第二章 楓蔭寮・楓蔭会と愛生学園の子供たち
    
                                                                                                                                                                                                                                                                                 
第一節  養護児童(「未感染児童」)の保育の概況

 ハンセン病療養所に入所してくる患者(父母たち)が子供を持つ場合、同伴していた児童や、療養所内で出産した児童で、健康な児童を「未感染児童」とよぶ習わしがあった。内田守著『熊本県社会事業史稿』(一九六五年)には、この子供たちは、ハンセン病患者の親たちと同居して生活し、療養所の統計表には、「携帯児」として表わされていた(浜砂美幸著「未感染児童と呼ばれた子供たち――龍田寮の歴史を通して」(一九九九年一月)二ページ。「携帯児」すなわち「未感染児童」は、財団法人藤楓協会編集・発行『創立三十周年誌』(一九八三年)
によれば、「この病が伝染病である建前からすれば、病気の親と同居している間に感染の機会が充分にあったと考えられ一定の期間の発病観察が予防上必要であるとされたから、その観察中の児童を未感染児童と呼んだのであるが、(中略)この用語はこれらの児童の将来に大きな悪影響を与えるとともに、当初の一定の期間の観察が無条件に延長せざるを得ない条件がつくられていた。こうして、これらの児童は発病せずに健康に育っていったが、その就職、教育、結婚等には多くの難問題がしょうじたのであった」(六三ページ)という。
 潮谷総一郎は「龍田寮の生い立ち」の中で、「らい病罹患者は入院で一応の処理はつくわけであるが、その家族でらいに感染していない健康な家族の取扱いが困難であった。とくに、児童の処理に手を焼くことが多かった。当時、これらの児童をよんで未感染児童といった。その言葉のもつ意味は感染の可能性濃厚ということと、医学的解明の不備が重なっての表現であったろう」(内田守編『ユーカリの実るを待ちて』リデル・ライト記念老人ホーム、一九七六年、復刻一九九〇年、三二二ページ)。

 「明治四二年(一九〇九年―滝尾)開院当時全生病院では七〜八名の健康児童が,患者である親に伴われて入院している。そのうえ院内で出生した児童もあり、これらの児童を発病しないように健康に育てるためには、親との同居から院外に離して養育すべきであると考えられた」(前掲書『(藤風協会)創立三十周年誌』六三ページ)。
 全生病院々長であった「光田は院内出生を防止するために、大正四年(一九一五年―滝尾)から、結婚している男性のワゼクトミー(精系切断手術)を行うことをすすめた結果、次第に院内出生は減少し、またその後、優生保護法(一九四八年七月十三日公布―滝尾)による妊娠中絶の方法も取り入れられた」(前掲書『(藤風協会)創立三十周年誌』六四ページ)。
 全生病院々長光田健輔は、一九三〇年六月の『山桜』で「性の道徳」を書き、次のように述べている。

「本邦に於ける二十年間の実験によれば癩は遺伝ではないけれども癩菌が母体の血流に乗じて子宮胎盤を通過して胎児に達するものである(菅芽小林両博士)。即ち胎内伝染を受けるものであり、又父が癩である場合には生後幼児に於てヒ薄なる皮膚粘膜を通して癩菌が感染することは疑いのない事である。其の遺伝は癩にない事は勿論であるが胎児及幼児は癩菌の寄生し易い状態にあったもので此れが従来遺伝病と間違えられた。各例によって一様でないけれども癩の児童が生涯重き屈辱の生涯を送らねばならぬ事は憐れむべき事である。就中療養所内の男女が極めて重病である場合に於ては其の児童の成長は頗る怪しまれる。斯の如き癩菌ケイ帯児童は寧ろ産まれしめざるが最も大切な事ではないか」(藤楓協会編『光田健輔と日本のらい予防事業』(一九五八年)一二三〜一二四ページ)。(傍線は滝尾)

 「院内に住む健康な児童の院外分離保育の方法は困難ではあったが、不幸にして発病する児童も極めて少数だがあったので次第に各療養所でその必要性が認められて、分離保育の方法が普及していった」(前掲書『(藤風協会)創立三十周年誌』六四ページ)。
 一九三一年三月、財団法人癩予防協会が設立され、その重要な事業に一つとして、「未感染児童」保育事業を行うことになった。同三一年八月には、愛生保育所(楓蔭寮)が開設し入園者に子供九名を収容した。ついで、一九三二年六月には、大島青松園入園者の子供の委託保育所が開設、三三年四月には救世軍日本々営に経営委任の児童保育所(二葉寮)が開設された。以後、松丘保養園、九州療養所(一九四一年、菊地恵楓園と改称)、星塚敬愛園、沖縄愛楽園、東北新生園と、次々に「財団法人癩予防協会」の事業として、作られていった。
 一九四二年六月、菊地恵楓園にあった「未感染児童」保育所・恵楓園を廃止され、熊本市内黒髪町の旧回春病院跡に財団法人癩予防協会附属の養護施設の保育所「龍田寮」が新設して、そこに移転した。財団法人癩予防協会『昭和十五年度事業成績報告書』(一九四一年八月)によると、「児童保育所ニ収容シテ保育中ノ児童数」(一九四一年三月末日現在)は、次のようになっている。

楓 蔭 寮(長島愛生園内)      九〇名
 二 葉 寮(栗生楽泉園内)      六八名
 楓 光 寮(星塚敬愛園内)      五〇名
 二 葉 寮(北部保養院内)      一三名
 楓   寮(大島療養所内)      四九名
 恵 楓 園(九州療養所内)      三八名
 宮古療養所内児童保育所         六名
   合    計          三一三名    ( 五一ページ)。

癩予防協会附属の養護施設、つまり「未感染児童」保育所が、多磨全生園に設置されていないのは、何故なのだろう。国立癩療養所多磨全生園『昭和十六年年報』(一九四二年一二月発行)を見ても、「昭和六年度ニハ新ニ七十坪ノ教育舎ヲ建築シ且ツ其ノ施設モ稍々充実セシヲ以テ全生学園ト称シ町村国民学校ト大差ナキ教育ヲ施シ得ルニ至レリ」(七〇ページ)とあり、収容した発病患者児童の「教育」についての記述はされている。しかし、「未感染児童」保育所のことには、触れられていない。
多磨全生園患者自治会編『倶会一処』一光社(一九七九年)の「少年少女たちの世界」(一一〇〜一一二ページ)をみても、「未感染児童」保育所のことは、述べられていない。長く全生園に患者としている人に、そのことを尋ねても、「そういえば、乳児の姿は見なかったなア」とか、「母親がここへ入所するとき、横浜の近くにあった養護施設へ入れて来たという噂があった」という返事が返ってきた。
邑久光明園の「未感染児童」保育所のないのは、同じ島にある楓蔭寮(長島愛生園内)に保育児童は、収容されていたからである。従って、同園には、癩予防協会附属の養護施設はない。次に、少し長い引用になるが、前掲の藤楓協会編『創立三十周年誌』(一九八三年)の内容を紹介する。

