ソロクト(小鹿島)裁判のための資料・研究ハンドブック―    補論―T

 「ハンセン病問題」は、いまだ終わらず 

             滝尾 英二(『飛礫』34号、2002年春=2002年4月1日に掲載)            

 

一、「熊本判決」前後

二〇〇一年五月の「熊本地裁判決」と六月の小泉首相の「控訴断念」は、ハンセン病問題解決の始めに過ぎなく、それは、けっして終わりではない。
原告弁護団のいう年内の「全面解決」や「最終的全面解決」など、ハンセン病問題において、果たしてあり得るのだろうか。廣島正さん(熊本近代史研究会会員)が、二〇〇一年一二月三〇日の『熊本日日新聞』に、拙著『朝鮮ハンセン病史―日本植民地下の小鹿島―』(未來社)を取り上げ、「……旧植民地の患者への謝罪と補償がどうしても必要」という結末の文には共感した。しかし、書評の冒頭で、「熊本裁判判決への控訴を断念し、国家賠償を受け入れた小泉首相らの『勇断』は、情に通じた心温まる話題であった」のくだりは、私は、大いに異議ありといわざるを得ない。

「熊本判決」のあった五月一一日の前夜から、私は熊本にいて、菊池恵楓園の納骨堂にお参りし、その左手にある釣鐘堂の「釣鐘」を何回も撞いた。そのあと、熊本市内公園での判決前夜の集会に参加した。
鹿児島県にある星塚敬愛園からきていた玉城シゲさん(八二歳)といっしょになった。私は、玉城さんに言った。「明日の判決がどう出ようとも、『歴史』は完全に、原告の勝訴をいっているのだから……。今回、『ハンセン病と人権―長島愛生園のあゆみ―』(福山市人権平和資料館)を書いてみて、間違いなく歴史による勝訴を確信したんだから……」と。
だから、翌一一日、「勝訴」とかいた縦長の紙をかざして、男女の弁護士が裁判所の部屋から飛び出してきて、別の弁護士が「熊本判決の要趣」のビラを配ってくれたが、それを見たとき、一方では、私の前のいる原告たちと喜びあった。しかし、その一方で、私の後ろにいたハンセン病にかかわってきた青年たちには、たいへんきびしい顔でこう言っていた。
「『……遅くとも一九六〇年には、強制隔離政策とその根拠となった「らい予防法」は、日本国憲法に違反、更に遅くとも一九六五年には「らい予防法」は違憲となった』とした範囲で、国の国家賠償を認めたのだ。朝鮮のハンセン病患者たちにとっては、よろこぶことの出来ないような内容だ……。この裁判は違憲訴訟だからな」と。

二〇年の「除斥期間」は、「杉山判決」で否定されたけれど、一九六〇年以前に、日本政府により「強制隔離」され、強制労働と断種、堕胎を強制されてかつ、一九六〇年以前に死んでいる人に対して、あるいは、日本の「統治下」だった朝鮮のハンセン病で、強制収容された人びとには、なぜ国家賠償の対象にならないのか。「判決」を聞いたとき、こころをよぎったのはそのことであり、後ろにいた若者たちにきびしい顔をして、「全面勝訴」なるものを、こころから喜べなかったのも、そのためである。

「控訴断念」した小泉首相は、幾度か厚生大臣を経験した人物である。大谷藤郎にいたっては、一九七二年から医務局長を辞するための間、一三年の長きにわたって、上級厚生官僚の地位にあった。そして、その間、一度として「らい予防法」の廃止を局内外にも、(もちろん、国会にも)提案してはいない。
ところで、「らい予防法」違憲国家賠償請求事件西日本弁護団代表の徳田靖之弁護士は、一九九九年一〇月一〇日・栗生楽泉園において、「大谷証言について」講演をしている。その中で、次のようにいっている。

「……私は(大谷)先生の言われた『裁判の勝ち負けを超えて、歴史的事実を明らかにしていく』ことの重みを全身で感じとり、」『和泉先生、大谷先生、そして犀川先生と続く歴史的証言の積み重ね』によって、もはや原告の勝利は動かしがたいものになったと言って過言ではありません」(『証人調書@大谷藤郎証言』皓星社、二〇ページ)。

