藤野豊氏の「ハンセン病問題」に関する認識と行動への疑問
――『飛礫』四七号(夏季号)「ハンセン病問題と天皇制」の記述と「富山シンポ」の問題性――


                   滝尾 英二
              人権問題広島青丘文庫

一、藤野豊氏の「ハンセン病問題と天皇制」認識の疑問

 藤野豊氏と私が「ハンセン病問題と天皇制」の認識について、相違しているその諸点を以下述べてみたい。
 藤野氏は、『飛礫47』(二〇〇五年夏号、〇五年七月発刊)の「ハンセン病問題と天皇制(三)」の論考の中で、次のように書いている(下線は、いずれも滝尾である)。

  私は、天皇制はどのような形態をとろうと平等に反する差別制度であると考え、その存在を否定する。天皇制の階級的性格がどうであるかとか、そのような理論で反対するのではない。人間平等の考えに反するから反対する。……さらに、歴史研究者として昭和天皇裕仁の侵略戦争に対する重大な責任を認めている。(中略)天皇制という国家機構上の責任はもちろん、裕仁個人としても重大な責任を負う。それが私の結論である。したがって、その点においても、裕仁とそれに連なるひとびとに敬意を表することはできない。(一五四?一五五ページ)

   天皇制の本質は弾圧ではなく、「ご仁慈」による懐柔にある。それゆえ、天皇制は、戦後、象徴性として生き抜けたのである。(一五五ページ)

 〔ハンセン病問題に関する検証会議の=滝尾〕報告書には過去の検証だけではなく、これからのハンセン病政策への提言も含まれているので、「報告書の内容は偏向しているので、採用しない」などと、厚生労働省に報告書無視の口実を与えてはならない。そこで、皇室の個人の責任を追及するのではなく、隔離政策に皇室がどのように利用されたかという点の解明を主とすることにし、一切の憶測や推測、あるいは政治的主張は排し、資料に基く客観的事実のみを記すことにした。(一五七ページ)

 検証会議に対し、皇室の個人個人の責任を追及せず、皇室への批判が弱いという意見があったことは承知しているが、解明するべきことは、誤った隔離政策を推進した国家とそれに関わった関係各界の責任であり、個々人の責任ではないのである。(中略)皇室への批判が弱いと言う方には、この点を御理解いただきたい。(一五七?一五八ページ)

 熊本判決から一年が経過して、勝訴一周年の美酒に酔っていた二〇〇二年五月二二日‥‥(一五五ページ)

