小鹿島 ソロクト ハンセン病補償請求が問うもの

『世界』2004年4月号所収


                      滝尾英二

日本の国内患者に限定されているハンセン病補償法を、
もう一度、差別と闘うものにしなければ、
人間の尊厳を回復する闘いに
しなければならないと思います。


<  ハンセン病「補償法」を問う  >

―― 昨年一二月二五日、韓国のハンセン病療養所である小鹿島(ソロクト)に在住している入所者二八名が、厚生労働省に対して、日本のハンセン病補償法に基づいて補償を請求しました。報道によれば、この入所者たちは、戦前、日本統治下にあったとき、強制隔離されていた人々だったのですね。ハンセン病補償法は、日本国内以外の療養所に隔離収容された入所者に対しても適用されるのでしょうか。
滝尾 厚生労働大臣は、二〇〇一年六月二二日厚生労働省告示二二四号によって、補償法の該当ハンセン病療養所の範囲を示していますが、これは韓国の療養所が明記されていません。したがって、政府は、この請求を拒否する可能性が高いと思います。(二月一二日、厚生労働省健康局長の参集する「補償金の支給に関する懇談会中央会」は、小鹿島更生園に戦前入所者から、厚生労働省に対する「補償法」に基づく補償金の支給申請に対して、「中央会として、議題になじまないと判断し、今後、厚生労働省において、慎重に検討の上、決定を行う」とする意見を健康局長に報告した。これについて坂口厚生労働大臣は一三日、閣議後の記者会見で「法律を作った際、外国の元患者までは想定していなかったと思う」と述べ、補償を行うのは難しいとする認識を示し、「一か月ぐらいの間によく検討して結論を出したい」と述べている)。政府がこれを拒否した場合、その行政処分の取り消しを求める行政訴訟を東京地裁に提訴がなされます。この裁判は、日本のハンセン病「訴訟法」自体が抱える問題を問う裁判となると思います。
ハンセン病療養所に収容された入所者に対する国の補償が行なわれるようになったのは、一九九八年に国立ハンセン病施設に強制収容された人たちが国家賠償を求める訴訟を起こしたのが発端です。最初は星塚敬愛園と菊池恵楓園の一三人の方が訴訟を起こしましたが、その中には、しま島ひろし比呂志さんや志村康さん、溝口製次さん、竪山勲さん、玉城シゲさん、上野正子さんなどがいます。
提訴の背景には、HIV被害者の方と関係があって、すでに故人となられましたが、大阪薬害エイズ裁判の原告であるあかせ赤瀬のり範やす保さんが島比呂志さんに宛てた一通の手紙が来て、「ハンセン病患者はなぜ怒らないのか。らい予防法は、エイズ予防法と同じく患者を隔離することによる予防を目的とした隔離政策にほかならない」という内容の指摘に島さんは共感するのです。
その後、島さんが九弁連(九州弁護士会)に問題を提議し、九弁連が調査をしたり、シンポジウムをしたりして、これは許しておくべきではないという結論に達して、一九九八年七月三一日の一三人の提訴になっているのです。
裁判が始まるとき一三人だった原告が、しだいに二〇〇人、三〇〇人と増えてゆくんです。熊本地裁結審の二〇〇一年の一月の時点で全国の原告数は五九六人になっていた。問題は裁判という形式上、まず絶対隔離をした被害に対する賠償を要求するという形にならざるを得ないし、熊本地裁の杉本判決(国は控訴断念)も、国の日本国憲法に違反する違憲・違法な「らい予防法」を断じたが、一九六〇年以降の行政責任を問題とするという形になっていて、原告らに対し、損害賠償を認めるという判決になっているのです。
熊本地裁の前庭で、判決「勝訴」の垂れ幕と判決要旨のシラシを読んで私は原告たちと喜びあいましたが、一方で「この裁判は日本国憲法違憲訴訟だから、日本統治下の植民地、とりわけ朝鮮のハンセン病患者たちにとっては、よろこぶことのできない内容だ」との思いも強かったのです。
