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ハイパーシンデレラ



 中学教師になって、ちょうど一年が過ぎようとしていた。
 中学生は女の子も男の子も生意気盛りで、必死に背伸びをしながらも成長している。自分も同じような時期があったと思うと、妙にくすぐったい。
 「あー! 先生、髪切った〜?」
手に持ったプリントを読むわけでもなく眺めていると、元気よく扉が開いて、 数人の女の子たちが入ってきた。学校指定のコートを着て、せめてものオシャレと色とりどりのマフラーをしている。
「かわいい〜〜」
「なんか違う、イメチェン?」
「失恋だぁー!」
きゃあきゃあと騒ぎ立てる生徒たちに半ば感嘆しながら、席に座るよう促す。
「はい、英語で言ってみましょう?」
ニッコリ言うと途端に黙った。
 一応、英語教師なので、英会話クラブの顧問になってしまい、放課後はこうして生徒たちと過ごす。この年頃で英語に興味を示すのはやはり女の子が多く教室はいつも華やかに騒がしい。
「ゆーあーべりーきゅーと!」
「ソーナイス!」
簡単な単語がつらつらと続く。 きゃっきゃと笑う彼女達を眺めていると、女の子がキラキラと眩しい時期というものが確かにあるんだなぁと感心してしまう。自分が、もう二度と戻れない時代だ。

 だからといって、大人の女か、というと、それもまた違う。

 つい先日兄の結婚式が行われ、兄嫁やその友人達に紹介された。社会にしっかりと立っている女性たちは自身への信頼に裏打ちされた美しさがあって、私は自分がひどく小さな取るに足らない存在に思えた。
 彼女たちに比べて女として胸を張れるわけでもなく、だからといって生徒たちのように若いと厚顔になれる歳でもない。
 そういう狭間にいる。

 ここ数日陰鬱になっている気分を払うように頭を振ると、生徒たちが窓に張り付いていることに気がついた。
「良太先輩だっ」
「ホントだ〜!ほらノリちゃん!」
数人が窓の下に広がる校庭を覗き込んで興奮した声を上げた。 陽が傾いてうっすらと赤くなった校庭には元気な運動部が走ったり跳ねたり、それぞれの競技の練習をしている。 サッカーゴールの近くにひょこひょこと毛先だけが金色の針頭が見えた。
 ノリちゃんこと茅原典子( かやはらのりこ ) は静かな大人しい文学少女で、サッカー部2年の先輩に恋していることはクラブ内では有名な話だった。 話題に出てくるので、私も窓から見える小さな姿だけは認識していた。

 『ああ、息子が通っている学校ですね』
『え!?』
マスターが微笑みながら告げた言葉に、私は驚いて大声を出した。
 兄に教えてもらってから私のお気に入りとなったそのバーのマスターは、口数も少なく穏やかな人で、その日は雰囲気を楽しみに来ているだろう初老の男性が一人いるのみだった。 兄よりも年下のように見える彼は、とてもではないが中学生の息子がいるようには思えなかった。
『・・・ちゅ、中等部、の?』
『はい、実は』
いくつのときの子供ですか、とは下世話な好奇心まる出しで訊くことはできない。 だからといってマスターに歳を尋ねることも同様で、マスターに好印象を与えようとしている私は余計な疑問は胸に仕舞った。そうして聞いた『良太』という名前は、幾度となく放課後の教室で呼ばれていた名前でもあった。
 寒い冬空のした半袖で走り回るサッカー部の頭を見下ろしながら、私はマスターの息子である良太の存在を初めて知ったときのことを思い出した。
 エスカレーターで中等部から高等部まで上がれるこの私立は、高校から受験すると途端に偏差値が跳ね上がり、名の知れた大学まで附属しているので本人の希望というより先を見据えた親が入学させることが多い。
 (まさか、マスターもその一人だとは。)
あまり教育パパとは思えないので、奥さんがそうなのだろうかと私は推測した。そのことも当然ながら訊く内容ではないので黙っていたけれど。

