朝鮮ハンセン病史・日本植民地下の小鹿島

       

                  滝 尾 英 二

序にかえて

      ――小鹿島病院と長島愛生園――


 

 

 ソウルから順天(スンチョン)を経て鹿洞(ノクトン)

 

一九九五年四月二一日の朝、ソウル駅を九時三五分発の麗水(ヨス)行「特急」列車に乗ると、順天駅に午後二時二五分に着いた。あいにくの雨。前から順天バスセンターまでタクシーに乗る。前回、三月二一日に小鹿島(ソロクト)へ行ったときは、釜山から麗水へ高速バスで行き、二〇分間隔で順天を経て、鹿洞へ行くバスで行ったのだが、今回はソウルから特急列車で麗水行きで順天で下車し、バスで鹿洞に向った。

 全羅南道の美しい風景を車窓で眺めながら二時間半。バス停の終点で下車し、客待していたタクシーで、小鹿島対岸の町である鹿洞の「ホテル・サンビーチ」にむかう。このホテルを経営している張福祚さんは「小鹿会」という小鹿島病院職員のOB・OG会の会長さん。事前に、ソウルの柳験医科学研究所理事長で延世大学校名誉教授の柳駿(ユジュン)博士に紹介状を書いていただいていたので、張さんに渡す。

 最近建てられた瀟洒なホテルの二階のオンドルの部屋に通された。対岸六〇〇メートルに浮かぶ孤島が、目指す小鹿島である。鹿洞は二万人を越す大きな港町で、今春より済州

島へ行く客船も定期的に就航するようになったとのこと。町のはずれの丘には、豊臣秀吉

の侵略(壬辰倭乱)に抗して闘った二人の郷土の先人を祭る祠がある。その丘から目の前に浮かぶ小鹿島は、その名の通り小鹿(バンビ)を思わせ、なぜここが、「癩病(ナビョン)の島」・ハンセン病患者の強制隔離の島として恐れられて釆たのか、一瞬不思議な気さえした。

 釜山、光州(一九二七年、麗水へ移動)、大邱と三箇所にあったキリスト教「癩」療養所が一九〇九から一三年にそれぞれ開設され、少人数ではあるが朝群のハンセン病患者を収容しはじめたが、朝鮮総督府は「府令第七号」(一九一六年二月二日)で、朝鮮総督寺内正毅の名で「明治四十五年朝鮮総督府令第百六号」の条文を改正し、「全羅南道小鹿島」に道立の慈恵病院を置くことを公布(『朝鮮総督府官報』第千六十五号)、同年七月十日、陸軍軍医であった蟻川亨が同院の院長に就任した。爾来二九年、五代にわたって院長(のち園長)は日本人の医師が任命され、小鹿島はハンセン病者の隔離施設の島として、日本の支配の終焉(朝鮮人にとっては解放)までつづく。日本統治時代の朝群総督府による「救癩事業」とはなにであり、「医療」の名のもとに、朝鮮人ハンセン病者は、どのような植民地支配を受けてきたのかを、この目で見たいという思いで、三月と四月、私は二回にわたって韓国全羅南道の南端の孤島である小鹿島病院を訪れたのだった。

 四月二一日の夜は、日本統治時代から小鹿島療養所で薬剤手をしていた張福祚さん(七九歳)と、同じく看護婦をしていた朴徳葉さん(七〇歳)がホテルの私の部屋を訪ねて来ふられ、おたりから詳しく当時の小鹿島療養所の様子を聞く。張さんにお願いして、翌日の通訳を引き受けていただくことにした。

 

鹿洞から小鹿島へ

 

翌二二日は、前夜の雨もあがって、絶好のカメラ日和である。小鹿島に今なお残る日本統治時代の建物・遺跡をカメラに収めたいというのが、今回の訪問の主要な目的である。日本から三十六枚撮りのフィルムを三〇本用意し、朝鮮に残した日本統治時代の爪痕を写しほし、日本の植民地支配の一端を明らかにしたいと考えていた。

 私の泊ったホテルから歩いて五分ほどのところに、小鹿島行きのフェリーの乗り場がある。乗船料は片道三〇〇ウォン、乗船時間一〇分ほどのところに小鹿島はある。張さんと一結に乗船した。船中で島を見ていると、ぼんと背中をたたかれたので振りむくと、前回、島を訪れた時、「小鹿島になぜ来たのか。韓国へはいつ入国し、いつ出国するのか。                                                                                                                                                                                                                                                         名前は? 年齢は?」と詳しく調べた小鹿島駐在の警察署長さんが笑いながら立っている。「一か月ほどしたら、また来るよ」と言って、握手して別れた仲なので、今回は実に愛想がよかった。

