財団法人 日弁連法務研究財団・ハンセン病問題に関する検証会議著・発行『2003年度ハンセン病問題検証会議報告書』(2004年4月)への意見書・質問書

                       人権図書館・広島青丘文庫 主宰
                             滝尾 英二(2004年6月11日)


『2003年度ハンセン病問題検証会議報告書』(2004年4月)―以下「検証報告書」という、264ページには、「第1 旧植民地におけるハンセン病患者の処遇と政策」の「一 韓国」の項をたてて、つぎのように記述がされている。

「日本のハンセン病対策の全体像を明らかにする一助として、植民地時代における韓国のハンセン病対策について現地調査と文献調査を行った。現地調査では元患者や関係者を訪ねて聞き取り調査を行い、関係資料を収集した。」と書かれている。(下線は、滝尾)

質問1(以下、「Q1」という)=「植民地時代における韓国のハンセン病対策について現地調査と文献調査」は、「日本のハンセン病対策の全体像を明らかにする一助」に過ぎないのか。

「一助」とは、「ちょっとした助け。何かのたし」と『広辞苑』第四版)とには書かれているが、滝尾は「日本のハンセン病対策の全体像を明らかにする一助として、植民地時代における韓国のハンセン病対策」とは考えていない。
  滝尾英二編・解説『植民地下朝鮮におけるハンセン病資料集成』全8巻(2003年7月完結)の不二出版の「宣伝パンフ」の冒頭文には、「植民地においてよりストレートに遂行された日本のハンセン病政策の本質を明らかにする基本資料として刊行する」と書かれ、また、2004年5月27日の『中国新聞』の文化欄には、「滝尾さんは『日本統治下での強制隔離による被害は過酷を極めた。〜日本のハンセン病政策の本質は植民地でよりストレートな形であらわれている』と話している」と書いている。

  2003年12月25日には、ハンセン病小鹿島更生園補償請求弁護団は次のような「声明」を出している。

『本日、韓国の小鹿島にある国立ソロクト病院に在住している入所者28名について「ハンセン病補償法」による補償請求を行った。第二次世界大戦前日本が統治していた地域の療養所からの請求はこれが初めてである。
 国立ソロクト病院の前身は、「小鹿島更生園」だった。「小鹿島更生園」は、1907年以来日本政府が取ってきたハンセン病に対する強制隔離政策の一環として日本政府によって作られた。日本統治下の朝鮮でも、日本国内と同様に、ハンセン病患者は小鹿島更生園へ集められ、作業を強いられ、懲罰が加えられ、結婚の条件としての断種も行われた。だが、入所者の処遇は植民地であっただけに日本国内よりもいっそう過酷を極めた。逃走を試みた者は監禁されただけではなく、死にいたるほどの暴行が加えられ、作業の過程でも日常的に入所者に暴行が振るわれた。懲罰としての断種も加えられた。園内に作られた神社への礼拝が強制され信教の自由も否定された。日本語をしゃべらなければ診療も拒否された。今回補償請求を行った28名は、いずれも日本の植民地時代に小鹿島更生園に収容され、過酷な処遇に耐えて生き抜いてこられた方々である。

 ハンセン病補償法は、わが国が取った強制隔離政策が「ハンセン病の患者であった者等にいたずらに耐え難い苦痛と苦難」を与えてきたことの反省から、「ハンセン病の患者であった者等のいやし難い心身の傷跡の回復と今後の生活の平穏に資することを希求して、ハンセン病療養所入所者等がこれまでに被った精神的苦痛を慰謝するとともに、ハンセン病の患者であった者等の名誉の回復及び福祉の増進を図り、あわせて、死没者に対する追悼の意を表するため」に制定された。このために同法は、収容された時期、収容された療養所、国籍、居住地の違いを一切問わず、「耐え難い苦痛と苦難を」経験したすべての者に相当な補償をすることを目的としているのである。日本統治下に強制隔離を受けた本日の請求者の方々も、当然この補償の対象となるべき方々である』と。

  「検証報告書」は、滝尾がいう「日本のハンセン病政策の本質は植民地でよりストレートな形であらわれている」とか、「ハンセン病小鹿島更生園補償請求弁護団」の見解と異なり、「日本のハンセン病対策の全体像を明らかにする一助として、植民地時代における韓国のハンセン病対策」として位置づけている。つまり、「一助=ちょっとした助け、何かのたし」として「植民地時代の日本ハンセン病対策について」捉えている。このことに関して果たして「〜一助として」がッ植民地時代における韓国のハンセン病対策の正しいにんしきかを質問するので、ご回答していただきたい。