 どの学年でも有名人はいるもので良太の学年の場合、同じサッカー部のキャプテンがその中の一人だった。良太自身はたまたま英会話クラブの中にファンがいたというだけで、いたって普通の生徒だ。
 「センセー」
変声期を終えたばかりの掠れた中低音が、階段の上から降ってきた。反射的に顔を上げる。しかし窓からの日差しは眩く、光を背に立つ少年の判別はできなかった。
「忘れもの」
少年はひらひらと桜色のハンカチを振りながら階段を下りてくる。
「はい」
手渡されてようやく少年がマスターの息子の、良太であるということに気がついた。いつもその頭頂部ばかり見ていて、彼本人の顔を真正面から眺めるのは結婚式で挨拶したとき以来2度目のことだったのだ。
 良太の母が兄の結婚相手である明衣さんの友人だということで、良太も結婚式に出席していた。お前の学校の先生だよとマスターに紹介されて、こんにちはとその年頃の少年らしく少々はにかんだ笑顔を見せた。
 「先生?」
私よりも大きい彼を見ると、やはりマスターの息子とは想像がつかない。 自分の顔をじっと見つめる教師に、訝しげに眉をよせて良太が呼んだ。
「あ…、ありがとう」
慌てて礼をいって受け取る。 実をいうとハンカチを忘れたことにも気がついてなかった。
「お父さんにお礼を言っておいてね」
「面倒だから自分で伝えてください」
私が驚いた顔を向けると、ニヤと悪戯っ子のような表情を浮かべた。
「今度店に行ったときにでも言ってやって下さい。今度きたとき渡せばー?って言ったんですけどね、センセーは忘れたことにも気がついてないんじゃないかって、萩さんが言って」
「お兄ちゃんが?」
思わず訊き返してしまった。その間抜けな声に、良太はキョトンと一瞬 目を大きくすると、
「ぶっ」
と噴き出して爆笑しはじめた。カッと顔が赤くなるのがわかる。
(『お兄ちゃん』って! いい年した女が! 教師が!)
耳まで赤くしながら自己嫌悪に陥った。 ゲラゲラと笑う良太に、階段を行く生徒たちが振り返っていく。
「・・・ちょっと」
「は、はい?」
「笑いすぎ」
「はい。・・・ぶっ!」
なにやら良太の笑いのツボに入ってしまったようだ。
「…じゃ!ありがとう!」
とうていお礼をいっているとは思えない刺々しい声で話を終わりにして、その場を離れようと背を向ける。
「センセ、本当に気がついてなかったでしょ」
良太が訊く。
 本当のことをいうと更に大笑いされそうで、嘘をつこうかと瞬間、口篭った。
「やっぱり」
しかしその沈黙を正確にとらえて、良太はまた笑い出す。
「・・・授業が始まりますよ」
「ハイハイ」
顔に笑いを貼り付けたまま、返事をした。今さら先生面したところで、もう彼の中では『萩さんの妹』だ。
「じゃーね、センセイ」
ひら、と身を翻して、階段を上がっていく。タン、タン、と軽く二段飛ばしで駆けていく後姿は、やはり逆光で掠れて見えた。