 フェリーで島の船着場に着くと、国立小鹿島病院の金良彬医事係長が乗用車で迎えに来ていた。二日日に通訳を頼んでいる地元の金春植さんの顔も見える。前々日、柳駿博士がソウルから私の島の訪問を、小鹿島の呉大奎病院長に電話をかけていただいたこともあってか、今回は島に入る手続きは一切なく、(前もって手続きはしてあって)金医事係長の運転する乗用車で治療本館に行くことができた。

 小鹿島は三・六qの大きさで、島の東半分(三分の一)は職員地帯となっており、西半分(三分の二)は患者地帯で、かつては両地帯の間には「境界線」があり、職員地帯から患者地帯へ行く道が一本だけあって、境界線には「巡視詰所」があった。境界線には有蕀鉄線が張られ、武装した警備員が巡回していたという。今は、「巡視詰所」に替ってそこに「第二案内所」があるが、私を乗せた車は問いただされることもなく通過した。鹿洞から島への船着場は、職員地帯にあり、そこには「らい病は治る病気です。安心してこの島で治療しましょう」と大きく黒字で書かれた白い四角の塔が立てられていたのが、印象的であった。道に沿って教会堂や郵便局の建物が見られた。

 五階建の白亜の治療本館は、土曜日なので人影はまばらであった。前回訪問のときは、二〇名に近い「患者」が一階の診察室前の待合所で、診察の順を待っており、失明した患者や車椅子の老人が、付添いの人に連れられて診察室を訪れていたが、今回はそうした姿は見られなかった。                   

 

 韓国のハンセン病患者

 

韓国のハンセン病患者の現況を、一九九四年三月発行の国立小鹿島病院『年報・一九九三』によって少しみていこう。数字は九三年一二月末現在のものである。

 『年報』によると推定の全国ハンセン病患者数は五万名で、登録管理患者は二二、三一〇名であり、うち「在家」患者は一一、六七二名で五二・三%を占める。その内訳は保健所治療が全体の二九・二%、ハンセン病機関外来治療が二三・一%となっている。定着農園が全国で九七か所あり、登録管理者の三五・七%(七、九六三名)は、定着農園で生活している。保護治療は一二・〇%で民間収容施設六か所に一、四五三名(六・五%)、小鹿島病院の入所者は一、三二二名で、全体の患者の五・五%を占めているに過ぎない。

京畿道の水原(スオン)の郊外に大韓癩管理協会・癩病研究院に高英勲院長をこの年に入って二度ほど訪ねた時、同所に在家の外来治療の患者たちが多数、診察を受けていた。一方、日本のハンセン病人所者の場合は、一九九四年一二月末現在、十三か所の国立療養所と二か所の私立療養所に入所し、保護(偏離)治療を受けいる人の数は五、八二六名と多く、韓国の場合とは著しい違いをみせている。                                                 

日本の場合は患者「偏離」を前提とした「らい予防法」(法律第二一四号・一九五三年八月十五日施行)が空洞化しているとはいえ、いまだに存続している(一九九六年四月一日に、ようやく廃止された)。それに対し韓国では、日本植民地統治下の一九三五年四月二十日に制令第四号として公布され、同年六月一日に府令として施行された「朝鮮癩予防令」は、解放後もしばらく続いたが、一九五四年二月の国会で廃棄され、代って「伝染病予防法」が制定され、ハンセン病は、一般法の位置付けとなった。さらに、一九六一年から「定着農園」事業がはじまり、ハンセン病患者、回復者に対し、隔離主義から在家治療に転換されたことは、両国の間に、同じハンセン病患者の治療の対応のあり方について、大きな差異となってあらわれている。

なお、この統計によると、韓国のハンセン病の陽性患者数は一、一〇三名で、陽性率は四・九%、つまり百名のうち九五名以上は、らい菌をもっていない「患者」であることを、物語っている。

 そのようなことを思いながら、治療本館二階の応接室で、安医療部長と金医事係長に会った。いま病院で編纂中の『小鹿島病院八十年史』に役立ちそうな資料を、私は日本において集められるだけ集めて、同病院に提供した。そして、小鹿島での写真を自由に撮ることの許可と便宜を図って欲しいとお願いした。安医療部長は私の願いを心よく了承され、金医事係長の運転で小鹿島を回ることとなった。お陰で、島に三日間も滞在し、七〇〇枚もの写真を自由に撮ることが出来た。

 「最初にどこを回りますか」と金医事係長の声がかかり、まず一九一六年に設立された当時の「旧慈恵医院」の療養所や詰所、さらには、そのすぐ近くの「南地区病舎」を訪れることにした。その際、友邦協会が出した『朝鮮の救癩事業と小鹿島更生園』(一九六七年)に載っていた「小鹿島更生園全図」という一九四〇年ころの小鹿島をあらわす絵地図を手にしながら、調査することにした。