「太平洋戦争の激化に伴い、寄附金収入も減少し、また各施設の運営も増大してきたので、昭和二一年(一九四六年―滝尾)にはこの事業をすべて国の手に委ね、以来それぞれの国立療養所の費用で経営することになった。これらの施設で養護された子どもについてはいろいろと難しい問題があり、特に就職や社会復帰については苦心が絶えることがなかった。
こうした諸問題の中でも、教育を与えることには想像以上の苦労があった。開園当初の長島愛生園では、島内に住む職員子弟は渡船で村の小学校に通学できたが、養護施設の児童は施設の中で、教育経験者や保母がその教育にあたった。
大島青松園では島内に職員子弟の分校、養護施設の分校、患者である児童の分校の三校が、相当長く別れたままで教育にあたった。他の施設も大体同様の方式であったが、唯一の例外は星塚敬愛園の楓光寮で、この施設の児童は開設当初、昭和一一年(一九三六年)から大姶良尋常小学校へ職員子弟の児童とともに通学が許されていて教育についての差別はなかった。(これは、他施設の養護施設の児童は、逆に、差別されていたことを意味する。―滝尾)
各施設の中に設けられた分校へ、正式に町村から専任教師が派遣されるようになったのは、戦後の学校教育法の改正の頃からであり、それも所在市町村の事情で、その時期がさらに遅くなったところもあぅた。こうして次第に教育が正常化され、昭和二四年(一九四九年―滝尾)には栗生楽泉園の小学五年生以上の児童が、草津町の本校に通学が許可され、昭和二七年(一九五二年―滝尾)には長島愛生園には黎明学園の児童が、対岸の裳掛村の本校に通学が可能となるなどそれぞれに正常な形へと進展していった」(六五ページ)。

一九五三年八月六日、参議院本会議で「らい予防法(新法)」は、可決され、同月十五日には法律二一四号「らい予防法」は公布された。菊池恵楓園では、療養所から離れて建設されている「龍田寮」、その校区内に熊本市立黒髪小学校は、「龍田寮」児童への通学を拒否していた。同五三年十一月二十七日、菊池恵楓園長宮崎松記が、黒髪小学校PTA会長瀬口龍之助に「龍田寮」児童の本校通学を申し入れ、それを契機に「事件」は顕在する。
第二節 「龍田寮」児童の本校通学拒否事件の概要

「龍田寮」児童の本校通学拒否事件は、愛生保育所(楓蔭寮)も大きな影響を受ける。長島愛生園の入所者の一人である森田竹次(一九一〇〜七七年)、愛生園内に全患協本部が所在した当時、『全患協ニュース』第一九二号(一九六二年五月一五日)より、二十五回にわたって連載されたものである。森田の没後十年、島田等らにより森田竹次遺稿集刊行委員会が、『全患協ニュース』の連載されたものに筆を加えて、『全患協斗争史』四六判三一九ページの単行本として出版した。龍田寮事件は、単行本では「十二、社会的偏見とのたたかい」(六五〜七〇ページ)に収録されている。本冊子は『全患協ニュース』の連載された「龍田寮事件」を収録する。『全患協ニュース』第二一一号、第二一二号(一九六三年四月一五日、五月一日)に掲載されたものである。
森田竹次は、自伝『死にゆく日にそなえて』森田竹次遺稿集刊行委員会(一九七八年四月)がある。「北原白秋の詩にでてくる柳川市の郊外、有明海に面した農家に生まれ、発病後は九州療養所(現菊池恵楓園)に入所した森田にとって、四二年六月に長島愛生園に入所した後も、「龍田寮事件」は関心が特に深かったと思われる。

ハンセン病国賠西日本訴訟弁護団の書く「らい予防法」違憲国家賠償請求事件の「訴状」、「原告準備書面」をみても、私の知る限り、「らい予防法(新法)」成立直後に起きた「龍田寮事件」のことは出て来ない。瀬戸内訴訟の原告ら「準備書面(二)」(二〇〇〇年二月二一日)の八四ページ「らい予防法の下で起こり続けた差別事件」について「龍田寮事件」のことは、指摘されている。原告ら「準備書面(二)」は、「龍田寮事件」のことをどのように述べているか、次に示そう。

「2 らい予防法の下で起こり続けた差別事件
右のように旧法下でつくりあげられた差別偏見を被告国はらい予防法の下で固定し、再生産し、増幅し続けたのであるが、これによって生じた差別事件は枚挙のいとまがないほどであり、ハンセン病患者らの社会復帰を著しく困難にしたのである。以下、その中からいくつかの事例を挙げる。
(一) 竜田寮児童通学拒否事件(甲第四号証<『全患協運動史』―滝尾>一六八ページ以下)
 一九五四(昭和二九)年四月、熊本の恵楓園附属竜田寮児童がかねて要望していた近くの黒髪小学校への通学が教育委員会に認められ、通学しようとしたところ、PTA会長ら一部父兄が激しい反対運動を展開し、「らいびょうのこどもといっしょにべんきょうせぬよう、しばらくがっこうをやすみましょう」等のポスターを多数貼って、「同盟休校」を呼びかけた。明白な人権侵害として国会でも問題とされたが、事態の紛糾は長引き、結局、翌年四月、竜田寮児童を園外で引き取り通学させるという極めて不十分な形で終結させた。
 この事件の発生後の一九五四年五月一〇日、佐賀県下である患者家族が事件の紛糾を苦に自殺するという痛ましい出来事も起こった」(八四〜八五ページ)。

被告(国)の岡山地裁提出の『準備書面(三)』(二〇〇〇年五月一六日)五〇ページに、
「2 らい予防法の下で起こり続けた差別事件」について(原告ら準備書面(二)八四ページ)。原告ら指摘の各事例が被告の行為によるということであれば、争う。なお、「(一)竜田寮児童通学拒否事件」……については、各甲号証に原告ら主張の記載があることは認める」と書かれてある。ついで、被告(国)の『準備書面(三)』は、「竜田寮児童通学拒否事件」について、「被告の責任とすることができないことは、被告準備書面(一)第三の五で述べたとおりである」(被告(国)の岡山地裁提出『準備書面(三)』五一ページ)と主張している。

「龍田寮児童通学拒否事件」については、拙著『近代日本のハンセン病と子どもたち・考』広島青丘文庫(二〇〇〇年三月)二八五〜三七九ページ所収、「研究ノートU・龍田寮の子どもたち」、浜砂美幸著「未感染児童と呼ばれた子供たち――龍田寮の歴史を通して――」(一九九八年度社会福祉学部卒業論文集――法律・経済系――、熊本学園大学社会福祉学部、三一六〜三九〇ページ)を参照されたい。  
 『全患協ニュース』第二一一号、第二一二号(一九六三年四月一五日、五月一日)に連載された『「全患協」闘争史(十四)、(十五)』、「龍田寮事件」を見ていくことにする。長島愛生園入所者である森田竹次によって、この事件のあった約十年後に書かれたものである。