 こうした藤野氏の記述は、私はとうてい承服しがたい。私は、日本ハンセン病患者強制隔離政策およびその施策実行の個人責任を問う場合、皇太后節子(さだこ)(大正天皇の妻、死後、貞明皇后と追号)の行為の責任を問うことが、絶対に必要であると信じているからである。また、藤野氏のいうように「『報告書の内容は偏向しているので、採用しない』などと、厚生労働省に報告書無視の口実を与えてはならない。そこで、皇室の個人の責任を追及するのではなく、隔離政策に皇室がどのように利用されたかという点の解明を主とする」とする考えは、「検証会議ではタブーをつくらず、隔離政策に関する皇室の役割を追及することも確認された」(『飛礫47』一五七ページ)と公言していることとも矛盾している。その藤野氏の『飛礫47』の記述は虚言となるだろう。
 「天皇制の本質は弾圧ではなく、『ご仁慈』による懐柔にある。それゆえ、天皇制は、戦後、象徴性として生き抜けたのである」(一五五ページ)というのも、歴史事実に反する。皇室の「ご仁慈」による懐柔は、天皇制のもつ一側面に過ぎない。日本国内・植民地ともども天皇制の本質は、天皇の国家支配下で軍隊、警察、官僚など国家権力による民衆への絶えざる凶暴な弾圧の歴史であった。
 また、天皇制は戦後、象徴制として生き抜けたのは、「ご仁慈」による懐柔だ、ととらえるのも歴史事実の一面的把握である。天皇制が戦後も生き抜かれたのは、連合国最高司令官マッカーサーが、ようやくきざしはじめた冷戦構造をタテにとって、天皇制をもって占領政策をおしすすめた結果であり、「白馬に乗ったおそれ多い天皇」といったコワオモテ天皇像に替えて、天皇の言葉「ア、ソー」を流行語とした「親しみのある民主天皇」像を国民のなかに定着させていった(横田耕一著『憲法と天皇制』岩波新書、一九九一年)ことが主原因である。藤野氏の「天皇戦後史観」に異議を申立てしたい。
 また、節子皇太后が大宮御所に療養所長を呼んで「ハンセン病患者の隔離収容を激励したことは、「ご仁慈による懐柔」とはまったく異質の政治的・社会的ことがらである。
 「天皇制の階級的性格がどうであるかとか、そのような理論で反対するのではない。人間平等の考えに反するから反対する」という主張にも、私は与するわけにはいかない。「天皇制の階級的性格」こそ、日本のハンセン病問題を考える上で、必要だと考えているからである。
 「熊本判決から一年が経過して、勝訴一周年の美酒に酔っていた二〇〇二年五月二二日‥‥」と藤野氏は書いている。二〇〇二年五月になっても、朝鮮・台湾・ミクロネシアのハンセン病患者・病歴者たち、国内においてもハンセン病患者・病歴者の家族への謝罪も補償もない熊本判決から一年が経過していた。勝訴一周年になったとして美酒に酔える藤野氏のハンセン病問題にたいする意識・社会認識を、私は問題としないわけにはいかない。
 私は一九九六年四月から月刊誌『愛生』や『未来』に四年にわたって「朝鮮ハンセン病の歴史」を執筆していたし、それをまとめた『朝鮮ハンセン病史-日本植民地下の小鹿島』を未来社から二〇〇一年九月には発行していた。『植民地下 朝鮮におけるハンセン病資料集成』全八巻を不二出版から発刊開始したのは、二〇〇一年十一月からである。また、『飛礫34』(二〇〇二年春号)には拙稿として「『ハンセン病問題』は、いまだ終わらず」が掲載された。
 また、藤野氏自身、一九九九年一〇月に出版された『九〇年目の真実-ハンセン病患者隔離政策の責任』(かもがわ出版)のなかで、「存在が許されなかった命の歴史」を書き、つぎのように書いている。

   誤った隔離や断種、患者虐待、虐殺、この犠牲者は日本国内だけではないということです。日本は、朝鮮、台湾、太平洋の占領地にも療養所をつくっていますが、これらの地においては、国内以上のことがおこなわれています。国家賠償ということを考えた場合、アジア・太平洋地域にも、日本の政策による犠牲者が大勢いるということに注意を払う必要があると思います。(一三四ページ)。

 なぜ、このように書きながら、〇二年五月二十二日になっても、「日本の植民地支配下のハンセン病政策で被害を被ったハンセン病患者の隔離政策批判」を放置しておいて、自国民中心意識で藤野氏は「美酒が酔える」のだろうか。
 辛淑玉さんは自らのホームページの中でつぎのように言っている。

   ハンセン病の国賠訴訟の判決を聞き、政府による控訴断念の知らせを支援者らと勝ち取った瞬間から、在日としての戦いが始まった。優生思想を問うたハンセン病回復者への差別問題は、旧植民地を排除し、日本国内にいて声を上げたものだけを救済するという新たな自民族的優生思想を作り出した。日本人だから助けるのではなく、日本の国家犯罪による被害者を救う思想と政治体制にしていかなくてはならない。

