「らい予防法」国賠請求資料の考察(第四集)                     



光田健輔とその直弟子たち
     ―― 長島愛生園に収容された人びとの生活と「医療」―― 

                                                                  滝  尾  英  二
協力 つむら あつこ

      は じ め に

 国立療養所長島愛生園発行『長島紀要』第十三号(一九六五年三月八日)は、「光田健輔名誉園長追悼」を特集している。収録されている「光田先生を偲んで――座談会」(八一ページ)の中で、桜井方策(長島愛生園医官)と守屋睦夫(邑久光明園長)は、それぞれ、次のように云っている。(傍線は滝尾)
 
「私は少年時代から先生の御厄介になり御生涯を厄介のかけ放しの不肖の子である。(中略)先生に二回、法律を犯した事がある。一は養育院で秘かに患者の解剖をした事。二は全生でVasektomie (ワゼクトミー―滝尾) をしたことで、警察に引ぱられるかも知れんと云っておられた」(桜井方策)。

「先生は光明の大恩人で外島保養院が壊滅したあと、大阪府は同院復旧の地を求めたが反対され、光田先生の助言もあって長島の一端に決定したのである。昭和六年(一九三一年―滝尾)、先生は愛生に、私は青松と任命の年を同じくしたのも奇しき縁である。私が青松に居った頃、神経型患者を退所した所、先生から叱られたことがあった」(守屋睦夫)。

 『長島紀要』同号には、一九六四年七月一六日、長島愛生園に於いて開催された「第三三回・瀬戸内集談会」の抄録も載せている。その中で、「『らいを正しく理解する運動』について」が掲載されているので、紹介する(七四〜七五ページ)。長島愛生園名誉園長・光田健輔(一八七六年一月〜一九六四年五月)の死の直後に開催された「第三三回・瀬戸内集談会」で、光田健輔直系の医師と療養所派の医師たちの多くが発言した報告である。これらの人びとの発言が、「世界の医学的知見」とはいかに程遠いものであったかが、如実に伺われよう。なお、発言者のあとに、( )書きしている所属名は、滝尾が書き込んだものである。

「『らいを正しく理解する運動』について」
                                   長島愛生園  塩沼英之助
 私は最近こうした運動の必要性は一般大衆よりもむしろ現在らい療養所に勤務する職員自体又は患者自体であるということを強調し度い。今日述べることは我々療養所にあって当面している問題特に予防という問題について述べた。
 最近よく入園者の側から医局職員に対してもマスクをとれとか予防着をとれとかいうことを耳にする。又自動車も職員用のものに同乗させよとか、船も職員席とか患者席とかいう区別なしに一諸に乗船をさせよとかいっている、こうした療養所に於いて直面した問題について取上げこれに対する予防面からの批判を試みた。そして物件を通じての間接伝染も考慮にいるべきことを論じ従って日本に於けるらい予防法に云う消毒法の撤廃すべからざることを述べた。
 又島の療養所の患者地帯の職員家族特に子供たちの感染発病を避くるために幼稚園、小学校に通学する官舎の子供と患者との乗船は避くべきことを述べた。
 (演説の要旨は愛生園の機関誌愛生誌昭和三九年 [一九六四年―滝尾] 九月号に所載)

 発言 山 中 太 木 (大阪医科大学微生物学教室)
光田先生の主義を益々敷衍励行して真の実践に徹せられたいと望みます。減菌操作の本質は形式ではない。実質如何です。散髪屋でMolluscum Contagiosum が感染した実証からしても、見えない所が見えるようにするのが肝要と思います。
 
野 島 泰 治 ( 大島青松園
ご意見ごもっともだと思います。職員間にライを正しく理解する運動が必要なことも同感。しかし我々病理解剖からライの学問に入った者は、所謂新しいライ医学を、そのまゝ信ずることは出来ない。

