周防正季(1985〜1942)。京畿道衛生課長から1933年更生園長となる。
報恩感謝の日、銅像前の広場に集められた入所患者の隊列から飛び出してきたひとりに、「オ前ハ患者ニ対シテ余リ無理ナコトヲスルカラ之ヲ貰エ」と刺殺された。


1940年8月20日)周防小鹿島更生園長の「銅像除幕式」を小鹿島更生園・中央広場の丘で開催。前列正面に周防園長、向かって右の和服の女性は夫人である。

 
周防正季より「世界一の療養所を完成」と、政務総監大野緑一郎宛に送った書簡。(クリック拡大)


第14回日本癩学会を小鹿島更生園で開催(1940年9月4日〜5日)。小鹿島更生園長周防正季は日本癩学会会長になり、学会を小鹿島で開催し、更生園の面目を誇示した。(1940年『年報』)

「小鹿島は樂園/患者の天國」(『朝鮮毎日』1940年4月13日)

「救癩の周防延長、患者に刺殺さる」(『大阪朝日新聞』1942年6月25日)

「周防小鹿島更生園長の殉職」(『楓の陰』)

「周防更生園長を悼んで/特殊療養所の急設を望む」(『楓の陰』)

 

西亀三圭第5代園長
戦後、帰国した西亀は厚生技官として、栗生楽泉園の医務課長となり、戦前の朝鮮総督附警務局衛生課長時代、ソロクトの大拡張を行ない、また第5代更生園長となった人物だが、その責任は未だ問われていない。





戦争末期の小鹿島更生園。前列中央に戦闘帽にゲートル姿の西亀三圭園長がいる。

 

 

←「哀悼の追慕碑」
1945年8月21日、西亀三圭園長らに雇用されていた朝鮮人職員らの手により、患者自治委員ら84名が虐殺された。この「哀悼の追慕碑」は、虐殺された84名を追慕する為に、現在の「本館前の場所」に建てられた。下の写真はその除幕式の模様。


 

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