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IRIDESCENT BUBBLE


 腕まくりをすると花は腹立ち紛れにシャワーを掴み、浴槽に向けて勢いよくコックを開いた。 落ちる水滴の端から泡が湧き出して、湯煙と共にお気に入りの柑橘の香りが匂い立つ。 バスルームに充満していく香りは蒸気にやわらいで鼻腔に広がる温かさが花の心を少し落ち着かせた。
 テツはその生来の鈍さ、言い換えれば無神経さでもって花を傷付けることがあった。 どんなときでも故意にされることはなかったが、 意図的でなければいいのかと当然そういうわけはなく、花が激怒することも度々だった。
 ぼんやりと服を着たまま座り込み泡立つ白を眺める内に、ささくれだった心はおとなしくなり今度は段々と重い泣きそうな気分になった。 カッと血の上るまま口を衝いて出る言葉は明らかに悪意を込められたもので、 テツとは違い、花は人を傷つける術を知る人間だった。たやすくそれを行える人間であった。
 『ごめん』
ごめんと一言、いつもテツはそう謝るだけだ。 自分が悪いのだから、と頑なに謝る。しかし、傷付けられたら傷付けてもいいだなんて、そんなことはない。逆に、花が不用意に放った言葉にテツが怒っても咎めはするが故意に傷付けるような真似は絶対にしない。頭が冷えた頃にはそういったことを考え出して、いつも自己嫌悪に陥る。苛立たしさに任せ大量に入れたバスフォームはやはり多かったようで白い泡を常より盛大に作り出していた。左手を湯につけて、花は目を閉じる。
 テツは今頃実家に着いただろうか。話の最中ではあったが、親戚の三回忌に出向けるのがテツしかいないと判ると渋々承諾して携帯を切った。本当は兄である由希が行くはずだったところ会社の急用で行けなくなったらしい。また、と話の続きを匂わせて、テツは背を向けた。俯いて靴を履く背中にどうしようもなく喚きたくなった。子供のようにわあわあ泣いてしまいたくなる。待ってと縋りたいのか馬鹿と罵りたいのか判らない。ただただ背を向けられるのが耐えられなかった。
 テツも自分を罵ってくれればよいと思う。花を傷付ければいい、と。その牙を持たないテツだからこそ花の気持ちはどうしようもなく攫われたというのに凶悪な外見に反した善良さが赦せないと矛盾する。自分の醜さが浮き彫りにされる。
 当然のように八つ当たりはテツの兄に向いた。二人が初めて会ったのは高校生のとき、父同士が意気投合し冗談のような見合いを行ったのがちょうど梅雨の季節だった。和室は雨音によって喧騒が遮られ隔離された空間であった。
 お互いに一目でわかった。同類だという嫌悪とともに、奥底で共犯者を見つけた暗い歓びが湧き上がったのも、花一人ではなかった。わかり合える。そんな下らない連帯感のようなものが身体の片隅に住み着いた。だからこそ、必要なとき以外は関わらなかった。由希の方はどうか知らないが、押し込められたものを増幅させるつもりは花にはなかったのだ。
 テツを、大切にしていた弟を同類の花へと紹介したのは由希のなけなしの同情であったと花は思っている。本当ならば絶対に会わせるつもりはなかったはずだ。同じく善良な娘と家庭でも築いてそのまま行けばよいと考えていたはずである。それを覆したのは、鏡のような存在が最後の鎖までも失ったことに多少なりとも同情したのだと認識している。 父という鎖を失いどこまでも落ちてゆける花に差し出された枷かせ である。 やわらかい真綿のような。
 「ふ、…っ」
嗚咽が洩れて花は口を抑える。ぼろぼろと涙が落ちる。テツの前で泣けるなら、それはすべてを流し去る浄化となるのに、今は、ただ苦くなるだけの涙が喉の奥で詰まる。テツの濡れて黒々とする眼球が見たい。ぎゅうと抱きつきたい。それだけでいい。安心する。
 二人になって、孤独は一人のときよりも深みを増した。苦しさは増した。
 傍にいられないとき、喧嘩したとき、わかり合えないとき。
 なんて哀しい。
 それでも、となりにいられるなら。理解されないことが哀しいなんて思わない。通じ合えないことを惜しく思わない。だから、だからだから。はやく戻ってこい、と、花は。ぬるい湯の中で。



END.
2004/01/21
改稿 2004/11/08

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