ソロクト訴訟はなぜ敗訴したか
 ――今後の闘いにむけて――
                                                       

『飛礫』49号(2006年1月)所収


 
               滝尾 英二
        人権図書館・広島青丘文庫

 敗訴後のソロクトをたずねて

  二〇〇五年一〇月二五日に韓国と台湾のハンセン病元患者たちがハンセン病補償法にもとづく補償を請求した韓国・小鹿島(ルビ=ソロクト)更生園訴訟(以下、ソロクト訴訟)と台湾楽生院訴訟の判決があり、私も公判を傍聴してきました。午前一〇時からソロクト訴訟は東京地裁民事三部鶴岡稔彦裁判長が原告敗訴、午前一〇時三〇分から台湾楽生院訴訟は同地裁民事三八部の菅野博之裁判長が原告勝訴という明暗をわける判決がくだされました。
 台湾楽生院訴訟の菅野裁判長は、「補償法の精神にもとづいて平等の原則により」と司法判断をしたけれども、ソロクト訴訟の鶴岡裁判長は、「補償法の審議過程でこの点の審議は何らされていないので、告示に日本統治下のソロクト更生園が書かれていないことは違法とはいえない(だから補償請求却下は違法ではない)」とし、その責任を立法府と行政府に丸投げしたのです。この判決をうけ、ソロクト訴訟原告団と弁護団は控訴し、台湾楽生院訴訟は十一月八日に負けた方の厚生労働省(以下、厚労省)が控訴します。どちらも東京高裁に移ったわけです。高裁では、原告側には非常に厳しい裁判になるでしょう。これまでの戦後補償裁判でも浮島丸裁判や下関裁判(「日本軍慰安婦」裁判)は、地裁で勝っても高裁で負けています。
 厚労省は台湾楽生院訴訟の控訴にあたって川崎次郎大臣が十一月八日の閣議後会見で、「控訴とは別に、韓国と台湾に加え、パラオとサイパン、ヤップ、ヤルートの太平洋の四島を含め国外の療養所の入所者に対し、適正な補償をするため、省内で検討し速やかに結論を出す考えを示し」(『毎日新聞』05年11月8日)ました。
 わたしは、今なによりも、敗訴判決で東京から泣して小鹿島(ソロクト)へ帰られた原告の方がたの声を聞くことが大事だと考え、十一月十三、一四日に小鹿島をたずねて、金明鎬(キム・ミョンホ)自治会長や自治会員、多くの原告や被害者の声を聞いてきました。原告の方がたが一様に言われることは、「弁護団からは、九〇パーセントは勝訴すると言われていた。私もそう考えていた。それが敗訴した。その理由がわからない」「われわれは天皇陛下の赤子だと教育され、そのようになれと強制された。だけど一〇月二五日の裁判では私たちは敗訴した。これはとうてい、納得いかない」とくやし涙を流されていました。原告の蒋基鎭(ヂャン・ギジン)さんは八四歳になられるのですが、たいへん落胆されていましたよ。私は日本人のひとりとして、長い間の不作為を恥じ入りお詫びするばかりでした。
十二日には原告のハラボジが亡くなられ、補償申請者のうち二十三名のかたが怨嗟の気持ちを抱いたままこの世を去って彼岸に行ってしまわれました。私がたずねた十三日にも非原告のハラボジが亡くなられ一四日に葬儀があり、私も列席させていただきました。私のホームページ「滝尾英二的こころ」(*)で写真とともに報告を載せていますので、ぜひご覧下さい。小鹿島療養所が開園した一九一六年以後、本年の十月十四日までに小鹿島で亡くなり「納骨堂」と土墳に納められた方は一万四〇九人にも及んでいます。私は葬儀のあと、小さい土墳にぬかずいて「恨魂」に謝罪の祈りをするだけでした。
  *http://takio.cocolog-nifty.com/kokoro/

 