 それ以前から、熊本と岡山での裁判を傍聴などするなかで、この裁判のやり方に疑問を感じてくるようになっていました。そのことを、二〇〇〇年四月から一二月にかけて、「自家本」を四冊、『「らい予防法」国賠請求事件資料の考察』と題して広島青丘文庫発行として出しました。もちろん、この冊子は国のハンセン病政策・施行の差別性、欺瞞的被告らの証言や資料の批判したものでしたが、国と争う裁判という「限界」からか、研究者の私には容認出来にくい内容が、原告弁護団からも出され、それに対しても苦言を書いています。
 一九三一年四月一日、「癩予防法」ができますが、その前月に、癩予防協会が皇太后さだこ節子(大正天皇の妻)の一〇万円の基金によって発足したことを一つの契機にできたものです。ハンセン病患者の絶対隔離政策の遂行に、皇太后節子の果たした役割りが大きいのです。
 ハンセン病については、当時論争があって「大学派」と言われる人たちは、国際的知見を認識していて、「伝染の難易の多少を考慮せず、強制的に隔離し取り締まるのは時代遅れ」とか、ハンセン病は「素質遺伝があるとか、健康な人、栄養のよい人には仲々うつらない、或種の癩(「神経癩」)は絶対に伝染しない」とか言っている。こうした主張した人は、青木大勇、太田正雄(木下杢太郎)、小笠原登などの学者たちでした。当時の京城帝国大学総長の志賀潔も『朝鮮』一九三一年三月号に掲載した論文で、「衛生上の改良及び食料営養状態の改善進歩が癩伝染の素質を減少し得る」と書いています。これに対して、むらた村田まさたか正太(大阪にあった療養所の外島保養院長だった人物)や、その師である光田健輔、その弟子たちがつくる「療養所派」の人たちは、ハンセン病は非常に危険な急性伝染病かのように言って、絶対隔離を主張しました。そして、彼らが、皇室を利用することによって、大学派の学者が療養所派に批判ができなるようにしたんです。皇太后節子も、毎年、皇太后の居住した大宮御所に各国公立療養所長を招いて、所長の絶対隔離施行の遂行を激励しています。
 最高潮に達したのが、一九四一年一一月一四日と一五日、大阪で行なわれた第一五回日本癩学会の時です。その時、ハンセン病は隔離するほど恐ろしい病気じゃないと主張していた小笠原登が厳しく糾弾されていく。また、大島青松園長野島泰治は、小笠原の学説を隔離施策推進の立場から非難しています。私の懇意にしている星塚敬愛園(鹿児島)の玉城シゲさんも、上野清・正子さん夫妻も、みんな戦前の旧らい予防法で隔離され、その当時に大きい被害を受けています。
ところで、今度のハンセン病裁判は、絶対隔離政策の真の当事者の責任とその事実が明白にならないまま、裁判は終わろうとしています。
―― そうすると二〇〇一年五月に熊本地裁で補償される対象は、一九六〇年以降も療養所に入所させられていた人たちだけですか。
滝尾 二〇〇一年五月一一日、熊本地裁は原告らに対し、その入所期間に応じて一人当たり一四〇〇万円〜八〇〇万円の損害賠償を認める判決を言い渡しています。熊本地裁以外の二つの裁判所では、原告団などは熊本地裁判決を全面的に支持し、国に対して控訴断念を求める運動を行い、世論も原告らの控訴断念を支持します。このような運動と世論の支持の中、同年五月二三日に小泉総理は、熊本地裁判決に対し控訴断念を表明しました。各裁判では、以後熊本地裁判決内容と同じ内容で、裁判途中で和解して行くんです。これらの和解では、あとでお話しいたします「ハンセン病補償法」の影響もあって、一九六〇年以前に隔離収容された人でも和解の対象とされました。
 ハンセン病『補償法』は、訴訟への参加・不参加を問わず、隔離政策によって被った施設入所者を対象として補償されました。しかし、厚生労働省は、補償法第二条によって補償金を受けることのできる「ハンセン病療養所等」についての定義規定があり、一九九六年「らい予防法」に廃止されるまでの間に国立ハンセン病療養所その他の厚生労働大臣が定めるハンセン病療養所に入所していた者であって、この法律の施行日において生存しているものをいうと定めているのです。