龍 田 寮 事 件
予防法改正運動のほとぼりもまださめない二十九年(一九五四年―滝尾)四月八日、熊本市黒髪町菊池恵楓園保育所竜田寮の学令児童四名(男二女二)は父母にかわる係員四名につきそわれて真新しい服、ランドセル、
帽子に光る徽章に身をかため、小さな胸をときめかせ黒髪絞への道を急いだのであつたが、かれらを待ちうけていたものは、かれらの登校を拒否する冷酷な宣伝文のビラであつた。すなわち「黒髪校をきたないライ病学校から守りましよう」「いくら休んでも欠席にはなりません。おうちに帰つて自習して下さい」であつた。それでも無心な子供たちは教室に入つて先生の入学についての注意をうけた四名の顔は喜びに輝いていた。通学反対の父兄は早朝からオート三輪車で同盟休校をよぴかけ、校庭には数百名が三三五五とたむろして遊びまわつている。午前九時になつて教室内の出欠をとつてみると三十四学級、在籍千九百二十九名のうちたつた六十名しかいなかつた。学校側は意外の事態にうろたえ、直ちに職員会議を開き、授業をするか休校するかを討議したが意見はふたつに対立、二時間あまりの討議ののち頼業を中止することになつてしまつた。同校教員は午後から開かれることになつているPTA臨時総会のための会場準備にとりかかつた。この問廊下で「反対派は校門付近にピケをはり学校にきた子供を追い返そうとした」と語り、通学賛成派の婦人は反対派に肩をこずかれるなど校内の空気はきわめて緊迫、「なぜ勉強ができないの」と付添の母親に心配そうにきいている子供もいた。 
保育児童は、これよりさき、ひところ未感染児童ともよばれていた。保育所をつくつたのは、はじめは所内の患者間に生れた幼児を引きとり育てるためであり、絶対隔離主義が確立されてからは、入所患者の子弟で扶養者がいなくなつた児童を賽育するためであつた。これらの子弟は、教育の機会均等に恵まれず、保育所内の分教場で複式教育をおこなつていたが、昭和十年星官敬愛園は、職員井上謙氏の努力によつてはじめから本校通学をかちとつた。長島愛生園の場合も、昭和二十七年三月から地もとの了解によつて、本校中学、小学同時に通学することになつた。菊池恵親園だけが、本校通学がおくれていたのであつた。それも、ハンセン氏病患者を父兄にもつという理由以外に何もなかつた。 
恵楓園長官崎松記氏は「以前から市当局に通学を要望してきた。市は五年後には許可するといつて実現しないまま、日の過ぎるのを見送らざるを得なかつた。所内の父兄の要求も日ましにはげしくなつた。当時、本校通学が許されていないのは、全国十一ケ所の療養所のうち恵楓園だけである。」と憤激し、新らい予防法が成立した二十入年末、児童教育の機会均等が犯されている事実を基本的人権侵害として、熊本地方法務局に提訴したのであつた。全患協菊池支部は問題の早期解決をのぞみ、童心を傷つけるようなことがあつてはと、報道機関ではとりあつかわぬよう細心の注意を払つていたが、十二月五日大毎、西日本新聞がすつば抜いてしまつたので、地もと民を刺激した。患者側は所側と今後の方針をうち合せ、
一、マスコミによつて世間の良心を喚起することに重点をおく。
二、子供の人権を守る立場から徹底的に闘う体制をとる。
ということで意志の統一ができ、菊池支部は、全患協本部(多磨全生園)にむかつて、事態の容易でないことを訴えた.もしも、通学拒否を許すとすれば、憲法に保障された教育の械会均等も、らい予防法に規定された患者家族への差別禁止も、まつたく空文化し、何のために予防法を改正させたかわからなくなるのである。

 黒髪校区PTAは、同盟休校の続行、市教育委の辞職勧告、県市議会へ通学反対の陳情、一町内から反対実行委正副各一名を出して反対運動を強化することを決議して気勢をあげて散会した。 
 ほかの療養所では大して問題なく解決していることが、かくもこぢれたかといえば、PTAの責任者が保守派の大物であつたことである。ゆらい保守というのは新らしい問題を正しくとらえようとはしないで、既につくりあげられた社会意識にへつらい、これを利用して自分の地位保全につとめるのである。竜田寮問題も、その呼びかけ「ライ病学扱から守りましよう」のなかにハツキりしていた。おくれた大衆の意識にのつかり、あふつてさえいた。
また、黒髪校は恵楓園から十二キロもはなれ、選挙のときには患者と何の関係もなかつたのであつた。法と人権をたてに闘う患者に対し、反対派は、ハソセン氏病にたいする偏見をもつて対立したのであつた。通学反対派は町民大会を開き反対決議をした。患者側も園内でさかんに集会を開き、園当局や校区内のPTA賛成派に働きかけるとともに、厚生省や国会にも陳情をくり返した。厚生、文部,法務の三省協議会も、「通学拒否は不当である」という見解を出したが 事態は好転しなかつた。五月十六日には、全患協菊池支部有志五名がハンストにはいり、他方通学児童の方は、四名のうち一名が、熊本大学での精密検査の結果、脚部に「乾皮症があり鈍痛感があるようだ」として「長期観察の要あり」ということになつた。このことは四名通学差し支えなしとしていた、園当局をシゲキし、面目にもかけても通学させなければという気分にかり立てていった。
五月七日、一ヵ月ぶりに開校、龍田寮児童三名が入学した。ところが、竜田寮には、二年から六年までの学令児童が二十三名もいて単級複式の教育をうけて、本校通学をまつていのである。さらに昭和三十年度には、四名が中学に通学することになつていたが、PTA会長瀬口某は、県会議長であるところから、反対のうごきを中学の方にまでひろげ、三十年四月におこなわれる戦後三回日の県議選の票かせぎに利用した。
 そのため、二十九年九月の第二学期から全員通学を要求した菊池支部とその父兄の願いは、九月になつてもいれられず、九月十五日になって、熊本市教育委員会は、
一、全員入学は三十年度まで延期
二、三十年度以後は新一年生だけ通学させる。
三、三十年度は新三年生も同様にする。
四、新四、五、六年生は竜田寮で教育する。
五、三十二年度末で竜田寮内の分教室を廃止する。
六、残つた児童は、養護施設に寄托する。
七、患者携伴児童は、なるべく患者の原住地において処理する。
八、竜田寮より他の養護施設に分散寄托せる児童にたいしては、県市費より一人につき、月額三千円を支給する。
九、毎年十月に次年度通学者につき恵楓園側およぴ教育委と合同会議をひらき決定する。 
という解決案を示してきた。これは、竜田寮の解散をふくんでおり、児童をもつ父兄を不安におとし入れたが、やむを得ない事情となつてしまつた。
 この問題は、三十年度またもや再然し、新聞、ラジオで報導されたので、仝国患者とその家族の憤激をかつたものである。この事件は、いくら法律だけつくつても、人権を守る闘いなくして、わたしたち国民は幸福にはならないということを身にしみて教えてくれたものであった。                                                                                                                                                           
                                                                                                                                                        