  この「検証会議」の「日本植民地におけるハンセン病対策」を「日本のハンセン病対策の全体像を明らかにする一助」の思想は、2003年度「検証報告書」の「第一 旧植民地におけるハンセン病患者の処遇と政策」を執筆担当者(2002年度の『〜検討経過報告書』からして、執筆者は、魯紅梅検討会委員だと思われるが〜)だけにとどまらず、検証会議委員および検討会委員の全員として認識することができよう。2002年度の『〜検討経過報告書』は、報告書は記名されていたが、2003年度の『報告書』には記名は無いし、かつ、『2003年度中間報告書検討会』を幾度も行なっているからである(2003年度『報告書』331〜332ページ)。

 「一助として〜」云々の『検証会議報告書』のハンセン病政策に関する基本的認識の誤りだと考えるが、このことは、滝尾英二著『小鹿島更生園強制収容患者の被害事実とその責任所在』人権図書館・広島青丘文庫(2003年5月発行)A5判・170ページを参照されたい。

Q2=「検証報告書」は、「植民地時代における韓国のハンセン病対策について現地調査」をしたと述べられている。ところが、「第十三 療養所における検証会議実施報告」の「検証報告書」284〜316ページには、(その中には、今後の予定も書かれているが)、調査年月日、調査参加者の名前、入所者の「証言」などが記載されている。また、『菊池野』2004年6月号(通巻第591号)には、「二〇〇三年度ハンセン病問題検証会議報告書案の概要」が、23ページにわたって掲載されている。

 その「〜検証会議報告書案の概要」では、「平成十六年一月末現在、多くの園ではほぼ予定調査を完了し、七〇〇通余りの調査票が返送されている。(中略)強制収容された方々、それも四〇〇〇人近い方々から、その受けられた精神的、肉体的、社会的被害というものを直接、聴き取りしたというような調査は、世界的のも例を見ない。本調査が世界の強制収容政策の廃絶に及ぼす影響は画期的なものがあるといっても過言ではない」と自画自賛している(『菊池野』2004・6、24ページ)。
 「検証会議委員で、検討会委員も兼任している藤野豊富山国際大学助教授は、1999年10月に発行された『九〇年目の真実―ハンセン病患者隔離政策の責任』かもがわ出版のなかで、つぎのように述べている。

  「〜誤った隔離や断種、患者虐待、虐殺、この犠牲者は日本国内だけではないということです。日本は、朝鮮、台湾、太平洋の占領地にも療養所をつくっていますが、これらの地においては、国内以上のことがおこなわれています。」(「V 存在が許されなかった命の歴史」134ページ)。

  ところが、検証会議は、「第十三 療養所における検証会議実施報告」を「設立当初から全国13の国立ハンセン病療養所のすべてを訪問し、訪問先の療養所で会議を開催して入所者らから「生の声」を直接聞き取る方針を決めた」(「検証報告書」284ページ)と云いながら、日本植民地で、国立療養所であった小鹿島更生園や台湾の療養所である楽生院の聞き取り調査を国内のようなかたちでは実施していない。それは何故か、回答して欲しい。今年5月25〜29日に、検証会議委員の一人がソロクト病院を訪問しているが、これは、検証会議から派遣されたものか、個人的資格でソロクトを訪問したものか、伺いたい。

Q3=「植民地時代における韓国のハンセン病対策について現地調査」し、「現地では元患者や関係者を訪ねて聞き取り調査」を行い、関連資料を収集した」とある(「検証報告書」264ページ)。しかし、これには、「調査年月日、調査参加者の名前、入所者の証言」が一切書かれていない。これについて具体的に「調査年月日、調査参加者の名前、入所者の証言内容」を具体的に実施内容を明示してもらいたい。そして、その回答してもらいたい。

Q4=「検証報告書」は、〜文献は、『あゝ、70年―輝かしき、悲しみの小鹿島』とともに、『朝鮮ハンセン病史―日本植民地下の小鹿島』(滝尾英二、未来社、2001)など日韓双方の現代の出版物を参考にした。また、可能なかぎり当時のハンセン病関連の記録も探索し、利用した。なお、1942年から終戦までの小鹿島更生園の年報が見あたらないため、本稿では該当の統計が欠けている」など、書いている。これらは、全くの「捏造」としか言いようがない。なぜなら、滝尾の『朝鮮ハンセン病史』(未来社)の194〜195ページには、小鹿島更生園収容者の死亡数、死亡率(%)を〔表4〕として、1931年から敗戦の1945年の収容者数、死亡者数、百分比(%)を小鹿島更生園『昭和十六年年報』(1942年)と中央癩療養所小鹿島更生園『国務概況』(1950年)を参照して作成している。