 旧慈恵医院の施設は、島の西側の高台に診療所が建てられ、さらに今は草むらのなかに

廃墟と化した赤レンガの建物が点在している。創設当時、初代蟻川亨院長、第二代花井善吉院長時代の診療所は、木造寄棟の平屋で屋内は待合室・診療室と別れ、黒瓦に黒い

板塀の瀟洒な建物である。建物正面の屋根は本瓦葺きになっていた。入口の前の詰所は、宝形造の屋根で草むし、廃墟となっている。    

 

 「ポリピリ」と青い鳥

 

  ムンドンイ(ハンセン病患者)詩人・韓何雲(一九一九〜七五年)を私が知ったのは、一九九五年三月、韓国全羅南道南端の島、小鹿島へ行ったときであった。日本の植民地統治下の朝鮮での「救癩事業」の実態を知ろうと小鹿島を訪ね、国立小鹿島病院の職員に案内された。島の中央にある公園の南側の低い丘に建つ「開園四十周年記念碑」の前に、たたみ三畳ほどの平らな石に、文字を刻んだ詩碑があった。

  石碑には「詩人韓何雲」と陰刻され、「ポリピリ」の詩が書かれている。一九七三年四月につくられたもの。「ポリピリ」とは「麦笛」という意味で、この詩は韓国の学校教科書にも載せられ、ひろく人びとに愛唱されている、との説明を案内の職員から聞く。

  国立小鹿島病院の治療本館は、白亜の五階建の堂々としたものである。その建物の前庭に「開院五十周年記念、一九六六年五月十七日建立」と書かれた石碑があり、その裏面にも「噫、五十年」と題する韓何雲の詩がある。十一行の短い詩が、朝鮮語で陰刻されていた。日本文に訳すると、次のような内容である。

 

     天刑の島

    納骨堂が答えてくれる。

    必ず、癩病は治るという神話は

    美しい山河にも吹いてきた。

    残忍に生きてきた姿は

    もはや新天地を求め

    輝かしき悲しみの小鹿島。

    噫、五十年。

    解放。

    自由がある

    噫、新しい世よ。

 

小鹿島からソウルにもどっても、韓何雲のことは頭から離れなかった。韓何雲の詩を歌ったCD(コンパクトディスク)か、テープは売っていないものかと、ソウルの街のレコード店を何軒か訪ね、店員にきいた。「韓何雲のテープはありませんか?」「ポリピリをうたったCDはありませんか?」。紙に「韓何雲、ポリピリ」と朝鮮語で書いて、それを店員に見せて歩いた。一軒のレコード店で、女性店員が私の持ち歩いていた紙を見て、CDのコーナーを探していたが、一枚のCDをもってきた。「韓国叙情歌のベスト」と朝鮮語と英語で書かれたCD盤十九の曲目のなかに、朝鮮語で「ポリピリ」と書かれ、「麦笛」と英語で添書きのある一曲があった。

 ソウルの大規模な書店は、鐘路一街から二街にかけて並んでいる。西から東へ教保文庫、永豊文庫、鐘路書籍とあり、それぞれ多種多様な大量の書籍が店頭に並んでいる。永豊文庫の地下には、CD・ビデオの広い売場のコーナーがある。そこで私は、「韓何雲のCDかテープはあるか」と尋ねた。店の人が出してくれたのは、丁福周というソプラノ歌手が歌った「韓国芸術歌曲集」という題名のCD盤で、収録された十八曲の一つに、韓何雲作詩「青い鳥(パランセ)」があった。

 

    青い鳥(パランセ)

    ぼくは  ぼくは

 

死んで

    青い鳥になって

 

    青い空

    青い野原を

    飛び回りながら

 

    青いうた

    青い泣き声で

    思い切りさえずるだろう

 

    ぼくは  ぼくは

    死んで

    青い鳥になるだろう。           (崔礒義  訳詩)

 

  わずか、二分二十六秒の短い歌曲だけれど、美しい詩のひびき、韻律とともに、絞りあげるようなムンドンイの切ない、悲しみの情感がつたわり、私の胸をうつ。

  韓何雲に関する本をあるだけ買い求めようと、三つの書店の書籍部販売カウンターで店員に、その在庫をきく。コンピューターで打ち出された韓何雲に関する本は、次の通りである。

 

@         韓何雲著『ポリピリ』未来社、一九九一年発行、一七〇頁。(韓何雲の詩七十四篇と解説・年譜・文献を収録)。

A         韓何雲著『青い鳥・ポリピリ』象牙社、一九九三年発行、一六一頁。(詩七十四篇と韓何雲「私の人生遍歴」、解説「韓何雲の生涯」を収録)。

B         韓何雲著『私の哀しい半生記』図書出版文学芸術、一九九三年発行、四八四頁。

C         金昌稷編著『行けど行けども黄土道・韓何雲――その悲しい生涯と詩』知文社、一九八二年発行、三九二頁。

 