 ソロクト自治会長の「陳情書」を届ける

 島を去るとき、金明鎬自治会長から日本の各政党の責任者や行政担当者にあてた「陳情書」を託されました。ソロクトの方がたの声を私なりにまとめてみると、早急に国会議員や行政当局者が小鹿島を訪ね、日本帝国政府がつくり運営した施設を見て、直接に植民地下で収容された患者の声を聞いてほしいということと、平等の原則の立場で、迅速に補償を決定してほしいということでした。韓国在住の若い日本人に自治会長の「陳情書」を翻訳してもらい、十一月一七、一八日にそれをもって東京へ出向きました。
 社会民主党の福島みずほ党首と阿部知子政調会長、日本共産党の市田忠義書記局長には直接会い、民主党は前原誠司党首と仙石由人・民主党「次の内閣」厚生労働大臣あてに仙石議員の秘書に、公明党は冬柴鐵三幹事長の秘書に「陳情書」を手渡しました。自民党は安部晋三官房長官室をたずねて、安部晋二衆議院議員に「陳情書」を渡してほしいと言いましたが、官房長官として行政府に入ると党からはなれるので、直接に自民党本部の小泉純一郎総裁あてに「陳情書」は送れというので、郵送しました。官房長官としては、陳情はうけないとのことでしたが、政策に反映させる資料として「陳情書」と持参した資料類は受け取ってくれました。厚生労働大臣あては秘書官に手渡しました。
 「ハンセン病問題の最終解決を求める議員懇談会」会長の江田五月・民主党議員をアポなしで訪ねたところ、幸いなことに直接会って「陳情書」を手渡すことができました。当たって砕けろという気持ちで東京へいきましたが、どこでも私の話を聞き「陳述書」を受け取ってくれたことは成果だったと思っています。あとは国会と行政府が「謝罪にもとづく補償」をどれだけきっちりとやりきるか、監視をしていきたい。

 