  ちなみに、1943年の総数は5575名、死亡数は399名、死亡率は7・61%。1944年の総数は5407名、死亡数は412名、死亡率7・61(%)。1945年の総数は4416名、死亡数は931名、死亡率21・08(%)である。同書に註記しているように、この統計の紹介は、既に、滝尾英二編著『日帝下朝鮮の「癩」政策と小鹿島に生きた人びと』(1995年)の21〜24ページに詳述している。この『〜小鹿島に生きた人びと』(1995年)は、高松宮記念ハンセン病資料館にも、長島愛生園の愛生編集部資料室にも寄贈しているので、容易に閲覧可能なものである。なお、「解放後=1945年」の1949年以来の「保健部、中央癩療養所・小鹿島更生園、国立更生園、国立療養所更生園、国立癩病院、国立小鹿島病院と名称は変わっているが、その年々の「年報」の類か発行され、現在の国立小鹿島病院資料室にも、人権図書館・広島青丘文庫にも保管されていること、それらから、日本統治時代の「統計資料」が書かれていることがあるのに、「検証報告書」は、なぜ、「『朝鮮ハンセン病史―日本植民地下の小鹿島』(滝尾英二、未来社、2001)など日韓双方の現代の出版物を参考にした。また、可能なかぎり当時のハンセン病関連の記録も探索し、利用した。なお、1942年から終戦までの小鹿島更生園の年報が見あたらないため、本稿では該当の統計が欠けている」など、臆面も無く書いているのだろうか。この件のご回答をお願いする。

 Q5=そればかりではない。「検証報告書」は、279ページに、「グラフ1:小鹿島慈恵医院の死亡率(1917−1933)」を挙げている。花井善吉園長時代の慈恵医院期の死亡率は、低かったが、小鹿島更生園の戦争末期ともなると、前述したように、急激に死亡率は高くなり、敗戦の前年の1944年の死亡数は、412名(死亡率は7・61%)、1945年の死亡数は、931名(死亡率は21・08%)に及んでいる。ところが、「検証報告書」は、小鹿島慈恵医院の死亡率(〜1933年まで)しか挙げていない。しかも、引用資料に、小鹿島更生園『昭和十六年年報』とある。この『年報』には、1941年までの「累年収容患者死亡率表(昭和十六年十二月末調)があげられている(70〜72ページ、滝尾英二編『植民地下朝鮮におけるハンセン病資料集成』不二出版、第2巻、390〜392ページ収録)。

  統計資料が見付からなかったというのなら、滝尾英二編・解説『植民地下朝鮮におけるハンセン病資料集成』全8巻(2003年7月完結)の不二出版の第1巻、第2巻に収録した『各年年報』を見れば書けるはずである。「グラフ1:小鹿島慈恵医院の死亡率」として、日本ファシズムの高揚期の「小鹿島更生園時代」における死亡率をなぜに欠落させるのか。これは、歴史的時日を「歪曲・隠蔽」だと言われても仕方があるまい。なお、拙著『小鹿島更生園強制収容患者の被害事実とその責任所在』人権図書館・広島青丘文庫(2004年5月)発行の37〜40ページに「死亡患者の増大」として、日本植民地下の死亡患者および死亡率について叙述している。この本は、今年の5月26日に、検証会議の金平輝子座長宛てに滝尾から事務局を通して寄贈している。このことは「検証会議」委員は既にご存知のはずである。「検証会議」のこの問題の見解と回答を聞きたい。

Q6=「検証報告書」は、279ページの「グラフ2:の治癒・軽快退院率(1920−1941)」についても言えよう。1934年9月14日、「勅令第260号」により朝鮮総督府癩療養所を朝鮮総督の管理とし、官制公布に伴い、府令により小鹿島慈恵医院は小鹿島更生園と改称し、国立癩療養所となっている。したがって、1920−1941年の統計であれば、「小鹿島慈恵医院・小鹿島更生園」としなければ間違いである。さらに、「治癒」と「軽快」を併記することもおかしなことである。そのことについては、拙著『〜被害事実とその責任所在』の中で、『昭和十年年報』以降、周防正季園長によって、歴史記述の改ざんを書いている。このことを踏まえて、なぜ「治癒」と「軽快」を併記する「グラフ2」の題名としたかについても、ご回答いただきたい。