 第三節 長島愛生園児童保育所、第一楓蔭寮と第二楓蔭寮の設立


一、愛生園保育所に入所した乳幼児たちをみる視点

愛生園保育所は、財団法人癩予防協会が一九三一年八月一日に設立したものである。園内結婚の条件として、結婚している男性のワゼクトミー(精系切断手術)の強制と、また戦後は、優生保護法による妊娠中絶の方法が行われ、愛生園内での出生は極めてまれであった。(宇佐美治さんの話によると、一九四五年に出産が一件あったが、新生児は、直ちに里子に出されたという)。従って、愛生園保育所に入所した乳幼児は、当然、「同伴児童」(藤楓協会編『創立三十周年史』六四ページ)、乃至、「携伴児童」(井上謙「保育児童の完全社会復帰」、『愛生』一九五六年一月号、一〇ページ)と呼ばれた児童であった。
患者の妊婦の産み落とした嬰児をどうしたかについては、拙著『近代日本のハンセン病と子どもたち・考』の五九〜六二ページ「嬰児とその母たち」を、見ていただけばと思う。また、後述する谺 雄二さんの詩「ボク――ライ園ニ生マレテ――」を参考にされたい。
ところが、被告(国)は「優生手術について」、次のように『準備書面』で主張している。

「昭和二三年(一九四八年―滝尾)に優生保護法が制定されたが、その趣旨は母胎の保護及び新生児の感染防止であり、当時の医学的知見に基づくものであった。優生手術については、本人及び配偶者の同意に基づき実施された療養所があることは事実であるが、療養所内での夫婦同居の事実上の条件としての右の手術は、資料によれば、遅くとも昭和四〇年(一九六五年―滝尾)以降は行われていない(乙第五九号証二〇ページ)」(岡山地裁提出の被告(国)の『準備書面(五)』二〇〇〇年五月一六日付け、二二五〜二二六ページ)。

「2『優生保護法の制定』について(訴状四三ページ)
(1) 第一段落について
第一文については認める。ただし、強制を伴うものではなく、本人の同意か(配偶者がいる場合はその者の同意も)必要であった。第二文については、原告ら主張の条文の規定が存することは認めるが、その余は争う。優生保護法(平成八年法律第一〇五号による改正後は「母体保護法」)制定当時の医学的知見によれば、ハンセン病は妊娠・分娩により病状が悪化し、また、乳幼児期に感染しやすく、完治する方法がないと考えられていた。このような当時の医学的知見の下において、本人の意思に基づく場合に限り(配偶者がいる場合はその者の意志に基づくことも必要)、同疾患の子孫への伝染の防止と母体の保護を目的とする観点から同条項が設けられたものである。第三文については、優生保護法三条三号が平成八年(一九九六年―滝尾)まで存続していたことは認める。第四文については、本人及び配偶者の意思により、同法に基づき、ハンセン病を「理由」とする優生手術が、昭和二四年(一九四九年―滝尾)から平成五年までの間に行われたことは認めるが、これは全件数(註―滝尾)であって、これらすべてが療養所入所者に対して、特に結婚の条件として行われたわけではない。
(2) 第二段階について
争う。」岡山地裁提出の被告(国)の『準備書面(一)』二〇〇〇年二月一五日付け、七六〜七八ページ)。

(註―滝尾)原告ら訴訟代理人が岡山地裁に提出した『訴状』(一九九九年九月二七年)によると、次のような記述がされている。
「2 優生保護法の制定
  まず、一九四八(昭和二三)年、優生保護法によって、ハンセン病患者に対する優生手術が認められた。同法第三条三号では、「本人、又は配偶者が、癩疾患に罹り、かつ子孫にこれが伝染する虞のあるもの」に対して優生手術を施術できると定められたが、医学的にも生命倫理としても到底認められないことである。このような規定が、一九九六(平成八)年まで生き続けたことはまさに驚くべきことである。そして、実際に、この法率により、一九九三(平成五)年までに合計一四〇〇件以上の断種及び三〇〇〇件以上の人工妊娠中絶がハンセン病患者に対しおこなわれた。
 優生保護法は、戦前でさえ法制化されなかつたハンセン病患者への断種とその背景にある「隔離・絶滅思想」を肯定し、さらに根拠のない優生手術に法律によるお墨付きを与えたものという外はなく、到底、許されるべき法律ではなかった」(四三〜四四ページ)。

 私は、被告(国)の『準備書面(五)』及び『準備書面(一)』の「優生手術については、本人及び配偶者の同意に基づき実施」という「同意」という意味に限って本章(第一章)では、考えてみたい。なお、優生手術(断種)については、本シリーズ『第二集』の「断種、堕胎手術について」(六四〜八四ページ)で、述べたが、『第四集』の第三章「断種(優生手術)と遺体解剖」でも、取り上げたいと考えている。
 「優生手術については、本人及び配偶者の同意に基づき実施」という「同意」という意味を考えながら、私は三つの主張と、いくつかの事実が去来せざるを得なかった。それについて、述べてみたい。(傍線は滝尾)

【其の一A】全生病院々長光田健輔が、一九三〇年六月の『山桜』で「性の道徳」を書いた内容である。本章の初めのところでも引用したが、いま一度、取り挙げてみよう。

「本邦に於ける二十年間の実験によれば癩は遺伝ではないけれども癩菌が母体の血流に乗じて子宮胎盤を通過して胎児に達するものである(菅芽小林両博士)。即ち胎内伝染を受けるものであり、(中略)各例によって一様でないけれども癩の児童が生涯重き屈辱の生涯を送らねばならぬ事は憐れむべき事である。(中略)斯の如き癩菌ケイ帯児童は寧ろ産まれしめざるが最も大切な事ではないか」。

【其の一B】国立療養所永島愛生園々長光田健輔は、一九三六年四月の『愛生』で「『ワゼクトミー』二十周年」を題して、次のように述べている。

「第一、現今の医学的観察観察では癩は伝染にして遺伝でない事は無論である。けれども母体が癩であつた場合に癩菌は自由に循環血液中に浮遊して胎盤を通じて胎児に移行し、十ヶ月の間無抵抗の胎児内に循環し停止する、故に分娩児童は外界に於て早く分離して癩菌の接触を避けしめ、胎内に於て死滅するのを待つのである。即ち潜伏期の経過を待つのである。蓋し潜伏したる癩菌が児童に出現発病しないとは保証は出来ないのである。其期間は極めて長く春機発動期を過ぎるに至つて稍安心が出来るのである。斯の如き児童の将来は他の健康児と比較にならぬ程暗黒で、父母として其責任を考えない者は人にあらずと云うてよいものである」(藤楓協会編『光田健輔と日本のらい予防事業』(一九五八年)二三五ページ)。