 ソロクト問題解決のチャンスは三回あった

  熊本判決以降、ソロクト問題が解決するチャンスは少なくとも三回あったと考えます。最初は二〇〇一年の五月から六月にかけて議員立法として提出されたハンセン病に関する補償法の審議過程で、理念としては「すべての救済」といいながら国内の人たちしか念頭になかった(くわしくは滝尾英二「ハンセン病問題は、いまだ終わらず」『飛礫34』)。共産党の瀬古由紀子議員や社民党の中川智子議員(当時)に、二〇〇一年三月から四月にかけて何度も話をし、二人が厚生労働委員会で質問しました。その質問にたいして坂口厚生労働大臣(当時)の「具体的内容を把握していないので、今後の検証のなかで取り扱いを検討する」という答弁や桝屋副大臣(当時)の「実態がわからないので、今後の検証のなかで考える」という答弁を引き出した。この発言が今回の川崎厚労大臣発言のベースになったわけです。
  社民党の北川れん子さんたち一年生議員が集まって一九九七年にTBSの「ニュース23」がソロクト取材をした十三分ほどのビデオを見ながら、衆議院議員会館の会議室で二時間近く私を講師として学習会を開きました。このビデオは私のホームページで見ることができます。このとき無所属議員であった川田悦子さんがはじめて、ソロクトに日帝がつくった療養所があり生体実験や断種などのひどい仕打ちがあったことを知ります。川田さんは植民地や非入所者の問題も含めて国会で独自に考えてはどうかと質問しようとしたが一分の質問もさせてもらえなかった。そして川田さん一人が反対をして補償法案が成立してしまった。この経過が「えつこ通信5」に書かれていて、今でもホームページで検索すれば読むことができます。短期に拙速して法制化してしまったことのツケが、今回のソロクト訴訟の原告敗訴の判決です。ソロクト訴訟の鶴岡裁判長は資料を調べたうえで、国会で具体的な討議をしていない、ただし質問はあったので、それが出発点になるといったわけですね。
  第二は、チャンスを失ったということで言えば、坂口厚労大臣や桝屋副大臣の答弁を引き出してからのち、誰も、そのことについて質問していないということです。国会議員であれば誰でも総理大臣にたいして主意書で質問をし、それは必ず行政担当者から回答されるという権限がありながら、法以上の具体性をもつ告示について植民地はどうなのか誰も何も質問していない。これは国会議員の怠慢だと思います。
また、『未来』第四五八号(二〇〇四年十一月号、滝尾著『ソロクト(小鹿島)裁判のための資料・研究ハンドブック――「国の行為による加害責任」は明らかである』〔人権図書館・広島青丘文庫発行、二〇〇五年一月〕にも収録)に詳しく書きましたが、二〇〇二年一月三〇日、日本の遺族原告と入所歴なき原告についての国との和解の成立によって、補償が決まったことをもって、「司法上の全面解決に当たっての声明」を国家賠償西日本原告団と同弁護団が出し、司法上、全面的に解決したと声明したことです。この「声明」は自国民中心意識の色濃くい問題性を持っていました。私は、ハンセン病政策の誤りは終わったとするハンセン病違憲国賠訴訟弁護団の弁護士たちにも、ソロクトの問題を提起していましたが、なかなか動かなかった。
二〇〇三年八月になって、私の属していた福祉社会を志向する市民の集い「チャムギル会」が、小鹿島で「韓日人権シンポジウム」を開催し、それに参加した徳田靖之弁護士から、植民地支配時代に隔離収容された小鹿島入所者の日本政府にたいする補償と謝罪要求の方法についての提案があり、それが提訴に踏み切る契機となったのです。しかし、二〇〇一年五月、政府が控訴断念した時から二年余が経っていました。その間、日帝期に収容されたソロクトのハラボジ・ハルモニが、数多く亡くなっていったのです。
  徳田弁護士の訴訟提案を受けて、ソロクト入所者の一一七名が〇三年十二月以降、三次にわたってハンセン病補償法にもとづく補償請求をおこないます。当時の坂口厚生労働大臣は二月の段階で、一カ月で可否の結論を出すと言ったのに、申請決定を早めろという運動がまったくといってよいほど起こらず、〇四年八月一六日までのびのびになり、結局、告示にないということで、補償申請は却下されました。その間にも亡くなられた方がおられる。平均年齢が八二歳という高齢の方々であり一日も早い救済を図るために、この処分の取り消しを求める行政訴訟を八月二三日、東京地裁に提訴します。そして、翌年には、植民地統治時代の台湾楽生院の入所者二五名も補償法にもとづく補償請求をおこないました。
  私は小鹿島更生園・台湾楽生院補償請求弁護団(代表兼事務局長は国宗直子弁護士)が植民地問題を切り捨てた補償法に依拠して裁判をやることには疑問があり、裁判をやるなら国家賠償でやるべきだと意見をのべましたが、司法のことはよくわからないので弁護団にまかせ、裁判長宛に陳述書も書き、最終的には取り下げになったけれども裁判の証人に立つことも私は了承しました。私は今でも、裁判では国家による謝罪と賠償を求めるべきだと考えています。事実、補償法に依拠した弁護団の論理は、このソロクト裁判判決でみごとにくつがえされたのですから。一九六五年の日韓基本条約で日本政府は韓国政府と政府無償贈与三億ドル、海外経済協力基金による政府借款二億ドル、民間借款三億ドル以上の賠償金ですませ個人への賠償責任を問わなかったのは明らかに無法です。その当時はハンセン病被害者のことは何も知らなかった。日韓基本条約のときに「朴にやるなら僕にくれ」といった排外主義がまきおこりましたが、この意識はこんにちでも克服されていない。ソロクト問題が社会問題にならないのは、この排外意識が根強くあるからです。
  そして第三に「ハンセン病問題に関する検証会議」が出した『二〇〇三年度ハンセン病検証会議報告書』(〇四年三月三十一日発行)です。そのなかで韓国は「日本のハンセン病対策の全体像を明らかにする一助」論ですよ。私は検証会議に二度にわたり意見書を提出しましたし『飛礫44』にも中間報告への批判を書きました。五月には『小鹿島更生園強制収容患者の被害事実とその責任所在』(人権図書館・広島青丘文庫発行)を出版し、また検証会議を傍聴し、個々の検証委員や検討委員にも会い、ようやく不十分ではあるけれども、〇五年三月一日付『検証会議最終報告書』には、ソロクト問題が正しく書かれました。『最終報告書』が厚生労働大臣に提出された段階で、もう一度、補償法の平等の原則にたちかえって、国会や行政府に提案をすればよかったのです。また五月に発足したハンセン病市民学会も、ハンセン病問題検証会議委員や検討会委員の内田博文さん(検証会議副座長)や藤野豊さんなど多くのメンバーが委員になっているのに、また規約に国や地方公共団体に提案、提言するとうたっているのに、植民地問題を提言することをしなかった。その段階で提言しておれば、国は結審までに補償法の見直しなり新しい立法作りをやったかもしれないし、あのような判決もでなかったかもしれない。やはり植民地の問題は二の次、三の次だったのですね。
  ところで、『最終報告書』がでた後の三月十三日付『朝日新聞』に東大大学院教授の姜尚中(ルビ=カン・サンジュン)さんが『検証会議最終報告書』の内容を確かめないで、「最終報告書には朝鮮半島が入っていない」と書いた。ソロクト裁判の渦中でありこの記事の影響は大きいと考え朝日新聞に抗議すると、三日後に小さく訂正記事が掲載されましたが、この件はまだ決着はついていません。ソロクト弁護団も検証会議委員も『朝日新聞』を読んで間違いに気づいた人は多くいるはずですが、みなその誤った記事を容認している。私の抗議は「いちゃもん」だとも批判された。朝日新聞は論説委員の藤森研さんが検証会議のメンバーとして入っているし報道部のデスクも『最終報告書』がでた直後で内容は知っているはずなのに原稿のチェックをしていない。東大大学院の教授ならノーチェックなのか。私の自家本(『小鹿島補償請求訴訟(東京地方裁判所)に関する資料集』(〇五年五月三日)に「姜尚中教授からの手紙に答えて――ハンセン病問題に取り組んでおられる皆様へ」を書いたけれども、多くの人はこのことを知らない。姜尚中さんは訂正する機会が何度もあるはずなのに訂正したとは聞いていない。これが研究者とマスコミの一つの実態です。

