ハンセン病補償請求棄却処分取り消しを求め
「小鹿島」の入所者が訴訟を東京地裁に起こした経緯について

                   (『未来』第458号、2004年11月号に掲載)


滝尾 英二


『‥‥日本の側の運動が天皇制にたいする批判ができず民族排外主義を克服できずにいることで、アジア、中国、韓国・朝鮮の人々との真の連帯がかちとれずにきています。
 ソロクト裁判で日本人の側が、これらの問題をとらえ直すことができるかどうか、問われているのは、私たちだと思います。滝尾さんの論文がひろく読まれて、そのきっかけになったらうれしいです‥‥。』

これは、本年十月八日に発刊された『飛礫』四四号(秋季号)発行所=つぶて書房(郵便番号六五二・〇八八一、住所 神戸市兵庫区松原通一の一の四〇、電話とFAX=〇七八・六七二・五六〇一)の編集者・秋山 史さんから最近いただいたお便りの内容である。
私が「朝鮮ハンセン病」に関する単行本を始めて世に問うたのは、二〇〇一年九月に未來社から『朝鮮ハンセン病史―日本植民地下の小鹿島(ソロクト)―』を発行して、今日まで、既に三年余経った。その間の植民地統治期の日本ハンセン病政策、施行によりハンセン病患者の残虐で非道な行為が、どのような経緯によって今日、小鹿島の入所者が東京地裁に起こすようにまでなったか、その経緯を私が知る範囲ではあるが、書いてみようと思う。
未來社から『朝鮮ハンセン病史―日本植民地下の小鹿島(ソロクト)―』は、一九九五年九月発行の大阪人権歴史資料館機関誌『季刊・リバティ』一一号掲載の拙著「韓国ハンセン病の島・小鹿島を訪ねて―もう一つの植民地支配―」という論文と、未來社本「あとがき」に書いているように、「大部分は『愛生』(一九九六年四月号〜九八年三月号)および『未來』(一九九八年五月号〜二〇〇〇年二月号)の両誌に、約四年間にわたり、三十四回の連載された記事を今回、選んで本書に収録したもの」である。
その後、滝尾英二編・解説『【編集復刻版】植民地下 朝鮮におけるハンセン病資料集成』全8巻を二〇〇一年一一月〜二〇〇三年七月に不二出版から発行する。これも、同『〜資料集成』に収録した資料の多くは、一九九五年、九六年の両年に発刊した『日帝下朝鮮の「癩」に関する資料集』全4巻、一九九九年一月発行の滝尾英二編『日本・朝鮮近代ハンセン病史・考【資料編】』、(いずれも、自家本として小部数発刊)の収集した資料に基づき、その後に収集した資料も加えて不二出版から発行したものである。
一九九八年七月から始まる「らい予防法」国賠請求事件の裁判は、国を被告として裁判が始まったが、上記のいずれの図書も記事も資料収集も、この裁判の影響を受けていない。その後にも可なりの単行本や論文を書いた。その文中には「日本植民地統治下の小鹿島」のことを書いているが、それらは、「らい予防法」国賠請求事件の裁判を視野に入れて書かれたものである。これらの図書を紹介すれば、以下のようになる。

@『「らい予防法」国賠請求事件資料の考察』全四巻、広島青丘文庫(二〇〇〇年四月〜一二月)
A『近代日本のハンセン病と子どもたち・考』広島青丘文庫(二〇〇〇年三月)
B『ハンセン病と人権―長島愛生園のあゆみ』福山市人権平和資料館(二〇〇一年一月)
C「『ハンセン病問題』は、いまだ終らず」(『飛礫』三四号=春季号、二〇〇二年四月)
D「小鹿島(ソロクト)ハンセン病補償請求が問うもの」(『世界』第七二五号=二〇〇四年四月号)
E『小鹿島更正園強制収容患者の被害事実とその責任所在(日本語)』人権図書館・広島青丘文庫(二〇〇四年五月)
F『小鹿島更正園強制収容患者の被害事実とその責任所在(韓国語訳)』人権図書館・広島青丘文庫(二〇〇四年八月)
G「ハンセン病問題検証会議への意見書〜植民地下朝鮮でのハンセン病政策の被害と責任所在を明らかにせよ〜」(『飛礫』四四号=秋季号、二〇〇四年一〇月)