【註=滝尾】『昭和四年度・小鹿島慈恵員概況』の記載中、「七、累年収容癩患者人員転帰別表(昭和四年十二月末調)」の表中には、大正十一年以来昭和四年まで、「治癒退院」が計二九名と書かれていた。ところが、第四代周防正季園長時代作成の小鹿島更生園『昭和十年年報』以降の記載の「五、開園以来収容患者ノ転帰及異動別表」には、「大正十一年以来昭和四年まで、「治癒退院」が計二九名」と書かれていた過去の事実まで抹消し、これをすべて「軽快退園」と書き換えている。
これは過去の事実にさかのぼり「改ざん」である。第四代園長周防正季の「癩病は治らぬもの、治癒退院はありえない」という絶対隔離収容の考えから過去の記述までも行なった「改ざん」だと思う。金昌洙の『東亜日報』の記事も、「改ざん」された小鹿島更生園『年報』の記載によったものとおもわれる。

Q7=「検証報告書」は、270ページにおいて、次のように書いている。「治癒退院率も1940年、1941年はわずか0・02%で」云々。私の浅学ゆえか、この「治癒退院率も1940年、1941年はわずか0・02%で」云々という出典が分からない。当時の小鹿島更生園の収容患者数は、約六千名であるから、「治癒退院率0・02%」は、実数でいうと百二十名の「治癒退院」者がいたということになる。しかし、『小鹿島更生園年報』の『昭和十五年年報』および『昭和十六年年報』の「五、開園以来収容患者ノ転帰及移動別表」を見る限り、両年の「治療退園」=ゼロ。「軽快退園」2名に過ぎない。1939年度=『昭和十四年年報』の記載が「治癒退園」(44〜46ページ)が、1940年度から「治療退園」と記述が変えられているが、小鹿島更生園それにしても、開園以来から「昭和十六年十二月末」までの「治癒(治療)退園」者数は、男女=ゼロ。「軽快退園」者数は男=242名、女=25名である。「検証会議」はいずれの資料から、「治癒退院率も1940年、1941年はわずか0・02%で」云々の資料を得たのか、回答していただきたい。1940年と1941年の「治癒退院者」が二百名を越すということになれば、「事故退園」、「逃走」はあったが、小鹿島更生園の収容患者の「治癒退院」者が二百名を越したとなると、滝尾の「小鹿島更生園」認識を変えなければならないことであるので、「検証会議」からのご回答をお願いする。また、「治癒退院率」がわずか0・02%であることが、(私は二年間で「治癒退園者」が二百余名出たことは、驚きであるが〜)、「検証報告書」がいう「『ひもじさ・強制労働に強いられた時期であるのを表している』ということになるのかも、「検討会議」の見解を聞きたいと思う。(1935年以来、「逃走」者が激増したというのなら、理解できるのだが〜)。

Q8=「検証報告書」の269ページには、「小鹿島慈恵医院は1935年には3,770人を収容する施設となった。この拡張期間(第1次拡張工事)には資金が豊富であったため、患者待遇もよく、治療も通常通り行われたという。」と書かれていることに、事実を知らない「検証会議」の知識・認識のいい加減さを感じた。どのように「患者待遇もよく、治療も通常通り行なわれたという」のか、明示して欲しい。「検証報告書」は、264ページで、「植民地時代における韓国ハンセン病対策に関する評価は分かれる」としているが、書かれた意図を知りたいので、明示して回答して欲しい。

A、第一、「検証報告書」のいう「小鹿島慈恵医院」は、1935年には前述したごとく、1934年10月1日には、小鹿島更生園と改称しているのであるから、「小鹿島更生園」と書かねばならない。「検証報告書」は、そうした基礎的知識さえないのではあるまいか。反論があれば、述べてもらいたい。

B、第二、「検証報告書」は例えば友邦協会は「総督府施政の輝かしい一面」と主張し、滝尾は「日本統治者の残虐性・非人間性の施策」と批判する。本稿ではこれらの先行研究を客観的に参考しながら、記録・資料を調査した。これに基づいて韓国におけるハンセン病対策を述べる」と、さも「先行研究を客観的に参考しながら、記録・資料を調査した」と称しながら、長島愛生園の書紀・宮川量に小鹿島更生園の入所者であった三井輝一が語った1935年9月の記録(滝尾編『〜朝鮮ハンセン病資料集成』不二出版、第6巻、資料五三・200〜203ページ)の「三大問題」を基本資料(=三井輝一談)で確認することなく、1996年に国立小鹿島病院編『小鹿島八〇年史』で当たっただけで書いている。「医療問題―最近治療ヲウケズシテ死ヌモノ多シ。(中略)四ヶ月イテモ診療ニハ一度トシテ来タタメシナシ。医員ハ来テ印ヲ押スノミ。役ハ看護婦、看護手ノ代行」(202)。これは、「拡張期間(第1次拡張工事)中の三井輝一の談である。この事実すら知らないで、あるいは「知っていて」知らないふりをして「患者の待遇もよく、治療も通常通り行われたという」などと虚偽の事実を「友邦協会」並みに記述していることを銘記すべきである。この点について「検証会議」の見解を聞きたい。