 私はこの辛淑玉さんの意見に同感する。私たち日本人が熊本地裁「勝訴」判決および政府による控訴断念にたいして、美酒に酔ってはならない理由は、そこにある。

 つぎに藤野氏の記述の問題点を、皇太后節子について歴史的事実をあげながら、私見を述べたいと思う。
 私は今までに、皇太后節子と「ハンセン病患者強制隔離収容による被害事実とその責任」に関してつぎの自著書で書いてきた。
(一)『朝鮮ハンセン病史-日本植民地下の小鹿島(ソロクト)』未來社、二〇〇一年九月
(二)『植民地下朝鮮におけるハンセン病資料集成』全八巻、不二出版、二〇〇一年十一月?二〇〇三年七月。就中、同『?資料集成』第七巻の滝尾英二「解説」
(三)『小鹿島更生園強制収容患者の被害事実とその責任所在』人権図書館・広島青丘文庫、二〇〇四年五月、第三章・第七節「戦前・戦中の日本政府の加害責任、日本政府の戦後責任」(一一八?一三八ページ)
 自著の要点をあげて、藤野氏のハンセン病問題についての認識を問いたいと思う。
 皇太后節子(さだこ)が、朝鮮ハンセン病患者の絶対隔離収容政策を激励・支援したことに関して、(二)の『植民地下朝鮮におけるハンセン病資料集成』第七巻の「解説・ハンセン病患者の隔離・収容を推進した皇太后節子の政治的・社会的役割」の中で、私はつぎのように述べている。

 【例12】一九三三年四月の道知事会議に於いて朝鮮総督・宇垣一成は、次のような訓示を行なっている。「従来我が朝鮮の屡 皇室より優渥なる御沙汰を蒙り洪大なる 天恩に浴しましたことは、各位と共に平素只管感激致して居る所であります。(中略)皇太后よりは今般財団法人癩予防協会設立に際し、巨額の御 下賜金の御沙汰を拝したのであります。斯くの如く重ね重ね優渥る 天恩に浴しまして、寔に恐縮感激に禁へぬところであります。予は謹みて 聖旨 令旨を奉体し、夫れ夫れ適切なる実施計画を樹て之が処理の完璧を期して居る次第であります。各位に於いても一層部下を督励して慎重事に当り、畏き 聖旨 令旨に副ひ奉る上に萬遺憾なきを期せられ度」と述べている。(第3巻所収資料一七=道知事会議に於ける総督訓示要旨)

