不思議だよな、ずっと、一人だけ、俺ん中に大きな人が居て。
私にはもちろん、大きな人、が、大切な人、と同義であることは判った。
一人だけって、ものすごく世界が狭い気がしねぇ?
同意を求められたので私はとりあえず相槌を打った。
でも、でもさ。
少年は言葉足らずで、でも、と繰り返す。今よりずっと広かった、どうしてかな?
私には久しく大きな人とやらは居なかった。
もしかしたら、存在したことさえ無かったのかもしれない。判るわけが無かった。
ゴウ、と音が鳴った。
マフラーのない車が何台か通り過ぎて行き、
彼はそれを酷く餓えた眼で睨した。
ねえイチ。
私は名を呼んだ。
合わないよ。帰りなよ。
主語も補語も省いて述語だけだったが、彼は理解したようだった。
帰る、かえる。彼は何度か呟いたが それは問いではなく、私は黙したままだった。
山に。
山に?
よく行ったんだよ。
深くまで行って、人なんか全く居ない。
小さなテント張ってさ。
私は誰と、とは訊かなかった。
想像した。
今よりも幼いイチが、深い深い山の中に居た。
当然、私はそんな深い山になど行ったことが無い。
脳裏に浮かんだのはテレビででも観た風景だろう。
真っ暗なんだよ。街の消えることのない光を前にして、イチは確かに暗闇を見ていて、
私も目を凝らした。
けれど、イチの視界は私には見えなかった。…音が。しないの?いんや、するんだよ。
彼はコンクリートの足に目を遣った。
スニーカーは使い込まれていたが、無闇に履き潰したりはしていないのだろう、
踵の形は崩れていない。
流れてるから。
風が、水が。
だから、音は途切れることが無いんだ。
私は、必死に探す彼が酷く哀れだった。類似した喧騒の夜街に面影を探す彼が。
この街には居ないよ。
この闇には居ないんだよ。その言葉を呑んだ。
ここだけでなく、もうどこにもいないからだ。
イチは成長期の脚を折り畳む。
その伸びかけの骨はきしりきしりと音を立てるのだろう。
彼の心が、大きな人を呼ぶように。