 

「二施設を追加」ですむのか

  問題は弁護士です。十一月七日、八日に東京で台湾楽生院訴訟の控訴を国に断念させるとりくみがありました。それに参加した方から「マスコミの横着はひどいものです。弁護士の発言しか聞かないで記事を書いている」という声が寄せられました。それは私も感じています。私にも東京へ傍聴に行っているのに、東京の記者が携帯電話で取材をすまそうとする。ここで国宗弁護団代表兼事務局長の「(補償法の)告示改正ならば国会審議を経ることなく厚生労働大臣の一存で支給できる」「たとえば二施設を加えればいい」という発言が「二施設を加えるだけでいい」と受け取られ、国内の元原告たちや支援者はそれを支持した。これは大きな問題です。弁護士は原告から依頼されているのだから原告勝訴のために努力するのはやむをえないけれど、他の人に弁護士の論理を押しつけるのは不当であり誤った歴史認識を与えることになります。
朝鮮と台湾以外の日本統治下にあった地域を含むと国がいいだしたとき、多くの人は、アジアや南太平洋地域の被害のことはまったく知らないのです。私が提起したことで弁護士も南洋庁の統治下にあったミクロネシアでハンセン病患者の強制隔離があったことは知ってはいた。しかし誰も具体的に政府にたいして調査を要求するなり告示に加えるなりの要求は何もしてこなかった。いきなりパラオやヤップなど言われても何のことかわからない。だから、マスコミの中にはソロクトと台湾楽生院の補償を遅らせるために四島を入れたという論調の記事をながし、支援者のなかにもそう受け止めた人もありました。今でも南太平洋地域の人たちへの蔑視と差別があるからではないでしょうか。