  宇垣一成総督は一九三一年七月八日に、大宮御所に参向し皇太后節子と会い、「朝鮮の事情に関して御下問あり」(『宇垣一成日記』)と書いている。また、一九三五年七月十三日にも宇垣一成は大宮御所に参向し、皇太后節子に「朝鮮の社会事情就中癩予防及び患者退治に関する状況」の説明をおこなっている。
 官公立癩療養所長会議があると毎年のように皇太后節子は大宮御所に癩療養所長を呼んでいる。『小鹿島更生園・昭和十三年年報』には、「昭和十三年五月十七日畏クモ 皇太后陛下ニ於カセラレテハ官公立癩療養所長会議ニ出張中ノ当園長ニ特ニ単独拝謁被仰付旨ノ有難キ御掟ヲ拝シタルニ依ル園長周防正季ハ同日大宮御所ニ伺候シ御座所ニ於テ一時間十分ノ長時間ニ亘リ独拝謁ヲ賜ハリ当園ノ現況及ビ鮮内ノ癩患者ニ関シ委曲言上シタルニ痛ク癩患者ノ身ノ上ヲ御軫念アラセラレ御優渥ナル御問及有難キ御言葉ヲ拝シ恐懼感激謹奉答」と書かれてある。
 小鹿島更生園を拡張して患者を強制隔離収容した周防正季の患者への強制労働や神社参拝の強制は、この皇太后との「単独拝謁」を契機にはげしさを増していく。つまり、「周防正季ハ同日大宮御所ニ伺候シ御座所ニ於テ一時間十分ノ長時間ニ亘リ独拝謁ヲ賜」わった第三期拡張工事とは東生里の大桟橋工事であり、その着工は一九三九年一月である。「主席看護長(佐藤三代次=滝尾)とか、看護長は鞭を振りかざしながら、作業の監督をし、そのもとで患者たちは骨をけずるような苦痛をがまんしなければからなかった」(大韓癩管理協会『韓国癩病史』一九八八年四月、一〇八ページ、原文は韓国語)という。その結果、一九四二年六月二〇日、小鹿島更正園長・周防正季は入園患者の手で刺殺されるに至る。ところで、皇太后節子は園長・周防正季の生前癩救療事業に尽くした功績を嘉せし祭粢料を「下賜」する。
 皇太后節子が、ハンセン病患者の強制隔離に果たした政治的・社会的役割は大きい。この節子の生涯を寸描してみよう。節子は一八八四年六月二十五日、東京錦一丁目において九条家の第四女として生れた。父親は道孝、母親はいく子で、その年の七月より施行された華族令に基づき公爵の礼を享(う)けた。一八九九年の七月、一五歳で皇太子妃(後の大正天皇・嘉仁妃)に内定し、翌年の五月一〇日に結婚した。結婚当時の写真を見るとまだ、幼顔の少女である。結婚後ちょうど一年目に男子が誕生する。後の昭和天皇・裕仁である。岩波書店『図書』六三八号(二〇〇二年六月号)に、「〔座談会〕天皇と王権を考える」が掲載されている。そのなかで、『大正天皇』(朝日選書、二〇〇〇年十一月)の著者・原武史は、「皇后や皇太后についていえば、私は昭憲より貞明のほうが重要だと思います。あまり知られていないけれども、昭和天皇が戦後巡幸をやっていた同じ時期に、実は貞明皇后も巡啓をやっているのです。(中略)共同通信社の高橋紘は「いろいろな方の日記に、皇太子殿下(昭和天皇)と大宮御所(皇太后)との関係をもっとよくすることが懸案として記されています。西園寺公望の記録(『西園寺公と政局』)をみると、貞明皇后があまり政治に口出しをするので、『女の方はあまり出さないほうがいい』とやんわりたしなめる話なども出てきます」と言っている(五?六頁)。
 「……貞明皇后、したがって、『神聖ニシテ侵スヘカラ』ざる天皇は権力の隠れ蓑としては最も効果的であった事の是非善悪を問わず、たとえ人権が蹂躙されても、生命にかかわることであっても、その名の下に行なわれることに対しては抗弁できなかったからである」と森幹郎さんは一九五五年九月六日に書いている(『差別としてのライ』京都・法政出版、一九九三年一二月出版、四二ページ)。

 

二、「最高級の日本酒と高価な肴」を「ある人物」と飲み食いした藤野氏に、その責任はないのか

  ‥‥ある人物から『電話では話せない重要なことがある。会って話そう』と、金沢に呼び出された。(中略)私は、夕方の五時四〇分、金沢駅に降り立った。駅で待っていた彼はタクシーである割烹小料理屋に私を連れていった。なぜか、彼は始終、上機嫌であった。
   小料理屋に着くと、彼は、最高級の日本酒と高価な肴を次々と注文し出した。まずは「飲もう」と飲み始める。(中略)「彼は、厚生労働省の現職の官僚二人の名前をあげ、これはその二人の意向であると明言した。二人の官僚が金沢を訪れ、私に委員を辞退するよう説得せよと彼に依頼したそうだ」という。『私の進退は原告・弁護団に預けてありますから、この場でお答えはできません』、そう答え、富山に戻った(ただ、悔やまれるのは、そのときの飲食代である。高級酒や高価な肴が振る舞われたので、私は飲食代の半分を払うと彼に言ったが、彼は『私が払う』とこれを拒み、結局、彼が全額支払った。そのときの費用が彼のポケットマネーなのか、厚生労働省の裏金なのかはわからない)。(一五六ページ)