 原 田 禹 雄 (邑久光明園)
ライ菌は培養も動物接種も出来ない。従ってライ菌の性質は殆どわかっていない。感染の条件や消毒の程度もわかっていない。にも拘わらず、種々と断言する人が居るので驚かざるを得ない。わからないうちは危険を充分に防ごうとする心がまえが大切では無いか。ライを正しく理解するのは患者自身が先ず第一で無ければならない。にも拘らず、患者自身がライに対する理解は極めて皮相的で一方的なことが多い(の―滝尾)では無かろうか。
   
 桜 井 方 策 ( 長島愛生園 )
近頃、無菌なる語が軽々しく言われているが我々は無菌とは云わず、菌陰性と云っている。菌陰性かどうか。私が死亡者の各臓器を組織標本として検鏡した所では約三〇%の者に菌あり。また生存している人々で丹念に皮膚病巣から菌を調べると、五〇〇人のなかから大体二五%に有菌者があった。一斉検診で多くの患者を短期間に調べた数値一六%よりは遥かに多いのは当然だ。入園者の約四分の一が有菌である以上、しかも患者の顔面四肢にわたる広い皮膚の部面から菌が出ているが故に、消毒や予防をルーズにしていゝとの論には承服出来ない。卑近の例だが私は云っている。鉄筋コンクリートのビルに火事は殆んど起らない。がしかし消防施設はシッカリとしてある。これと同様、我らの職場でも予防消毒を厳重にすべしと私は提唱する。
    
高 島 重 孝 ( 長島愛生園 )
癩は最も伝染力の弱い慢性伝染病である。また全治しうる病気である。有菌であるものは全治していないが、その菌陽性%は意外に少ない。一度発病したら終生癩患者であると云う考え方は出来ない。療養所の管理は結核のそれに準拠すべきである。癩は結核に比して感染発病率は非常に少ない。 

 光田健輔の直弟子である塩沼英之助や桜井方策などとは違い、一九六四年七月、「瀬戸内集談会」での長島愛生園第二代園長高島重孝(一九五七年八月〜七八年四月まで、愛生園々長在職、)の発言内容は適切である。
 「癩は最も伝染力の弱い慢性伝染病である。また全治しうる病気である。(中略)一度発病したら終生癩患者であると云う考え方は出来ない。療養所の管理は結核のそれに準拠すべきである。癩は結核に比して感染発病率は非常に少ない」との見解は、長島愛生園初代園長光田健輔の意見とは、明らかに異にしている。高島は自著『愛生春風花開日』北斗志塾出版部(一九七六年)に収録した「電波にのせて」のNHK対談の中でも次のように述べている。 

【その一】NHK対談『科学者、その人と言葉』(一九六八年六月、京都大学教授・東昇との対談)

「高島 ……医学的に言えば、ほんとの、人にうつる病原菌を、即ちらい菌を体の外へ出す、隔離を要する患者は二割内外しかいません。あとは菌が出ないで、後遺症で不自由だ、こういう患者が今残っております。
東  一番大きな成果の原因は、隔離したという事だと考えていいんですか。
高島 一般には現在、そういうふうに言われていますが、これを、難かしく分析しますとそれもあるけれど、衛生状況、社会状況の変遷ですね。農村がなくなり、都市化をしたというような事。それから、下水道、上水道の発達。人間の体が清潔になったこと、栄養が向上したというようなこと、これらのいろんな条件が重なって、それで、らいの伝染が阻止されたと、そういう事ではないかと思います」(三五九ページ)。

 【その二】NHK健康百話『感染のふしぎ』(一九六九年八月、瀬戸内晴美との対談)