【植民地・占領地の問題は残っている】
私は、『検証会議最終報告書』がでる直前にこの問題がほとんどふれられていないことに気づき、三月三日付けで検証会議の各関係者に「ハンセン病検証会議関係者は日本の植民地支配下にあったミクロネシアのハンセン病隔離政策の被害と国家責任を明らかにせよ 最終報告書批判 その1」という意見書を提出し、同年七月一日発刊の『飛礫47』にそれをふくらませて詳しく書きました。『最終報告書』にはやはり五行ほどふれられているだけで、占領地の項目に入っている。しかも四島の設立年がまちがっているのです。第一次資料によって書かず、しかも出典も書かずにすませてしまった。国会図書館にいけば年次で発行されている南洋庁編・発行の『南洋群島要覧』があり公式の数も掲載されています。第一次資料にあたらないのは研究者としての許しがたい怠慢です。
  ミクロネシアは占領地ではなく日本の国権の及ぶ植民地です。国際連盟の委任統治であったが日本が国際連盟を脱退して完全な植民地になりました。中国や東南アジアとはちがう。南洋庁が直接に療養所をつくり、ハンセン病は経験的にうつらないと考えていた南太平洋諸島の人々を、粗末な風が吹けばとぶような施設に強制隔離した。食物を本人又は縁故者に於いて負担させ、最後は虐殺までしたという証言もあります。太平洋諸島の人たちは、中国文化圏とは異なった、日本とはまったく異質の文化です。それが非常にゆがめられた像として日本人のなかにつくられていく。それが「私のラバさん、酋長の娘」といったような揶揄的な歌や、漫画の「冒険ダン吉」になり、植民者の優越的差別意識をつくっていった。沖縄や朝鮮からたくさんの人たちが鉱山資源や漁業資源採取の労働者としてミクロネシアの島々に行っていました。彼らも日本人から差別されていたけれども島民の人たちはさらにその下に位置づけられ「南洋の土人」という形で差別され蔑視され屈辱のなかでの生活を強いられていたのです。一九九一年に日本で開かれた「アジア・太平洋地域戦後補償国際フォーラム」で、パラオの元挺身隊員であったヤノ・マリウルさんの証言にもあるように南洋諸島の人たちから戦後補償の要求もだされているのです(国際フォーラム実行委員会編『戦後補償を考える』東方出版)。それを無視してしまったのは、日本人の私たちではないですか。〇五年六月に明仁天皇と美智子皇后はサイパンに行って戦死した日本人やアメリカ人に慰霊をしたけれど、植民地下でもっとも下におかれた島民にたいしては謝罪していない。ましてや強制隔離された人たちへの謝罪や慰霊はまったくない。マスコミも、ハンセン病患者の被害について調査も報道もしない。
  厚労省が四島を明言し旧占領地を切り捨てたのは対象者が膨大になり予算が足らなくなるからです。しかし集団自決したといわれている「満州」の同康院、これは傀儡政権のもとで日本の医師によってつくられています。東南アジアについては、インドネシアは検討委員でもある和泉眞蔵さんが中心になってかなり明らかになっていますが、ベトナム、やフィリピンといった地域の調査研究も必要です。フィリピンにはアメリカがつくった世界最大といわれる「クリオン」のハンセン病療養所があり、日本の占領軍がそれを引き継いだと思う。これらの地域のハンセン病患者はもっと過酷な条件であったことでしょう。四年余りのハンセン病政策下であったとしても、これらの人たちへの救済なくしては、補償法の精神にもとづくほんとうの補償は終わらないし、日本の侵略戦争責任もはたしたとはいえない。

 