 それ以来、彼は人の顔をみると笑い出すという大変失礼な生徒である。

 その春、私が教師になって二回目の春にサッカー部の補講をすることになったのは、彼らの成績が悪かったわけではなく、彼らが関東大会に進んで受けられなかった分を取り戻すためだった。
 「・・・ぶ」
教室に入った途端に噴き出す失礼な生徒が一名。
 良太はどうやら兄と仲が良いらしく、その会話に出てくる小学生の私と、校内での私の失敗談とをミックスして、私の顔を見ると笑い出すという条件反射が出来上がっているらしい。
(まったくマスターとは似ても似つかない)
穏やかに微笑む父親の爪の垢でも煎じて飲めばいい、と私は思った。
 それでも良太は真面目に教科書を広げ、次の練習のことを考えていたり舟をこいでいる他のメンバーを余所目にノートを取っていた。
 「センセー」
「忘れ物はしてないわよっ」
また笑われる材料を提供しないよう、教室を出るときによく確認してきたのだ。ムカムカと 思い出しているところに声を掛けられて、つい大きな声が出てしまった。 振り返ると、きょとん、とした顔が、また。
「・・・ちが、補講のことで・・・ぶっ!あははは!」
手にした補講のプリントに皺ができるのも構わず、良太は腹を抱えて大笑いした。
 またやってしまった・・・。私のほうは頭を抱えたくなった。だいたい、笑いを含んだ呼び方がいけない。ムキになって反応してしまうではないか。
「やっぱ面白いなーセンセイ」
人懐こい笑顔を浮かべて良太がいう。
「日向みたい」
「ヒナタって…」
「妹」
「ってまだ一歳にもなってない妹じゃない!」
結婚式でマスターに抱かれていた赤ちゃんを思い出す。
「言葉を覚えてきて最近なまいきなんですよね〜。りょーって呼び捨てですよ。しかも発音ヘンだし。ろーって聞こえる」
「充分でしょ」
人の顔をみて笑い出すような輩にはそれで充分だ。
「センセイ、最後の補講、入学式の日ですよね。ズラせません?」
「え?授業ないでしょう?」
私も一年生は担当しないからその時間は空いているのだ。
「いや、新入部員獲得のチャンスなんで」
「ああ…」
なるほど。入学式に向かう新入生たちに部活の勧誘するのはよく見られる光景だ。 「関東大会もいいとこまで行ったし、結構入ってくるんじゃないかと思ってるんですよね」
お願いします、と頭を下げる良太に、私は他の日にずらすことを同意した。
「たくさん入るといいね」
「はい」
にっこりと笑う。感情の素直な子なのだと思った。

 「桜が…」

 良太が開いた窓の外を見る。
 二階まで伸びた枝が花びらを風で運び、廊下にひらひらと飛んできていた。春休みなので、校舎の中にはほとんど人気がない。
「入学式まで持つかしら…」
今年の桜は開花が早かった。雨など降って散ってしまわなければいいけれど。 新入生の仮入部に、クラブでお花見を開いたりすることも知っている。 去年は新しい顧問だということで私も2,3年の子たちに近くの公園に連れて行かれたのだ。
「…持つといいな…」
穏やかな、やさしい声に良太を見る。
 彼は眩しいものをながめるように目を細め、穏やかに微笑んでいた。


 マスターに、似ていた。


 「あ…」
表情が、あまりに近くて彼の父親とその姿が被った。
「なに?センセ」
良太がいつも通りの顔で私に向き直る。さっきの大人びた様子は錯覚かと思うほど無垢な少年の顔だ。
「あ、ええと…」
顔の造作に似たところは何もない。それでも、やはり親子なのだと思った。 淡い桃色を背に立つ少年は同じ穏やかな空気を持っている。
「…マスターに似てると思って…」

 とたん、良太の顔が奇妙に歪んだ。

 「…それは、どうも」
とりあえず口角を上げただけの作り笑顔。 感情に素直な表情しか見たことのなかった私には、ひどく異常に映った。 さきほどの穏やかな顔よりも違和感を覚えた。

 じゃ、と去る後姿を見守る。
 「おー、サッカー部『良太センパイ』」
「カシ先生…」
後ろから女性には珍しいハスキーボイスが掛けられた。 同じく英会話クラブの顧問の先生だ。 無造作に髪を後ろで一つに括って、中性的な30代の女性。 ヘビースモーカーで喉をつぶしたと言っていた。
「茅原も見る目あるねえ」
「え?」
辛口なカシ先生には珍しい評価で、問い掛けるように訊き返してしまった。
「ああゆうのが将来 女を狂わす男になるんだ」
「ええ?」
あまりに似合わない言葉で訝しく眉がよってしまった。
「なーんて冗談だけど。ま、いい男になりそうかなっと」
「そうですかぁ〜?」
馬鹿笑いする良太を思い浮かべる。とてもそうとは思えない。
 いま現在『いい男』と呼ばれる兄の萩は、昔からその片鱗があった。
 十ちかく歳の離れた兄には、いつも煌びやかな形容詞がついていた。周りはいつも言っていた。出来の良い。格好よく。感じのいい。万能の。
 毎年のバレンタインでーには山ほどチョコを持って帰ってきたし、それだけでは飽き足らずに郵便物でも来ているほどだった。母の話では小学校のときは女の子が集団で押しかけてきたらしい。卒業式のときも抱えきれない花束をもらって、家の花瓶に入りきらないからと隣に住んでいるおばあさんにあげて『内緒ですよ?』と笑顔で悩殺した経歴まである。
 仕事をやめて友人と事業を起こす、といったとき父は激怒したが、私はなんとなく、兄なら出来るだろうと思った。いつもそうだったし、実際に、兄は忙しそうにしていたが仕事をこなしていった。
 性別が同じで年齢が近かったならば、それはコンプレックスになったのだろう。しかし、私には兄とはそういうものだという程度の認識にしかならなかった。

