『飛礫』45号(冬期号)掲載の「朴燦運弁護士のハンセン病を取り巻く人権問題とその解決のための方案提示」解説


 

 

掲載された朴燦運弁護士の報告文は、つぎのような経緯により作成・発表されたものである。

二〇〇四年一〇月一一日、大韓弁護士協会の主催で「ハンセン病人権報告大会」が開かれた。出席者は、約四百名余のハンセン病関係者であり、開催場所は韓国如矣島にある国会議員会館小会議室である。朴永立(パク・ヨンリップ)弁護士(大韓弁護士協会人権委員長)の司会で午後三時に始められ、大韓弁護士協会会長挨拶、保険福祉部健康増進局局長祝辞、日本小鹿島訴訟弁護団代表祝辞、来賓紹介に続いて、五名の主題報告が行なわれた。その後、ハンセン病関連の主要団体からの発言、参加者発言、閉会フロアー討論があり、午後五時三〇分に閉会された。

主題報告は、つぎの五つなされた。

一、「ハンセン病とはどんな病気か」蔡キュテ カトリック医科大学教授

二、「ハンセン病を取り巻く人権問題とその解決のための方案提示」パクチャンウン(朴燦運)弁護士

三、「ハンセン病歴者たちに対する基本的差別の実態」林トソン ハンピツ福祉協会会長

四、「ハンセン病と過去の歴史」張ワンイック弁護士

五、「日本のハンセン病補償法と小鹿島補償訴訟」張チョルウ弁護士

 その「ハンセン病人権報告大会報告書」は、A4判一一二ページの冊子で発刊されている。参考資料として、「小鹿島更生園入所者の補償金受給資格について(翻訳)」、「小鹿島ハンセン病補償金不支給取消訴訟訴状」、「五馬島干拓事業推進状況及び五馬島地図」、「小鹿島ハンセン病患者補償請求訴訟支援弁護団名簿」など七つの資料が添えられている。

その中から、第二報告された朴燦運弁護士「ハンセン病を取り巻く人権問題とその解決のための方案提示」の報告を掲載する。朴燦運弁護士は、大韓弁護士協会人権委員会副委員長であり、二〇〇四年五月に発足したハンセン病小委員会委員長である。

なお、報告文を日本語に翻訳したのは、広島市在住の井下春子さんである。井下さんは、広島大学哲学科を卒業後、韓国の延世大学韓国語堂に留学。筆者(滝尾)とは小学校、高等学校の同期生であり、一九九七年一月には、筆者ら五名の広島県からの「小鹿島へ訪問団」の一員として井下さんも参加し、小鹿島での四日間のボランティア活動に参加した。現在は、各種の市民活動や翻訳活動などをしている。

 

二〇〇四年六月五日の『東亜日報』の第一面には、「ハンセン病患者弁護団、日本政府相手に補償請求」の見出しで、つぎのような記事を掲載している。それは「asahi.com」にも日本語に訳されて載っているので、同記事を紹介しよう。

「JUNE 04,2004,by李秀衡

韓国と日本の弁護士団が、日本の植民地支配によって強制収容され、強制労働で苦しんだ小鹿島(ソロクト)のハンセン病患者のために、日本政府を相手に本格的な補償請求運動に乗り出した。大韓弁護士協会(弁協、朴在承会長)は、日本の「ハンセン病国家賠償弁護人団(代表、徳田靖之弁護士)」は、日本政府を相手に「小鹿島ハンセン病患者補償請求」を共同で推進することにしたと、4日明らかにした。

弁協はこのため、人権委員会(朴永立委員長)傘下に「ハンセン病人権小委員会」を設置した。

日本では、一九〇七年に制定された「らい予防法」によって強制収容された患者たちが、日本の政府を相手に訴訟を起こし、〇一年に熊本地裁が勝訴判決を言い渡した。この判決後、日本政府は控訴をあきらめて特別法を制定し、強制収容患者に一人当り一〇〇〇万円(約一億ウオン)の補償を行った。

日本の弁護人団は、小鹿島のハンセン病患者も日本の植民地支配下で「らい予防法」によって強制収容されたため、日本国内の患者と同様に国家賠償の対象になると判断している。