 これを受けて厚生労働大臣は、二〇〇一年六月二二日厚生労働省告示二二四号によって、ハンセン病療養所の範囲を決めました。そこには国内にあった国立・私立を問わないすべての療養所が含まれています。一九六〇年以前の療養所、戦前のみに存在した療養所も含まれています。しかし、日本統治していた朝鮮や台湾などの植民地におけるハンセン病療養所へ強制隔離収容された方がたについては、明確に規定していません。補償法は、これらの人たちのことを予想していないとも考えられます。韓国の小鹿島病院に日本統治期に収容された入所者がこの度、訴訟に踏み切ろうとしているのは、日本が朝鮮を植民地として統治していた時代に隔離収容され、甚大な被害を受けたにもかかわらず、日本政府が、謝罪もそれに基づく補償もしようとしないからです。昨年(二〇〇三年)八月七日に小鹿島で行なわれた入所者の支援団体チャムギル主催の「国際人権シンポジゥーム」に国賠西日本訴訟弁護団の徳田靖之・元団長が参加し、植民地支配下に隔離収容された小鹿島入所者の日本政府に補償と謝罪させる方法の提案がありました。それが提訴に踏み切ろうとする契機となりました。
 差別の苦しみは入所者だけでなくて入所していない人たちも同じです。国内でも医療を受けられない、生活保護も受けられないで社会的な差別・偏見だけは受ける苦しみをハンセン病の人たちは受けているということで、補償法の成立後、非入所者にも補償を与えるべきではないかという訴訟が、熊本、東京などで起こってくる。それは判決ではなく、和解という形で決着していきます。
沖縄の問題も出てきました。沖縄は非常に複雑で、戦前は「旧らい予防法」で隔離、戦後は二七年間アメリカの施政権下にあり、復帰後は一九五三年制定の「らい予防法」で隔離されたのです。
 ── 復帰は七二年ですが、二七年間、らい予防法の適用を受けていないとすると、その分の補償は削られるんですか?
滝尾 最初はそうなっていました。しかし、それは差別であるという抗議があって、やはり日本と同様にすべきであるということが、後に決まっていくんです。これにも大変な闘いがあった。
 さらに出てきたのが、家族・遺族の問題です。この人たちもまた、差別・被害を受けてきたと、熊本、東京その他で裁判所に訴えて、和解勧告に基づいて入所者の遺族・家族には補償は出るようになった。しかし、非入所者の家族の場合は、いまだに出ていません。
昨年七月、ハンセン病患者を母親にもつ男性が鳥取で県のハンセン病担当課職員を全治二週間の傷をおわせ、殺人未遂罪に問われた事件(「鳥取事件」)がありました。今は公判中の事件ですが、この男性は、戦後間もなく発症していた母親(一九九四年死亡)を、ハンセン病と知りながら療養所にも入所させず、放置して適切な行政対応を行政は怠ったなどと、その責任を問い続けた末に引き起こした事件です。被告は、六〇に近い年齢ですが独身で、差別の苦しみと、孤独を長く味わい続けていたに違いありません。こういう非入所者の家族・遺族の方がたが、いまだに救済されていません。

<  植民地の残酷さ  >

滝尾 「日本に一番欠けているのは何か。(中略)日本人は中国や朝鮮の人たちがどれほど深い傷を負って、時間が何年たとうと、むしろそれは強まりこそすれ、薄まることがないような傷を負っていることについての認識や理解が決定的に不足している」と、弁護士の南 典男さんはいっています(『法律時報』二〇〇四年一月号、特集「戦後補償問題の現状と展望」一九ページ)。そのことを最も端的に示しているのが、今回補償法申請をした植民地におけるハンセン病問題だと考えます。
日本は朝鮮を植民地化した翌年の一九一一年三月二四日に、「朝鮮に施行すべき法令に関する法律」(法律第三〇号)を天皇の名と印、内閣総理大臣桂太郎の名の下に公布し、朝鮮にのみ適用される法令は制令によって定めることにしました。一九三五年に日本の旧「癩予防令」と全く一字一句違わない法律が、朝鮮でも「朝鮮癩予防令」が制令として公布されます。この制令は、一九一一年の「法律第三〇号」第一条及び第二条により勅裁を得て公布された法律に依拠しています。そして日本国内より四年遅れて一九三五年に「朝鮮癩予防令」が、公布されたのは、収容施設ができていなかったからです。この制令に基づいて府令「朝鮮癩予防令施行規則」ができます。ともに同年六月一日に施行されます。「朝鮮癩予防令」も「同施行規則」までも、日本国内のものと全く同じ内容です。