 「あはは、藍ちゃんは男を見る目が厳しそうだからなあ」
カシ先生は笑う。彼女にはどうも妹のように思われている。私のほうも色々教えてくれるカシ先生に頼っているところもあった。
「イイコだけど、ちょーっと癖がある。奥は深そうだ」
面白がっている声音だった。男らしい性格のせいもあるのか、生徒の相談役によくなっているカシ先生は、人をよく観察している。ときどきドキリとするほど鋭い。 先ほどの良太の顔を思い出して、なぜか指先が冷えた。

 それから春にしては寒い日が続き、徐々に蕾をひらいていく桜は、ちょうど入学式に合わせて満開となりそうだった。

 「びしっと大人っぽくしてよ」
真面目くさって、どうなさいますかと訊いた美容師に、私は言った。
「オトナぁ?」
私の注文に従兄の顔に戻った賢司は、不審な声で繰り返した。
「今どきの女の子って、みんなオシャレにしてるでしょ? 負けてられないじゃない?」
「・・・とかいって、生徒になめられてるんだろ」
さすが従兄、するどいツッコミにうっと詰まった。
 そうなのだ。ちょっとしたポカをよくやらかす私は、すっかり生徒に「あいちゃん」などと呼ばれる人気(?)教師になってしまっていた。
「いいじゃねえか。もう、そういうキャラでいけよ」
「い・や。 大人の女がいい」
「外見だけ整えたって中身が子供じゃなぁ」
「ケーンージ〜〜」
客に対してなっていない態度の賢司を鏡越しに睨みつける。賢司はまったく無視して、こちらへどうぞ〜と洗髪台へ向かってしまった。
 友人たちの頭で交代しながら鍛えたという、賢司の洗髪の腕はとてもよい。気持ちよくて眠ってしまったこともある。
「あ〜〜。やっぱいいわー」
顔を覆う白い布越しに声をもらす。
「おかゆいトコロはありませんかー?」
「毎日してほしい〜」
「勘弁してくれ」
賢司がいつもの私の台詞に嫌そうな声を返す。
 高校生のとき、この心地よさを毎日味わおうと頭にふれる指の動きを覚えたこともあった。指を垂直に。スピードをつけてリズムよく端から。しかし自分でするようになって、気持ちよさの半分は他人に洗ってもらうことにあると気づいた。
 「仕事はいいけど、オトコはどうなんだよ? モテる髪型にしてやろーか」
「だって出会いがないもん」
毎日の生活で会うのは学校の先生方と生徒たちだけ。
「萩兄も結婚したってのにさぁ。自分から積極的に動けよな」
「忙しいの」
「さいですか」
呆れた声で賢司はやれやれとまた毛先を切ることに集中した。
 まったく、自分の結婚生活が上手くいっているからって。3つ年上の賢司はすでに一児の父だった。
 そういえば、と思う。以前つきあっていた男はどうしているだろうか。あまり良い別れ方ともいえなかったので、全く連絡もしていない。大学時代から付き合っていた男は 就職してから余裕がなくなり、愚痴ばかりこぼすようになった。 こちらも仕事を始めたばかりで構っている気力もなく、会えば喧嘩で、別れもその延長のようなものだった。
 今、どうしているのだろう。仕事は上手くいっているのだろうか。