 【其の二】出生前診断の問題点(佐藤孝道著『出生前診断――いのちの品質管理への警鐘』有斐閣選書(一九九九年四月)、「付章 出生前診断 座談会」での玉井真理子さんの発言より)。

「 玉井 女性やカップルが十分に考えたうえで、納得のいく決定をすることが大事だということが強調されますが、そのときに、検査を受けるのも受けないのもあなたの自由だし、その検査結果をもとにして、産むのも産まないのも、あなたの自由な選択なんだという形で、自己決定を強調するのであれば、「障害児を産んでも大丈夫、育てられるよ」という選択肢がなければならないと思うのです。でも「産んでも大丈夫、育てられるよ」というメッセージが、ちゃんとある社会とは思えない。「産んでも大丈夫、育てられるよ」というメッセージに接することなしに、「産むのも産まないのもあなたの選択ですよ」と決定を迫られている、という構図になっていると思います」(二七二ページ)。
    
 【其の三】「はしがき」でも述べたように、森田竹次は、『全患協ニュース』第一四五号(一九六〇年一月一五日)に、「退所者対策について」の一文を寄せているが、その中で「所内結婚」について、次のように書いている。「日本の隔離政策が成功をおさめた理由は、「所内結婚」を許し、ときには奨励したからだ」と。

 こうした日本の隔離政策と優生法に基づく「妊娠調節」、すなわち断種(優生手術)の問題は、一九五六年四月、ローマにおいて開催された「らい患者救済並びに、社会復帰に関する国際会議」において、相当の物議を起こしたのである。同会議に日本から出席したのは三人であり、それぞれ、次のような演題で報告を行った。
 1、濱野規矩雄(藤楓協会常務理事)「日本の隔離政策と男女の問題」
 2、林芳信(国立療養所多磨全生園々長)「最近のライ治療の効果」
 3、野島泰治(国立療養所大島青松園々長)「日本の保育児童の医学的観察」及び
「アシドマイシンの治療効果に就いて」であった。
 『全患協ニュース』第六二号(一九五六年七月一五日)には、ローマにおいて開催された「らい患者救済並びに、社会復帰に関する国際会議」に出席した大島青松園々長野島泰治の特別寄稿「ローマに於ける国際会議の模様」が掲載されている。そこには、次のような野島泰治の報告がなされている。

 「日本から出た問題の中にあった、優生法による妊娠調節は相当の物議を起した。カトリック教国では当然起る問題である。生れた子供の保護施設を完全なものにすればよいというのである。大島の患者の句に「梅は実にライ女は堕胎悲しめり」というのがあるが、人間的には分からないこともない」
 「病者の子供に対する完全なる保護施設プレントリウム増設。治癒患者の社会復帰に就いて社会人を啓蒙することなどと、数多くあるがいずれ雑誌(大島青松園機関誌『青松』―滝尾)にのるから省略する」

 同じ『全患協ニュース』第六二号(一九五六年七月一五日)には、「らいの今昔」(NHK第二科学談話室・同年六月二十四日放送)の内容が紹介されている。出席者は、慶応大学教授林髞、東京大学教授茅誠司、多磨全生園長林芳信の三人であったが、その中で、「児童保育」のことについて、次のような発言をしている。

茅 日本の患者数は一万六千人?
林芳 いや一万五千、そのうち一万七百人が入院している。一万二千が医師の報告で分っている。後の三万人は推定だ。施設は全て国費で賄っている。一家の柱である人が入所すれば、家族の生活は保てるよう法律で定められている。子供は保育所であずかる。(多磨全生園の保育所は、どこにあったのであろう―滝尾)
林髞 いやだろうけど断種について聞く。島(長島のことか?―滝尾)の話では全部断種するとのことあが。
林芳 希望者だけだ。どうしても子供の欲しい人はやらない。産ませて外の肉親に引き取り手のない者は保育所に送る。
林髞 生れてすぐ離した場合の発病率はどのくらい?
林芳 少ない。ただ暫く親と共に暮した場合は若干ある。五%だ。

 被告(国)の岡山地裁に提出の『準備書面(五)』は、「ローマ会議(一九五六年)」についての記述(一八〇〜一八四ページ)の中で、同会議の決議に「……『児童は、あらゆる生物学上の正しい手段により、感染から、保護される可きこと。』が挙げられており、予防、治療のための入院まで否定しているものではない」と主張し、さらに、「我が国からの参加者である林芳信氏は『……現在わが国の癩政策は、大体、ローマ会議の線と同じに進められている……』と記し(乙第七七号証の三「多磨」臨時増刊)、当時の我が国におけるハンセン病医療の水準や在り方への関係者の意識を示している」と述べている。
 被告(国)の『準備書面(五)』の「ローマ会議(一九五六年)」についての記述は、正しくない。「ローマ会議の決議」の被告(国)の引用は、いずれも、条項の前半分だけであって、重要な後半分は文中に断りなく省略し、「ローマ会議の決議」内容が、強制入所も認められているかの如き主張をしている。
 
 『準備書面(五)』は、ローマ会議の決議に「……『児童は、あらゆる生物学上の正しい手段により、感染から、保護される可きこと。』が挙げられており、予防、治療のための入院まで否定しているものではない」という。しかし、同会議の決議には、「児童は、あらゆる生物学上の正しい手段により、感染から、保護される可きこと」つづけて、「保育所への収容は、このようなところに、収容されることにより、傷ましい汚名を受けたと感ずるので絶対的に、必要な場合にのみ実施さるべきこと」(柳橋・鶴崎編著『国際らい会議録』長涛会発行、三二九ページ)と、「2.c‐項」で、決議している。
 また、「ローマ会議の決議」の被告(国)は、「経済的及び医学的資源が不充分で然も多数の患者を要する国々においては、らい予防のため、集団治療の運動を実施すること。」の引用を行って、「予防、治療のための入院まで否定しているものではない」と主張している。しかし、同会議の決議には、「2.b‐項」で、この文に引きつづき、「また、入院加療は、特殊医療、或は、外科治療を必要とする病状の患者のみに制限し、このような治療が、完了したときには、退院させるべきであること」(前掲『国際らい会議録』、三二九ページ)と決議されている。
 さらに、野島泰治は、「ローマ会議」において、「病者の子供に対する完全なる保護施設プレントリウム増設」が討議されており、「貧弱な日本の保護施設では彼等の人道主義に直ちに同意するわけにも行かぬ」とも報告している(『全患協ニュース』第六二号)
 被告(国)の『準備書面(五)』は、「我が国からの参加者である林芳信氏は『……現在わが国の癩政策は、大体、ローマ会議の線と同じに進められている……』と記している(乙第七七号証の三「多磨」臨時増刊)」(一八三ページ)。
これは、林芳信の虚偽に充ちた報告でしかない。ローマ会議の討議内容やその決議が、「現在わが国の癩政策」とは、まったく異なっていたことを、身をもって感じたのは、実は、ローマ会議に出席した濱野規矩雄、、林芳信、、野島泰治の三人ではなかったか。「日本から出た問題の中であった優生法による妊娠調節は相当の物議を起こした」(『全患協ニュース』第六二号(一九五六年七月一五日)という。濱野規矩雄も藤楓協会常務理事として、「龍田寮児童通学拒否事件」深く関与している。この「龍田寮事件」は、ローマ会議が開催された前々年、前年の一九五四、五五年に、全患協と同菊池支部によって、死力をもって闘われ、且つ、大きな政治問題、社会問題となっていた。
 長島愛生園の児童の保育所は、一九五五年一月には財団法人楓蔭会大阪支部白鳥寮拡充が大阪府知事より認可された。つづいて、一九五三年八月、楓蔭会東京支部として保育児童施設恵光寮が、下目黒の慰廃園跡に開設された。一九五六年四月、ローマ会議の決議では、前術したように「保育所への収容は、このようなところに、収容されることにより、傷ましい汚名を受けたと感ずるので絶対的に、必要な場合にのみ実施さるべきこと」(柳橋・鶴崎編著『国際らい会議録』長涛会発行、三二九ページ)と決議している。

