小鹿島ハンセン病補償請求裁判の意味はどこにあるか

滝尾英二/徳田靖之/朴燦運
「鼎談」―『世界』2005年5月号所収


滝尾英二(広島青丘文庫)、徳田靖之(弁護士)、朴燦運(弁護士)               司会 岡本厚


―― 二〇〇三年一二月、韓国小鹿島のハンセン病者強制隔離の問題について滝尾さんにインタビューしてから、一年になります(二〇〇四年四月号掲載)。それは、国の誤ったハンセン病隔離政策によって被害を受けた方々に補償をする「補償法」に基づいて、日本の植民地支配下で隔離された韓国の被害者の方が〇三年の一一月に補償請求をした直後でした。当時は、すぐにでも厚生労働省は却下するだろうと予想されていました。却下されたら、訴訟を起こして戦うということでしたが、なんと決定は半年も遅れて、〇四年の八月に出た。それで、裁判が始まったわけです。韓国の小鹿島更生園の元患者だけでなく、同様に被害にあった台湾楽生院の元患者たちも原告に加わり、弁護団を結成しました。

 徳田さん、まず、この裁判は何を、どのような論理で問う裁判なのですか?
 
徳田  「補償法」という法律は、二〇〇一年五月二三日に、熊本地方裁判所で出された国家賠償請求事件の判決、つまり遅くとも昭和三五年(一九六〇年)の時点で「らい予防法」は日本国憲法に違反しているという画期的な判決を受けて(国は控訴断念)、議員立法としてつくられた法律です。正式には「ハンセン病隔離政策の被害を受けた人たちに補償金を支給する法律」といいます。
  この法律には二つの性格があって、ひとつは、裁判で思わぬ敗訴をしてしまった行政が、この裁判闘争や判決の影響が広がることを恐れて、裁判手続によらずに被害者たちにお金を支給する仕組みをつくろうとしたことです。もう一つは、熊本地裁判決は国会の過ち、責任を厳しく指摘しましたが、国会議員自らがこれに答えて、隔離政策を謝罪し、被害を償い、責任を取らなければと考えた、そのための法律という側面がありました。
  これらの裁判闘争に関わってきた私たち弁護団は、滝尾さんから「弁護団は自国民中心主義に陥っているのではないか」という厳しい指摘を受けるまで、日本がかつて植民地において、いかなるハンセン病隔離政策をとって来たのか調べることも、被害者の実地調査もしていませんでした。
指摘を受けて、私たちは、同じような国家賠償の裁判手続を取ることが可能かどうか、まず考えました。戦後補償裁判等の例を調べますと、これは二〇年という、法律用語でいう「除斥期間」(時効)の壁を突き破るのは無理だろうという結論になった。滝尾さんの問題提起には、申し訳ないことに、応えられないということになったのですが、その時、「補償法」という法律を利用すれば、韓国や台湾における隔離政策被害者たちが補償金を求める裁判は戦えるのではないか、と思い至ったのです。
 なぜなら、「補償法」には、国籍条項も、居住地条項もないのです。「被爆者援護法」には、国籍条項はありませんが、いま現に日本で住んでいる人に限定するという居住地条項があります。ところが、補償法には居住地条項もない。
 ところが厚生労働省は、補償金を受け取れるのは厚生労働大臣が定めた告示に具体的に名前が書かれた療養所に隔離された場合だけである、と言う。「補償法」で申請をしても、却下される可能性が高かった。しかし、それは平等原則に反するとして、裁判ができると考えたのです。滝尾さんは、正面から、国家の責任を問う国家賠償訴訟をやるべきだと主張しておられたが、私たちは現実にできるのはこの方法ではないかと提案したのです。