前記のうち、D〜Gは今次の小鹿島からの補償申請棄却処分の取り消しを求める東京地裁の行政訴訟と直接に関連して、書いたものである。
周知のように、小鹿島更生園・台湾楽生園補償請求弁護団(代表兼事務局長は、国宗直子弁護士)は、韓国の国立ハンセン病院の入所者一一七名(内六名は、今年八月までに死亡)からの「ハンセン病補償法」(二〇〇一年六月制定)に基づく補償請求を昨年の一二月以来、三次にわたり申請を行なった。しかし、厚生労働省はこれに対して、今年八月一六日に「補償を行なわない」との処分を行なった。同弁護団は、今回の処分は不当だとし、既に高齢(平均年齢八十二歳余)に達しているこれら補償請求者の一日も早い救済を図るため、この処分の取り消しを求める行政訴訟を東京地裁に、八月二三日に提起した。また同日、厚生労働省に対して新たに、植民地時代に強制収容された小鹿島入所者二名および台湾楽生園の入所者二五名が、「ハンセン病補償法」に基づく補償請求を行なった。
東京地裁民事部第三部の担当裁判長は、第一回期日を一〇月二五日に、東京地裁第一〇三号法廷で第一回口頭弁論が行なうことを決定した。それまでに至る経緯を簡単に述べてみたいと思う。

すでに私は、二〇〇一年五月の「熊本地裁判決」のあった頃から、朝鮮半島で日本が行なった「ハンセン病強制隔離政策の犠牲者への日本政府の謝罪とそれに基づく国家賠償が必要ではないか」、ということを韓国の知人たちに話していた。しかし、一九六五年の「韓日条約」と「時効=除斥期間」に阻まれて日本の法廷で果たして勝つことが出来るのか、また、日本軍性ドレイ=「軍隊慰安婦」との整合性も必要ではないか、という意見もあり、難しかろうという意見だった。
一方、私もこの問題で、韓国の忠光農園(大田市郊外にある定着村)の金新芽(キム シナ)さんから二度ほど国際電話をいただいた。そして、金新芽らのご努力で、「ハンセン病補償法」(二〇〇一年六月制定)に基づく補償請求を行ない、小鹿島の入所者が三名にそれぞれ八百万円(約八千万ウオン)の補償金を、二〇〇二年と二〇〇三年に、日本政府から支給されいることも知らされた。

【註】国際ニュース *沖縄収容所で隔離されていた小鹿島患者三名に日本政府各八千万ウオン補償=日本政府が小鹿島ハンセン病患者三名に、太平洋戦争直後沖縄収容所に強制隔離したことにともなう補償金として支給したと伝えられている。(中略)日本政府は沖縄収容所での収容経歴がある小鹿島居住者の金某(八三.男)氏と尹某(八〇.男)氏、金某(八〇.男)氏の三人に、補償は日帝下強制徴用で連行されハンセン病にかかって沖縄に収容された金某(八〇)氏が日本の補償特別法制定の事実を知り、同じ立場の金某氏、尹某氏とともに日本側に要求して実現したことが明らかになった。(二〇〇四年九月六日付『無等日報』)

昨年=二〇〇三年三月三日、私は私が属する韓国大邱のチャムギル本部(福祉社会研究会=代表は鄭鶴理事長)に行った。その前月の二月一八日に起きた大邱の地下鉄人災事件約二百名の犠牲者とその遺族への哀悼するための訪問であった。その時のことを同年五月、「ソロクト訪問団、成立の経緯と目的」として、つぎのように私は書いている。

 ――本年三月三日にわたしは、テグ(大邱)でチャムギルの事務所で鄭鶴理事長(代表)、事務局長の金在浩さん始め、同会幹部の方十名ほどとお会いしました。席上、鄭鶴理事長から次のような提言と約束がありました。

「今年は、チャムギル創立二十年に当たる。小鹿島(ソロクト)で、八月六日から九日まで夏季ボランティア活動(夏と冬の二回、四日間づつ行なわれる)をするが、その際、小鹿島に於いて『創立二十周年記念式典』をし、二十年の間に功績のあった方々をお呼びして盛大に行ないたい。ついては記念式典への日本からの参加する方々の人選を滝尾さんに一任する。式典当日では、ハンセン病事業の功績者として滝尾さんも表彰したい。また、滝尾英二著『朝鮮ハンセン病史―日本植民地下の小鹿島―』未来社(三三二ページ)も金在浩さんが一年がかりで完訳したので、序文は私(鄭鶴理事長)が書いて、出版することをお約束しょう。翻訳原稿をお読みしたが、これは『ハンセン病の問題の過去と現在』を結んだ、すばらしい本であると思う。日本からの参加者の人選は、ハンセン病の問題のみならず、ひろく人権問題に関わった方々にお願いしたい」、ということでした‥‥。