 日本では、この時代にハンセン病患者の強制収容が、依然として続いている。なによりも、ローマ会議の決議である「1.a−らいに感染した患者には、どのような、特別規則をも、設けず、結核など他の伝染病の患者と同様に、取り扱われること。従って、すべての差別法は廃止さるべきこと」(前掲『国際らい会議録』、三二九ページ)は、日本では、一九九六年四月一日まで、つづいたのである。
一九五三年八月に「らい予防法」という「特別規則――差別法」が成立して二年八ヵ月の後に、ローマ会は行われている。

 青木暢之、畑矢健治共著『聞き書 ふるさとの戦争』農山魚村文化協会(一九九五年)に所収の「隔絶の島」には、永井のおばさん(当時八十六歳)の話が載っている。愛生園の入園したのは「長島事件」のあった一九三六年七月、二十八歳の時だった。
 「……園では子どもは産めません。結婚する場合、男性は断種手術を強いられました。遺伝病といわれた時代でしたから……。おなかが大きくなって、ここへ収容された妊婦は、あわれでした。おなかの子は無理やり、おろされました。その手術の介護や養生の世話をやりました」(一四二〜一四三ページ)。

     ボ ク
       ――ライ園ニ生レテ――                谺  雄 二

瓶ノ中/ホルマリンニ浸ッテ/モウ、ドノクライ経ッタノダロウ

手ノヒラハ、ツイニ開ラカズ/ヘソノ緒ヲ浮カシ
ウツラウッラ眠リ呆ケテ/四十年/「モー イイカイ?」

「マーダダヨ!」
未来永劫/育タナイ ボク
ラッキョウミタイナ/オチンチン

ボクノ/オトッツァンヨ/オッカサンヨ
ライハ/イッタイ
イツ終ルノデスカ?!     
     
(しまだ ひとし編『らい(季刊)』二〇号、らい詩人集団、一九七二年九月、表紙裏)

 長島愛生園には、中絶されて、殺された嬰児たちの体は「広口瓶」の中にホルマリン付けにされて、園内の試験室に、解剖されて標本にされた遺体の部分とともに、置かれていたと、宇佐美治さんは語ってくれた。愛生園の「試験室」は、小高い丘の上にある、本館→医局→薬局→浴室→試験室と並んだ建物であり、各建物の部屋は、廊下によって、繋がっていた。多磨全生園の入園者からも、「広口瓶」の中にホルマリン付けにされていた嬰児たちを見たという話を聞いた。
 私は、一九九七年十二月、TBS(東京放送)ニュース二三の特別番組「もう一つの強制不妊――韓国・植民地での強制断種――」の取材協力のため、小鹿島療養所へ行った。小鹿島入園者自治会や「チャンギル」福祉社会研究会などの全面的協力を得て、四人の小鹿島入園者の証言を聞いた。証言したハラボジ(おじいさん)は当時七十歳。失明のため、不自由棟に居住しているCさんの言葉である。

 十二月九日 午前一〇時〇二分から一〇時二〇分まで、小鹿島不自由棟にて。
「……そのときから、ドイツの残虐なやり方をまねして日本も無理やりに断種ということをはじめたのです。その後は、四五年八月一五日の終戦までそれが続き、さらにもっと残忍なことに、妊娠した女性の身体から中絶で取り出した胎児をアルコール漬けにして、それを私たちに見せるために置いてありました。
 今も、当時の監禁室の下にあったその場所があるのかどうか知りませんが、数年前に政府が撤去したとかいう話もききましたが……。それが今残っているかどうか分かりません」(『未来』一九九八年五月号、三三〜三四ページ)。

 長島愛生園編『小島の生きる』宝文社(一九五二年七月発行)は、国立療養所愛生園長光田健輔の「序」を本の冒頭にいれた四六判で二六〇ページの「詩文集」である。編集後記によると、「本園の機関誌『愛生』に発表された作品を、さらに厳選して、世に送るもの」であった。収録された中に、患者の妊婦の産み落した嬰児をいきたまま膿盤に入れ、看護婦が自然死させる処置を描いた作品が二編ある。大海 誠「夜の潮」と二見美智子「女二人」である。

「……いま看護婦の手で試験室に運ばれた嬰児の魂に、生は恵まれないのである。むろん、保温も給乳もなく、あの冷たい膿盤の中に暫し放置され、やがて亡骸となる、自然死を待たれるのである。
嬰児は、束の間の生とともに死の宿命を持つて産れて来たのだ。彼を孕んだ母体と、その父が癩なるが故に――」(「夜の潮」三三ページ)。
「十時に婦長が臀部に促進注射をして行った。(中略)最後の痛みが由美の全身を貫いた。
すべてが終ったのだ。
子供は、胎盤とともに、膿盤に入れられた。それが男の子であることを、里子はしった。上からガーゼがかけられた。
ガーゼをつき抜けて、全身で訴える、子供の声だ。「オワア、オワア」
婦長は、膿盤をかかえるようにして、出口へ歩きながら、
「由美さん、見ないで置きましょうね。無事に済んでよかつたわ、お願いします」(一一五ページ)。

「光田園長について、原告らは、冷酷な患者隔離主義者として非難しているが、同氏に対しては、日本のハンセン病解決に経世的な役割を果たした者との評価があり、同僚、部下職員、ハンセン病患者らからは、実に温情豊かな人物と表され、慈父として慕われていた(乙第六七号証一二九ページ)」(被告国『準備書面(六)』五五ページ)。「乙第六七号証」とは、犀川一夫著『ハンセン病医療ひとすじ』岩波書店(一九九六年)である。
同書の中で、犀川さんは、光田健輔について、次のように述べている。