 なぜ、このような不当な「ある人物」の発言を、藤野氏自身の口で、その場ではっきりと拒否し抗議できなかったのだろうか。「ある人物」として、その名前を伏せ、かつ、「そのときの費用が彼のポケットマネーなのか、厚生労働省の裏金なのかはわからない」と、「ある人物」に最高級の日本酒と高価な肴の費用の出所を質さず、検証会議が終わった今でもそのことが明らかなっていないのも大問題である。
 藤野氏は実名をあげず「ある人物」としているが、なぜ、「検証会議」の性格・あり様などとも関わる重要な事実を知っていながら、実名をあげず「ある人物」などと曖昧な書き方をするのだろうか。
 会合をもつとき、「会合場所、話し合う時間、懇談テーマ」などを事前に決めておくのが常識であろう。ところが、藤野氏は「ある人物」から事前にこのことも聞かず、自ら居住している富山から金沢まで出向き、金沢駅前で「ある人物」と会い、ただちに割烹小料理屋に連れていかれている。そして「ある人物」から話も聞かないで、最高級の日本酒と高価な肴を次々と注文し出された酒・肴を飲食している。なぜ、藤野氏はそうする以前の諸段階で、席を立たなかったのだろうか。「ある人物」から話も聞かないで酒をお互いに飲み合ったことを反省せずに、そのときの飲食代を「ある人物」に全額払わせたことのみ、悔やんでいる。こうした一連のことをしでかした藤野氏自身の行為は、いったい何だったのか、という反省まったくみられない。
 藤野氏は、『飛礫44』(二〇〇四年秋号)にも、「‥‥途端に及び腰になり、自らの意見を語らず、敵を作らないようにいわゆる『八方美人』の言動に走る。ハンセン病問題に取り組み、全療協の前では支援の激を飛ばし、一方で、厚生労働省の官僚と密会し、裏取引にのめりこむ。私はこれまで、そのような研究者たちともつきあってきた。しかし、もう決別しよう」(一三四?一三五ページ)とも書いている。藤野氏のこの「いいわけ」ともとれる思わせぶりな記述とともに、藤野氏の最近のハンセン病問題をめぐる言動に、私はたいへんな不快感を持っている。そのことは研究者間に疑心を生み出し「分裂・分断」をもたらすからである。藤野氏は、はっきりと「ある人物」や「そのような研究者たち」の名をあげて批判するべきではなのか。

三、 「富山シンポジウム」(本年六月二四日)の問題性

 「ハンセン病問題ふるさとネットワーク富山」が主催して、「ハンセン病訴訟勝訴四周年記念シンポジウム・今こそ考えようハンセン病」が六月二四日に富山市で開かれ、多くの若者を含む約二二〇名が参加した。この「富山シンポ」を主催したのは「ハンセン病問題ふるさとネットワーク富山」(代表は藤野豊富山国際大助教授)である。藤野氏の著書のなかには、「……一九三二(昭和七)年より皇后の誕生日である六月二五日を『癩予防デー』と定め、講演会などの行事を開いてきたこと」が、つぎのように記載されている。

 その@ 「癩予防協会は貞明皇后の「恩」を種々の形で国民に訴えた。一九三二(昭和七)年より皇后の誕生日である六月二五日を『癩予防デー』と定め、講演会などの行事を開いていく。現在、「ハンセン病を正しく知る週間」などと称しているのは、この『癩予防デー』を中心とした期間である」(藤野豊著『「いのち」の近代史』かもがわ出版、二〇〇一年五月、一三七ページ)。
 そのA 「癩予防協会は貞明皇太后の『御手許金』の『下賜』を記念して、一九三二年度より皇太后の誕生日六月二五日を『癩予防デー』と定めたが(高野生「癩デー」)(『公衆衛生』五〇巻六号、一九三二年六月)、……。(藤野豊著『日本フャシズムと医療』岩波書店、一九九七年一月、九七ページ)。

 右記の藤野豊氏の記述は、「癩予防デー」を定めた年がまちがっていると思われるが、「癩予防法」が撤廃された現在でも「ハンセン病を正しく理解する週間」が六月二五日を前後する一週間であり、皇太后節子の「皇恩」=「貞明皇后のご仁慈」を国民に訴えたものという点は、藤野豊氏もよく存知されているのである。
 ところで、『熊本日日新聞』二〇〇二年五月一三日の朝刊記事は、ハンセン病国賠訴訟原告・弁護団と全療協が、厚労省への統一要求で謝罪・名誉回復の項目で、毎年六月実施の「ハンセン病を正しく理解する週間」を、熊本地裁判決があった五月十一日から国が控訴断念した同二三日までの間に移すよう求めることを決めていると報道している。これを決めた徳田靖之西日本国賠訴訟代表(現・小鹿島更生園・台湾楽生院訴訟原告ら弁護団員)もまた、皇太后節子の誕生日である六月二五日前後実施の「ハンセン病を正しく理解する週間」が不適当であることを知っている。だから、その変更を求めているハンセン病国賠訴訟原告・弁護団代表として「厚労省」へ要求したのである。
 ところが、「富山シンポ」の集会に参加した富山国際大学学生は、「ハンセン病市民学会ホームページ」の「告知板」で、次のような報告をしている。