日本弁護人団は、昨年一二月に小鹿島強制収容患者約一一〇人の代理人となって、日本厚生労働省に補償請求をし、これと別途に日本政府を相手に本格的な行政訴訟を準備中だ。徳田弁護士は、「日本では強制収容されたハンセン病患者は、特別法によって内外人を問わず皆補償を受けた」とし、「小鹿島の被害者たちも勝訴すると確信する」と話した。」

 

同年八月二五日の『東亜日報』の二五面(社会面)で「ハンセン病、韓国で入所の元患者一一一人が提訴」との見出しで、掲載記事を書いている。これも「朝日コム」の日本語訳で記事内容を紹介しよう。

「 日本の植民地統治時代に朝鮮半島南端沖の小島「小鹿島(ソロクト)」の療養所に強制収容された韓国人の元ハンセン病患者一一一人が二三日、ハンセン病補償法に基づく補償申請を棄却した厚生労働省の処分を不服として、処分より消しを求める訴訟を東京地裁に起こした。また同日、小鹿島の別の入所者二名と、同じく日本の植民地時代に台湾の施設に強制収容された二五人が、新たに同省に補償を申請した。

小鹿島の入所者は昨年末から、〇一年六月に施行されたハンセン病補償法に基づき、厚労省に補償を申請してきたが、今月一六日、「国外の療養所は補償法の対象外」として請求を棄却された。このため、この間に死亡した六名を除く一一一人が提訴に踏み切った。

訴状によると、小鹿島の療養所は旧朝鮮総督府が設立。日本国内の隔離政策と同様、入所者に過酷な労働、断種や堕胎などを強制したという。

原告側は、補償法が前文に「悔悟と反省の念を込め」と立法の目的を明記している点や、国立か私立など入所施設の運営主体を問わず、外国籍や海外居住者にも受給資格を認めている点などを挙げ、「韓国の被害者に補償しないのは法の下の平等に反する」とした。

厚労省は「現時点で訴状を確認しておらず、対応方針は決められない」としている。一方、新たに厚労省に補償を申請した台湾人二五人はいずれも、日本の植民地下の台湾総督府が現地に設立したハンセン病療養施設「楽生院」の入所者。小鹿島のケースと同様に差別的な扱いを受けてきたという。」 

 

このよう経緯を経て、〇四年一〇月二五日の午後一時三〇分から東京地方裁判所第一〇三号法廷で、厚生労働大臣を被告として、「ハンセン病補償金不支給決定取消請求事件」の第一回の裁判が始まった。その冒頭、小鹿島から訪日した二名の原告の意見陳述についで、原告ら訴訟代理人の徳田靖之弁護士はつぎのように冒頭弁論を行なっている。

「‥‥裁判長、今日の法廷には、大韓弁護士協会に所属する七人の弁護士が在廷しています。わが国が、その統治下の韓国で行ったハンセン病隔離政策は、日本の敗戦後も韓国に事実上引継がれ、ハンセン病に対する偏見と患者・もと患者に対する差別と迫害を韓国社会に根強く植えつけてしまいました。

韓国では、本件訴訟を一つの契機として、ハンセン病に対する偏見と患者家族に対する差別を克服するための取組みが始まったところです。韓国の弁護士たちも、私たちと同じく、自らのハンセン病問題についての不作為の責を強く認識しながら、日韓の弁護士の共同作業としてこの訴訟に取組もうとしています。

そうなんです。私たちは今、国境を超えて、等しく人間の尊厳を守るための闘いに踏み出そうとしているのです。

裁判長、私たちは、共に司法の世界に身を置く者として、悲惨な過去を乗り越えて、人権の新たな地平を切り開く使命を担っています。本件訴訟は、その意味で、日本の司法のあり様を歴史に問うといって過言ではありません。」

 

この一〇月二五日の第一回行政訴訟期日を契機として、「ハンセン病小鹿島更生園・台湾楽生院補償請求弁護団(日本)とハンセン病ソロクト更正園補償請求訴訟大韓民国弁護団(大韓民国)」の両団体を呼びかけ人として、「ハンセン病補償金不支給決定取消訴訟の早期公正判決を求める要請書」を東京地方裁判所第三民事部に宛てに、署名活動をすることを決めた。署名予定数を日本で五〇万、韓国で同じく五〇万署名とすることが、徳田靖之弁護士から提案された。

 