 ── 滝尾さん、自国民中心主義じゃないかという批判、そして国家賠償訴訟をすべきだという、そのあたりを簡単にお話しいただけますか。

 滝尾 私は小鹿島に毎年三回ずつ、もう一〇年行っていますが、熊本判決の前後に、小鹿島の被害者の支援者たちに内々に、裁判ができんかと問いかけてきました。しかし、二つの点でむずかしいという意見でした。一つは、先ほど徳田さんが言われた時効の壁です。法的に言う除斥期間は二〇年、これを突破できるのか。もう一つは一九六五年にできた日韓条約の壁で、これを盾にして、日本で起こされた八〇近い戦後補償裁判はことごとく負けてきた。負けた時のこと考えれば、被害者に「裁判をやらないか」とは安易に言えない。
 さらに、性ドレイ──俗に「日本軍慰安婦」といわれる人たちは、「きたない金はもらわない」と、日本からの補償金を拒否されていました。お金で解決することがいいのかどうか、私はとても気になっていたのですが、ハルモニたちの運動を支援してきた尹貞玉先生が、こう言われたんです。「滝尾さん、そこまで考えなくてもいいじゃなですか。私たちは日本が民間資金で金を払おうとしているから反対しているので、国家が金を出すなら、それは国家が悪いことをしたと認めたのだから、補償法でも賠償法でも、構わない」と。尹貞玉先生のお話をお聞きして、「補償法」でも何でも、ともかく裁判をやってもらいたいという気持ちになったのです。
 二〇〇三年の八月八日、国際人権シンポジウムがチャンギル(正しい福祉社会を目指す会)の主催で行なわれて、小鹿島で人権シンポが開かれるその前夜に、徳田先生から、「実はこういう補償法案でやりたいのだけれども原告や支援者は、どう思うか」という提起がありました。そして自治会、支援者、弁護士が議論し、原爆訴訟がその前年の一二月に勝訴したことの影響もあって、勝利する可能性があるなら徳田提案を支持しようということに決めたのです。私も裁判で証言を行うことを徳田弁護士に了承しました。
ハルモニ、ハラボジたちも、一定の補償金を得るという要求は強いわけです。というのは、三名の小鹿島の人が、戦前に日本の療養所にいたということで、すでに補償法により一億ウォンに近いお金をもらっていた。そういうことは、島ですから、入所者の人に噂としてすぐに伝わるのです。

 朴 訴訟の経過を話すにあたって忘れてはならないのは、韓国と日本の法律家の連帯、協力についてです。
 率直に言って、韓国側の弁護士は、ハンセン病関係の日本の動きについては、〇四年初めまでは全く知らなかった。日本の弁護士たちが〇四年はじめに小鹿島に調査に来て、韓国の光州の弁護士たち一緒に働いたのがこの問題に触れた第一歩でした。その後、五月に徳田先生と福岡の大塚芳典弁護士が韓国に来られて、小鹿島訴訟について詳しく説明してくれました。大韓弁協(大韓弁護士協会)の人権委員会に日本弁護団からの正式の呼びかけがあり、ようやく韓国の弁護士社会が、この問題について広く知ることになりました。
 大韓弁協の人権委員会は呼びかけに応え、ただちにこの訴訟を全面的に支援することを決議しました。そして、この訴訟支援を含め、韓国のハンセン病にかかわる人権問題を解決するために、ハンセン病人権小委員会をつくりました。私はこの小委員会の委員長です。
 韓国の小鹿島弁護団には、いま約六〇人の弁護士が参加しています。現在、韓国の弁護団と日本の弁護団が小鹿島に一緒に行って、現地調査とか、植民地時代の隔離政策についての調査などを行っています。このような協力連帯は、韓国、日本法律家の交流の歴史で、画期的なことです。戦後補償訴訟での協力はありましたけれど、その時の連帯、協力は、必ずしも成功しませんでした。今回の連帯、協力は、訴訟のこれからの結果がどうなろうと、両国の弁護士社会の間で、新しい時代をつくるだろうと思います。
 この訴訟をきっかけにして、韓国では、法律家たちが韓国の中のハンセン病者の人権問題に広く取り組むようになりました。いま、韓国社会にいるハンセン病歴者は二万人といわれますが、大韓弁協人権委員会の活動の中で、いまいちばん大事な人権活動が、ハンセン病関係の活動になりました。

