第19話  [ 涙淵 ]

 

 

 

はぁ……はぁ……はぁ……。

「くぁっはっは! 逃げだしやがったぁ!」

声が聞こえる。ノイズ混じりでよく聞き取れない。

だけど、とても耳障り。

はぁ……はぁ……はぁ……。

「おい! ダンテ! こいつ殺す価値ねぇぞぉ、くぁっはっは! 最低野郎だぁ」

わけがわからない。ただ走る、走る、押しつぶされそうな恐怖から逃げる。

はぁ……はぁ……はぁ……。

「って、おいダンテ! どこ行くんだ? あいつ逃げちまうぞ」

「……興味無い……」

「そうかい。んじゃ、サクッと俺っちが殺して任務完了ってかぁ」

……なんだこれは! なんだこれは! なんだこれは!!

うまく走れない……うまく身体が動かない……ただ、ずっとあの笑い声が……追いかけてくる。

「お〜い、待ちなさ〜い。最低く〜ん! くっくっく。おまえ、最愛の人殺されて逃げるってどう思うよ? なぁ?」

うぁ……何を……何を言って……いやだ……こんなのいやだ!!

「つか、止まれよ! うざってぇ〜な〜」

「あうああ!! 来ないで……」

捕まる……あの笑い声に……。

「はい、ここでストーップ! もう逃げられないねぇ……おまえもさっきの花嫁みたいに殺してやるよ」

「はぁ……はぁ……こ……殺す?」

なにを言ってるのか理解できない。ただ、震えが止まらない。

「ん〜? もしかしてこの状況把握できてない?? まじかよ! 目の前で見てただろ〜、クズ人形みたいに潰された最愛の女をよ〜」

「……に……人形?」

……人形? ……あれ? 人形??

「……ん? なんだこいつ?」

「にん……ぎょう……はっ! に、人形!! アスカ!!! アスカぁ!!!!」

壊れたアスカ……消えるアスカ……人形になったアスカ……。

「……おいおい……おまえ……まじかよ、く……くぁっはっはっは! ダンテ! 来てみろよ! こいつおもしれぇ〜ぞ」

「うぁ……ああ……あああ……」

ノイズ塗れで何も見えない……ただ、あの笑い声だけが耳から離れない。

そして全部……消えていく……。

「すげ〜! 人間が、人形になっていく過程を見られるなんてなぁ〜。ほぅ〜こいつ、壊れちまいやがった。くぁっは、はっはっは!」

 

 

 

 

笑い声が……

耳から離れない……。

 

 

 

 

「おああああぁぁぁぁぁあああああああ!!!!」

 

――ガタンッ!

 

「なに!! シンちゃんどうしたの?」

「はぁ……はぁ……はぁ……」

……夢? ……く、吐き気がする。

今の夢は……アスカが……そう、そうだったな……殺されたアスカを見た俺は恐怖で逃げだしたんだったな。

いやなもん思い出しちまった。

そうだ、これが俺の思い出したくない記憶の一つだ。

身体が震えだす……あの笑い声が耳に張り付いて……くそったれ!

「シンジ君! 大丈夫なの!? 一体どうしたのよ」

……ミサトさん? ……すっげー心配させちまってるみたいだな。

心配……させたくない……。

「……ミサトさんに犯される夢を見た」

「ぶはぁ!」

ミサトさんはその場で盛大にずっこけた。

 

 

――――――

 

 