 「富山シンポ(六月二四日)の報告」
 告知板(六月二〇日=ママ)の富山シンポについて、Aさんに報告を書いていただきました。

   「ハンセン病問題ふるさとネットワーク富山」が主催して、「ハンセン病訴訟勝訴四周年記念シンポジウム・今こそ考えようハンセン病」が六月二四日に富山市で開かれ、多くの若者を含む約二二〇名が参加しました。
   始めに、「いま 富山では…若者たちが」と題して浄土真宗本願寺派高岡教区寺族青年会と富山県民主医療機関連合会(富山民医連)が取り組みを紹介しました。寺族青年会では、様々な社会問題に関する勉強会などを行っており、昨年はハンセン病問題の勉強会や療養所への研修旅行を行ったことを報告しました。また、富山民医連では新人職員研修でハンセン病問題に取り組み、医療・福祉機関と従事者の人権を保障する責任について学んだことを報告しました。
   次に、「熊本判決から四年 あらためて判決の意義とこれからを問う」をテーマにパネルディスカッションを行いました。パネラーはハンセン病国家賠償西日本訴訟弁護団代表の徳田靖之さん、同訴訟原告の上野正子さん、ネットワーク代表の藤野豊富山国際大助教授が務めました。
   上野さんは沖縄県石垣島の出身で、一三歳の時に鹿児島の国立ハンセン病療養所敬愛園に入所され、六〇年以上の隔離生活を送られました。一九歳で結婚されましたが、夫は強制的に断種手術を受けさせられ、「いつか社会復帰して、貧乏でも子供のいる普通の家庭を築くことにあこがれていたが、かなわなかった」とおっしゃった言葉が印象的でした。
   徳田弁護士は、差別と偏見はいまだに残っていること、回復者の平均年齢が七八歳になっていること、国は療養所の統廃合を進めていることや、大戦中に日本が植民地化した韓国、台湾でも隔離政策が行われ、その問題が未解決であることを指摘され、ハンセン病回復者の方がふるさとに帰るときは暖かく迎えて欲しいと訴えました。
   藤野代表は「ハンセン病問題に関する検証会議」では、断種、中絶、生まれた子どもを殺すなどの根拠が未解明のままだったことをあげ、今後の真相解明の必要性について述べました。
   質疑応答では、若者から「私たちは、学校で受験や試験で他人より良い成績を取るために必死で勉強し、自分より成績の悪い生徒を見て安心するという環境にいる。差別は良くないと思うが、差別をなくすのは難しいのではないかと思う。」という意見が出ました。これに対し、徳田弁護士は「差別を見て見ぬ振りをしたり、分かったように振舞うよりも、この様な意見が出ることが必要だ」と述べられました。
   そして、最後にこのシンポジウムを契機に県民のハンセン病問題への理解を深め、来年の富山での市民学会への協力を求めました。