  拙著『小鹿島更生園強制収容患者の被害事実とその責任所在』人権図書館・広島青丘文庫(2004年5月)の「医療・看護態勢の不備と診療の放置、死亡患者の増大」(32〜44ページ)において、詳述しているように、小鹿島更生園(慈恵医院)の担当職員数は、第1次拡張工事期間も著しく欠如していた。

  その事実は、同書40ページの「小鹿島更生園と栗生楽泉園の一人当り患者数の比較統計」や、36ページの「医療の欠如―職員一人当りの患者数―」の統計数字からでも明らかである。一九三四年度の医員数は4名、収容患者数(現員)は、二一九八名となっている。これで、「この拡張期間(第1次拡張工事)には資金が豊富であったため、患者待遇もよく、治療も通常通り行われたと」いえるのか。資料批判なく書かれた資料を安易に引用するから、このような誤った記述を「検証報告書」はするのである。

  第1次拡張工事が終わった9ヶ月後の1936年7月、長島愛生園の書記・宮川量は小鹿島更生園に再度訪れて手記を残している(滝尾編『〜朝鮮ハンセン病資料集成』不二出版、第6巻、資料六六・240〜250ページ)。宮川量書記の手記は同年8月、長島愛生園に、患者たちが処遇改善等を要求して闘った「長島事件」が起った直前の「愛生園書記の宮川の手記」であることを考えて欲しい。拙著『小鹿島更生園強制収容患者の被害事実とその責任所在』人権図書館・広島青丘文庫(2004年5月)発行の「医療・看護態勢の不備と診療の放置、死亡患者の増大」(32〜40ページ)を参考にされたい。

Q9=「検証報告書」の266ページには「1916年から1945年まで小鹿島慈恵医院(のち更生園)には五代にわたって医師が院長(園長)になっていた。このことは日本(国内=滝尾)と異なる。日本国内のハンセン病療養所において、初期の所長は内務省の役人が担当した」と書かれている。この記述は、何を言いたくて(意図して)、このような記述をしたのか回答して欲しい。

  小鹿島慈恵医院の初代医院長・蟻川亨は陸軍一等軍医(大尉相当)であり、二代目の院長・花井善吉は陸軍二等軍医正(中佐相当)であった。三木栄編著『朝鮮医事年表』思文閣出版(1985年)の565ページの「1910年」の記事を見ると「各道慈恵医院の初代院長は以下の如し、平壌三等軍医正明石竹次郎、大邱二等軍医正松本繁正、水原三等軍医正村井静夫、公州三等軍医正田中徳次郎、光州三等軍医正秋山虎次郎、晋州一等軍医甲斐四郎、海州一等軍医牟田熊彦‥‥」という具合である。これが植民地下での医療施設の実態であった。佐久間温己氏が「初期の植民地医療における現役軍医の役割」(『日本医学史学雑誌』、1984年4月)で書かれたように、軍医が台湾・朝鮮の植民地医療に携わったという事実がある。三代目の矢澤俊一郎が九州の民間病院の医師であったが、院長であった期間は短い。四代院長(園長)の周防正季は愛知医専卒であったし、五代園長西亀三圭は京都帝国大学医学部卒の「医師」ではあったが、長期にわたり、朝鮮総督府の警務局衛生課の医務官僚から院長・園長に任命された人物である。そうしたことを抜きにして、「検証報告書」が「1916年から1945年まで小鹿島慈恵医院(のち更生園)には五代にわたって医師が院長(園長)になっていた。このことは日本(国内=滝尾)と異なる。日本国内のハンセン病療養所において、初期の所長は内務省の役人が担当した」と書くことの意味・意図が私には分からない。その辺のことをご回答願いたい。

Q10=植民地に於ける「断種」についての「検証会議」の記述についてである。これは何点か質問する。なぜなら、植民地下ハンセン病患者に行なった「断種」の被害は現在もなお、深刻な問題として小鹿島病院入所者の上に存在しているからである。そのことについては、拙著『小鹿島更生園強制収容患者の被害事実とその責任所在』人権図書館・広島青丘文庫(2004年5月)発行の「第二節 断種・堕胎と優生思想」24〜30ページや『世界』2004年4月号掲載「小鹿島ハンセン病補償請求が問うもの 滝尾英二」217〜225ページの中でも触れておいた。