少しずつではあるが、思い出してきた。

やっぱ、ここって異世界なんだろうな。今更だな……。

死んだら別の世界……しかも同じ人物で……だが、こっちの世界の方がおれにとっては心地良い。

まぁ、メンドイ事も多いけどな。

それにしても、強烈だったな。

さっき見た夢……ははっ、震えとまんねぇ……。

アスカと婚約して、で結婚式当日だったな……。突然の爆発。恐らく爆弾だな。

それでアスカは吹っ飛んだ。

…………そう、身体がぐちゃぐちゃになってた……。

ははっ……おれはただそれを見つめていただけだった。

その後だ……あの笑い声の男が現れたのは。

名前は……なんだっけ? たしか……あ……あいん? そう、アイン……そんな名前だったか? 確かゼーレと呼ばれる闇会社の社員……殺し屋の一人だったはずだ。

ゼーレに逆らえる者など居なかった。

奴らは、罪も無い人達も殺しつくしていた。

ただ殺しがしたいから、生きている実感を得るため、金のため、地位のため、快楽のため、それぞれだったが、あまりにも巨大な組織のため、誰も何もできない存在だった。

ゼーレに関わって無事だった奴はいなかった。

奴らが世界を動かしていたといっても過言じゃなかった。

……そうだったな……加持さんが亡くなったのもあいつらのせいだった。

小さな子どもに、大好きなお兄ちゃんを探してほしいと頼まれたんだったな。あの時、おれと加持さんはパートナーで、金のため探偵みたいな事をしていた。

まったく金にならない仕事だった。

断るつもりだったが、子供に甘い加持さんは、その行方不明者を探すことにした。

すぐに分かった。確か、あれはゼーレによるただのお遊びだった。

加持さんは、背後にゼーレがいるとわかり、捜査を本格的に開始。だが、行方不明者はもう亡くなっていた。

それは、ただの見世物。その人の家族や大事な恋人などを攫い、手紙を残す。

とある場所に呼びつけ、同じ境遇の人物と殺し合いをさせる。勝てば大事な人とともに家へ帰すと約束して。

そう、金持ち共の娯楽として賭けの対象にされて。

警察なんて無意味だった。

なんせ、警察のお偉いさん方もそのムカつく娯楽に参加していたからだ。

そこには、子供もいた。ナイフを片手に、自分の殺し合いの時間を黙って待っている少年少女、老人までも。

みんな恐怖で震えていた。

逃げ出す奴らもいた。

だが、逃げられるわけがない。

そして、勝ったとしても、意味がなかった。

この娯楽を楽しむために、その後殺されるんだ。公開処刑という名の遊びとして……。

だから、奪われた大事な人たちも、とっくの昔に殺されている。

再会できる場所は、殺されて同じ場所に……死体を放置する穴の中に捨てられた時。

そう、普通に暮らしていただけだったのに、ただ不運だっただけ……たまたま奴らに捕まってしまっただけ。

それで、すべてを失う。

加持さんを頼って依頼してきた少女は、本来なら殺されていたんだ。

代わりに加持さんが死んだだけ。

おれは、コッソリあとをつけた。

よく逃げ切れたもんだと思う。

そして、逃げるためにたくさんの命を奪ったんだ。

ああ……覚えてる。覚えてるよ。胸糞悪いあいつらを!!!

誰も救えなかった……。なにも出来なかった……。そして、依頼主の少女にウソをついた。

君のお兄ちゃんは、大好きな人と駆け落ちしたんだよって。

あの時の少女の涙は、俺の胸を深くえぐった。

ああ、こんなにもおれは無力だ……。

そんな、ムカつく集団……ゼーレ……。

それに命を狙われてしまったおれ……。

そのために殺されてしまったアスカ……。

そう、奴は……アスカの顔を……。

グッ……吐きそうになる。奴の足で踏み潰れていくアスカの顔……その時に飛び出した目玉……それが右目か左目かどっちなのか、それを考えてたおれ……。

そうだ……あのときおれは、その状況を受け入れられなかったんだ。

まるで映画でも見てるような、非現実的な……ありえない状況を、ただボーっと見つめていた。

気が付くと、おれは大声で叫びだして……逃げ出したんだ。

そこにあったのは、ただ恐怖だけ。

殺された憎しみもなく、悲しみもなく、ただ恐怖で逃げた。

それがおれは許せない!

こぶしに力が入る。

それがおれは情けない!

奥歯を力いっぱい噛みしめる。

そしておれは……ぶっ壊れたんだ。

 

はははっ……きっついな……バカなことでも考えてさっさと気を持ち直したい所だが……さすがに厳しい。

そういや、あの後なんでおれ助かったんだっけ?

気づいたら、加持さんがいた。

加持さんが助けてくれたんだっけ? ……ああ、そこは覚えてねぇや……。

ふー……汗でびっしょりだな……。

おれは色々思いふけった後、シャワーで汗を流しネルフへ向かった。

 

 

――――――

 

 

「おい、また学校サボりか?」

「……おっさんか……今日は親父の一回忌だ」

「……そうか」

むしゃくしゃしていたおれは身体を動かすために訓練場にいた。

そこでおっさん……井上さんが声をかけてきた。

「んで、どうだ調子は」

「ん……どうかな……なかなか難しいね」

「左腕……ね。随分動きがチグハグだな」

「わかってんなら聞くなよ……どうにか左腕なしでも戦えるようにならなきゃいけねぇってのに」

「イラついてるな」

「……このままだとエヴァ乗って戦ったら、バレるな……」

「そうだな……シンジ。左腕を鞭のように使ってみろ」

「……なるほどね……って、かなり難しいなコレ!」

左腕を鞭のようにしならせてサンドバックを叩く。

だが、一発撃てばスキが出来る……微妙だ。

「左腕に振り回されてるからだろ?」

「んあ? ……そう言うことね」

体重移動を高速で繰り返した。

これなら……練習を積めばいけるかも……。

そう考えた時だった。

――ポキッ

「あ……」

左腕が折れました。

いや、そりゃそうだよな……無理やり身体の体重移動で左腕を振り回し向きを変え、それを繰り返したんだ。

「……左手変な方向にプラプラしててキモいな」

「……すまんなシンジ……」

 