 ──台湾の弁護士たち、法律家たちとも、この訴訟を一緒にやるわけですね。

 徳田 日本がかつて植民地にしていた地域につくられた療養所という意味で、小鹿島と台湾の楽生院は、全く同じです。韓国の被害者が「補償法」を武器に裁判をしようということが決まった段階で、同じ問題が存在する台湾の楽生院を訪問し、台湾の弁護士協会と連絡をとって、日韓台の同じ隔離政策によって被害を受けた人たちが手を結び、被害を回復していく運動を共に進めていこうということになったわけです。

 ── 小鹿島から出された申請が却下されるまでに、なぜこれほど時間がかかったのでしょうか。厚生労働省はどういう論理で却下したのですか。

 徳田 表面的な理由は、先ほどお話しました、厚生労働省大臣が、こういう人たちに補助金を支給しますと定めた「告示」に書いていないということです。なぜ書いていないかといえば、厚生労働省側が説明するには、国会で小鹿島や楽生院の問題は議論されなかった、だから、「補償法」は、かつて日本の植民地下の療養所を含む前提ではない――というものです。
時間がかかったのは、たぶん内部において調整が必要だったのでしょう。厚生労働省だけではなく、国会との調整や法務省等との調整など、あったのだと思います。

 ── そうすると、かなり形式論理的なものになりますね。

 徳田 実に形式論理的で、それ以上問いつめても厚労省からは答えが出てこない。「書いてありません」「議論していません」と言うだけです。

 ── 小鹿島の療養所は「国立」と書いていないから、これは国がつくった施設ではないという主張もあったとか。

 徳田 ええ。しかし朝鮮総督府は天皇に直属する国の機関であり、小鹿島はその療養所です。形式的に「国立ハンセン病療養所」と言っていないだけで、実質的には国立以外の何者でもない。

 朴 この訴訟は形式からいえば、不支給取消裁判ですから行政訴訟です。しかし本質的には補償請求訴訟であり、戦後補償を問う裁判です。
 やがて日本政府が、この訴訟の本質は戦後補償の問題だと主張して、一九六五年の日韓協定によって全部終わっていると言ってくる可能性があります。そのとき、弁護団は、こうした主張に対してどう理論的に闘うか。日本政府は、韓国の戦後補償問題は日韓協定によって終わったとこれまでは主張できたと思いますが、私はこの補償法成立以降は、そのような主張はできないと思います。なぜか。
日韓協定は国際法です。国際法は日本で、国内法と同じ効力があります。法律と法律の効力の関係は、いわゆる新法優先が原則です。二〇〇一年度の補償法は、日韓協定との関係では新法にあたります。とすれば、過去の法律によって戦後補償の問題が全部終わったという主張は、この問題についてはできないと思います。
 いまのところ、日本政府も弁護団も戦後補償の問題に入っていませんが、私の考えでは、裁判の中では、補償法の解釈で、原告たちに補償を与えることもやむをえないという流れが出てくるかもしれない。そうすれば、最後の段階で、日本政府から日韓条約を持ち出してくる可能性がある。これは私の、弁護士としての予感です。