  はじめに、「検証報告書」が日本植民地のハンセン病患者に行なった「断種」という残虐・非道な行為をどのように書いているかを問題としたい。「韓国」の項では、実に平板的に271〜272ページに十二行ほど記述している。そして、「1937年までには『断種』手術を受けた夫婦は471組に達した。その根拠は幼児に感染しやすいという医学的な論理だけであった」と「断種」の項末に記述されている。果たしてこうした「検証会議」の記述は適切を著しく欠くと思われる。また、植民地台湾の「断種」についての記載は一切ない。台湾では、「断種」は行なわれなかったという検証会議の見解なのか。

 「検証会議」委員には藤野豊さん(富山国際大学助教授)がおり、同検討会委員には、藤野豊さんや、松原洋子さん(立命館大学大学院教授)がいらっしゃる。このお二人とも「優生思想・政策」についての著書や論文をお書きの学者である(「検証報告文」331〜332ページ)。2003年度検証会議は、第9回〜第11回まで「2003年度中間報告書案の検討、同最終案の検討」がなされている。また、2003年度検討会は、本年1月14日から2月4日まで4回にわたって「2003年度中間報告書の検討」を行なっている(「検証報告書」339〜342ページ)。そのことを踏まえてご回答いただきたい。

Q11=「検証報告書」は、小鹿島更生園『昭和十二年年報』の記載された内容から、「1937年までには『断種』手術を受けた夫婦は471組に達した」とのみ書いている。しかし、『昭和十六年年報』には、断種手術を受けた夫婦は「840組」に達しており、そのことは、『文化朝鮮』1942年5月掲載の相馬美知「小鹿島更生園訪問記」の記述でも明らかである。なぜ、1937年以降、増加した「断種」による夫婦同居のことを「検証報告書」は書かないのか。それはなぜなのか、回答を願いたい。

「今、夫婦同居者はどれ位ですか」という相馬美知の質問に、高橋補導課長は「そうですね。八百五六十組かと思います。」と答えている(滝尾編『〜朝鮮ハンセン病資料集成』不二出版、第6巻、資料九六、385ページ収録)。

Q12=「検証報告書」は、小鹿島更生園当局がいう断種する「根拠に幼児に感染しやすいという医学的な論理だけであった」とのみ記述しているに過ぎない。植民地朝鮮の「断種」は、国内と異なり、処罰としての「断種」が公然と行なわれていることである。「収容患者心得」に違反し、「監禁室」に入れられて期限が来て出された時、看護手たちによって行なわれた。それは、歳ゆかない少年にまでも適応されている。特に、「逃走」者が多くなる1935年以降七年間(1935〜41年)の男患者の「逃走」者は280名に及んでいる(『昭和十六年年報』56〜57ページ。滝尾編『〜朝鮮ハンセン病資料集成』、第2巻、376ページ収録)。したがって、園内の「治安維持」と「絶対隔離終身収容に基づく収容患者の急増に対応した患者に対する国家管理・統制の強化」であり、「劣性」者として考えられていたハンセン病患者の家系を絶つという「絶滅政策」でもあったと私は考えている。この点についての「検証会議」としてのご見解を聞きたい。

  さらに、『世界』4月号(第725号)でも滝尾が述べておいたが、「『断種』一つとっても、その与えた苦痛というのは日本では想像もできない。族譜があったりする儒教の社会で、お家のための子孫繁栄をすべて断たれるということですから」(223ページ)という問題をも、小鹿島入所者の被害事実として、「検証会議」としてどう考えるかも、ご回答いただきたい。

Q13−「検証報告書」は、「現地調査では元患者や関係者を訪ねて聞き取り調査を行い、関連資料を収集した。日本との比較研究のため群馬県草津の栗生楽泉園や沖縄県の宮古南静園も訪ねた」と書かれている(264ページ)。しかし、「検証報告書」の「第十 旧植民地、日本占領地域におけるハンセン病政策」を見ても、「聞き取り調査」の内容も、「比較研究のため群馬県草津の栗生楽泉園や沖縄県の宮古南静園」のことも、書かれていない。滝尾がこの度、自家本として出版した『小鹿島更生園強制収容患者の被害事実とその責任所在』人権図書館・広島青丘文庫(2004年5月)には、「小鹿島病院入所者の聞き書き」も「群馬県草津の栗生楽泉園や沖縄県の宮古南静園」と小鹿島更生園との比較や関係のことを記述している。参考にされたい。

Q14=「検証報告書」は、「韓国―2 ハンセン病対策にみられる人権問題」として、「神社参拝と偶像礼拝、仏教信仰の強制」の問題をまったく欠落させている。この問題による人権侵害については、滝尾英二著『小鹿島更生園強制収容患者の被害事実とその責任所在』人権図書館・広島青丘文庫には、「第U省―第六章 神社参拝と偶像礼拝、仏教信仰の強制」(46〜50ページ)をあげて論述している。「検証報告書」にも、記述されている滝尾英二著『朝鮮ハンセン病史―日本植民地下の小鹿島』未來社(2001年9月)を先行研究だとしているが、この本には「神社参拝と仏教信仰の強制」のも記述している。なぜ、「検証報告書」は、この問題を回避した記述になっているのか、回答をお願いする。