 六月二四日(金)午後六時三〇分から二時間、富山市でおこなわれた富山シンポは、『北国新聞』、『朝日新聞(富山版)』ほか、『毎日新聞(北陸版)』にも掲載された。六月三〇日に掲載された『毎日新聞(北陸版)』(朝刊)には、青山郁子の記名入りで、この富山シンポ集会について、報じている(毎日新聞富山支局など後援している)。
 六月二四日夕刻におこなわれたこの富山シンポのパネラーからは、政府が「貞明皇后のご仁慈悲」を讃えた通牒にもとづく「ハンセン病を正しく理解する週間」の期間に開催されたことへの発言が、こうした報道記事をみるかぎり語られていない。おそらく当日は、「ハンセン病を正しく理解する週間」の期間であるとは、パネラーである藤野・徳田両氏も二二〇名の集会参加者には明かしていないと思われる。
 史実からしても、藤野氏のこれまでの主張からしても、六月二四日に「富山でシンポジウムを開く」のであれば、当然、その日が「ハンセン病を正しく理解する週間」の期間であり、それが「貞明皇后のご仁慈」を讃える政府通達によっておこなわれていることの問題が指摘されて然るべきであった。にもかかわらず、おそらく藤野氏は、このことにまったく触れなかったし、統一交渉団をひきいる徳田弁護士も、原告らの要望をなきものにしてしまった。日程を決める時点で考えなかったということはあり得ないことである。
 藤野豊氏は、「貞明皇后のご仁慈」を書きながら、実際行動では、これを容認する富山シンポをもった。また、徳田靖之西日本国賠訴訟代表は、厚労省への統一要求で謝罪・名誉回復の項目で、毎年六月実施の「ハンセン病を正しく理解する週間」を、熊本地裁判決があった五月十一日から国が控訴断念した同二三日までに移すよう求めながら、この決定を放棄した。このような歴史認識に基づく「国賠訴訟」であり、「韓国ソロクト・台湾楽生院行政訴訟裁判」であり、かつ両人がおこなった富山での「ハンセン病問題啓発集会」であった。藤野豊氏は、今年の三月まで「ハンセン病問題に関する検証会議委員・検討会委員」であった。また現在は「ハンセン病問題市民学会事務局長」として、ハンセン病問題研究を仕切ろうとしている。
 ついでにいっておくが、富山のシンポは、二〇〇二年から毎年、六月二五日の皇太后節子誕生日前後におこなうという流れがあるように思われる。これまでの「富山シンポ」は、
 *二〇〇二年六月二十一日、「ハンセン病訴訟勝訴一周年記念シンポジウム(市民プラザ)」=詳細は不明。
 *二〇〇三年六月二〇日、「ハンセン病訴訟勝訴二周年記念シンポジウム(市民プラザ)、宮里新一コンサート、他。(宮里新一氏は、〇五年五月二三日、東京の星陵会館で「ソロクト訴訟報告集会=海を渡った隔離政策?韓国ソロクト・台湾楽生院のハンセン病裁判を知るつどい」でも、植民地でのハンセン病患者被害と国家謝罪を忘れている「控訴断念」をテーマとした自作の歌「五月の街」をソロクト関係者を前にして唄っている)
 *二〇〇四年七月二日、「ハンセン病訴訟勝訴三周年記念シンポジウム(富山新聞社など後援、市民プラザ)、「風の舞」上映、他。
 *二〇〇五年六月二四日、「ハンセン病訴訟勝訴四周年記念シンポジウム・今こそ考えようハンセン病」(市民プラザ)。
 「熊本地裁判決」と「政府の控訴断念」とは、植民地でのハンセン病患者の国家犯罪を忘れたものであったということを、これら集会関係者は銘記して欲しかった。