  帰国しても、韓何雲のことは私の頭から離れなかった。韓何雲に関する研究物・出版物はないかと探して歩いた。若生みすず「麦笛・ポリピリ」が、『むくげ通信』八十三号(一九八四年三月)にあった。若生さんの論文は、次のような書き出しで始まっている。

  

「幼い頃、草や葉を唇にあてて吹き鳴らした思い出はお持ちだろうか。人工の笛とは違った、不思議な音色が出る。この「麦笛」という歌を初めて聞いた時、ふとそんな思いが浮かんできて、何の疑いもなく望郷・追憶の歌と思いこんだ。「ピュリュリリ」と繰り返される哀切な調べの中に、もっと凄惨な思いの存在を感じるようになったのは、作詞者・韓何雲がハンセン氏病患者であったことを知ってからである……」。       

 

そして、五線符に作曲家・趙念の曲にそえて、「ポリピリ」の詩を書き標している。

  

 春の丘

 ふるさと恋し

 ピュリュリリ

 

    麦笛吹いて

    花の山

    幼き日恋し

    ピュリュリリ

 

    麦笛吹いて

    行きかう街

    人の世恋し

    ピュリュリリ

 

    麦笛吹いて

    放浪の幾山河

    涙の丘越え

    ピュリュリリ               (若生みすず  訳詩)    

 

  二回目の小鹿島訪問後のほど近い六月下旬、ハンセン病の歴史研究について私淑している崔礒義先生から、先生の書かれた詩論「ムンドンイ詩人韓何雲」(『鐘声通信』一九九五年六月)の恵贈を受けた。韓何雲の四篇の詩訳と解説は、すばらしかった。その解説の一節に「……残念ながら日本では、韓何雲の詩はあまり知られていない。私の知るかぎりでは『韓国現代詩集』(土曜美術社刊)に、姜晶中訳で「麦笛」一編が紹介されているのみである。私はおよそ、人に感動を与える優れた詩には国境はなく、共有すべきだと思っている」と書かれてあった。誰か「韓何雲詩全集」を訳してもらえないかと、朝鮮語のほとんど読めない私は、そういった思いが募るばかりであった。

 

  一九九五年十月二十日の夕方、「らい詩人集団」主宰の島田等さんが長島愛生園で、六十九歳の生涯を閉じた。すい臓がんに侵されていた島田さんは、病室に見舞いに行った私に「わたしの集めている資料も利用して、植民地下朝鮮のハンセン病患者の実態究明をしてほしい」との依頼(遺言)をされ、日ならずして亡くなった。

  一か月あまりたった或る初冬の一日、島田さんの後見人で親友の宇佐美治さんに伴われて、亡くなった島田さんの書庫を訪ねた。簡素な病舎の裏庭に、一戸建のプレハブの書庫が建てられ、書籍や収録されたテープとともに、綴られた冊子、ハトロン紙の封筒に入れられた資料類が多量、書架に並べられて、積まれていた。封筒のなかをひとつひとつ調べていくと、大きな封筒の中に、三十冊ばかりの「らい詩人集団」発行の『らい』誌があった。同じ号数が重複し、同時に欠号も多かった。

  『らい』誌の入っている封筒には、原稿も入っていた。その原稿に目を通し、驚きのため胸が大きく鼓動した。それは、韓何雲の詩集『ポリピリ』の訳された原稿ではないか。最初のページに「韓何雲・麦笛」と書かれ、原稿用紙の枡に一字一字、ていねいに埋められたペン字。それを、ところどころ少し乱れた文字で直された朱書のペン書き。金昌稷の「解説」も日本文に訳されている。『らい』誌・第二十四号(一九七九年四月)、第二十五号(一九八〇年二月)には韓何雲の詩集『ポリピリ』の訳文が「監修・姜舜(カンスン)、訳・中原誠」として、二号に分割して掲載されていた。

  宇佐美さんに問うと、中原誠さんは古くからの入園者のひとりで、フランス語に精通し、朝鮮語も読める方だとうかがった。『ポリピリ』の訳詩は五十四篇で、韓何雲の遺稿詩がないところから、一九五五年五月に出版された第二詩集『ポリピリ』の初版本に近いかたちの詩集で、しかも韓何雲の死去のことが書かれているのだから、一九七五年二月の韓何雲の没後、間もない出版の『ポリピリ』をテキストとし、訳出されたものだと思った。