 そんなことを考えていると、賢司が手を止めた。
「お前さ〜」
間延びした声を出す。 鏡に映る賢司の顔にちらと目を向けると、彼は目線を私の後頭部に移したままである。 ふざけたような呼びかけだったが、真剣な話の前兆だ知っていたので、黙って先を待った。
「お前、『王子様願望』が強すぎるんだよ」
「はあ?」
何をいっているんだろう。
「王子様って…なにソレ」
夢見る少女のようにいわれて腹が立った。 現実的ではないといいたいのか。
「別に、いつか王子様が…なんて考えて恋人探してないワケじゃないわよ?」
ただでさえいつも子供っぽいといわれているというのに、さらに馬鹿にされているような気がする。
「いや、そういうことじゃなくてさ…」
言いかた難しいな、と賢司が口ごもる。
「ブラコン」
「はァ!?」
それこそ心外だ。兄のような扱いにくい男なんて願い下げだ。私の好みはどちらかというと、マスターのように穏やかで話しやすく、心地のいい人。
「あーそうじゃなくて…」
賢司は上手く表現できず苛立たしげに掌をエプロンの前掛けで擦った。
「なんなのよもう」
「だからぁ」

 「萩兄を、最低基準にしてるだろ?」

 そういわれて、ようやく思い至ることがあった。



 「センセイ、親父がいい酒が入ったって言ってましたよー」
渡り廊下を歩いていると、良太が中庭から手を振ってきた。部活のジャージを着て、これからグラウンドに向かうところらしい。
「幻の酒、とか言ってましたけど」
「え!ほんと!」
思わず声が上ずってしまった。
「うわ、すげえ嬉しそう」
ぶひゃひゃと下品な笑い声をあげる。 あのおかしな態度のあと、良太の様子も変わるかと思っていたが、全然変化なく、むしろ人懐っこく近づいてくる。
「センセイ、萩さんより強いんだってね」
「…うー、まぁ…」
たぶん大抵の人より強い。
「まさか『あいちゃん先生』が酒豪だなんて、誰も思わないだろうなー」
ミルクとか飲んでそうだよねーとからかう。
「…むかつくわ、そのニヤニヤ顔…」
「あはは」
笑う良太をペシッと出席簿で叩くと、暴力教師はんたーいとグラウンドに走っていってしまった。
「まったく、もう…」
ざあ、と風が吹き、中庭の葉桜がゆれた。花の名残などどこにもない、濃い緑の葉桜。花びらとともに見た良太の顔も、幻のように思った。


 その日は、賢司が噂のマスターに会いたい、とメールをしてきたので、駅で待ち合わせて店に向かった。日が伸びたとはいえ、残業を終えて辺りはもう真っ暗になっていた。 街は、会社帰りの人々や塾帰りの高校生などで混雑している。
「寒い!夜はまだ冷えるなあ〜」
賢司は身体を縮込ませてジャケットの前を合わせた。賢司のガリガリと細い身体は贅肉など無縁で、だから寒いんじゃないのかと憎たらしく思う。
「肉が少ないからでしょ」
「いうなよ」
本人は本人で、筋肉のつきにくい身体を気にしているらしい。萩兄は身長もあっていいよなぁとよく零していた。
 冬の間、あちこちの並木にあったネオンは片付けられ、今は看板のライトやビルから漏れてくる明かりが道を不規則に照らしている。しばらく歩くうちに、賢司がピタと立ち止まった。
「…で、ところで」
くるり、と賢司が背後を振り返る。

 「あの子、お前の知り合い?」

 指差された先にいたのは。
「ノリちゃん?」
人込みの中、紺のセーラー姿をした生徒が見えた。街灯の下に所在なくキョロキョロして私たち二人を探している。英会話クラブの茅原典子だ。振り返って見られているのに気がついてギョッと立ち止まった。
「ずっと後つけてきてたぞ」
賢司が呑気に言うのを無視して、駆け寄る。 彼女の家は学校から徒歩で通える距離にあり、ここにいる理由がない。
「どうしたの、こんな時間にこんなところで」
「か、買い物に…」
明らかに嘘だった。 生徒たちがよく行くのは学校の最寄り駅から次の駅で、こことは反対だ。
「先生になにか用だった?」
俯いてしまった典子に出来るだけ優しい声を出す。彼女はいわゆる真面目な生徒で、こんな時間に街をふらふらしたこともないはずだ。
 しかし、私の問いには答えず、典子は賢司を見ている。
「あい先生…」
「なに?」
「その男の人と付き合っているんですね」
ほっ、と心底 安堵した顔を典子が浮かべる。
「へ?」
思わず賢司を振り返った。女二人の視線を受けてにっこりと笑う賢司は、さすが客商売としか言いようがない。
「えーと…アレはただの従兄なんだけど…」
しかもすでに妻子持ちだ。
「え…」
「ノリちゃん? どうしたの…」
俯いてしまった典子に手を伸ばす。