「瀬戸内 ……徳島で育ったもんですから、女学校も徳島高女だったんですけど、あれは女学校の二年だか、三年だったかの頃に、あの、小川正子さんですか。ずっと講演しておりまして、私の女学校にも参りまして、その講演を聞いた訳なんです。    
        (中略)
 徳島の人ってのは、弘法大師の土地柄だもんですから、大変他人に優しく親切な訳なんです。お遍路さんでよく、らい患者が家族から放逐されて、みんなあの、四国へ回ったわけなんですけれども、その人達を家にかくまって、そして重病患者にご飯をあげたり、面倒みたりする事が、一つの仏教的な奉仕だと考えていたんですね。
 そういうところから、親切なのに、患者から菌を貰って、そしてそれが、その家のだれかが出たっていう、そういう経路が大変多いという事を小川さんが話した訳なんです。それで、ただ親切にしないで、らい病というものが伝染病だという事を、涙ながらに語って行かれた訳なんです。そのショックが大変強かったんですけれども……。
 高島 ま、こりゃあ伝染病だって事は間違いないんですけれども……。
 瀬戸内 え、もう、勿論。
 高島 軽い、軽いっていうか非常に伝染性の弱い伝染病なんでしてね。
 瀬戸内 軽いんですか。
 高島 弱いんですねエ、弱いのと、それから、その誰にでも罹るというんではなくて、罹り易い体質っていうんですかなあ、そんなようなものがありそうに見える伝染病なんで……」(三七四〜三七五ページ)。

 初代の光田健輔と違って、愛生園第二代の高島重孝は、一九六〇年代には「開放政策」を主張している。その点について、国立療養所長島愛生園発行『創立六十周年記念誌』(一九九一年三月)で、入園者自治会長の池内謙次郎さんが「挨拶」として、次のように述べている。

「園内外が激しく揺れたライ予防法闘争から四年後の昭和三二年(一九五七年)、第二代園長として高島先生が就任されました。高島園長は、従来の隔離政策から開放政策へと転換を図り、地域への啓蒙活動を積極的に進めるなど、ハンセン病に対する正しい理解を普及するために全精力を傾注されたのであります」(三九ページ)。
      
 一九七〇年代から本格化する大谷藤郎さんらによる「開放政策」、即ち、新しい社会状況、および、医療政策に対応した新「隔離政策」は、高島重孝の国立療養所長島愛生園の運営とは、同一方向であったといえよう。
 宇佐美治さんの指導者であり、大先輩であった森田竹次(一九一〇〜七七年、一九四二年に長島愛生園に入所)は、『全患協ニュース』第一四五号(一九六〇年一月一五日)に、次のような意見「退所者対策について」と題して、一文を寄せている。

 「『療養所の転換期とか、療養所の再編成』とか、この頃の病友たちの話は、しやべらせたら一日でも二日でもつゞきそうである。だが現実は、あまりにものろい足どりで、いったことの半分も前進しない。一般的にいって、社会復帰にたいする意欲がとぼしい。どころか、全くない人もある。体は健康でも精神と意識は完全な重病人である。これらの人々に意識させることが当面の急務である。
 私は、療養所に患者同志の結婚形態がつづく限り、日本のハ氏病を完全にコントロールして、治ったら出すということは出来ないと見ている。愛生園では一七三〇名のうち四百四十組、八百八十名が結婚をして、ハモニカ長屋ならぬ夫婦舎に巣ごもっている。日本の隔離政策が成功をおさめた最大の理由は、「所内結婚」を許し、ときには奨励したからだ。
 ところが、治ってかえる時代には、「いまさらいやとは」というのでお互に、「つれないこと」も出来ずに、足カセ手カセとなってしまった。このことをどうするか所内結婚の将来をどのようにするか――当局も患者の方も充分検討しなければ、いくらいい管理方針がでても、現実は不可能のように思う。
 次に患者作業についてであるが、誰だって所内に長い間生活すると呑気なくらしになれて、適当に油を売っておれば、作業賃が手に入り、不自由なしに生活できると、つい腰が上らない。
 私は社会復帰者にたいし、療養所内よりずっといい保障をしてやることだと思う。現在より悪いところには誰だって、うつらないのはあたりまえだ。もちろん、社会復帰はお客にいくことはないから、働いての上だ。
 さて最後に、療養所の病院化は賛成だが、ケース・ワーカーがいて職業の世話をするところまでいかなくてはならない。早くそうしてもらいたいものだ。それをやらずに、出ていけ出ていけでは、片手おちだと思う。(長島支部療友)」