「……先生は一貫して患者の施設収容を推進することによい、日本の『らい根絶』と、病者救済に努めてこられた。/その意味で、先生を、日本の『らい問題』解決に『経世的な役割を果たした人』と評価する人もあれば、『冷酷な患者隔離主義者』と批判する人もいる。
しかし、光田先生のもとで医療にたずさわっていた者にとって、先生は個人的には冷酷どころか、実に温情豊かな方と映じている。
六十年もの長い生涯を病者の救済しとすじに生きてこられた先生は、日常、病者や、職員から慈父のように慕われておられた」(犀川一夫著『ハンセン病医療ひとすじ』、一二九ページ)。

 被告(国)の『準備書面(六)』の五五ページは、この犀川一夫さんの著作からの引用である。この章の始がの部分で、私は 全生病院々長光田健輔が、一九三〇年六月の『山桜』で「性の道徳」の次のような記述を紹介した。

「本邦に於ける二十年間の実験によれば癩は遺伝ではないけれども癩菌が母体の血流に乗じて子宮胎盤を通過して胎児に達するものである(菅芽小林両博士)。即ち胎内伝染を受けるものであり、又父が癩である場合には生後幼児に於てヒ薄なる皮膚粘膜を通して癩菌が感染することは疑いのない事である。(中略)癩の児童が生涯重き屈辱の生涯を送らねばならぬ事は憐れむべき事である。就中療養所内の男女が極めて重病である場合に於ては其の児童の成長は頗る怪しまれる。斯の如き癩菌ケイ帯児童は寧ろ産まれしめざるが最も大切な事ではないか」(藤楓協会編『光田健輔と日本のらい予防事業』、一九五八年)一二三〜一二四ページ)。(傍線は滝尾)

最近、小笠原登著『漢方医学に於ける癩の研究』(一九六五年)を読む機会があった。同書は全四九八ページの大著で、発刊されたのは、小笠原登がまだ、国立療養所奄美和光園医官時代である。小笠原は、その翌年の六六年十月に病に倒れて、職を辞するのである。光田健輔は、一九六四年五月に死去しているので、同書は光田の死後の翌年の発刊である。小笠原は、同書の「自序」でハンセン病の伝染力について、光田らの見解を批判して、次のように述べている。

 癩の伝播状況を省みるに、これ亦、過年、我が国の或る学者達には、「癩の伝染力は頗る強烈である」と唱導せられたのではあるが、実状に於ては、伝染性は有るにしても、さ程に強烈とは認められなかった。夙に、ウェダー氏は、「癩は伝染によりて伝播すると称せられているのであるが、満足し得る程の確証が挙げ難い」と述べている。
 家族として寝食を共にし、一族として親密な交際を続けていても、同一家族及び親族よりの発病数は比較的低率であって、嘗て私が行った統計によれば、患者の家族及び親族より発病した患者数は、当時私が扱った総患者数の「一五、六%」に止まった。残余は、癩との無関係の家庭より発生したのである。
この事実は、一見、癩の伝染力は頗る猛烈であることを示している如くであって、次第に、癩に対して純潔な家庭を、強大な勢いを以って犯しているかに解せられるのであるが、若しかくの如くならば、我が国の癩患者数は、明治二十三年(一八九〇年―滝尾)以来、漸減を示していたことが記載せられていると共に、其の他の統計によるも、我が国の癩患者数は漸減状態に在ると見るを妥当とする。
          (中略)
更に注目すべき事実は、一家庭中に於ても、患者に最も親近するは哺乳児と配偶者とである。而して嬰児並びに幼少者の発病は甚だ少く、更に又、母子の発病よりは、同胞関係に於て発病した例比較的多く見られたことを記憶する。
又、夫婦共に罹病する事の稀有であることも周知の事実である。
 以上の如き事実は、ウェダー氏の発言に同意を表せしめる。かくの如き状態の下に在りて、癩菌のみを捉えて癩の真因とするには、観念の大なる飛躍があるかに考えられる」(六〜八ページ)。

二〇〇〇年五月十一日、熊本地裁の公判で証言した青木美憲さんは、同裁判所に提出した「意見書」(二〇〇〇年三月二七日)の中で、次のように述べている。長文になるが、紹介させていただきたい。

(3)優生手術、人工妊娠中絶について
@ 調査しながら驚いたのは、長島愛生園では、断種が昭和四〇年代(正確には一九六八年)にも結婚の条件として行なわれていたということです。
  その入所者は、私の調査に「ケースワーカーから結婚するなら手術を受けるように言われた。私たちで最後かもしれない」と回答されました。
  なお、報告書三頁の図一に一九八三年に優生手術とあるのは、長島愛生園の入所者で、「一九八三年骨折の手術を受けた陰のうに傷ができていた。切られたのかもしれない。何されているかわからない。」との回答だったものです。
A 研究者として興嫁深く思いましたのは、各療養所毎に優生手術の実施状況に際立った特徴があるということです。
  特に対照的な結果を示しているのは、長島愛生園と大島青松園です。
  愛生園では、男性の四四%(結婚した男性の六〇%)が優生手術を受けているのに対し、人工妊娠中絶は二%しかありません。つまり、男性が優生手術を受けているため、妊娠自体が極めて少なかったということを意味します。結婚の条件として優生手術が貫徹されていたということだと思います。                           
  一方、青松園や光明園では、優生手術を受けた男性は二二%あるいは三四%にとどまっているのに対し、人工妊娠中絶は二一%、一七%と高率になっています。これは両園では一九五八年以降結婚の条件として優生手術が強制されなくなり、そのかわりに妊娠すれば、中絶・断種が実施されるという方針に変わったためだと思われます。
  こうした方針の相違は、愛生園における光田健輔園長の方針に由来するものだと思われますが、いずれの療養所においても、入所者は子どもを持つことを絶対的に許されなかったという事実に変わりはなかったということです。
B なお、愛生園の入所者の中には、全く無断で優生手術をされたという人が二人います。その内の一人は、一九六五年に虫垂手術を受けた際に無断で断種されたと訴えており、私も実際に診せてもらいましたが、睾丸が小さくなっていることが明らかで、手術を受けたためではないかと推測されました。もう一人は前述の一九八三年に骨折の手術の綜に実施されたという訴えです。
  こうした無断手術の存在は、一九四九年九月一〇日に厚生省国立療養所課長から療養所長宛に「癩患者の優生手術について」との通知が出され、入所者の同意をとることなく、優生手術が実施されている症例の存在を指摘し、これを是正するよう求めていることと符合するものです。
C 強制収容の項目でも説明したことですが、優生手術や人工妊娠中絶についても、わずかながら、強制ではなかったという入所者もおられました。しかしながら、具件的にお話をうかがってみますと、現実には選釈の余地はなかったと言う外ほなく、事実上の強制であったと言うべきケースだと言ってよいと思います。