【朝鮮の問題】
  「二施設だけ追加」の問題点は植民地支配下の朝鮮においても重大です。一つはかつて日本の療養所に短期間であっても入所していて帰国後ソロクトに入った人がいて、その三名はハンセン病の補償金を八〇〇万円受給しているのです。韓国全国でいえば八名いらっしゃる。ソロクト訴訟原告団の人たちに補償金が支給された場合、金額に差があれば差別がでるのです。原告の李幸心(ルビ=イ・ヘンシン)さんは一九三八年からソロクトに入って今日にいたっていますから日帝期に八年間、更生園に入っておられた。この人は減額されていいのかという問題です。
  第二に、これは横着をして誰もしらべていないのですが、韓国には小鹿島更生園ができる前からキリスト教の医療宣教師による私立のハンセン病療養所が三カ所ありました。釜山の相愛園は日本の要塞が見える場所に建っていたので一九三五年にマッケンジーという当時の園長が「要塞法」で逮捕されるという事件もありました。イギリスの管轄だったので一九四一年には朝鮮総督府が強制廃園させて、患者たちは流浪せざるをえなくなった。大邱愛楽園と麗水愛養園は一九四二年に朝鮮癩予防協会などの管轄となり日本の警官が園長になっています。ここでも小鹿島更生園と同じように断種や強制労働をやらせています。
  第三に釜山の相愛園が閉鎖となり患者たちは流浪せざるをえなくなったと言いましたが、ハンセン病患者は仕事につくことを総督府によってきびしく制限されていたため仕事につくこともできず療養所に入ることも許されず流浪して、市場でのたれ死にしたり橋の下で凍死したり、木に首をくくって亡くなるといった行路死亡者がたいへん多かった。これらは『朝鮮ハンセン病史――日本植民地下の小鹿島』(未来社)にくわしく書きました。戦前戦中の日本の新聞の朝鮮版や総督府の雑誌には「伝染するから恐ろしい」とか「生き肝を食べるから怖い」などとまことしやかに報道され、あとで「あれは誤報だった」とちょっと訂正文をだしたりしていますが、大きく書き立てて差別をあおった。こういった総督府の責任はまったく問われていない。
  一九三五年四月二〇日に交付され六月一日から施行された朝鮮癩予防令は、解放後も李承晩(ルビ=イ・スンマン)時代の一九五四年一月まで九年間つづくのです。日本の衛生観念は残ったまま隔離されているのです。これがなくなるのは一九六〇年代、いわゆる軍事政権下に定着村運動が進み自治会活動が発展したころです。この段階で朴正煕(ルビ=パク・チョンヒ)政府は経済的にみられないから小鹿島から出たい人は出ろということになった。釜山の相愛園から追い出された人たちは解放後の一九四六年三月に、龍湖農園という集落をつくっていました。こういったハンセン病の人たちが暮らす集落を定着村といいます。大邱の愛楽園のそばにあったいくつかの集落は共産村と呼ばれていましたが、戦後、それらが漆黒農園という定着村になります。二七五人の第二次補償申請者が一〇月二五日(二〇〇五年)に申請書を厚労省に出されましたが、この中には漆黒農園の方も入っています。却下されたら裁判提訴の予定です。私は龍湖農園にも漆黒農園にもいき交流してきました。農業や畜産、養鶏などで暮らしておられます。定着村や非入所者の問題は『飛礫48』の林斗成(ルビ=イム・ドゥソン)さん(ハンピッ福祉協会会長)の講演録に詳しく書かれています。日本でも「強制収容」が一人歩きして、強制収容されなくても差別のなかでハンセン病政策によって被害をうけた非入所者への補償はずっと遅れたし、また入所者の家族は補償の対象であるけれど、鳥取のTさんのような非入所者の家族は対象にはなっていない。韓国では療養さえ満足に受けられなかった人たちが非常に多いのです。差別のために隠れ住んでいる人たちも多い。その人たちは高齢であるし日本のハンセン病補償法の申請ができることさえ知らないし知らされていない。だから「二施設だけ」ではまったく不十分です。
  第四は朝鮮戦争を経て北に行った人たちは切り捨てるのかという問題です。ソロクトに入っていた人たちは南の人が多いのは事実ですが、「ポリピリ」の詩で有名な韓何雲(ルビ=ハン・ハウン)は朝鮮北部の咸鏡南道の出身です。いま南北朝鮮の交流がさかんで、私の知っている崔鳳泰(チェ・ボンテ)弁護士(日帝強占下強制動員被害真相糾明委員会長)も浮島丸差別判決の抗議行動のため平壌へ行っています。北に行った人たちへの補償も視野に入れなければなりません。