 

――――――

 

 

左腕は訓練中の事故で骨折ってな感じで、現在三角頭巾で押さえている。

これで少しの時間は誤魔化せれるっぽいと思ったが、最悪な結果が待っていた。

「リツコさんに相談……だな……」

それにしても、この状態で使徒が来たらヤバいかもな。

おれは左腕使えない。

アスカは五体満足であるが、弐号機は前回の戦闘でやられた左腕の修復が間に合ってない。

零号機は前々回の戦闘で機体がボロボロ。盾がもたなくて数秒まともに食らったからな。

おれは知らぬ間に使ったA.T.フィールドで大丈夫だったっぽいけど。

あれ、マジやばくね?

変な記憶で悩まされるし、今後もきっついし……いくらおれでも暗くなっちまうな。

また寝たら夢……あの悪夢を見ちまうんだろうか?

 

くそ! くそくそくそ!!

 

思い出さないようにしてんのに、ついその記憶が頭をよぎる。

そうだ、あの笑い声……ずっと響き続けてるんだ。

馬鹿なことでも考えよう……汗を流して忘れよう……ああ、何やっても無駄だってわかった。

苛立ちがおさまらない! 恐怖で叫びだしたい!

あんなの思い出したくなかった!

あんな無様な……。

もう嫌だ……これ以上何も思いだしたくない! 思い出すたびに、おれは弱くなっていく。

こんなんじゃ、誰も守れない!

くっ、だめだ……どんどん鮮明になっていく……底なし沼にどんどん沈んでいくように。

そうだ! アスカ……アスカの事を考えよう。

アスカ!!

……くっ、何でだよ!! あのビジョンが……フラッシュバックしやがる!!

くそったれ! 馬鹿なことでも考えて、気持ち落ち着かせねぇと……そうだ、いつものように。

焦り出す……どんどん頭が犯されていく。

さっきまでは、まだ余裕があったのに、どんどん記憶がリアルになっていく。

アスカ……アスカは……どこだ?

耐えきれない……これ以上は……。

 

「……アスカ……アスカに……会いたい……」

 

おれはその場から飛び出し学校へ向かった。

ただアスカに会いたい一心で、全速力で走りだした。

 

 

 

――――――

 

 

 

「はぁ……はぁ……はぁ……」

学校は丁度授業が終わった頃だった。

下校する生徒がちらほらと増えていく。

おれは校門前で、アスカを待っていた。

おれが、こんなに恐怖を感じるなんて……いや、綾波がやられそうになった時も感じたっけ?

でも、あの時とはまた違った恐怖。

ここまでおれは弱かったんだな。また身体が震えだしてきた。こんなおれ、ムカつくほど嫌なのに!

吐き気が止まらない。気が狂いそうになってきた。

ははっ……忘れる事が出来るなら、忘れてしまいたい。

今まで、アスカが亡くなった事に、ここまで辛さを感じちゃいなかった。

今思えば、どこか他人事のような、そんな感じ。

それは、自己防衛……おれの心が自分を守るために記憶を奥底にしまいこんだ。

何重にも鍵をかけて……。

そしておれは、別人になった。

シンジという名の、まったく違う人。

しまいこんだ記憶は、記録として変換されていく。

今後、過去の事実を知っても、自身が絶望せず、生きていくため。

たとえ、それが漏れ出しても、自身を保てるように、おれは人間の感情1つを捨て去った。

そう、自ら自身を守るために壊れたんだ。

そのため現実感を失った記録となっていった。精神を保つために。

だが、今回その記録が多大に漏れはじめ、パンクしてしまい、記録から記憶へ……元に戻っていった。

ああ、切欠はなんだろう?

アスカに出会ったから?

違う気がする……。

この世界に来てしまったから?

ああ、そういや、この世界に来てから変な夢を見る事が多くなった気がする。

だが、それは全て記録としてだった気がする。

じゃぁ、なんだ? 何が原因なんだ?

……。

もしかして…………アダム?

――ドクンッ!

クッ!