  ともあれ、『らい』誌第二十四号は、一九七九年四月の発行だから、いまから二十年近く前に韓何雲の詩集『麦笛』は、同じハンセン病にやんだ隣国の島田さん、中原さんの手で世に出ていた。そのことは、感動的であり、私には衝撃的であった。訳者の中原さんに会って、『麦笛』訳出の経緯や、「らい詩人集団」主宰の島田等さんの、このことへの役割をお聞きしたいと思った。

  年が改まって、私は長島愛生園を訪れ、一月十九日の午後に中原さんとお会いした。中原さんには、『麦笛』訳出の経緯のお話だけでなく、テキストにされた『麦笛』の本も見せていただいた。『らい』誌第二十四号に載っている、しまだひとし(島田等)「『麦笛』の訳出と韓何雲の詩について」と中原さんから伺ったお話をもとに、どういう経緯をたどってムンドンイ詩人・韓何雲の詩集『麦笛』が、島田等編集・発行『らい』に掲載されたのかを書いてみたいと思う。

  韓何雲の詩集『麦笛』は、「むすびの家(奈良)」の飯河梨貴さんから、韓国旅行の記念にと島田さんがもらったものである。テキストに使用した『ポリピリ』は、一九七五年十月十二日初版の三中社(ソウル特別市龍山区東子洞)発行のもので、紙質のよくない文庫判の小冊子である。七五年二月二十八日に韓何雲は死去しており、この詩集は同年の秋に出版されたもの。島田さんが飯河さんからもらったのは、その二年後の七七年である。

  島田さんはこの詩集で、同病であったこの詩人の存在をはじめて知り、作品の内容について興味をそそられたが、朝鮮語は不案内でよくわからない。たまたま、愛生園内で朝鮮語の学習会があり、それに参加していた中原さんに、彼はその詩集を渡している。

  「訳して欲しい……といった言葉は一切なく、島田さんは詩集『麦笛』を置いて行かれただけ」と中原さんはいう。たとえそう思っても、「訳してみたら」とは決して言葉にしない島田さんらしい仕草である。島田さんは、『らい』誌の第二十四号で、次のように書いている。

 

    「日本のらい療養所の中には数百名の韓国、朝鮮出身者がいるし、その中には詩を書く人も何人かいるのだが、故国の同病の文筆活動やその作品についてはほとんど知らしてくれていないし、積極的な関心もはらっていられないようである」(「『麦笛』の訳出と韓何雲の詩について」より)。

 

  中原さんは詩集『ポリピリ』の全詩を訳出したものの、訳した内容に自信がない。だれか信頼のおける人の監修がいると思った。島田さんにそのことを伝えると、すでにそのことを見越しておられたようで、栗生楽泉園(群馬県草津)の詩友たちを指導されている村松武司さんを介して、姜舜さんに監修を得る手はずを即刻とってもらった(いまは、村松・姜のお二人とも故人となっているけれども)。姜舜さんは『現代韓国詩選』(梨花書房)の訳者であり、韓何雲の詩も一部ではあるが、訳している。詩集『麦笛』は、このような経緯をたどって、「監修・姜舜、訳・中原誠」で、らい詩人集団『らい』誌に掲載された。

  中原さんの記憶では、訳出した原稿用紙はその後、どうなったのかは定かでなかったという。朱を入れたのは姜舜先生であることは、間違いないし、金昌稷の「解説」は訳したまま、活字にはされなかったと思う、と中原さんの言葉だった。

「埋もれた韓何雲の詩集」を日本で、いま一度世に問うていきたいと私は思う。この文章をかいたのも、その願いがあったからである。

 

  韓何雲の生涯と詩

 

ムンドンイ詩人・韓何雲は、朝鮮北部の咸鏡南道咸州郡東川面双峰里で、一九一九年二月二十四日に生まれた。本名は韓泰永といい、父韓鐘奎の二男三女の長男で、母親の名は寛恕といった。父方の家系は三代を科挙に及第した学者の家であり、母は咸鏡南道の富豪の一人娘で、寛恕が十七歳の時、十二歳の鐘奎と結婚している。当時の朝鮮の風習では、年若い男子と年上の女子との結婚は、ごく普通のことであった。

  韓何雲が生まれた一九一九年といえば、同年三月一日を期して始められた朝鮮近代史の上で、最大の反日独立運動である三・一独立運動の起こった年である。土着富豪であった父・韓鐘奎も、三・一独立運動に加担した嫌疑で退学になっている。咸州といえば、咸鏡南道の各郡のなかで最も人口密度が高い地域である。韓何雲の生まれた同郡東川面は、朝鮮総督府実施の一九三〇年国勢調査の「職業(大分類)別本業人口」統計表によると、有業者四一九四名のうち、農業従業者は三四七二(男三三七八、女九四)名で、八二・八%を占めている。咸鏡南道の農業従業者比六九・九%より一三%ほど高いことがわかる。韓何雲の家は、そうした地域の土着富豪であった。