大谷が,「らい予防法」その法律を廃止することのみに専念し、「歴史的真実を明らかにして」国の責任を明確にすることを回避したことは、大谷が座長となり、八回にわたる『らい予防法見直し検討会議事録』(一九九五年七月六日〜一二月八日)で果たした大谷の役割りを読めば、徳田弁護士のような発言は、出来なかったはずである。
「熊本裁判」は、戦前・戦後、すさまじいまでの人権侵害を受けてきた「原告証言」と、前記の医学関係者の証言により、「勝訴」したものと考えている。しかし、裁判を通じ、社会構造に基づいた(特に、国家官僚組織がおかした)犯罪的ハンセン病施策を断罪することは、曖昧にされたまま、今後の「真相究明」の課題として、残された。
また、私がいま手掛けている「日本植民地下の朝鮮のハンセン病施策」の問題・歴史は、ほんの端緒についたばかりである。

つまるところ、ハンセン病問題に関する「真相究明」は、まったくといってなされていないといっていい。熊本中央法律事務所の国宗直子弁護士は、私が最も信頼している弁護士のひとりだが、その「国宗直子弁護士ホームページ」のなかに書かれている、「ハンセン病のたたかいと勝利」(自由法曹団物語 第一次原稿、二〇〇一.一〇.二六)のなかでは、次のように書かれてある。
「真相究明の課題とも関連して、朝鮮や台湾の旧植民地で行なわれた隔離政策の問題がある。日本での急激な解決への動きは、韓国でも注目され、韓国でこの問題に取り組む団体との交流も始まっている」と。

 西日本訴訟弁護団が、いったいどのような「韓国でこの問題に取り組む団体との交流」を具体的に始めたのか、私は知らない。韓星協同会(ソウル特別市瑞草区良才洞)と、支援団体「小鹿島を愛する人びとの会」の何名かが、熊本を訪問し弁護団と懇談したとは、新聞記事によって、知っている。ところが、朝鮮を侵略し、植民地にしておいて、かつまた、ハンセン病患者に虐待の限りをつくした日本人の、原告弁護団として一度でも、朝鮮半島の同じ苦しみをもつ朝鮮の元ハンセン病の人びとや、その実態を知ろうと、現地へ行こうとしたことがあるのだろうか。
戦後補償の裁判をしても、「勝訴」する可能性は容易ではない。そして、国から弁護士は金が入らないかもしれない。しかし、日本ハンセン病政策の過ちが、そこには、あるのであるから、国内だけの実態だけをみるのではなく、日本植民地下におけるハンセン病施策のことも、視野に入れて欲しかったと思うのは、私ひとりだけであろうか。「違憲訴訟」ではなく、旧憲法時代の事実裁判になろう。それを原告弁護団が回避したのは、原告弁護団に巣くう「自国民中心・一国思想」が禍しているのかもしれない。この問題に、国宗弁護士は、ぜひ答えて欲しいと思う。

 いま一つの問題は、「最終的全面解決」ということばの氾濫である。
 二〇〇一年六月二十九日、ハンセン病違憲国賠訴訟全国原告団協議会、全国ハンセン病療養所協議会、ハンセン病違憲国賠訴訟全国弁護団連絡会の三団体が、「全面解決要求実現のための協議について」が発表されている(『復権への日月・ハンセン病患者の闘いの記録』、光陽出版社、三九六〜三九八ページ)。このなかには,どこを見ても、かつての日本植民地において残虐な仕打ちを受けた人たちの救済について、書かれていない。日本の新聞も、「全面解決」で、ハンセン病の問題は終わったかの報道を流している。これでよいのであろうか。もう一度、戦後補償の一環として、ハンセン病裁判を考え直す必要を感じている。

 国会はどうか。昨年(二〇〇一年)六月の「国会決議」は、野党案にあった「真相究明」が落ちて、「謝罪」と「昭和六〇年の最高裁云々」が書き加わり、反対もなく、衆・参両議院の議員の全会一致で、これを通してしまった。「補償法案」は、無所属の川田悦子議員が反対しただけで、これまた短期間で、国会を通過した。証人や参考人を呼ぶことの出来る「国政調査権」を放棄して、政府・官僚に「真相究明」の課題を譲り渡したのであろうか。「国会決議」にも、「補償法案」にも、日本植民地におけるハンセン病患者に侵した残虐性も、人権無視の仕打ちなどは書かれていないし、それについての「謝罪」もしていない。