『多磨』二〇〇〇年七月号(通卷九四二号)に、東日本訴訟原告で一九七三年〜八一年に、全患協事務局長を務めた鈴木禎一さんが、次のような文を載せている。四十五回連載記事の最終回、しかも文末に書かれた内容である。鈴木さんの胸には、どのような思いが去来しただろうか。

「……一九七〇年代に全患協は運動の継続強化によって生活処遇面で一定の成果を得た。患者たちはよろこびの声をあげた。この当時全医労の幹部の一人が『動物園の檻の中にいる動物のよろこびにひとしい』
 という意味のことをいわれたそうである。
    人間の真の解放とは何か?
    人間の真の尊厳とは何か?
 今 深く問われている」 (三二ページ)。

 「強制隔離政策と社会復帰の困難性に関する国(行政)の責任」について、被告(国)はどのように考えているか、岡山地裁第一民事部に被告(国)が提出した『準備書面(五)』(二〇〇〇年五月一六日)の二九三〜二九七ページを、次に挙げておく。国の責任回避、無定見を如実に表わしたものと云えよう。

四 強制隔離政策が採られていなかったことについて
原告らは、抽象的な強制隔離政策自体を請求原因として主張するが、右が失当であることはこれまで述べたとおりである。この点はおくとしても、そもそも「ハンセン病患者に対し、強制隔離政策がおこなわれていた」と評価できるためには、「現実の法の運用として」、ハンセン病患者を強制的に収容、外出、退所をさせなかった事実が認められる必要がある。
 前記のとおり(新法の弾力的運用)、遅くとも提訴の二〇年以降、現実の法の運用上、収容、監禁と評価されるような行為がされたことはない。
 政策が変更されたかどうかは、その根拠となる法律が変更されるときはだれの目にも明らかになる。しかし、法律の条項が改められなくても、その解釈や、運用によって実質的に政策の内容が変更されることはある。したがって、強制隔離を根拠づける条文が廃止されていなかったことをもって、強制隔離政策が現実にも採られていたと評価することはできないのである。
 もちろん、正式に法が廃止されていない以上、法律の効力は失われないが、これは、実質的に法律の規定が生きていてこれに基づく政策が維持されていることを直ちに意味するものではない。強制隔離政策が採られていない以上、これによって、ハンセン病の(元)患者集団に対し、隔離されるべき者との社会的烙印がおされたという事実もないから、これに基づく損害もない。
五 社会復帰の困難性について
 原告らは、療養所に入所することによって、家族や社会とのきずなを断ち切ることを余儀なくされ、また、患者作業で後遺傷害が生じたため、あるいは、病気に対する差別偏見が根強く存在する状況の下では、社会に復帰することが困難であった旨主張する。
 まず、前術(「前述」―滝尾)したように、療養所に入所したこと自体が国の違法行為に基づくものとはいえず、家族や社会とのつながりが切れたことによって事実上社会復帰が困難になったとしても、これについて国が責任を負うことはない。また、原告らは強制的な患者作業によって後遺症を負い、これによって、社会復帰が困難になった旨抽象的には主張するものの、原告ら個々人について具体的な主張を一切しない。また、差別偏見は前述のとうり、法が存在する以前から社会に存在するものであり、これが残存していたことが国の違法行為の結果であるとの根拠はない。さらに、原告らのうちには、外貌の変形も含めて高度の後遺障害により物理的、精神的に社会での生活を望まない者も多く存在するのであって(乙第三五号証)、差別偏見のみによって社会復帰が困難であるとまではいえない。これは、これまで多くの社会復帰者が出ていることからも裏付けられる」。