 滝尾 私は〇一年三月に各政党を回りました。各党の厚生労働委員の方に会って小鹿島の問題をヒアリングしました。九七年一二月にTBS(東京放送)のテレビが初めて小鹿島に入って、一〇〇〇万くらいの人が番組を見ています。そのビデオを見せて議員の勉強会をもったのです。その前にあったある政党に呼ばれた厚労省の役人は、私が小鹿島の問題について聞くと、「何も知らない。引揚援護局に聞きましょう」と答えていました。
〇一年五月二九日の衆議院厚生労働委員会の議事録を読みますと、共産党の瀬古由起子議員の小鹿島の問題をどうするのかという問いに対して、坂口厚生労働大臣は、「戦前の韓国におけるハンセン病対策につきましては、現在その具体的内容を十分に把握しておりません。今後ハンセン病問題の歴史を検証していく中で、ご指摘の点についても取り扱いを検討してまいります」と答えています。知らないから答えが出ないのだということであって、将来検討していくと言っていますし、中川智子社民党議員の質問に対しても、桝屋副大臣は、「韓国の状況がつまびらかになっていない。将来の課題として、これは、真相究明委員会その他で考えていきましょう」と言っている。つまり補償を拒否していないのです。
 〇一年の段階では、政府も議員も小鹿島更生園のことを本当に知らなかったのです。だから小鹿島の問題を論議しようがなかったのです。その後二年間以上経っていて、私も植民地下の隔離政策についてまとめたり、資料集を全八巻で出したりしています(不二出版)。もう知らないという理由は成り立たない。
 韓国の真相究明委員会(現在は検証会議)が、小鹿島では日本以上に残酷な隔離政策がなされ、暴力的な犯罪が行われていたということを調査して、中間報告も出しています。周防正季という園長は、一九三六年一〇月の内務省が召集した官公立らい療養所長会議の席で、「うちのところには刑務所がある。この間二名を撲殺した。‥‥私の方の監禁室は刑務所以上にひどい所である」ということを発言している。そういう残虐なことを植民地支配はやっていることも今は明らかになっています。日本政府の行為でやっている。勅令、制令で。当然これへの補償は日本並みにすべきであるという判断をするのが常識ではないかと思います。

 徳田 この裁判が戦後補償を問う意味を持っているのは間違いないですが、二つ特徴があるのですね。
 一つは、確かに植民地支配と密接不可分の被害なのですが、それぞれ植民地政策の色合いが加わりながら、日本国内で行われた隔離政策と同じことが行なわれていることです。つまり、日本が統治したがゆえに被害が起こったという側面よりも、同じ隔離政策を日本国内、韓国、台湾でもやった側面が強く、いわば被害が共通している。だから、日本と韓国の条約において補償が放棄されたような被害とは性質を異にするというのが第一点。
 もう一つは、朴さんが強調されるように、「補償法」という新しい個別法がこの問題についてはできているということです。優先されるべき法律が、国籍条項も居住地条項もなくて、広くすべての人を被害回復するという考え方であり、かつ、被害は韓国、台湾、日本に共通である。だから、日韓条約によって個別的な請求権は放棄されているという類の論点には、国も入りにくいのではないか。

  韓国の弁護士社会は、この訴訟には基本的に戦後補償の意味があると受けとめています。韓国の専門家は、いままで戦後補償裁判で一つも勝った事件がないので、この訴訟についても、難しいのではないかと考える人が多い。それで私たちは、日本の法律家の補償法によるアプローチを説明しています。

 ── そうすると、ある意味で戦後補償裁判の中では最も可能性がある、あるいは今後戦後補償裁判を変えていく可能性のある裁判と見ていいのでしょうか。

 徳田 そこまで判断する資格は私にはありませんけれども、戦前に日本が韓国や台湾を統治していた時代に誤った政策の被害を国が償いをするという形にすることを通じて、新しい展望が開ける可能性があると思っています。

 滝尾 研究者から言いますと、帝国議会を含め、朝鮮総督府なり、あるいは総督府警務局の資料が最近出てきたわけですが、これを見ると、隔離政策についてはすべて帝国議会を経て予算が出ている。そのために、朝鮮総督府から大野緑一郎と言う政務総監が帝国議会に説明資料を提出・説明していますし、各局、各課に資料を出させて、予算にしても、帝国議会の議を経ているわけです。人事の面においても、たとえば小鹿島に何人職員を置くかということも全部、勅令で出ている。朝鮮総督が実際に施策を行ったことは事実ですが、職員の数までこと細かくすべて勅令で天皇の名で内閣が公布しています。内閣総理大臣が決裁したものが帝国議会で審議されて、それが小鹿島の隔離政策に反映している。  
そして、植民地だから、日本以上に暴力的な憲兵上がり、警察上がりの職員が看護長になったり看護士になったりしていて、角材で殴るとか、殴り殺すとか、患者を虫けらのように扱っている。逃げた者には処罰として断種したり、クリスチャンが偶像崇拝を拒否すれば反日的だと処罰の断種をする。それは日本の療養所にはないことです。隔離政策は日本と平等にやったわけですが、予算から運営から、すべて帝国議会が、あるいは当時の内閣が行った行為です。勅令であり制令であり、またその制令に基づく府令ですから、日本政府は責任がないとは絶対に言えないのです。
 