 二〇〇一年(昨年)四月一九日、日本共産党が厚生労働省ハンセン病担当者と「公開レクチャー」を国会議員会館で行い、私も要請を受けて出席した。席上、
「……植民地下の韓国などの元ハンセン病患者の実態調査を行ったのか。また補償はどうなるのか。」という質問に対する厚生労働省職員の答えは、
「全然知らない。何も資料はない。実態調査も行っていない。日本では援護局に聞いてみる。話題にもなっていない。」ということだった。

 ところで、「二〇〇一年五月二九日の衆議院厚生労働委員会会議録」第一五号で、瀬古由紀子議員(共産党)の質問に答え、坂口厚生労働大臣は「戦前の韓国におけるハンセン病対策につきましては、現在その具体的内容を十分に把握しておりません。今後、ハンセン病問題の歴史を検証していく中で、御指摘の点につきましても取り扱いを検討してまいりたいと思います」と答えているにとどまっている。
  
 さらに、同年六月一一日の衆議院厚生労働委員会で、中川智子議員(社民党)の質問に対して、桝屋副大臣は「今日はずっとこの委員会で、ハンセン病一連の九十年の歴史というものをしっかりと検証してもらいたい、こういう強い要請をいただいております。今、私の頭にあること以上のことを(中川)委員はおっしゃいまして、韓国の状況もまたつまびらかにしてもらいたい、こういう御要請をいただいたわけであります。検証するための委員会、この活動の中で考えていくべきだというふうに私は思っております。突然伺われまして、戦争中における韓国でのハンセン病の実態というものはどういうものか、私もつまびらかにしておりません。」と答弁している。
 政府は、日本植民地下において、朝鮮人ハンセン病患者に人権侵害のかずかずの施策について、なにも知らないのだ。あるいは、知らないふりをしているのかもしれない。そして、原告弁護団も、その支援者も、国会議員たちも、もちろん政府・官僚たちも、残虐を極めた日本植民地下の朝鮮ハンセン病患者に対する施策とその実行の追及を、ほとんどしないまま、「自国民・一国思想」に終始してきていきたように思われる。ハンセン病問題の「最終的全面解決」というの活字を見るたびに、いやな気がしてならない。国内のハンセン病のことだって、「真相究明」は、その緒についたばかりというのに……。いわんや、日本に侵略され、植民地・占領地となっていたアジア・太平洋地域のハンセン病患者の犠牲にされた国家犯罪は、まったく見過ごされてきた。これが、「今次裁判」をめぐっての実相である。

 

二、緒方直人さんに学ぶ

 緒方直人さんのことは、栗原 彬編『証言 水俣病』岩波新書などで、読んで知っていたが、この度、『チッソは私であった』という書名で、葦書房から単行本で発刊され(二〇〇一年一〇月)、大いに考えさせられた。緒方さんは、著書のなかで次のように書いている。

 「加害責任」に対して被害者の側から「救済」が要求され、それを支える「支援運動」があり、どうも「救済の権利」という捉え方に避け難く変化してきたんじゃないかという気がします。これは水俣だけじゃなくていろいろなところで感じます。しかも、当事者、本人である被害者・患者たちより、ひまわりのバッチをつけた弁護士という人たちが幅をきかして手続きに乗っけていく。当事者同士が顔を合わせて思いをぶつけるとか訴えるというより、裁判や認定制度、行政不服審査請求、(中略)そうした仕組みの中の水俣病になってしまったのではないかという危惧を強く持ちました。(四六ページ)

 この水俣病四十年というときにあたって、「和解による全面解決」という言葉が新聞紙上やテレビの上でもまかり通って、水俣病は終わったんだという受けとめ方が流布されつつあるように思います。私は、「全面解決」というようなことが水俣病事件にあり得るんだろうかと考えてきました。「解決」という言葉に対しても抵抗を感じました。要するに「終わりにする」ということの上品ないい方に過ぎないんじゃないかと。(五四ページ)