 更に、青木美憲さん(二〇〇〇年四月一日より邑久光明園内科医師として着任)は、『楓』二〇〇〇年三・四月号(通巻四七二号)邑久光明園慰安会発行で、「ハンセン病患者の強いられた状況―国立療養所入所者の実態調査から―」(二〜九ページ)が載せている。調査は、長島愛生園、邑久光明園、大島青松園の入所者八一八人からの回答を基に、分析されたもの。調査期間は、一九九七年八月から九九年一月まで、調査内容は、(一)強制入所、(二)優生手術・人工妊娠中絶、(三)罰則(懲戒検束)、(四)患者作業、の各項目に及んでいる。これは、第五十八回日本公衆衛生学会で発表した内容をまとめたものである。
なお、『第三集』で、「青木証言」を「青山証言」と書いている(五六ページ、左八行目)。お詫びして訂正します。

長島愛生園児童保育所の設立とその後の経過は、光田イズムで貫かれている。ハンセン病患者の親をもつ子どもにとって、長島愛生園と光田健輔は、どのような存在であったか、見ていくことにしよう。


 二、長島愛生園児童保育所の設立とその後の経過

 光田健輔、井上 謙(庶務課長)及び 『長島愛生園・各年度年報』など参考にしながら、長島愛生園児育所、楓蔭寮の設立と、その後の経過をみていこう。

1、 井上謙著「保育児童の完全社会復帰」(『愛生』一九五六年一月号)は、愛生保育所の開所を次のように述べている。

 「昭和六年(一九三一年―滝尾)長島愛生園開園後間もなく、一婦人らい患者が生後二ヶ月の女児を連れて入所したがらいが伝染性疾患であり、しかも幼児期が感染し易い時期とされていることを考えれば、これを速やかに母親と分離することが望ましいというので、一篤志看護婦は、率先これを引取り、勤務の余暇をさいて、これが養育に当つた。かゝる携伴児童の問題は其の後も頻発したので、所内の遊休施設を利用して、財団法人らい予防協会が昭和六年八月一日これら健康児童の分離保育を目的として、愛生保育所を開所したのである。これが立論の趣旨としては、これらの児童は一応らい感染を想定し得られるので、当分の間専門家の観察に委することが最も親切な方法であるので、之れを健康地帯に分離し、大体発病の虞れなしと認められる迄保育するというのである。然しながら本事業はらい予防法という公衆衛生法規に基いて為される事業でなく、財団法人らい予防協会が任意に為した社会福祉事業と見るのが妥当」であろう」(一〇ページ)。

2、光田健輔著「楓蔭寮の落成に際し」(『愛生』一九三五年一月号)は、第一楓蔭寮(保育所)の設立につい       
  て、次のように述べている。

 「我が癩予防協会は昭和五年(一九三〇年―滝尾)に設立せられ、癩予防事業に対し予防宣伝、癩学術究補助、相談所の設立、
患者の隔離に力を尽すと同時に未感児童の保護を最大なる事業として経営するに至り、先づ草津楽泉園構内に草津温泉の癩部落に産まれたる多数の児童の為めに保育所及び学校を設けたるを始めとして長島、大島に相次で此施備を設立するの費用を支出せり、其え経営は昨年度の予算よりするものなりしが、工程種々故障の為め漸く去る十二月二十四日落成式を挙げ、楓蔭寮と名くるに至れり、此れは恐れ多くも皇太后陛下が昨年五月二十八日赤坂離宮に実生せる若葉の楓を賜わり、此れが育成の暁は夏は其緑の蔭に憩い、秋は其芽出たき色を愛でよとの有難き御軫念の年を記念せんと欲し、命名したる訳である。
 実際長島に於ては今回第一楓蔭寮と命名したる海岸の建物は開院当時愛生園患者面会宿泊所として建てられたる建築を一時利用したるものにて昭和六年八月一日始めて、数人の未感児童を余儀なく収容せしに始まり、大島には未だ此種の事業なく子持ちの患者達の羨望の的となり、我が子を多数患者の内に養育するは子を伝染の危機に曝らすのみならず、他の子なき人に対し遠慮多き事なりとし、大島の数組の患者達は未感の我子を携えて船を雇い大島を脱走して長島に入園を乞い其子の所置(処置―滝尾)を懇願セル事あり、当時己に超満員の事でもあり、又燐島療養所に対する義理合上此れを拒絶し大島に送り帰したるが動機となり大島にも未感児童保育所の設立を見るに至りしは誠に同慶の至りである。
         (中略)
 大正四年(一九一五年)以来輸精管切除術は着々として効果を挙げ・全生病院には出生児絶無となり、又未感児をも其縁故者に引き渡す方針を取り、遂に保育所を解散せるは大正九年(一九二〇年―滝尾)の事と覚ゆ。
           (中略)
 癩予防協会が療養所構内に保育所お作り其経理を療養所に委託せられ、其所員は日夕未感児に接触し一面又其父母に接し児童発病の有無をも親しく観察するは頗る便宜の事なりというべし、かくて潜伏期間を監視して、後此を社会に送り出し、適当の教育を施し以て立派なる国民たらしむるは誠に楓蔭寮職員の努力を要する所也。実に世に呪われたる癩患者の子と産れ、父母と分かれ、社会から指弾せられつつあるものを教育するの困難は世の人の想像し得ざる者あるなり」(藤楓協会編『光田健輔と日本のらい予防事業』(一九五八年)一二三〜一二四ページ)。(傍線は滝尾)

3、国立癩療養所長島愛生園『昭和十二年年報』(一九三八年四月発行)は、「財団法人癩予防協会愛生保育所の概況」との項目を挙げ、次のように述べている。

本園内に於て財団法人癩予防協会の経費支弁の下に経営せる愛生保育所の事業概況左の如し。
一、概  況
長島愛生園入園者患者の児童にして未だ本病に感染せざるものゝ分離教育に関しては財団法人癩予防協会より経費の支出を仰ぎ之を経営することゝなり昭和六年(一九三一年)八月一日之が事業を開始して今日にいたれり。
骸施設に要する建物は当初長島愛生園建物の一部を以て之に充てしが其の後増築をなし又昭和九年度(一九三四年度―滝尾)には一五三坪の新築工事をなし同年十二月二十四日其の落成を見之に依り在来の建物を第一楓蔭寮と命名し主として乳幼児を収容うぃ新営家屋を第二楓蔭寮と命名し主として学齢児童を収容することゝせり。
  保育児童数は左表に示すが如く逐年増加し来たりしが昭和十二年(一九三七年)末現在に於ては男児二十八人女児二十三人計五十一人なり。
  此等児童の保育教養に関しては保育係二人、教師一人、保母四人計七人の専任者を置くの外愛生園職員亦之に関与しその完璧をきせり。