── 滝尾先生が精力的に発掘した歴史資料がなければ、おそらくこの裁判もなかったと思います。法律的に言えば共通の被害があったのだから共通に補償せよということになるのですが、歴史の研究者から言うと、共通だったけれども、もっとひどい悪らつな状況だった、というわけですね。神社の遙拝を強制するとか、処罰としての断種とか、あるいは療養所内に刑務所をつくるとか。

 滝尾 先ほども言いましたが、九七年にTBSのディレクターとカメラの二人の四人で小鹿島に行き、五時間のビデオテープつくりました。差別が強かったために、なかなかカメラを中に入れるのがむずかしくて、実現までには非常に苦労しました。いまでも正面から撮られた場合に顔をぼかす場合があります。しかしテレビが入って、証言した二人目の男性、これは私ぐらいの年配でしたけれども、全く視覚をうしなったおじいさんでした。部屋に入ったら、私たちが入ると同時に下を全部脱いで、パンツも脱いで、「この痕を見てくれ」と言うのです。断種の跡で、真っ白の肌に、ミミズがはったような赤い傷痕が股間についている。メスでではなく、鈍器で切っているのです。それが傷跡からわかりました。それだけで私は涙が出ました。
 小鹿島更生園の年報には、毎年何人「精系手術(断種)」をして夫婦患者を同居させたかという統計が出てきます。日本ではこういう報告はない。それに、処罰として断種をやっているのが一三歳の子どもですよ。結婚も何も考えていない子どもです。小鹿島の木を伐って薪にすることは禁止されていたそうです。配給されていたのは生米、生麦なので、炊かなければならない。その燃料は、小鹿島の木を伐ってはいけないから、よその島に行って薪をとってきて、炊かなければならない。たまたま一三の少年が枝を切って、ご飯を炊いたのを見つかって、監禁室に入れられて、出る時に断種されている。その断種はおそらく、監禁室の隣に遺体安置室と解剖室があるのですが、そこで断種をされたと思います。
 ここはよく弁護士の方も理解してもらわないといけないのですが、日本は仏教ですから荼毘という形で骨を焼いて仏舎利塔式の納骨堂に入れますが、韓国の戦前は儒教ですから、原則は土葬なんです。火葬されると魂が島をさまよって、故郷に帰れないという考え方がある。そこのところがわからないと火葬の持つ残酷さがわからない。それから子どもが生まれなくなるということは、子どもに将来みてもらえないということではなくて、先祖に対して申し訳ないということなのです。族譜があり、自分の家を大切にする。いい悪いは別として、この点がわからないと、日本的な形の救済では救済にならない。私たちは解決の仕方を、韓国の人たちの思いの中でやっていかなければならないと思います。
 戦後にしても、菊池恵楓園の一室に韓国に強制送還するための大村収容所菊池分館がおかれ、また、その後、菊池恵楓園に隣接した刑務所(医療刑務支所)に、五四年七月現在、朝鮮人一三名が隔離収容されていました。このことは、ほとんど明らかになっていません。光田健輔は衆議院の特別委員会で、「これは悪の巣窟だ。黴菌をまき散らすのは朝鮮から日本に密航してくる朝鮮人だ」と言い触らしていましたから、大村収容所に入って来た中のハンセン病者は菊池恵楓園の刑務所に入れられ、そこから強制送還しました。
戦後の韓国も史実はほとんど空白になっていますが、虐待や虐殺は何回か起きています。韓国では日本の植民地時代にやったハンセン病政策が、戦後ずっといままで続いている。今日の問題なのです。ハンセン病は、恐ろしい病気だと、総督府をあげて、マスコミをあげて悪宣伝し、そのため戦前にも、村ごと病者を生きたまま焼き殺したりしているのです。四五年の解放直後にも、小鹿島でハンセン病歴者が数多く虐殺されています。