 「センセイ?」

 人込みの中から声が飛んだ。
 良太だ。
 ちょうど横断歩道を渡ったところらしく、私服姿の良太は右手を振りながら近寄ってくる。
「…良太先輩…」
典子が漏らした呟きに、そういえば典子は良太が好きだったと典子を見る。典子は泣きそうな顔で歩いてくる良太を見ていた。
「センセイ」
しかし良太はそんな典子や賢司は目に入っていないのか、私に話し掛けてくる。
「センセイ、今日うちに来るんですか?」
「…ッ!」
典子が顔を上げた。明らかにショックを受けた顔だ。
「ちょうど良かった、一緒に…」
「ノリちゃん?!」
典子がバッと身を翻して走っていく。
「賢司! 店まで案内してもらって! あとで行くから!」
そう言い残して典子を追い掛けた。
 もしかして。
 もしかして、と夜の街灯で見失わないように典子の姿を追いながら思う。

 「もしかして、噂になってる?」
典子の手を捕まえて、訊いた。下を向く典子の身体がびくりと震えた。
 そうだ、色事に過敏になっている中学生が噂をしないわけがない。若い教師と三年の生徒、必要以上に親しげで。
「…はい。噂です」
弱弱しい典子の返事が、噂の酷さを示している。影でどんなことをいわれているのか。教師として軽々しすぎた。自分の失敗に頭を抱える。
「あーー…違うの、良太くんのお父さんがやっているお店の常連で」
弁解に合わせてだんだんと顔が晴れていく典子に、口とは別の頭で若いなあと思う。
 噂の真相を確かめるために後をつけてしまうところも、決定打に辿り着きそうになって逃げ出してしまうところも。こんなに無鉄砲に、感情だけで突っ走って。

 でも。
 でも、私は誰かをこんなに想ったことがある?

 『兄貴より劣ってるのなんか、恋愛対象にならないんだろう』
 思い当たることは、確かにあった。
 兄は、就職した当時、父の会社はどうだという質問に『まあまあ』と軽く答えていた。その様子と比べて、この男は何でこんなに余裕がないのだろうと、当時つきあっていた相手に考えてしまったことも事実だった。ましてや、すでに兄は独立して会社を興しており、軌道にも乗っていた。
 『うーわー、ちょっと・・・あー・・・』
自己嫌悪になった。 自分にだって相手を気遣う余力も残っていなかったというのに、相手を責めるばかりだった。最低だ。
『ま、つぎの恋んときは気ぃつけろや』
賢司は乱暴な言葉とは裏腹の、やさしい指で私の髪を洗い、なぐさめてくれた。

 そうだ、私はいつも貰うばかりで、あげることをしなくて。

 つらそうだったら、大変そうだったら、どうしてそれを支えてあげたいと思わなかったのだろう? 就職くらいで余裕をなくして、情けない、そんなことを心の奥では思っていた。

 楽しいばかりの恋愛、お互いに楽しいばかりを与える関係。
 でも就職して、以前のようには会う時間は取れない。仕事が忙しくなれば一緒にいる時間が削られる。
 笑うばかりではいられない。責任は肩にドシリとかかってくる。今までの学生とは違う。慣れない環境で必死だった。一人前になることが第一だった。
 私もそうだったし、あなたも、そうだった。