【国による調査を早急に始めよ】
  いま世論は補償法そのものの問題を指摘する方向に変わりつつあります。弁護団も若干ニュアンスはちがうけれども、厚生労働大臣が次の通常国会で補償法を見直せと声明をだした。これが一番近道です。控訴審で闘うには判決までに多くの時間がかかります。なにしろ原告の方がたは高齢です。補償法の告示を変えるか、付帯決議をつけるか、あるいは別の「救済法」をつくるのか、法的にはわかりませんが、何らかの形で補償法は審議されるだろう。新聞報道によると、政府が考えている「救済策」は範囲も補償内容も非常に限定された形のようです。私は原則的には、天皇制下の「大日本帝国」の支配が及んだすべての地域でハンセン病政策によって被害を受けた人たちはもちろんのこと、傀儡政権下で被害を受けた日本占領地域の人たちも含めて、範囲においても補償内容においてもまったく平等になされるべきだと考えます。二段階方式にとどまらず三段、四段方式になったとしても、発展的にやることです。
  そのために、それぞれの国の施政権者とよく相談して早急な調査がいるでしょう。いま韓国ではソロクト弁護団の代表であった朴燦運(パク・サンウン)さんは政府の人権政策委員会の局長になられ、ソウル大学の歴史学教授である鄭根埴(チョン・グンシク)さん(『小鹿島八〇年史』を編纂)を「チームリーダー」として韓国全体のハンセン病歴者の調査を委託しています。ソロクト弁護団長の朴永立(パク・ヨンリップ)さんもそのメンバーです。韓国でも台湾でも裁判を契機に国内のハンセン病政策の見直しがはじまっています。鄭根埴さんとは親しい間柄で、先日、私に話を聞かせてほしいとの電話があり、一月には韓国にいって話をしてくるつもりです。日本政府はこういう韓国の調査研究とドッキングしてやればいいのです。
  わかったものは早くしなければならないけれど、わからないものを放置したまま拙速すると、法をつくったことで他を切り捨てることになる。二〇〇六年六月が五年間の時限立法である補償法の期限ですから、それまでに周知徹底するのはとうてい無理です。法の延長なり追加的措置をとるなりしておかねばなりません。

 

植民地支配と戦争の責任を問う

  私がソロクト弁護団と決定的に意見が対立し分かれる契機になったのは、国宗代表兼事務局長と議論した内容です。国宗弁護士は、ソロクトのハラボジ、ハルモニのためにという点で統一しようじゃないかと言ったけれど、私は「何々のために」という言い方は、私の小さいころ「東洋平和のために」「お国のために」といって侵略をやった。ブッシュも「イラクの大量破壊兵器をなくすためにフセインを倒す」と言って侵略戦争をやった。だから「ために」ということを私は信用しないと言ったのです。私がソロクトをはじめて訪ねたのは、一九九五年、ほんの十一年前であって、ソロクト裁判にかかわるのは、長い間研究者として何も知らなかった、何もしなかったということの自己批判、謝罪の一貫の行為なのだと反論しました。
  この裁判は内容的には戦前の被害の謝罪と賠償を求める裁判です。ソロクトを落とした議員立法を提出した国会議員、行政関係者、司法関係者だけでなく、報道関係者や医療界の責任も問われなければなりません。
  医療の問題でいえば、『未来』四七〇号(05年11月、未来社)に書いたように、ソロクトでも生体実験がおこなわれていたことも、その真相はまったく明らかにされていません。この被害については裁判でも議論されなかった。私は入所者から「ひきつる薬を打たれ、何人も死んだ」という証言を聞いています(『朝鮮ハンセン病史』未来社)。韓国では問題にされていて、八月に韓国のKBSテレビが広島の私の家にこられて取材を受けました。おそらく破傷風のワクチンの人体実験をしたのではないかと思われます。中国での七三一部隊の生体実験が問題になっていますが、日本の多くの医者が生体実験にかかわっている。こんにちの医療が植民地の一番弱い立場の人たちが実験につかわれた、その犠牲のうえに成り立っていることを忘れるわけにはいきません。
  また小鹿島更生園の第五代目園長であった西亀三圭は朝鮮総督府の警務局衛生課課長で朝鮮癩予防令策定にかかわりソロクトを拡張した張本人です。敗戦後、日本に帰って厚生技官として栗生楽泉園の医務課長を勤め、そのあと国立駿河療養所にいっています。こういった戦後責任もまったく問われないところに、この裁判の限界を感じます。
  元ハンセン病患者で指が曲がってしまった方や手や足を切断された方がいらっしゃいますが、これは適切な治療をしリハビリをしておれば治っていたのです。これは治る者を治す努力をしなかった医者や医療関係者の責任です。人間が人間としての扱いをうけていない。生きる権利を保障されていない。いまの高齢者の医療費自己負担や障害者への一部負担の導入や生活保護費の削減といった、非常に過酷な弱い者いじめの政策がいっぽうでなされ、他方、大企業・大金融には膨大な赤字を税金で負担するという政府のやりかたにつうじます。日本の弱者である病人や高齢者は早く死ねといわんばかりの小泉首相の新自由主義政策というものは植民地支配の弱い者切り捨て、強い者救済と同じです。過去の問題が過去の問題ではない。植民地下ソロクトの問題を問うということは、現在の日本の政治のありようを問うということなのです。だから決して他人事ではないし、「被害を受けられた高齢のソロクトのハラボジ、ハルモニのために」ではないのです。