 厚生省や法務省のお役人が、差別の歴史も実態も肌で感じないまま、机上に資料を並べて書く「作文」とは、こんなものかな、と思わずため息がでる。『第四集』は、「光田健輔とその直弟子たち―― 長島愛生園に収容された人びとの生活と「医療」――」を主題に具体的に、長島愛生園の人たちの生活と「医療」をとおして、内容を明らかにしようと考えている。「水俣病訴訟」や「薬害エイズ訴訟」は、行政も関与していたが民間企業(「チッソ」や「ミドリ十字」など)への闘いであった。国際的に非難の挙がった背景があった。ハンセン病国賠訴訟は、直接、国家を相手とした民事裁判である。よほどの「具体的内容」を歴史、現実をふまえた内容、資料を法廷に原告ら弁護団がださなければ、なかなか原告らの「勝訴」には、ならないのではないか。
 そういった意味で、『第三集』にひきつづき、いま、『第四集』以下の小論を書こうとしている。長島愛生園の原告団長・宇佐美治さんは、「それは大変な仕事だよ」と言ってくれる。六百ページを越す内容になる予定である。数分冊に分けて出版を予定している。
 現在、次のような「章立て」を考えている。みなさんの御協力と御指導をお願いする。

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第一章 断種(優生手術)と人工妊娠中絶

第二章 楓蔭寮(第一、第二)・楓蔭会と愛生学園の子供たち

第三章 患者の強制収容と無らい県運動(戦前、戦後)

第四章 十坪運動と三井報恩会

第五章 長島事件および「監房」への患者収容

第六章 患者看護・患者作業の実態

第七章 「皇恩」とアジアへの人権侵害の拡大

第八章 逃走と自殺と遺体解剖

第九章 「社会復帰」の実態と新良田教室

第十章 長島愛生園の朝鮮人

終 章 長島愛生園の歴史・実態が意味するもの

以上の各章ごとに、「国際会議」の報告、勧告、決議などを紹介し、「世界の医学的知見」がどのようなものかを明らかにする。被告(国)のいう「国際会議」の報告、勧告、決議などの内容を批判し、また、犀川一夫さんや和泉真蔵さんの著書や熊本地裁での「証人尋問、証言」についても、検討する。

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「瀬戸内訴訟」での公判の最大の争点は、一つは、被告(国)指定代理人が岡山地裁第一民事部に提出した『準備書面(五)』(二〇〇〇年五月一六日)と、二つ目は、原告ら訴訟代理人が同地裁に提出した『準備書面(五)』(二〇〇〇年四月一二日)に対して、七月五日に岡山地裁に提出した被告(国)が第三回公判で「(熊本、東京地裁では)従来なかった新しい内容なので、その証拠調べに時間が欲しい」といっていた――原告番号一 ほか一〇名に対する被告(国)の『準備書面(六)』の内容を中心として、考察したい。
繰り返していうが、本書は、被告(国)が『準備書面(六)』(二〇〇〇年七月五日)に反論し、原告ら訴訟代理人の『準備書面(五)』(二〇〇〇年四月一二日)を補強していくためとに、作成したものである。
この研究は、宇佐美治さん、金泰九さんを始めとする長島愛生園入園者のご指導と、『第三集』にひきつづき、つむら あつこさんの協力によって進めていきたいと思う。また、多磨全生園の山下道輔さんや菊池恵楓園の入江信さんなどにも、ご支援やご協力をお願いしたいと考えている。みなさんのご厚情により、本冊子が、国に対する「石つぶて」の一つにでもなれば、こんなうれしいことはない。 


 追稿・ 国が行ってきたハンセン病政策の責任の「立証」に対して、原告ら代理人の尋問、準備書面の内容、方法で十全であるか、いなかをまず、考察したい。

 追稿一、大谷藤郎証人尋問について、
 
熊本地裁(西日本訴訟)において二回に行われた大谷藤郎証人尋問をどのように位置付ける、評価するかについては、見解がわかれているように思われる。
 大谷藤郎著『らい予防法廃止の歴史』勁草書房(一九九六年六月)を「陳述書」と位置付け、国の「隔離」政策の実態や責任を明らかしたと評価している弁護士や原告たちもいる。その代表的な論は、大谷証人の尋問者の一人でもあった西日本弁護団長の徳田靖之さんが、一九九九年一〇月一〇日、栗生楽泉園で行った講演「大谷証言について」であろう。その内容は、『皓星社ブックレットH』(二〇〇〇年四月発行)に収録されている。そのなかで、徳田西日本弁護団長は、次のように述べている。