 朝鮮総督府によって、全羅南道小鹿島に慈恵医院がつくられるのは、一九一六年です(三四年に小鹿島更正園と改称)。ここに最大六〇〇〇人を収容し、敗戦まで国立のらい療養所として存続しました。現在入所している七〇〇人余のうち、約一〇〇人が日本統治下で隔離収容された人々です(韓国は六〇年代から開放政策)。
同じ隔離でも、日本と何が違うかというと、「〜患者懲戒検束規定」の内容が違います。「患者罰則検束規程」の第四条には、逃走した者は監禁室に入れるとあり、これは日本も同様ですが、「減食若ハ監禁」を行なう場合に国内の療養所と異なり「多衆聚集シテ陳情請願ヲ為サントシタトキ」も減食若しくは監禁です。みだりに他人のものを使用し共有をする場合も同様です。そうして、収容施設の中で懲罰のために監禁するとか、謹慎させるとか、あるいは食料の二分の一までの緊縮とかが決められていることです。施設の中にさらに監禁室もつくって、ここでたくさんの患者たちが死んでいる。私も島を訪ねて見てきましたが、とても狭くて、コンクリートの地べたで、ここに三〇日まで監禁できるとされていた。冬にここに三〇日も入れられたら、とても生きていることはできなかったでしょう。朝鮮の場合は、この監禁室から出る時に、医者ではなくて看護士らによって断種手術がやられているんですね。
 日本ともっとも違うところは、「患者罰則検束規程」によって、患者を検束または監禁するという理由には、炊事をするため、燃料として小鹿島の樹木を採ることも入っていたことです。お米は支給されるので、燃料としてどこかから木を持って来なければならない。しかし、島内の木を伐ってはいけないんです。よその島でとってこい、といわれる。ぼくがインタビューしたおじいさんも、一三歳の少年のとき、木の枝をとったということで「断種手術」されているのです。
 ── そうすると、小鹿島における対応は、日本の場合に比べてはるかに厳しかったということですか。
 滝尾 園内の「患者罰則検束規程」も厳しかった上に、小鹿島には刑務所もありました。療養所の中に刑務所があるのは、戦前は小鹿島だけです(日本にできたのは戦後)。小鹿島に刑務所ができるのは一九三五年で、ここに各地から裁判を通して判決を受けたハンセン病患者が送られてくる。一〇〇人規模で入っています。
 ── そこでたとえ刑期を終えたとしても、小鹿島の中の隔離されたところへ戻ることになるわけですね。
 滝尾 ええ。一九四二年、小鹿島更生園長・周防正季を刺殺した李春相も、故物を扱ったというだけで一年の刑に処せられた。古物商であって、盗品を人から買って売ったということ──これも事実かどうかわからない──で刑務所に入れられた。西大門刑務所に入れられて、しばらくして、小鹿島の刑務所に移された。それで刑期が終わって小鹿島に出て、そこで患者を酷使していた周防を刺殺するのです。「お前が死ねば、我々が生きる」と。韓国では、「第二の安重根」と、いま評価されつつあります。
 ハンセン病というのは一般的に「貧困病」と言われていて、植民地前にもハンセン病患者はいたけれど、植民地になってから爆発的に増えた、というんですね。それは収奪されていった結果と同時に、植民地によってさらに生み出された病気なわけです。その人たちが、植民地であるがゆえに、より過酷な状況に置かれて、病気になり、強制的に隔離されて、一生解放されることがなかった。
貧困の原因は、職業に就けないことです。ハンセン病であるがゆえに職につけない。「らい患者は左の職業に従事することを得ず」といって、旅館、下宿屋、理髪店、料理店、飲食店など直接客に接する産婆とか看護婦、按摩などいっぱいありますけれども、こういうものにつけないんです。職業がないから流浪する。流浪の果てに死ぬ、「行旅死亡者」というのが日本統治下でうんと出ます。特に一九二九年に始まる世界恐慌の中で、死者は増えてきます。