Q15=「検証報告書」は、日本植民地下の小鹿島に収容された子どもたちについて、何も記述していない。滝尾英二著『近代日本のハンセン病と子どもたち・考』人権図書館・広島青丘文庫(2000年3月発行)は、「U 日本植民地下の小鹿島の子どもたち」章をあげて、その植民地支配下の小鹿島の子どもたちの人権と教育を受ける権利の侵害を告発している。(123〜144ページ)。ところが、「検証報告書」には、この事実がまったく書かれていない。その理由を回答して欲しい。

Q16=「現在社会におけるマスメディアの影響力からみて、ハンセン病政策に関して果たしたマスメディアの役割を検証することは、再発防止策を考える上でも必要不可欠である」と『菊池野』2004年6月号に掲載した「〜検証会議報告書案の概況」には書いている(29ページ)。このことは、滝尾も同感である。ところが、つづけて、「しかし、これには様々な困難が存する。なかでも大きいのは資料的な問題で、ハンセン病に関する報道をすべて入手することは、新聞に限っても極めて困難だという点である。このような事情から、本年度においては検証の対象を新聞報道、それも敗戦から一九五三年末に限定させていただいた」という文言は、「詭弁」というか、「検証会議委員」の横着・怠慢というか、私としては言う言葉もない。事実、「検証報告書」の199〜212ページには、「第2 マスメディアと文壇のハンセン病観」とありながら、ぬけぬけと、まあ、このように書いていて、私は愕然とした。

  「もっとも、このような観点から見た場合、各療養所の動きや自治体、警察、住民の動きなどには、全国紙よりも地方紙の方が報道量が多く、詳しいといえるかもしれない。しかし、他方、報道がその時代のハンセン病に対する社会的な態度を反映するものであり、同時に社会的な態度の形成に影響を及ぼすものであると考えるなら、当時の日本社会がおおむねどのような態度でハンセン病およびハンセン病者をとらえていたかということは全国紙の場合(場合によっては報道の不在)によって把握できるのではないかとも考えられる」(下線は滝尾)と述べ、「検索の方法であるが、検証会議「マスメディア班」の委員が、上記東京本社調査部や調査室等に保存されているマイクロフィルムや新聞切り抜き帳などをすべて閲覧しつつ、見出しを一つ一つ確認する方法で進めていった」という。

  さらに、「検証報告書」は212ページでつぎのようにも書いている。「ちなみに、来年度の課題を列挙すると、次のようになる。@敗戦から1953年末までのハンセン病に関する地方紙等の報道を検証すること  A1953年から1996年までのハンセン病に関する報道(全国紙か=滝尾)を検証する  B戦前の報道についても可能であれば検証すること(下線は滝尾)」と。
 なお、検証会議委員は、14名でその内、報道関係者は4名を占める。その報道関係者の名前と所属を示せば、次のようになる。読売新聞社 社会部次長=鈴木伸彦(今年1月より、同社 社会部都内版編集室長)、朝日新聞社 論説委員=藤森 研、毎日新聞社 論説委員=三木賢治、産経新聞社 編集局次長=宮田一雄 の四氏である。検証会議委員に質問するが、上記Q16 で述べた検証会議「マスメディア班」の調査・研究で、「ハンセン病強制隔離収容政策に果たした報道機関・関係者の役割と責任の解明」が出来ると考えているのか、私は出来ないと思慮しているが、検証会議のご見解をお聞きしたいと思うので、ご回答をしてもらいたい。

 なお、滝尾英二編・解説『植民地下朝鮮におけるハンセン病資料集成』第4巻、第5巻(2002年7月発行)不二出版は、「新聞資料編」として、『東亜日報』、『朝鮮日報』、『朝鮮中央日報』、『京城日報』、『大阪朝日新聞・南鮮版(釜山)、西北版(ソウル)』、などの報道記事を1000点余り収録し、それに「解説」を書いていること。また、適宜、日本国内で発行された戦前の新聞記事を見て、論考していることを付記する。また、毎日新聞社会部記者の斉藤貞三郎氏が、「ハンセン病と戦後マスコミ報道」と題する論文を、『月刊・むすぶ』第355号=2000年7月にロシナンテ社から、発刊されていることをお知らせする。

Q17=厚生労働省のHP〜ハンセン病に関する情報ページ〜には、「ハンセン病を正しく理解する週間」の実施について」(平成15年<=2003年滝尾加筆>5月)という通達を各都道府県宛てに出しているが、その中には、次のような記載がある。

