残っているわれわれは正義に則った生活を営んでいくことを、改めて彼らの霊前に頭を下げて誓います。

 いつかわれわれもこの地を去り、涙の無いところで彼らに会った時、われわれの手が血で染まっていないよう、そして貪欲の河を所望で渡り、悲しい隣人の涙で濡れた愛のハンカチを見せてあげることのできるよう、仕えの道を行こうと思います。その残酷の夏、この場所で息絶えた彼らの開けたままの目を、今日、このように悔恨の手をさしのべて眠りにつかせながら、海風に沁みついている生臭さを感じます。

 世の中には十字架を背負って生きている人がいるかと思うと、その十字架に乗って生きていく人もいます。つらい荷を背負って行く十字架の人のお陰で幸せを満喫する悦楽の人もいます。わけもなく虐められる人々は、十字架を背負って生きる苦難の人々です。その荊棘の道を生きた名もない人々のお陰で、今日もわれわれは日常の幸せを享受しております。
 五七年前の今日、ここで倒れた八四人の方々も、そのように十字架を背負って生きた人々です。
 最後に、改めて今日の除幕式が行われるまで、助けてくださった皆さまに深く感謝すると共に、特に遠い日本からお越し頂いた滝尾英二先生に心より御礼申し上げます。
 ありがとうございました。                       (訳・金在浩)

除幕式が終った頃、急に天気が悪くなり雨が降り始めた。自治会室に帰った姜大市自治会長が小さな声で「この雨は、なみだ雨さ!」と呟かれたのが、とても印象的だった。

本『〜資料集成』第8巻には、戦争中の小鹿島の患者の手記を収録している。それは二〇〇二年三月に聞き取りした七七歳になるハルモニが、押入れの行李の中から出してくれた手記である。このハルモニは、解放直後に起きた八月二一日の大虐殺事件の体験の私の問いに答えて、「私は自室にいたので直接、殺害現場は見ていないが、中央公園あたりから松根油で人びとが焼かれる煙の強い匂いがしたことを、今でも記憶しています」、と答えてくれた。
拙著『朝鮮ハンセン病史――日本植民地下の小鹿島』未來社(二〇〇一年)「補考1 小鹿島病院入園者の証言」として、四名の方々のインタビューを載せている。一九九七年一二月にTBS(東京放送)のディレクターと共にインタビューしたハラボジ・ハルモニの証言である。そのなかで、現在失明していたハラボジのひとり(当時七〇歳)は一三歳のとき、蒔き用にと職員に無断で木の小枝を切ったというだけで、処罰として監禁室に入れられ、そこから出された時に、「断種手術」を受けていた。そのハラボジは、面接室に入るといきなり袴下を脱ぎ、股間を私に見せるのだった。その白い肌に、今なお無残に残る傷跡は五〇数年前、日本が侵した非人間性・残虐性の「告発」だと思われた。
この手記で窺われることは、まさに、朝鮮総督府の「癩」政策によるハンセン病患者の「殺戮の事実」である。小鹿島更生園における患者への強制労働と、強制された断種・堕胎については、『〜資料集成』第3巻の「解説」で叙述した。本巻の「解説」では、「食・住」つまり手記にみられるような、収容患者の食料欠乏とそれによる栄養失調、体力の衰弱が要因しての病状悪化・死亡の問題と住居の問題を考えてみる。小鹿島更生園収容患者の死亡率(%)は、戦争の進行とともに悪化してくる。

 

                         未来社発行の拙著『朝鮮ハンセン病史』195p〔表4〕

 

飢えと、飢えに伴う疾病が死亡率を高めていった。皇太后節子の侍従医をつとめていた西川義方は『朝鮮小鹿島更生園を通して観たる朝鮮の救癩事業』(一九四〇年)(第6巻所収)のなかで、小鹿島ハンセン病患者の死亡要因について、次のように述べている。

――‥‥周防園長の話では、結核死は八〇%である。それから、癩者は、一般に肺炎には弱い。感冒が流行すると、ばたばたと死亡して行くという。斯様に結核死の多いといふことは、集団生活の密度にも原因してゐたことであろう。

一九四五年の死亡率は、小鹿島更生園在園者数四四一六名中、死亡者数九三一名、死亡率は二一・〇八%に及んだ。長島愛生園では、一九四五年の収容患者死亡率が二二%を越えたことについて光田健輔園長は、その死亡要因を「栄養に就ては戦争中の栄養不良が影響し」たことを認めている(『光田健輔・癩に関する論文、第三輯』一九五〇年)。