ハンセン病ソロクト更正園補償請求訴訟大韓民国弁護団の中心者として活躍しているのが、本「報告文」の執筆者である朴燦運(パク・チャンウン)弁護士である。前述したように、朴燦運弁護士は、大韓弁護士協会人権委員会副委員長であり、また、〇四年五月に発足したハンセン病小委員会委員長でもある。五月以降、毎月のように全南道の南端の島=小鹿島を訪れて、病歴者などの聞き取り調査などを日本の弁護士らと共同で行ない、また文献等を調べて、本誌に掲載した「ハンセン病を取り巻く人権問題とその解決のための方案提示」を発表した。

朴燦運弁護士の略歴を書いておく。一九六二年、大韓民国で生まれ、一九八四年に司法試験に合格。漢陽(ハニャン)大学法学部卒業。一九九八年、アメリカ・ノートルダム大学で国際人権法修士号取得する。一九九〇年以来、弁護士として活動している。日本語の著書として『国際人権法と韓国の未来』現代人文社(二〇〇四年)がある。

私が朴燦運弁護士にお目にかかったのは、〇四年八月二七日に、ソウルの「法務法人・新和」の事務所である。前日の二六日に『東亜日報』資料室へ、拙著『小鹿島更生園強制収容患者の被害事実とその責任所在』人権図書館・広島青丘文庫(二〇〇四年)発行の日本語版と韓国語版を寄贈しておいた。その日の夕刻、朴燦運弁護士から宿泊している私宛てにホテルへ電話があり、「東亜日報の記事にしたいので、同社の記者と一緒に来ていただけませんか。明日の午前一〇時から正午まで、私の法律事務所においでいただいて、インタビューをしたいと思いますが、ご都合はいかがでしょうか」という内容であった。日本の弁護士から朴燦運弁護士の小鹿島での取り組みや、五月に発足したハンセン病小委員会委員長であることも聞いていたので、即座にお受けすることにした。

翌二七日に『東亜日報』社会部の陸貞洙記者がホテルに車で迎えに来た。ソウル市内にある朴燦運弁護士の法律事務所へ行く。瀟洒な室内の壁には、アメリカ合衆国第一六代大統領であったA・リンカーンの肖像画が掛けられていた。ケンタッキー州の貧農の子で、一八六三年南北戦争下に奴隷解放を宣言、六五年暗殺された人物である。朴燦運弁護士とのインタビューは約二時間に及び、翌日の『東亜日報』に、そのことは、私の写真入で記事が掲載された。

一〇月中旬、徳田靖之弁護士から一〇月一一日に開催された大韓弁護士協会主催の「ハンセン病人権報告大会報告書」が送られてきた。研究活動の参考にして欲しいということである。早速、拙著『小鹿島更生園強制収容患者の被害事実とその責任所在』の韓国語訳を依頼した井下春子さんに、徳田弁護士から送られてきた「〜大会報告書」の翻訳を頼むと、日ならずしてFAXで、同書の日本語訳が送られてきた。一読した私はそのすばらしさに驚嘆した。とりわけ、朴燦運弁護士の「ハンセン病を取り巻く人権問題とその解決のための方案提示」の報告に強くこころが引かれた。それは、私が敗戦間もない中学生のとき教師から五〇年余前に教えられたA・リンカーンの「人民の人民による人民のための政治」という民主主義の思想と、あの朴燦運弁護士の法律事務所の室内の壁に掛けられていたA・リンカーンの肖像画を、重ねて私は考えていた。

私は一〇年ほど小鹿島のハラボジ・ハルモニのもとに通いながら、患者・病歴者のための活動」は思考しても、「〜ハラボジ・ハルモニによる活動」の提起を、今までしてきたであろうかという反省である。私の意識には、その視点が希薄であったことは否めなかった。

朴燦運弁護士の報告文を多くの日本在住者に速く知らせたい。そんな思いで『飛礫』の掲載を同誌編集部にお願いした。

10月25日の東京地裁の第一回期日にも朴燦運弁護士にお会いした。また、後日きくところによると、「ソロクト更正園補償請求訴訟」の法廷で朴燦運弁護士は、意見陳述をされるという。今後も度々お会いできると思う。そして、多くのこと朴燦運弁護士からお教えいただけることをこころうれしく思っている。