また、心臓が飛び跳ねる。

何かが暴れだしそうな……おれという存在が保てなくなるような……。

嫌だ!!! やめろ! やめろよ!! これ以上何も思いだしたくない!!

思い出したら……きっとおれは……。

 

「シンジ!! アンタ学校サボって何やってるのよ!」

 

「……え?」

 

なんだって言うんだよ。

闇に染まっていくような感覚が、たった一人の声を聞いただけで晴れ渡っていくような感じ。

は……ははっ……アスカだ……アスカ、アスカ! アスカ!!

「シンジ? アンタ……その左腕どうしたのよ?」

「え? ……ああ、訓練中に……折っちまった」

「ちょ! シンジ、何無茶してるのよ! 大丈夫なの? ねえ、アンタ、一体どうしてそんな……」

アスカはとても心配そうにおれを見る。

それが、とても嬉しくて、心地よくて、悪い気がする。

「あ、別に心配してるわけじゃないのよ! そ、そうよ! 今使徒が来たらどうするの? ファーストの機体は使えないし、私の弐号機も左腕が……」

「…………アスカ?」

「……左腕? ……あれ? シンジ……それって……」

やばい……気付かれてる? 鋭いやつだな……。

「アスカ!」

「へっ! な、何よ」

誤魔化せ……誤魔化す……誤魔化す? どうやってだ? だめだ、今の状態じゃ何も思い浮かばない。

何も考えれない……ああ、冗談一つすらも言えない。

あの笑い声が耳から離れない限り……おれは……。

「ちょっと、どうしたのよ? 変なシンジね……ちょっときもちわるいわよ?」

 

……きもちわるい?

 

――ドクンッ!

 

あ……あぁ……。

きもちわるい

嫌だ!

きもちわるい

それだけは嫌だ!

きもちわるい

やめてくれよ! それだけは思い出したくないんだ!

きもちわるい

壊れる……壊れてしまう……うあぁ……あうあぅ……アスカ……。

 

――ドクンッ!

 

――このまま終わる気か?

……誰……だ?

――おいおい、知ってるだろ?

うるさい……黙れよ。

――おまえはいずれ全てを思い出す。

黙れ! 殺す……殺すぞ!

――それは夢じゃない。あの世界だって夢じゃないんだよ。

あれが……夢じゃないだと! ふざけるな! あんな絶望の……。

――その知ってた世界は、現実だ。

う……ちが……違う!! 違う!!!!

――もう一度聞く……大事な人たちを守るんだろう?

まも……る? ……アスカ……アスカ……アスカに、会いたいよ……。

――……ははっ! お前がアスカをね……なぜアスカに会いたいんだ?

あ? 何を言っている!

――守る……おまえはなぜ守る? おまえという存在が、なぜ守りたいと願う?

うるさい! おれの大事な奴らを、アスカを二度と失いたくないから……失いたくないんだよ!!

――……お前が人を好きになるとはな……まぁいい……ここで終られると俺にとっても困るからな……ただ、お前は勘違いをしているよ。

勘違いだと? クッ! 何を言って……おれは、おまえなんだろ? 意味がわかんねぇよ!

――ああ、そうだったな……ほら、目の前に……いるだろ? お前の大事なお姫様が……ははっ!

 

「あ……アスカ……」

「シンジ……アンタ……泣いて……」

あっ、おれは……今、アスカの目の前に……。

アスカがいる。生きている。目の前で喋って、動いて、おれの前にいる。

おれはゆっくりとアスカに近づいていく。

確かめるように……アスカの存在を確かめたいから。

そして、おれはアスカを抱きしめた。

「ちょ! シンジ! アンタ何をっ」

一瞬抵抗を見せるアスカ、でもおれは強く抱きしめる。

残された右腕で、強く強く、その存在を確かめるために、温もりを感じるために。

「アスカ……すまない……少しだけ、少しだけで良いから……うっ、このままで……」

「……シンジ…………うん……いいよ」

今おれは理解した。

これが本当の再会だったんだと。

今日、やっと初めてアスカに出会えた……アスカに逢えた。

アスカもおれを抱きしめてくれた。アスカの匂い、温もり、柔らかさ、心臓の鼓動、その全てがおれを包み込む。

おれは泣いた。

やっと出会えた、探していた、求めていた、そう、この温もりに再び触れられた事に、歓喜した。

耳から離れなかった、あの笑い声が遠ざかる。

下校中の生徒が遠目でおれたちを見つめる中、アスカとおれは長い時間抱きしめあった。

そんな中、綾波が悲しそうにこちらを見つめていた。