  何雲七歳のとき、家は何雲の学業のため、同道で一番人口の多い都市・咸興へ移転した。何雲は咸鏡第一公立普通学校を卒業。一九三三年春、何雲十四歳のとき、原因不明で体が重くむくみ始める。一九三六年、全羅北道の公立裡里農林学校畜産科を卒業する。在校中は陸上の長距離選手で活動。翻訳小説に没頭し、三年生の時には小説習作を書く。妹の友人であるRという女子学生と交際し、愛する。短編「母」、「ほととぎす」を『朝光』、『三千里』にそれぞれ投稿したが、連絡はなかった。

  一九三六年、中学五年生のとき、当時の京城帝国大学附属病院(現ソウル大学校医学部附属病院)で、「癩病」と確定診断を受ける。一九三九年、日本に渡った韓何雲は二十歳のとき、東京成蹊高等学校を修了。同校二年生のときに恋人が東京にやってきて、人生の最も楽しいときを過ごす。韓何雲の詩において北原白秋、石川啄木の影響を多く受けたとあるのは、こうした時期に二人の詩に接したのかとも考えられる。

  一九四二年一月、中国国立北京大学農学院の畜牧学系を卒業した。その時、北京協和医科大学在学中であったSという「二世女性」と交際する。「朝鮮畜産史」という論文を書く。二人の女性、裡里農林学校時代からのR女、北京での新しく交際したS女を間において葛藤する。S女は韓何雲の「癩病」を悲観し、自殺する。

  一九四三年に郷里へ帰り、父親の意志で咸鏡南道庁畜産課に就職、数日後に長津郡に転勤、緬羊研究と蓋馬高原開墾に没頭する。一九四四年、京畿道庁畜産課に勤務、「ハイカラ」頭髪令に抵抗・拒否。発病が外部にあらわれ、治療を開始する。本名である韓泰永を「韓何雲」と改名する。

  一九四五年八月、朝鮮は日本帝国主義の植民地支配から解放される。朝鮮北部にソ連軍政が始まり、共産党に韓何雲の所有する家産を没収される。弟と露店の本屋を始める。翌一九四六年三月、「咸興学生義挙事件」で韓何雲はソ連軍によって逮捕、咸興刑務所に収監される。その事件に捧げる詩を、のち詩集『麦笛』に発表している。

 

    デモ

    ――咸興学生事件に捧げる歌  (一九四六・三・一三)

   

    飛びこんでみたい

    飛びこんでみたい

 

    どぶんと、あの江(かわ)の流れの中へ

    うねる大波の音と共に

    万歳の声と共にながれてみたい。

 

    みんな元気な人たち、自分らたちだけで

    雄叫び、海の音。

 

    あ、海の音と共に

    死んでしまいたい、死んでしまいたい

    らい患者はただ佇んで泣き、デモは過ぎ行き、

  

    あ、らい患者は死んでしまいたい。                (中原誠  訳)

 

  一九四七年五月、何雲の弟が主導した「北傀転覆義挙」に連座し、再び逮捕される。元山刑務所に移監され、その年の夏、母親の寛恕は死去、韓何雲は元山刑務所から脱獄し、三八度線を南に越え、全国各地を流浪する。流浪の果てに再び帰郷するが、弟も恋人Rも逮捕された後、行方不明。一九四八年に韓何雲は再び、南に越えている。

 

  一九四九年四月、三十歳のとき『新天地』四月号に「全羅道のみち」など十三篇の詩をまとめ、「韓何雲詩抄」として文壇にデビューし、五月には正音社から『韓何雲詩抄』を発刊した。

 

書店の前には長さ一尺五寸、幅六寸の赤地の紙に「韓何雲詩抄」と白く印刷した広告が五月の風になびくのに、春風吹く空咸をもって歩く私の姿は、この上なくみじめである。(中略)この恥ずかしい乞食の生活以外に、どうしょうもない運命じゃないか……。そして私自身、詩人だと自称したくはない。それよりも、この街で乞食として、人間の誇りもなく畜生より卑しい呪詛と虐待を受けて、生命だけをながらえようとした。

  詩は、私の現実生活でめしにも粥にもならず、冷水ほどの助けにもならないが、情緒面では、詩は捨てることのできない私の第二の生命だ。この詩で生きる道が、全生命を支配し、望みを失った暗い私に白光のような光を与え、勇気と意志の晴条の道に誘うのである(韓何雲『私の人生遍歴』)。

 