 このことは、ハンセン病問題を考える上にも、非常に示唆に富むように思う。ハンセン病問題を考えるとき、果たして「全面解決」、「最終的全面解決」ということがあり得るのだろうか。小泉首相ら政界および財界は、都議会選挙と参議院選挙を前にして、仕組んだ「控訴断念」ではなかったのかと思われてくる。だから、『熊本日日新聞』で拙著『朝鮮ハンセン病史』の書評の冒頭で、「熊本地裁判決への控訴を断念し、国家賠償を受け入れた小泉首相らの『勇断』は、情に通じた心温まる話題」と書かれると、とても違和感がするのである。なにから、なにまで挙げての「ハンセン病問題の早期解決」の大合唱のなかで、国会の議員が、時間をかけて審議、討論することもなく、「国会決議」が全員一致で可決された。つづいて「補償法案」が、(川田議員ただ一人の反対もあったが、)これまた、短時間の審議のうちに国会を通ってしまうという構図は、国の唯一の立法機関で、「審議」してことを決める国会という「国権の最高機関」の場を、国会議員が放棄してしまった感がある。この一〇年ばかり、ハンセン病問題に取り組んできた私だが、このことは、決して誉められたことではない。
 「ドイツは戦犯をとことん追及するにあたり、刑法を改正して『謀殺罪』一般の時効をなくした。……細菌戦用の人体実験を重ねた七三一部隊の幹部の責任が、なぜ問われなかったのか。戦後の日本で戦争責任の追及があいまいなまま終わった」と、ゲプハルト・ヒールシャーさんは述べている(二〇〇二年一月八日『朝日新聞』より)。国会は、戦後補償問題を考えるに当り、戦時における国家犯罪の「時効」をなくし、植民地支配下の人権無視の国の責任を、法廷で裁く途の立法化を図るべきであろう。

 

三、誇りうる人間の血は、涸れずにあった。

 ここ二年間の体験ではあったが、熊本地裁と岡山地裁との傍聴をつづけて、すばらしい方がたとの出会いがあり、感動した場をもつことも多かった。数十年の隔離政策の犠牲にされても、なお、誇りうる人間の血は、涸れずにあったということを、何人もの原告となられた人がたから学ぶことが出来た。
「あたたかい人間の心臓を引裂かれ、そこへくだらない嘲笑の唾まではきかけられた夜の悪夢のうちにも、なお人間の血は、涸れずにあった」(「水平社宣言」)との思想を、原告の方のなかに、(「宣言」を読んだわけではないのに、)身につけていらしたことに出くわすことが、とても感動的であった。

 「垂れ幕に、自分の思いを書いて来たのだけど、いっしょに門の前に立ってくれる?」星塚敬愛園からきた原告の上野正子さんは、私に言う。星塚から乗ってきた自動車から、取り出してきた垂れ幕には、「光を求めて、扉を開かん」と、聖書のなかからではないかと思われる一節が書かれてある。
「これを持ってくれる?」と、上野さんは私に言う。車に酔って食べたものを吐くので、前日から何も食べずに車で星塚から来たというのに、上野さんは、裁判の傍聴に欠かさず鹿児島からやって来る。熊本地裁正門前の集会で、「光を求めて、扉を開かん」の垂れ幕を持つ上野さんの写真は、全国紙の一面に大きく載った。さわやかな顔をした上野さんが、そこに映し出されていた。
 
初めての東京行きで、もちろん、国会議員会館に行くのは初めてなのに、「玉城シゲです」と、多くの国会議員に対して自分の名刺を渡す。その国会議員に、自分が若くして星塚敬愛園に収容され、結婚後、産んだばかりの我が子が、病院の職員たちの手で殺されてゆくことの無念さを語る八十二歳の玉城シゲさん。夕方には、坂口厚生労働大臣にも、その医師たちのおこなった酷いことを話し、それも坂口厚労大臣のこころを動かしたと新聞は報じていた。そして、このことが、「控訴断念」の契機となったという。

「なお人間の血は、涸れずにあった」、「人の世に熱あれ、人間に光あれ」ということを、身をもって教えてくれた上野正子さんや玉城シゲさんに、ありがとうございましたという思いがしてならない。権力におもねることなく幾十年も生きつづけてきた生きざまから、私は、教えられることの多かったこの二年間であった。