 

 「慰霊と恨霊への祈り」五〇時間の座り込み

  「小鹿島更生園・台湾楽生院ハンセン病被害者」にたいする政府の「救済策」ないし補償法見直しの審議が、〇六年通常国会の厚生労働委員会ではじまる時期にあわせて、衆議院第二議員会館の前の路上で「謝罪と恨霊への祈り」五〇時間の座り込みの集会をおこないます。アジア・太平洋戦争後六〇年たっても、いまだに国家謝罪も賠償もなされていないことについて、日本国の主権者である私たちが政府や国会にそれを許している責任があると思います。なぜ、こんにちまで未解決のまま残したか。私のことでいうと、研究者として国家権力者あるいは民衆にたいして、「大日本帝国」がおこなった「植民地・占領地域におけるハンセン病政策」の被害の事実とその責任の所在を明らかにし、広く知らせることを怠った責任があります。台湾楽生院訴訟で国が控訴したことに抗議して「恥を知れ!」という叫びがあったが、その叫びは、政府につきつけるだけでなく、不作為であった自分自身にもつきつける言葉であったはずです。
  各政党の責任者にソロクト自治会長の「陳情書」を手渡すため国会議員会館をおとずれたとき、数多くの団体や関係者が国会議員会館の前の路上で座り込みをしていました。私も人生において何度か座り込みや徹夜の闘争をした経験があります。私が今からできることは、国会議員会館前の長い壁に、小鹿島更生園に隔離収容され人間としてとうてい耐えることのできない苦痛をあたえられた証拠となる数々の写真パネルを展示し、その前で静かに一人で座り込みをしようと思いたちました。一年中で一番しばれる時期の路上での五〇時間連続すわりこみです。キリスト教徒の蒋さんは神社参拝を拒否してソロクトの監禁室に入れられましたが、厳寒の国会前の座り込みは六十数年前に監禁室にいれられた人たちの百分の一にもならないけれども体験的にそれを理解できる自分の一つの償いだと考えて、いままで何もしなかった私たちの謝罪とたくさんの死んでいった恨みの霊にたいする鎮魂と祈りの静かな座り込みです。「滝尾さんひとりに、座り込みをさすわけにはいかん。私もいっしょに座り込みをしましょう」という方もでてきました。小声で歌をうたいながら、また、語り合いながらの五〇時間にしたい。団体参加ではなく立場をこえて一人ひとりの思いで、できれば国会議員にも座ってもらいたい。一時間でも二時間でも、昼でも夜でも、いっしょに座り込もうではありませんか。

                         (たきお えいじ)

〔これは二〇〇五年一〇月二十一日の大阪でのインタビューを編集部がまとめたものです〕