  一九四九年八月、京畿道水原市細柳洞ハンセン病患者定着村である河川部落に、韓何雲は入る。同年十二月末、七十名の患者を引率して、京畿道富平に行き、新しくハンセン病患者収容村を設立し、六百名の患者の選挙で自治会長に就任し、園名を「成蹊園」と命名した。一九五四年八月、「大韓ハンセン総連盟」を結成し、委員長に選出された。発刊された『韓何雲詩抄』が不穏だという理由で、四ヶ月間、国会と新聞・放送で論難される。一九五五年五月、第二詩集『ポリピリ』を人間社から出版する。その中に収録されている詩の一篇を、次にあげておく。

 

       全羅道みち

       ―― 小鹿島(ソロクト)へ行く途次

 

      行けど行けど  赤い黄土みち(荒涼とした道)

      息がつまるような暑さだ

 

      見知らぬ友にあえば

      おれたちムンドンイどうしがなつかしい

 

      天安(チョナン)の三叉路を過ぎても

      たわしのような陽が西の山に残っている

 

      行けど行けど  赤い黄土みち

      息がつまるような暑さの中を  足を引きずりながら

      行く道……

 

      靴をぬげば

      柳の木の下で  地下足袋をぬげば

      足の指がまた一つない

 

      これからさき  残った二本の足指がなくなるまで

      行けど行けど  はるか遠い全羅道みち。                    (崔碩義  訳)

 

  韓何雲の関心は、文学にとどまらず、政治・経済・社会全般にわたり、活動もハンセン病患者運動、教育、社会事業に及んだ。ハンセン病患者の子供たちを収容・養育・教育する保育院として、一九五一年五月、「新明保育院」を創設して院長に就任し、一九六〇年には「青雲保育院」を移譲されて院長に就任し、二つの保育院を交互に通いながら、幼い子供たちをかわいがった。一九六二年九月、年長の孤児のために定着事業所「安平農場」を京畿道安城に創設し農場長となり、一九六三年二月には家畜改良事業で、富平に「京仁種畜場」を創設し場長に就任している。また、新安農業技術学長、一九七一年十一月には韓国カトリック社会復帰協会長を歴任するなど、彼の一生は多事多忙であった。

  韓何雲は次のように言ったという。「身体がまともだったら、政治や経済方面に身を投じただろう」と。

  一九六七年五月、肝硬化症の発病。一九七四年八月、月刊「セッピッ」社が主催した故陸英修女史追慕会で「哭  陸女史  霊前に」という追慕詩を朗読し、これが最後の公式席上での参席となった。陸英修は朴正熙大統領夫人で「救癩事業」に熱心であった。

  一九七五年二月二十八日午前十時四十五分、仁川北区十井洞の自宅で死去。死去前に天主教(カトリック)に帰依、墓所は京畿道金浦郡金浦面チャンヌン墓苑にある。韓何雲の詩集『ポリピリ』より、二篇の詩を次に紹介する。

 

        生命の歌

 

      過ぎ去った事も美しい

      今では ムンドンイの生も美しい

      また  膿のただれも美しい

 

      全てが

      花のように美しい

      ……花のように悲しい

 

      世の中

      歳月を

      生きて  生きがいが

      私は  生きながら

      あるのか

      夢が  あるのか             (菊池義弘  訳)

 

        私はらい患者ではありません

 

     父がらい患者であります

      母がらい患者であります

      私はらい患者の子供であります

      しかし  ほんとはらい患者ではありません。

 

      天と地の間で

      花と蝶が

      太陽と星をだました愛が

      生命になったのであります。

       

      世間はこの生命を悲しんで

      人間である私をらい患者と呼びます。

 

      戸籍もなく

      噛みなおしても判りようがなく

      健康な人間になろうとしてもなれそうもなく

      呆れ果てた人間なのであります。

    

 私はらい患者ではありません

 私はほんとにらい患者ではなく

 健康な人間なのであります。                 (中原誠  訳)

 

  島田等さんは、韓何雲の詩について、次のように書いている。

 

   韓何雲の詩が私たちにまず気づかせることは、そのちがいより共通するものの大きさである。生物学的な抑制のきかない自己疾病観、人間関係における――とくに非らい者にたいする自己設定、自己嫌悪という自己抹殺的衝動のはげしさなど、それらは解釈をまつまでもなく共鳴される。おそらく患者としておかれている社会的、歴史的状況の共通性が、それほど根原的なのだと思う。

   そして作者は年譜でみると、らい回復者として社会復帰し、さまざまな事業も手がけているが、『麦笛』の作品でみるかぎりそうしたモメントはついに作品の上に影を落としていない。かれの心はほんとうに回復者として死ぬことができたのかどうか。私はそうしたところにらいをめぐる歴史の重さの共有を身にしみないわけにはいかないのである。