 お互いに余裕をなくして、それでも、余裕がなくても相手を思いやれる関係を。

      私たちは、作れなかった。


 「よしっ! ノリちゃん! 飲みに行こう!」
「ええぇ!?」
「明日は休日だー!」
典子の手を引いて、歩き出す。
「家にはクラブの友達と先生のところ泊まるって言えばいいわよ!泊めてあげる!」
「ちょっと、先生?!」
いくら夜の街へ追いかけてきたといっても、根は真面目な子だ。
「わ、わたし帰りま…」
「良太くんも今日はお店にいるんじゃないかな〜?」
それで、一発だ。
 あまり関わることのできない良太と話せるかもしれない、というだけで、もう大人しく手を引かれる。 流石に制服はまずいので、私のスプリングコートを上から着せた。

 典子を連れて扉をくぐったことで、賢司はギョッとした顔をしたが、マスターはコートの下の制服を見ても片眉を上げただけだった。すぐに何かあったのだろうと察したに違いない。
「シンデレラ、2つ下さいな」
有名なカクテルを頼む。メニューに載っていなくてもバーテンダーで知らないわけがない。案の定、マスターはにっこり頷いて用意してくれた。
 グラスにオレンジを乗せて、黄色のカクテル。基本はパイナップル、オレンジに、レモン。
「乾杯しましょ」
私がグラスを持って、典子に言うと、典子は『でも…』という顔で困っている。さっきまでは、やはりこういう場所への憧れもあったようで、ちょこんとカウンターに座りながら店内を目を輝かせて見ていたのだが。
「大丈夫、大丈夫、これ…」
「ずっりぃー」
言い掛けたところで、良太が店の奥から顔を覗かせた。奥の階段の上は簡単な部屋になっているらしく、母親が遅いときなどは日向と良太は自宅ではなく上に泊まっている。
「俺には、ぜってえダメだっていうくせにさぁ」
「身長が止まっても知らないぞ」
スポーツマンは身体が資本だろ、と言う。 頬を膨らませた良太は、ちぇーとこっちに向きなおった。当然、典子は現れた良太に釘付けだ。
「あれ…」
パーカーにジーンズという私服姿の良太は、きょとん、と典子の方を見た。
「もしかして、えーと…」
「…茅原です…」
「そうそう! 去年、図書委員だった」
探してた本、見つけてくれたんだよ、とマスターに言う。
「なんでここに?」
首を傾げる良太。すかさずマスターのデコピンが入った。
「いてえ!」
額を押さえる良太に、賢司があはは、と笑った。
「良太くん、女には色々事情があるもんサ、軽々しく聞くもんじゃないよ」
いかにもキザっぽく作り声でいうものだから、私も乗る。
「そーそー女の事情は色々なのよぅ?」
ねー?と典子に言えば、笑ってくれた。良太はまた、ちぇーと言う。しかし、内容は頷けるものだったのか大人しくカウンター席、つまり典子の隣に腰掛けた。
「藍さん、それ、いいですか?」
「え? ええ」
まだ口を付けていないグラスをマスターに渡す。それを、彼は良太に渡した。
「飲んでいいぞ」
「ほぇ?マジ?」
「まじ」
マスターは息子の口真似をして、私には作り直しますから、と笑った。なるほど、と納得して私も頷く。
「へっへっへ。やり。茅原!」
「え?! え、え…」
グラスを向けられて、典子も慌ててグラスを持つ。
「かんぱーい!」
カチン、と軽い音がした。良太が飲むのを見て、典子もちょびっと口をつける。
「…ジュースみたい…」
「なにこれ?」
良太がカウンター越しに父に訊いた。
「『シンデレラ』」
「ゲッ。なんだよその名前。どうりで甘ったるいと…」
どうも想像と違ったような二人に、私と賢司は笑う。
「ちなみに、ノンアルコール」
「へ?」
「じゃあこれ…」
典子と良太が顔を見合わせた。マスターは、すました顔で私のためのお酒をシェークしている。
「つまり、アルコールなし」
「えーー!」
騙された!と良太が悔しそうに父親を睨んだ。
「カクテルじゃないじゃん!」
「れっきとした『ノン・アルコール・カクテル』だよ」
「そうそう、有名なカクテルよ〜」
私が言うと、典子はやっと納得したように私を見た。仮にも教師が生徒にアルコールを勧めるわけがない。
「いい? ノリちゃん。将来あんまり好きでない男と飲むときとか酔っちゃいけないときに頼むのよ!」
カクテルグラスに飾り付けられたシンデレラは、知らなければ只のカクテルに見える。 強い調子で告げる私に、典子はハイ、と笑いながら頷いた。
(うーん、可愛い)
クラブのみんなが校庭にいる良太を教えてあげたくなる気持ちがわかる。
「俺にはもう通用しないよー?」
たいした意味もなく良太がそう言って胸を張った。典子が真っ赤になる。まったく鈍い、と思いつつ、他にも一杯あるから後で教えてあげる、と典子に耳打ちした。もっとも、典子は良太相手には酔ってもいいと思っているのだろうが。
「藍さんは詳しいんですね」
「兄が教えてくれて」
マスターにそう答えると、賢司が苦笑した。
「萩兄も妹に弱いからなあ」
「ああ、なるほど、藍さんもそうやって教えてもらったんですか」
そういえば、やたらと酔った女は危険だというようなことを言っていたが、なにかあったんだろうか。マスターはマスターで、やけに納得している。思い当たることがあるのかもしれない。
「はい、どうぞ」
そう、差し出されたグラスは。
「シンデレラ?」
「アルコール入りの、ね」
きっと、咄嗟に考えて作ってくれたのだろう。
「おいしーーーい」
なんだろう、これ。ベースはシンデレラと同じように思える。
「泡盛ですよ」
「えっ!うそお」
「パイナップルと泡盛、オレンジと泡盛、どっちも合いますよ。泡盛の種類によりますが」
「この前お店を休みにしていたのは、沖縄に行ってたんですね」
「はい」
「あっ!じゃあ幻のお酒って…!」
「賢司さんが飲んでいるものですよ」
良太が言っていた幻のお酒とは、泡盛のことだったのか。
「沖縄に行ってきたにしては焼けてませんね」
賢司がちびりちびりとやりながら、言った。
「どおせ、親父のことだから、ずーーーっと飲んでたんですよ。朝から晩まで。南の楽園まで行って」
もったいない、と良太が呆れたようにシンデレラを飲む。
 泡盛もたくさん種類があって、日本酒、焼酎、といった分類と同じように、大まかなものでしかない。ピンからキリまである。買い付けにいったマスターは、飲み比べて気に入ったものを購入してきたのだろう。
 きっと、このカクテルに使われた泡盛もその1つに違いない。