 収容された小鹿島でも悲惨な状況です。当時、朝鮮の民衆はとにかく皆、飢えている。木の皮を食べる。食べれる土まで食べている。生きる最低の、とにかく人間としての食べ物じゃないものを、飢えのために食べて、夏のうちは木の葉っぱを食べるから、木が枯れて遠くからは真っ赤に見えたというほどです。
 当時、日本人の医者のなかには、遺体の解剖できるというのでソウルからわざわざ小鹿島へ行くんです。朝鮮では植民地時代、死亡した患者は必ず解剖される。死亡した患者を解剖しに行くんです。
 しかし、これは風土の違いがあって、体を切り刻んで火葬にするということは、朝鮮ではあり得ないことなんです。基本的には土葬で、切り刻まれて焼かれたら魂がふるさとに帰れないという思想がある。日本ではいま、お骨をふるさとに返そうという運動がありますが、韓国では焼かれた骨だけふるさとに帰っても、魂は小鹿島にさまようていると思うわけですよ。
 文化がこれほど違うから、今度の裁判でも、日本の文化そのままを韓国にもっていって同じ方法で解決しようと思っても、できないだろうと思います。「断種」一つとっても、その与えた苦痛というのは日本では想像もできない。族譜があったりする儒教の社会で、お家のための子孫繁栄をすべて断たれるということですから。
 国家賠償請求裁判は、勝つために違憲訴訟という道を選び、そこに適用されなかった人びとにもその範囲を広げて救済していったわけです。ですから、当然日本の国内という形で限定されます。国内において原告団に入っていた「在日」の方などは、何らかの形で補償を得ることができた。しかし最後まで入らなかったのが、植民地の被害者なのです。
 ── そうすると、もし裁判になったとしても、これまで勝つためにつくってきた論理を変えなければいけないわけですね。
 滝尾 これは、しんす辛淑ご玉さんから聞いた話しですが、辛さんが「なぜ朝鮮半島まで入れないのだ」とある国賠訴訟の弁護団の人に言ったら、「それは日韓条約によって解決済みであるから」というんですね。違憲訴訟からスタートしたということと、日韓条約で解決済みという二点によって、朝鮮人のハンセン病患者は、いまもなお救われない――というお話でした。国外にいる被爆者が救われたのとは全く違う論理で、いま来ているわけです。
 ── 被爆の問題は、現憲法下で起きたことではありませんね。しかし被爆者は、韓国であれ北朝鮮であれ中国であれブラジルであれ、一応治療する、となっています。
 滝尾 でもまず日本に来なければいけない。来られない人が多い中で、原爆災害補償法自体にも問題は多いけれども、少なくとも世界の注目がある中で、日本政府はこれを解決していかなければならなかった。ところが、ハンセン病に関しては、この世界の目がなかった。日本でもそうですし、韓国でもまだ差別的な視点が残っている。まさにHIVと同じ状況であって、それについて発言したり表現したりすることができない。
 「原告及び原告弁護団は、補償法はできた時から、ハンセン病患者を分裂させるための行政の仕組みだった、と思っています。本当に問うたものは、優生思想なのに、結果として、日本の国内の人だけ助ける、もっとはっきり言えば日本人だけ助けるという優生思想が出てきてしまった。だから、これはもう一度ふりだしに戻して、人間の尊厳を回復する闘いにしなければならないと思いますね。裁判が差別と闘う裁判であるならばできるんです。でも、ハンセン病患者と手を挙げたら金がもらえるというような裁判ではできない。お金をもらったとしても差別はなくなりませんから。ハンセン病患者の隔離政策が残した社会的な傷は、いまも存在し、これからも再生されてくるだろう。すると、次の裁判では、違憲訴訟とかではなく、国境を超えて、優生思想や人道に対する罪、もしくは差別そのものを問う裁判にしなければならないし、そうでなければ意味がないだろうと思います」という辛淑玉さんのご意見があります。この意見に私も同感しています。
 だから、弁護団は国賠の弁護士に加えて、戦後補償裁判をやった弁護士にも参加してもらいたいと思っています。七〇件余の戦後補償裁判は高裁ですべて負けていますが、この裁判で国に責任を認めさせ、勝利すれば、戦後裁判を変化させる変り目になる可能性もあると思います。