 私は二〇〇二年六月五日に、今は「ハンセン病問題市民学会」事務局次長となっている熊本学園大学商学部の遠藤隆久教授から依頼されて、同大学の「ハンセン病講座」で、「日本植民地支配期における朝鮮ハンセン病政策」の「被害実態とその責任」について、同講座で学生に話をしたことがある。
 その前日に、熊本市在住の(大学時代、ともに学生運動、とりわけ「国民的歴史学運動」で行動を共にした)学友の水野公寿さん(熊本大学非常勤講師)から、〇二年六月一日の『熊本日日新聞』を見せてもらった。紙上には、熊本県の名で、大きな紙面を割いて「六月二五日前後の一週間を『正しくハンセン病を理解する週間』とし、その諸行事を行なう」という広告記事であった。
 すでに述べたように、この六月二五日こそハンセン病患者の絶対隔離収容を推奨し、光田健輔・長島愛生園長はじめハンセン病収容所施設長らを毎年、皇太后の住まいである「大宮御所」に集めて「絶対隔離収容」激励した当時の皇室の第一人者である皇太后節子の誕生日であった。一九三一年四月二日「旧らい予防法」を制定、同年の六月二五日前後を第一回「らい予防デー」とした。多磨全生園患者自治会編『倶会一処』(一光社、一九七九年発行)の「年表」二六ページには、「六月二五日、皇太后御誕辰日。この日を『らい予防デー』と定め、この日を中心にした一週間をらい予防週間として全国各地で講演会等、『救癩』運動を行うこととなる」と書かれている。また、長島愛生園入園者自治会編『隔絶の里程』(日本文教出版、一九八二年三月発行)の「年表」二八九ページにも、「一九三一年六月……皇太后陛下誕生日を中心にらい予防デー、及びらい予防週間はじまる(二五)。光田園長AK〔NHK東京放送局〕よりらい予防について放送(二五)」と書かれている。
 〇二年六月五日の夜、私は菊池恵楓園で入所者であった方の結婚披露宴があるというので、菊池恵楓園に行った。結婚披露宴の席上、ハンセン病国賠西日本訴訟弁護団員の国宗直子弁護士やハンセン病国賠西日本訴訟原告副団長の志村康さんにもお会いした。とくに、国宗弁護士には、『熊日新聞』に掲載の熊本県の「ハンセン病を正しく理解する週間」の新聞広告の件、その問題を熊本学園大学遠藤教授のハンセン病問題講座でも学生に問題指摘をしたこと、「ハンセン病を正しく理解する週間」を六月二五日の皇太后節子の誕生日前後とすることを「否」とすること、などを話し、また、国宗弁護士は「来年=二〇〇三年からは、『ハンセン病を正しく理解する週間』は、熊本地裁判決のあった五月十一日前後一週間とするよう県に働きかけます」ということであった。志村さんも同意見だったと思う。
 翌日午前中、私は熊本県庁に行き、ハンセン病問題を担当する県職員二人と会い、熊本県が「六月二五日の皇太后節子の誕生日前後を『ハンセン病を正しく理解する週間』とする」ことの不当性を述べた。二時間ほど話し合ったように思う。すると、熊本県のハンセン病問題担当者--その一人は「審議官」という職名だったが--が厚生省通達なるものを見せ、「どの都道府県も、厚生省のこの通達で『ハンセン病を正しく理解する週間』を貞明皇后様のご誕生日である六月二五日前後一週間にしています。横並びにやっているので、熊本県だけが、五月十一日の熊本地裁判決日前後に『ハンセン病を正しく理解する週間』とするわけにはいきません」という。
 私は、これを聞いて腹をたてて、「国の通達で、無批判に、横並びのハンセン病施策が、そのまま無らい県運動へと繋がったのではないか。熊本県は、国に追随して無らい県運動をしたことを反省をした。熊本県がハンセン病隔離政策をしたことの反省とは一体なんだったのか。そのような返答はないでしょう」と大声で怒鳴った体験をもっている。
 ソロクトの方たちは、日本政府が今なお貞明皇后の誕生日に由来したハンセン病啓発キャンペーンを展開しているという事実を、どう感じられるだろうか。自分たちの理解者であると信じている人たちが、それに乗っかって平気でいることを、どう思うだろう。この「ハンセン病を正しく理解する週間」にハンセン病問題の諸行事をおこなうということは、絶対隔離製作を容認することになるのである。
 だからハンセン病市民学会の事務局長である藤野氏が、このような富山シンポを六月二四日にやるようでは、私は市民学会の会員ではないけれども、ハンセン病問題にかかわっている者として、「市民学会」が今後、どのような道を歩もうとしているのか案じているし、危惧もしているのである。 

追記 ホームページ「滝尾英二的こころ」をたちあげました。ぜひ訪ねてください。
   http://takio.cocolog-nifty.com/cocoro/

                                    (たきお えいじ)