   癒ゆることのないやまい――それは私たちが人類の課題を病むかぎりいまもって現実である。まだまだ私たちも韓何雲と同じく真の回復者として死ねそうもない。はげしい自己否定という形でしか自己実現のうたをうたえそうにない。人間の尊厳が、その人間の生存という事実にしか拠りどころをもたないのであれば、私たちはなおも過酷を生きねばならないのである。(らい詩人集団『らい』第二十四号、一九七九年四月、二二ページ)。

 

   神谷美恵子と中原誠

 

  追記T、神谷美恵子のみた中原誠さん 

 

  神谷美恵子は「島の精神医療について」『人間をみつめて』みすず書房(一九八〇年)一六〇〜一六一ページのなかで中原誠さんのことを、次のように書いている。

 

  長島というのはかなり広い島で、同じ島の光明園の人も入れればそこに二千二百余人もの患者さんがちらばって暮している。たまに行く精神科医とは顔をあわせたこともない人が多いので、私は決して彼らの生活や意識をよく知っているわけではない。いろいろな意味で今なお、時どきびっくりするような人に会うことがある。たとえば昨年のことであったと思う。ある日、まだ三十代と思われる男の人によびとめられた。

「先生、ちょっとぼくのやっている翻訳をみてくれませんか」

  みると、少し不自由な手で、分厚いフランス語の本を胸に圧しつけるようにして抱いている。むつかしい歴史の本である。びっしりときれいな細かい字で記した大学ノートの訳文とつき合せてみると、ほとんどまちがいがない。この人は少年の頃、発病して入園しているはずだ。

「どうやってフランス語を勉強したの?」

「ラジオで何年も独学して、答案も放送局へ送って添削をうけたりしました。テレビも利用します」

  あっさりと彼はいう。しかし集団生活の中で、これがどれだけの意志力を必要とすることか。大学生たちがフランス語をやっても、たいていものにならないことを思うと、私は彼の肩を叩いて激励したくなった。

「べつに出版のあてがあるわけではありません。ただ、いったい、自分のやっていることがまちがいないか、それが知りたかっただけです」

  彼のにこにこした顔をみて思った。要するに金や報酬や名誉の問題ではないのだ。自分のいのちを注ぎ出して、何かをつくりあげること。自分より永続するものと自分とを交換すること。あのサン・テグジュペリの遺著『城塞』にある美しい「交換(エシヤンジュ)」の思想を、この人はおそらく自分では知らず知らずのうちに、実行しているのだ。その後も彼はあいかわらずせっせとこの仕事をつづけ、私には答えられないようなむつかしい問いをためて、時どき聞きにくる。

 

追記U、 「語学の師として」(『愛生』神谷美恵子追悼号=神谷美恵子著作集・月報 第一〇巻・一九八二年十一月八日発行)中原

 

  私が先生に初めてお会いしたのは一九七〇年五月でした。その頃、先生は精神科医として月に一回か二回、愛生園に来園され、診療にあたられていました。診療外のことなのでためらいはありましたが、私は勇気をだして先生をお訪ねしてみようと思ったのです。

  私は入園後フランス語に興味を持ち、独学で勉強をはじめました。そのうちに何とか読めるように飜なったので、柄にもなく辞書と首っ引きで歴史書の訳にとりかかり、数年がかりでひと通り訳し終えていました。とはいっても「独学の悲しさ」、自分では訳せた「つもり」でもこころもとなく、また幾ら辞書で探しても見つからない語句もありました。そこで、私はフランス語に造詣の深い先生に一度見ていただこうと思ったのです。

  私は先生の診察が終るのを待って、自分の幼稚な翻訳に目を通していただけないかと、お願いしてみた。すると、先生はこころよく承諾され、休憩時間をさいて教えて下さることになったのです。

  「さてと、わたしに出来るかしら」

  先生は緊張している私の心をほぐすように、気さくな口調で訳文を読むように促されました。そして間違った部分がでると、きれいな発音で原文を読みあげられ、

  「ここね、わたしだったら、こう訳したいところだわ」

と、まるで「相談」されるように指摘されるのです。訳文と原文のつき合わせが一段落したとき、先生はどのように勉強したのか、どんなものを読んでいるかなどと質問されました。そして次からは、疑問点や難解な語句をかきだしてくるように言われました。私は「マン・ツウ・マン」方式で、これからも教えていただけるのかと心強く思いました。……このようにして十年近く、私は先生から語学の教えを受け、『ツゥールの夜明け』という本を翻訳することが出来たのです。

 先生が亡くなられた今、人間を人間として厳しくみつめられた、先生の真摯な探求的態度があらためて想い起されます。(一〜二ページ)。

 

  一九七九年十月二十二日の朝、入院中の神谷美恵子は、一時帰宅中に、急性心不全により急逝した。六十五歳であった。