「こうして二回にわたる証言が終了しましたが、傍聴席に軽く一礼して退廷しましたが、傍聴席を埋め尽くした原告や支援のメンバーが総立ちとなり、拍手で先生の勇気を讃えたのでした。
 私も長く弁護士をしており、いろんな証言に立ち会ってきましたが、このような経験ははじめてのことであり、ほんとうに感動いたしました。私は先生の言われた『裁判の勝ち負けを超えて、歴史的真実を明らかにしていく』ことの重みを全身で感じとり、改めて私たちの使命と責任とをかみしめました」(二〇ページ)。
  「和泉先生、大谷先生、そして犀川先生と続く歴史的証言の積み重ねによって、もはや原告の勝利は動かしがたいものになったと言って過言ではありません。私たちは法廷のなかでは、まさに圧倒的に有利な状況を切り開いてきています」(二〇ページ)。                                         

しかし、私は、本資料の考察のシリーズ『第一集』から『第三集』のなかで、述べているように、熊本地裁で行われている国賠西日本訴訟は、「らい予防法」違憲国家賠償請求事件として、一九九八年七月三一日以来、争われているけれども、果たして具体的に人権侵害の事例を当時の「資料」に基づいて、弁護団が具体的、かつ、適切に解明され、それらが公判に提出、尋問が出来ているのか、どうか疑問に思っている。それは勿論、その責任を西日本弁護団だけに負わすことは出来ない。私たち歴史研究者の怠慢、弁護団と研究者の協力・連携の不充分さも挙げられよう。この裁判では、意見書の提出や証人の尋問も、歴史研究、社会科学などの研究者が、今回の国家賠償請求訴訟に積極的に加わっていないのではないか。
なぜ、今回の国家賠償請求訴訟に多くの歴史研究、社会科学などの研究者が、弁護団と協力・連携出来ていないのか、その欠陥がどこから来ているのか、この際、明らかにする必要があろう。昨秋以来、私の国家賠償請求訴訟に少しばかり関わってきた。そして感じることは、当初の弁護団の立証方法立案過程において、問題があったのではなかったのではなかろうか、という疑問である。国のハンセン病対策の人権をいうとき、極めて一般的な責任論の論述、尋問等に終始し、各療養所ごとに何時のことをいっているのか、具体的でない。
かっては、ハンセン病患者の「隔離・人権侵害」の実行責任者の医師、行政官の尋問する際、許し難い証言がなされても、原告ら代理人である弁護士は、それを不問にふしていおる。一例を挙げよう。」

 追稿二、成田稔証人尋問について、

二〇〇〇年五月九日に東京地裁で証言した成田稔証人の「証言」についてである。主尋問をしているのは、原告ら代理人(鮎京弁護士)である。当日の『調書』の一一九ページによると、成田さんは、耳を疑うような発言をいている。次のような証言(「意見」)を述べている。

「これは後のほうに書いてありますが、こういうふうにちゃんとしてほしい。そのためには、全部の患者さんが加わるべきだ。私は予防法闘争が本当に人権闘争だなんて思っていませんし、二回目の闘争だって人権闘争とは言い難い。でも、この裁判だけでは、本当の人権裁判にしてほしい」(一一九ページ)。

 それに対して、原告ら代理人は、「証人は、今、各人の心の中にたじろがないようにできるところまで徹底して行わないといけないという、社会の啓発っですね……」というようなことを言い「私は予防法闘争が本当に人権闘争だなんて思っていませんし、二回目の闘争だって人権闘争とは言い難い」という成田証人の発言について、異議を申し立てる尋問を一切していない。成田さんにも、原告ら代理人にも、ぜひ、拙著『「らい予防法」国賠請求事件資料の考察』(第三集)――『「らい予防法(新法)」の成立前後』(二〇〇〇年七月)を読んで欲しい。全患協を中心とする予防法闘争は、日本近・現代史上に抜きんでた「人権闘争」であった。事実を事実としてみて欲しい。「私は予防法闘争が本当に人権闘争だなんて思っていませんし、二回目の闘争だって人権闘争とは言い難い」と成田証人は言い、この証言に、原告ら代理人(鮎京弁護士)も異議を一言もいわない。これだは、原告ら代理人だか、被告(国)の代理人やら見当がつかない。この成田証言は、ハンセン病闘争の歴史を基本的に否定したものである。私は、成田証言も、成田稔著『「らい予防法」四十四年の道のり』皓星社ブックレット・B、(一九九六年五月)も手ばなしには、評価することは出来ない(詳細は後述する)。