「1、趣旨 ハンセン病に対する正しい知識の普及に努め、ハンセン病療養所入所者等の福祉の増進を図ることを目的に、病気の予防と患者の救済に特別のご関心を寄せられた貞明皇后の御誕生日である6月25日を含めた週の日曜日から土曜日までを標記週間として毎年実施してきたところである。(中略)これらを踏まえ、ハンセン病に対する正しい知識を図り啓発普及のために、標記週間を実施するものである。」

「2、実施主体  厚生労働省、各都道府県、社会福祉法人ふれあい福祉協会」

「3、実施期間  平成15年6月22日〜6月28日」

 この厚生労働省通達を見せてくれたのは、熊本県のハンセン病担当職員である。私が、熊本県が地元新聞=『熊本日日新聞』2002年6月1日に大きく新聞広告文を掲載し、貞明皇后の誕生日の前後一周間を「ハンセン病を正しく理解する週間」とする諸行事とすることに抗議して、熊本県ハンセン病担当職員と話し合われた際、示された通達文であった。ちなみに、「社会福祉法人ふれあい福祉協会」は、財団法人・藤楓協会が解散後、全国ハンセン病療養所入所者協議会=略称「全療協」も加盟している会であるという。貞明皇后の誕生日の前後一周間を「ハンセン病を正しく理解する週間」とする諸行事とすることのポスターは、昨年=2003年11月、鳥取事件」調査のために「鳥取県福祉保険部健康対策課」を訪問した際に、健康対策課の部屋に「ハンセン病を正しく理解する週間」とする諸行事とするポスターが二枚、張り出されていた。ハンセン病の啓発・啓蒙の「先進県」といわれる熊本県、鳥取県が未だに、「ハンセン病患者の絶対終身隔離の推進・実行者を激励した皇太后節子(このことについては、滝尾英二著『小鹿島更生園強制収容患者の被害事実とその責任所在』、129〜135ページ、および、滝尾英二編・解説『植民地下朝鮮におけるハンセン病資料集成』第7巻、(2003年7月発行)不二出版の「解説」5〜8ページを参照)のことの「御仁慈」を宣伝している。今なお、こうした現実がある。
 なるほど、「検証報告書」は、「1953年『らい予防法』――強制隔離収容強化の理由と責任」の「四 藤楓協会およい皇室の役割」(108〜119ページ)を詳述している。しかし、前述したような「厚生労働省通達」とそれに伴って行なわれている貞明皇后の誕生日の前後一周間を「ハンセン病を正しく理解する週間」とする諸行事に関しては不問にふしている。これはどうしたことか、検証会議に質問し、回答を求める。

  歴史研究者にとっての本来の責務は、「歴史において」問われる問題に答えること(溪内 謙著『現代史を学ぶ』岩波新書、「はじめに」)であり、E・H・カー著、清水幾太郎訳『歴史とは何か』岩波新書でいう「歴史は、現在と過去との対話である」というのも、同じ趣旨からでの言葉であろう。そうした視点に立ちご回答していただきたい。

Q18=「検証報告書」が「旧植民地におけるハンセン病患者の処遇と政策」の「一 韓国」でいう「先行研究」とはどういうものを指しているのか(264ページ)、回答してもらいたい。「滝尾英二の研究『朝鮮ハンセン病史―日本植民地下の小鹿島』ならびに『植民地下朝鮮におけるハンセン病資料集成』不二出版、2001〜2003」は、滝尾英二の研究と書かれているので「先行研究」として、検証会議は認めていると思われる。ところが、「荻原彦三編『朝鮮の救癩事業と小鹿島更生園』、財団法人友邦協会、1967」とあるところをみると、この朝鮮総督府の官僚たちの「回顧録」=それは、史料批判の上で、「資料」として利用は出来が、「研究」とはほど遠いものである。ところが、「検証報告書」は「以上のように植民地時代における韓国ハンセン病対策に関する評価は分かれる。例えば友邦協会は『総督府施策の輝かしい一面』と主張し、滝尾は『日本統治者の残忍性・非人間性の施策』と批判する。本稿ではこれらの先行研究を客観的に参考しながら、記録・資料を調査した」(264ページ)している書き方からして、この荻原彦三編『朝鮮の救癩事業と小鹿島更生園』、財団法人友邦協会、1967」の朝鮮総督府の官僚たちの戦後の『回顧録』も、検証会議は、これを「先行研究」と考えているようである。このことは、滝尾としては、迷惑な書き方でしか過ぎないことを検証会議に連絡しておきたい。
                            (以上、2004年6月11日に記す。滝尾)