 朴 小鹿島の人権侵害は二重だと、私も思います。日本でもあった隔離政策によって起こったいろいろな人権侵害が、同じように韓国でもあったと同時に、植民地にされた韓国社会が、もっと厳しい人権侵害を受けたのです。
 日本の隔離政策は、植民地時代以降も、韓国社会で、ハンセン病患者と病歴者、元患者に大きな影響を与えました。
 日本では九六年まで隔離政策は続いていましたけれども、韓国では幸いにして、一九六〇年代初め頃に隔離政策は撤廃されました。問題は、隔離政策を撤廃した理由です。韓国政府に人権意識があったから撤廃したのではなく、小鹿島を運営することができなくなったために、隔離政策を廃止したのです。一九六〇年代初め頃までは、五〇〇〇人以上が小鹿島に収容されていました。いま小鹿島に住んでいる人は七〇〇人。それほど大きい収容所を韓国政府は運営するお金がなかったのです。もちろん、理論的には隔離政策は必要ないという医療界の主張もあって、二つをあわせて、隔離政策を撤廃した。
 だから六〇年代以降韓国のハンセン病歴者には、子どもが出来ました。いま韓国のハンセン病歴者の特徴は、ほとんどが子どもをもっているということです。日本の病歴者にはほとんど子どもがいない。韓国では親と子どもの関係は、特別な、緊密な関係です。すると、ハンセン病は韓国社会でいちばんの差別がある病ですから、ハンセン病歴者の両親を持っている子どもたちは、大きな差別を受けることになります。それで両親は、自分がハンセン病元患者、病歴者であると社会に明かすことができないのです。これが韓国社会でハンセン病の人権問題のもっとも困難なところです。日本と韓国とのハンセン病をめぐる人権の闘いの大きな差だと思います。一九九六年以降、日本で、訴訟とか、ハンセン病関係の人権運動を中心的にになった人々は、病歴者自身です。韓国では、そういうことはありえないのです。
 さらに、韓国のハンセン病患者、病歴者の抱える問題は、日本と比較して教育を与えられていないということです。これも韓国社会の差別の問題で、植民地時代はもちろん、戦後の五〇年代、六〇年代以降も、ハンセン病患者、病歴者の社会的、経済的なレベルは、最も低い階層を形成した。教育を受けるか受けないかは、人権運動について闘えるかどうかと密接に関係します。
 また韓国のハンセン病元患者の中には、自分で自分の人権問題のために闘う若い人々がいない。日本では九六年まで隔離政策があったので、若い世代も隔離されていたと思います。それで、闘っている人々の中には、若い世代も、高い教育を受けた人もいた。韓国ではそういう人々はいません。全部七〇代、八〇代のハラボジ、ハルモニです。それで、闘争がない。だから韓国の場合、ハンセン病関係の闘争の中心は、当事者ではなく、弁護士や専門家などになってしまうのです。これが、戦後植民地時代以降の隔離政策がもたらした結果です。

 滝尾 九三年度の国立小鹿島病院が公刊した「年報」によりますと、韓国の元患者の半分は在宅です。また、登録管理患者二万二三一〇名のうち、半分が国立小鹿島か私立療養所あるいは定着村にいて、半分は在宅になっている。言葉をかえて言えば、日本のように一三の施設を主として、そこに隔離されて自治会があってというような形ではなく、隔離施設は大きな小鹿島が一つ、あとはキリスト教の愛養園と愛楽園が麓水と大邱にあって、施設に入っているのが約一二%。三五%は全国に九〇ある定着村にいて、ここでは、居住、就学、就職、結婚などについてなお厳しい差別があります。
 もっと深刻なのは、在宅している人々です。朴先生がいわれた通り、地域に散らばって密かに身を隠して生きている。もちろん登録もしていない。こういう潜んでいる人々をどう救済するかという問題があります。