二回目の予防法闘争で、全患協・らい予防法改正草案作成委員会は、『らい予防法改正草案案』を一九六三年七月二十五日に発表する。B5判二十五ページほどのものであるが、十九の「要求事項」を出している。二回目の予防法闘争は、各支部でも闘われた「人権闘争」であった。
東日本国賠補償請求訴訟の原告に一人である冬 敏之さんは、『…支援する会会報』第一〇号に「もう一つの予防法闘争」(一七ページ)を載せている。これも「二回目の闘争もまた人権闘争」であった。成田証人のいう「二回目の闘争だって人権闘争とは言い難い二回目の闘争だって人権闘争とは言い難い」という認識がどうして、成田さんから出てくるのか理解に苦しむ。多分、所詮は、医者とりわけ、療養所管理者の思い上がりからきているのではないかと思う。
成田さんが「全部の患者さんが加わるべきだ」と希望される前に、今年、第七三回日本ハンセン病学会総会・学術大会の、あの惨憺たる「日本ハンセン病学会」を心配なさった方がよいのではなかろうか。一九九五〜九六年度の「日本らい学会会長」を務められ、いまでも「実際私は学会のある意味では幹部」(『証言』一二三ページ)なのだから。今年三月九日〜十一日に「星塚」に行って、この裁判の支援を提言なされば、よかったのにと思わざるを得なかった。そして、「この裁判だけでは、本当の人権裁判にしてほしいので、日本ハンセン病学会も協力しよう」となぜ、訴えられなかったのか。成田さんの姿は、当日見られなかったけれど。感想まで。

 追稿三、大谷、犀川、成田各証人の証言をどう位置付けるか。

一九七二年以降、厚生省の国家官僚として、十一年もの長きにわたって、国のハンセン病政策の立案、執行の推進を行った大谷藤郎さん。一九四四年から六〇年まで長島愛生園の厚生医官として、「私の恩師、光田健輔先生」(『ハンセン病医療ひとすじ』八九ページ)を追慕する犀川一夫さん。一九五五年一二月多磨全生園整形外科医師として勤務して以来、一九九七年三月同園を退官するまで三十一年余に在職し、その間、一九八五年に多磨全生園の園長を十二年間在職している成田稔さん。
お三人とも、被告(国)側の証人となって、国のハンセン病政策を擁護しても、少しもおかしくない人たちである。それが、今日、原告側の証人となって、国のハンセン病政策――終身隔離、人権の抑圧の過ちを認め、自己の反省の弁をも証言した。この点について、評価されていいと思う。しかし、そのことが、過去のこれらの人たちの行為を「免罪」にし、そして彼等の過去の行為を許すことになりはしないかと、私は心配である。
島田等遺稿集『花』手帖社(一九九六年四月)宇佐美 治編のなかで、島田等はこう述べている。

「日本のハンセン病政策の世界的にも類のない『独自』な歩き方をさせた根底には、日本の近代化を負ったマイナスの課題と重なっているはずである。安易で無批判な肯定や、仕方がなかったという留保は、過ちを温存させ、繰り返させる養土となるだろう。
――〃過去を直視できないものに真の将来はない〃」(一三五ページ)。