 「シンデレラ、かあ…」

 王子様が現れて、めでたしめでたし。末永く幸せ。

 でも、本当の苦労は妃になってから。一国を治めていく隣りに立つ重責。
 末永く幸せになるなら、王子と一緒に苦労して、それで幸せを守るのだ。義理の母、義理の姉たちにイビられても頑張ったシンデレラは、やっぱり頑張っただろう。確かに美しかっただろうが、一目惚れした王子の目は、確かなものだったのかもしれない。一緒に頑張ってくれる人を見つけて『末永く幸せ』になったのだから。

 きっと兄も、このマスターも。賢司だって。
 辛いことも悲しいこともある人生で、一緒に頑張れる人を見つけたんだ。

 ただ貰うばかりでなく。
 与えて、与え合って。

 そんなふうに、なれたら。

 「よぉし、頑張るぞー!」
突然、叫んだ私に、みんな吃驚した顔を向ける。が、それは無視した。
「ノリちゃん、いい女になろうね!」
ガシッと典子の両手を掴む。
「…えっと…」
典子はもう私が酔ったのかとキョロキョロと周りに助けを求めるが、一斉に首を振られた。このくらいで私が酔うわけがない。

 典子が、私の手を握り返す。

 にっこり笑って。


 「はい、私もいい女になりたいです」









― end or start ? ―



NEXT ⇒ ・・・


長らくお待たせしました。内容はたいしたことないのに、な、長い…!  萩のバレンタイン話は、とある人の実話。本人は山ほど持って帰ってくる、家の郵便箱にチョコ一杯、家に女の子が訪ねてくる・・・大変でした。


この小説は、楽園 に登録しています。
気に入ってくださった方、もし宜しかったら投票よろしくお願い致します。
(「2002」、「祐」、「エロエロマシンガン」)
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