 ── 植民地の問題とすると、台湾の問題も出てきますね。
 滝尾 そうです。台湾には楽生院というハンセン病療養所があるんです。植民地時代に収容された人が、今でも二〇人余りは生きているらしい。

<  隔離の恐ろしさ  >

-―-韓国は小鹿島だけですか。
滝尾 私立の医療施設がありました。一つは麗水愛養園。ここはキリスト教の医療宣教師がつくったところで、これはスンチョン(順天)空港のすぐ裏にあります。それから大邱市内には愛楽園があって、ここもキリスト教宣教師がつくったんですが、一九四一年五月に、ともに園長たちは国外に出されてしまう。そのあとアジア太平洋戦争が始まった一九四一年の一二月に、朝鮮癩予防協会などの管轄に入り、警察署長らが園長になったんです。そうして小鹿島と同じことをやったんです。
釜山には龍湖農場という定着村があります。前身はここも医療宣教師がつくったものです。現在は、釜山港の入り口のオロク五六ト島のあるところにある、一五〇〇人くらいの定着村です。釜山市内にあります。戦前には、相愛園といって、いまの釜山外国語大学がある高台にあった。ところが、これは要塞が丸見えですから、スパイ嫌疑でマッケンジー園長がつかまり、間もなく相愛園は解散させられる。
 昨年八月、私が小鹿島に行ったときに会った人は、監禁室に入れられているんですが、何で入ったかといったら、クリスチャンで神社参拝を拒否したからだというんです。それで処罰されて監禁された。そういうことで処罰を受けている。これはまさに日本の植民地支配の問題です。ハンセン病への差別、偏見の上に、植民地の問題が重なっているんです。    
だから、今回は、国賠訴訟のようなかたちでは解決できないんです。解決できないだけではなくて、もし解決するための理解を弁護団に求めるとすると、たぶんこの人たちはみんな死ぬでしょう。今度補償を請求した二八名の平均年齢は七八歳ですから。そんな短期間では日本人には理解できない。
 ── 植民地から解放されたあと、日本がいなくなると小鹿島は韓国の国立になったんですか。
滝尾 ええ、なるんですが、朝鮮戦争中、一時北朝鮮の人民軍に占領されているんですよ。そして職員一一人が反革命分子として殺されています。また、麗水愛養園の牧師も殺しています。
北の人民軍がいなくなっても、患者たちは李承晩政権・軍事政権下で、ひどいことをされる。だから、いま生き残っているこの人たちは、よく生き延びてきたと思います。こんな状況で、なんで生きることができたのか。一〇人部屋に二〇人が入れられ、南京虫にたかられ、それを食べながら筵の上で寝るんですが、お互いに体を温めあって、それで凍え死なずに生きたのだろうと、訪ねたおばあさんは言っていましたが。
 冬の寒さは想像を絶する。だからぼくは、小鹿島を訪ねる若い人には、四時に起きなさいと言うんです。患者たちは、日本統治期には四時に起きて点呼を受けて働かされているんだから。朝の四時、五時の小鹿島はどういう様子なのか、起こして歩いてもらうんです。日本と基本的に違うのは、小鹿島には生活があるんですよ。日本の療養所は現在では全部ご飯もたいて持って来てくれるでしょう。でも小鹿島では、強度の障害者はやってくれますけれども、基本的に自分たちでごはんをつくり、鶏を飼い、野菜をつるんです。だから、小鹿島へ行くとボランティアができるのです。道を舗装したり、襖を張ったり、洗濯したり、ラジオを直したりする。こういうボランティアの作業は、日本では全く出来ないです。
 驚いたのは言葉の問題です。隔離された者はふるさとへ帰ることができず、夫婦だけの生活がずっと長い間続いていましたから、韓国人が行っても言葉が分らない方にお会いしました。韓国人の通訳ができんのです。私はテープで録ってきたんだけれども、帰国後、それを翻訳してもらった韓国の方が充分にその表現を理解できない。つまり島の中だけで通じる言語になっていた。すごいな、隔離というのはこういうものか、と私は思いました。


                      【聞き手/編集部・岡本厚】