 朴 もし韓国政府が、あるいは韓国社会が、隔離政策に問題があると考えたならば、六〇年代に撤廃するときに、病歴者、元患者が韓国社会に自然に同化するよう、政策をつくるべきでした。でも韓国政府は、そういう政策を持たず、病歴者はいまだに社会に同化することができないままです。

 滝尾 私は、日本で非入所者の問題にかかわっています。非入所者のハンセン病者の母親を持つTさんという方が幼い頃からずっと差別を受けつづけてきて、暴力事件を起こす。その事件の裁判を傍聴してわかるのは、非入所者は全く放置されたまま、補償も、生活保護も医学補償も行われず、密かに、差別を受けていることです。隔離政策による一三の施設の問題は、はっきりしています。しかし、それ以外の非入所者は、怯えて隠れて生きていかなければならない。これから政府も社会も、真剣にこの問題を明らかにしていく努力が必要だと思います。韓国はもっと深刻に、それが具現している社会だと思います。

 ── 今度の裁判が、韓国のハンセン病認識や差別を変えていく一つのきっかけになり得るでしょうか。

 朴 そういう意味があると思います。私たちは、この訴訟を通して、過去の隔離政策が誤ったものであったということを韓国社会が理解する契機になることを願っています。

 ── 徳田さん、日本においては、今回の裁判の意味は、どういうところにあると思われますか。

 徳田 小鹿島裁判が持っている意味の第一は、戦前に私たちの国が犯した過ちに対して、日本国家として、あるいは日本人として、どう受け止め、責任をとり、あるいは責任を取らせていくか、ということだと思います。小鹿島の問題は韓国の問題、楽生院の問題は台湾の問題と考えるのは間違いです。ここが、あくまでも出発点です。
第二は、隔離政策の全貌を明らかにしていくことによって、こうした過ちを二度と犯さないようにする、再発防止のために必要なことを明らかにするということが次の意味です。

 滝尾 弁護士と研究者には、同じ共通の目的を持ちながら少し食い違う点もあるのです。宇垣一成総督時代に実は小鹿島療養所の大拡張をやっているのですが、宇垣、次いで南次郎総督が、なぜ隔離を拡大させたのか。これは、一九三一年の柳条湖事件以降の大陸侵略とかかわっている。まさに中国東北部の資源を日本のものにするために植民地支配を強化しようとした。その一環として、宇垣総督は小鹿島を、愛国を宣伝しながら、拡張していった。
 そう考えると、私はどうしてもいまのイラクの石油資源を狙ったブッシュ政権と、それに追随する日本、韓国の姿が二重写しになるのです。
歴史は鏡です。中国東北部の撫順を中心とした各地の地下資源を収奪して、大工場としては八幡製鉄所が北九州にできたわけです。そして、小鹿島におけるおばあさんたちがつくる「かます」──穀物・塩を入れたり、肥料や石炭など入れる「かます」は、植民地のお米など、あらゆるものを日本に持っていくためのものでした。それらは、小鹿島のおばあさんたち、おじいさんたちを強制的に労働させて、その製品を供出させているのです。
 まさにイラクの戦争が、フセインを倒すとか、あるいは大量破壊兵器の除去を理屈にしながら、実は石油資本、あるいは兵器産業の利益のために民衆を殺していっているわけでしょう。まったく同じ論理です。歴史は現在と過去を結ぶから意味があるわけで、歴史の研究者としては、いま、何万となく殺されていく、無辜な女性や子どもたちを含めたイラクにおける民衆の虐殺と、植民地支配で労働を強制された小鹿島の問題が、オーバーラップするのです。
 ところが、署名をとって歩いていますと、ハンセン病の問題はもう終わったんだろう、という印象を持っている人が圧倒的に多いのですね。だから私は、いろいろな資料を持って巡回しながら、啓発しながら署名をとっている。こういうところは、今後の課題として研究者も、あるいはこれから裁判を進めて支援者も、弁護士も、ともに考えていく必要があります。