日帝期(日本統治時代)に、朝鮮人ハンセン病患者で強制隔離収容された方で今なお、小鹿島に入所しておられるハルモニ・ハラボジ=老人たちは約一〇〇名。さらに、朝鮮総督が一九三五年四月二〇日に公布した制令「朝鮮癩予防令」は、韓国の国会で廃案される一九五四年二月まで、廃止されることなく存続しています。その「朝鮮癩予防令」で、多くのハンセン病患者が、小鹿島へ収容されました。その間、日本国内より、さらに残忍で非人間的な人権無視の生活が、小鹿島ハンセン病患者には続きました。島にある萬霊堂(恨鹿堂=ハンノクタン)と、その裏山にある丸い小さな土墳には、すでに、一万名を越えるこの島で亡くなった方々の遺骨が、故郷(ふるさと)に帰らず眠っています。その中には、一九四五年八月二二日に、入所者自治委員会の患者を中心として、日本が採用した朝鮮人職員たちにより、八十四名の患者たちが生きながら、患者が採取した松脂で焼き殺され、広場や戸口に呼び出されて、その場で銃殺されるなどの虐殺が行なわれました。まだ、日本人の医師、職員(西亀三圭園長ほか、日本人が引き揚げていない時です)が小鹿島にいた時の出来事です。(二百余りの日本人医師・職員らは全員、八月二四日に日本軍に守られて小鹿島から筏橋を経て麗水に出て引揚げています)。
現在、小鹿島で生活している(元)ハンセン病患者は、八〇〇名で平均年齢は、七十六歳。心身ともに老齢化していて、ハンセン病患者としての疾病後遺症と、老齢による障害などに苦しんでおられます。一昨年五月一一日の「熊本地裁判決」以後の政府、国会などにも、朝鮮半島在住者には謝罪も補償も一切なく、素通りしてしまいました。このことは、日本人の「自国民・自民族中心主義」のあらわれではないでしょうか。このまま、この現実を見過ごすわけにはいかないと、私は考えます。国内での運動のすすめ方や、また各自の思想・信条などの違いはあるでしょうが、そのことはひとまず置いて、この八月には、小鹿島に於いて、韓国と日本の関係者が一堂に集まり、愛と知恵とを互いに持ち寄って、小鹿島で生活している(元)ハンセン病患者たちの、この現実を直視し差別の現実から学びながら、今後のことを考えていこうではありませんか。」

こうした滝尾の呼びかけにより、八月七日から九日の三日間、日本から二六名の小鹿島訪問団が同島を訪れ、八月八日の「国際人権シンポジューム」で、徳田靖之弁護士(ハンセン病違憲国賠訴訟弁護団代表)から、植民地支配下に隔離収容された小鹿島入所者の日本政府への補償と謝罪要求の方法についての提案があり、それが提訴の踏み切る契機となった。
昨年=二〇〇三年一二月二五日、第一次の二十八名の小鹿島病院の補償請求入所者の代理人である国宗直子弁護士により、厚生労働省に補償請求書が提出され、私も同席した。それ以後のことは前述した通りである。八月二三日に、東京地裁に、行政訴訟を提訴した同じ日に、私は韓国を訪問した。大邱=小鹿島=ソウルの八日間の一人旅であった。ソウル市内で夕食をしながら、朝日新聞ソウル支局長の市川速水さんと「小鹿島訴訟」について話し合った。

九月三日の『朝日新聞』(東京本社版)の夕刊のぴーぷる欄には「韓国のハンセン病、隔離の実態を調べて集大成」の見出しが付けられて、つぎのような記事が掲載された。
――『韓国・小鹿島のハンセン病患者隔離政策の実態を調べ続ける広島の滝尾英二さん(七三)が八月二九日までソウルや大邱を訪れ、発刊したばかりの自著「小鹿島更正園強制収容患者の被害事実とその責任所在」を関係者に寄贈した。
おそらく韓国にもない韓国語版の集大成。元高校教諭の滝尾さんは、日本の植民地時代の官立療養所での強制労働や監禁、断種手術、社会的差別などの実態を日本も韓国も顧みないことに疑問を持ち、退職後に数十回、島を訪問して史料や証言を集めた。
足が弱り、つえに頼る。「これが最後の訪韓になるかも」と言いながら、うなるように訴える。「同情ではなく、事実が何か、だれに責任があるかが重要だ。補償にはきちんとした謝罪が伴うべきだ」(市川速水)』と。