追稿四、国の責任を総論的に争われ、各療養所ごと、時代的実態はついては、殆んど解明されていない。

原告ら代理人のいう「国の責任」といった場合、厚生省、国会、をいっているのか。各各国立療養所長までであるいっているのか。直接、患者の「人権を侵害」した職員(国家公務員)にも及ぶのか……国の外廓団体(例えば、癩予防協会や藤楓協会)にも及ぶのか。「責任」は法的責任のみをいうのか、あるいは、社会的責任や、倫理的・道徳的責任まで含めるのか、それが実に「あいまい」である。
現在、被告(国)と原告ら代理人が争っているのは、厚生省のハンセン病政策の変遷であって、各国立療養所ごとの実態を時代に即した内容としては殆んど明らかになっていない。また、一つの国立療養所でも施設長の考えや地域の歴史的な違いもあって、一様ではない。
例えば、宮古南静園の場合についてみると、初代園長家坂幸三郎(メソジスト系のクリスチャン)の時代と一九三八年七月に、小鹿島更生園医務課長から配置換えになって、二代園長になった多田景義の患者に対する対応は、まるっきり違う。「児童保育」について見ても、優生手術(断種)の実態も、国立療養所によって、異なり、例えば、草津湯之沢から栗生楽泉園にきた夫婦には、優生手術(断種)をせずに夫婦舎に入れ、子供が生れると「二葉療」に入れている。療養所においても優生手術(断種)の実態は異なるし、時代によっても異なっている。岡山地裁の渡辺裁判長は、事実を述べるときは、その時代をはっきりさして、陳述せよと言う。
それを明確にしないまま、原告になった人のみ一億千五百万円の「包括一律」の個人補償をいう場合に、原告になっていない同じ療養所の入所者からの支持が得られるか。また、「国の謝罪」のないままの「包括一律」の個人補償(西日本訴訟の場合)がもし行われた場合、果たして、多くの人たちの同意を得ることが可能か。否、その前に、そうしたことが、現在の国(被告)が、地裁段階での判決で応じるかどうか。「国の謝罪」を前提とした、原告らと被告(国)との「同意」が可能かどうか。二〇〇一年中に、それが可能か。疑問点は多い。

 追稿五、「社会復帰」した人たちの実態と、あゆんできた道をより明らかにしよう。

菊池恵楓園の文書によると、龍田療児童の収容児童数は、一九五三年十二月九日現在、男二十九名、女三十名、計五十九名である。また、「保育所開設以来の収容児童総数は、一五九名」と記されている。『愛生保育所二五年略史』長島愛生園によると、一九三一〜五五年の「社会復帰」数は、二一四名と記載されている(四ページ)。吉井やま著「栗生保育所の三十年略記」(『高原』一九六四年六月号)によると、栗生保育所の「年次別入所数」は、二七四名である。
各「未感染児童」と差別的に呼ばれていた療養書の保育所は、財団法人癩予防協会の経営であった。同協会の『昭和十五年度事業成績報告書』(一九四一年三月末日現在)には、楓蔭療(長島愛生園内)九〇名、二葉寮(栗生楽泉園内)六八名、楓光寮(星塚敬愛園内)五〇名、二葉寮(北部保養院内)一三名、楓 寮(大島保養所内)四九名、恵楓寮(九州療養所内)三八名、宮古療養所内児童保育所 六名、合計三一三名。(不思議なことに、多磨全生園内には児童保育所が存在しない。邑久光明園の児童は、楓蔭療(長島愛生園内)に収容された。こうした「保育児童」は、その後、どのような人生を送っているだろうか。
邑久高等学校新良田教室『新良田(閉校記念誌)』(一九八七年三月)によると、「本教室への入学者は三六九名を数え、転編入者を加えると三九七名の生徒が在籍していた。そのうち三〇七名の生徒を送り出しているが、卒業と同時に社会復帰した者は二二五名となっている」という(「新良田教室の閉校にあたって」)。
こうした新良田教室の卒業生は、現在、なにを思い、どんな生活を送っているのだろう。二〇〇〇年秋には、新良田教室の同窓会が予定されている。同窓会を契機に、その一端でも、明らかになればと、期待している。    
療養所から「社会復帰」した数を、被告(国)は、一九五一〜九七年までの累計を二八七九名という(『答弁書』一九九八年一〇月三〇日、熊本地裁提出)。社会復帰した人びとの差別実態の把握もされているのだろうか。
(未完です。=滝尾)