 徳田 滝尾さんもおっしゃるとおり、ハンセン病の問題はまだ本質的に日本で解決していません。その最も深刻なのは家族の被害です。これはは、日本と韓国には確かに違いはありますが、本質的には同じで、患者が出た家族が社会で受け続けた差別というのは、すさまじいものがあります。その家族の被害は、まだ全く解決されていません。
ハンセン病の問題は終わったという印象に対する反論が、今回の裁判を通して日本社会に提起できればと思っています。

 ── 滝尾さん、今度の裁判の東北アジアにおける意味は何ですか。

 滝尾 徳田弁護士が昨夜の報告集会の最後に、「これは歴史的な一日になった」という話をされました。台湾の原告の方々、弁護士、それから韓国からたくさんこられた弁護士、おじいさん、おばあさんを中心とした小鹿島の原告の方、そして多くの日本の支援者たちが一同に会したわけです。あまりPRをしていないから傍聴席は半分くらい埋まるかと心配していたら103号の大法廷がいっぱいになりましたし、あとの報告集会では日弁連会館の大講堂がいっぱいになった。これは画期的なことです。人間がつくった国が行ってしまった過ちを、国の枠を超えて、あるいは研究者、弁護士、支援者の枠を超えて、人権、人間の命の尊さの問題として、考えていきたいと思います。
 ぼくは美空ひばりの唄った『一本の鉛筆』(松山善三・作詩)という歌が大好きです。「一本の鉛筆があれば/八月六日の朝と書く/一本の鉛筆があれば/人間のいのちと私は書く」という詩ですけれども、ハンセン病の問題はまさしく「いのち」の問題、人間の命の尊さの問題です。その確認を、ハンセン病の問題、裁判を通して多くの人が知る契機になればいいと思います。
 この闘いは、私の時代では終わらないと思います。おそらく二二世紀までかかるでしょう。私が『朝鮮ハンセン病史』(未来社)を書いたのは、四〇年間の研究の空白があったその責任の一部は、何もしなかった私自身にあると思って、不作為の自己批判として書きました。その後、不二出版の『資料集』は、二二世紀に向って、かつてこういうことがあったということを子孫に伝えたいと思って資料を集め、編纂しました。そしていま書いている本(〇五年一月には発刊した)は、裁判に勝ちたい、勝つためには書かなければならないと思って書いています。

 朴 徳田さんがおっしゃったように、この訴訟は、ハンセン病の問題を解決するための出発点だと思います。特に韓国では、そうです。韓国社会では、これまで本格的に、ハンセン病問題を社会の問題として論議したことがない。いまから基本的な人権問題として論議していくことになります。こうした雰囲気をつくために、日本の滝尾さんのような研究者たち、徳田さんのような法律家たちが協力してくれました。私は心から感謝の言葉を申し上げたいと思います。これからこうした連帯がもっと強くして、ともに努力したいと思います。

 ──徳田さん、公判の見通しはいかがですか。

 徳田 裁判が始まったばかりで、わかりにくいですけれども、かなり早いペースで進むのではないかと予想しています。「人権に時効はない」とよく言われますが、この裁判が勝利を得ることを通して、私たち国民全体の中に「国が犯した過ちは、きちんとけじめをつけるべきだ」という声が広がるよう、願っています。

 ── どうもありがとうございました。

                                  ( 了 )

 

滝尾英二=一九三一年に広島県呉市で生れる。五四年三月、東京教育大学史学科を卒業。高校教諭、広島県教委指導主事、県立図書館副館長を経て退職。人権図書館・広島青丘文庫を主宰。主著に、『朝鮮ハンセン病史』、『植民地下 朝鮮におけるハンセン病資料集成』全8巻など多数がある。