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幸福の箱庭




 本当は俯きたかった。しかし床は男が這いずり土下座して、 せいぜい顎を上げるくらいが可能な抵抗だった。水を含み揺れた景色を 誤魔化すよう仰いでも 天井の電灯は眩しく視線はすぐに壁の本棚へ移動した。 並列する節操のない背表紙を睨む。 矮小で、みじめだ。 彼も、当然私も。こんな形でしか好きな男を手に入れられない。 馬鹿な男だ。そんな男に惚れている自分は更に馬鹿だ。 頼む、産んでくれと繰り返す。
 あの男を誘惑したのは、彼があの男を好きだと知っていたからだ。 男はいとも容易く絡め取ることが出来た。 彼が怯えて絶対に越えない壁を女である自分はするりと抜け これでもかと彼に見せつけた。
 彼は殺す眼で私を見た。 彼はあの男を想う強さで私を憎んでいる。 同じ強さで私を殺したいと思っている。 歓喜に心臓は捻じ上がった。 なんて甘美なことだろう。
 最中に笑い出しそうになったのは一度や二度ではない。 セックスの度に大声で嗤笑したくなる。 彼はこんなものが欲しいのか。 此処には居ない彼の炯眼、あるはずもない彼の視線を感じ私は甚く興奮した。 目の前の男は映像として脳裏に線を結んだが意味は為さなかった。 同性であるという壁が彼にあるように、私には女であるという壁がある。 理不尽だ、と、それは恐らく彼が何度も噛み締めた思いだろうが、 私もまた腹を立てた。 女であるというだけで。憎悪の余り立てた爪は手加減無しで刻まれた。

 おめでとうございます、とその声にただ呆れた。 白い清潔な診察室に私は似つかわしくなく浮いていた。妊娠。 何をしているのだ自分は。

 カラカラと氷を入れた透明のグラスは清涼な音を立て、 私はゆったりと足を組む仕草でテーブルを蹴った。案の定ビクリと男は身を震わせ、 その臆病さを嗤った。
「堕ろすわ」
安堵に男の顔は緩んだ。 くだらない。くだらない男。 己が難を逃れたということだけか。 私が手術をしなくてはいけないことなど、 その痛みも生命が失われることも関係ないか。 死んでしまえ。死んでしまえと頭で繰り返し唱えた。 男とはそれで終わりだった。

 「俺が育てるから」
産んでくれるだけでいいから。いったいどういう了見でそういうことを言うのだ。 息を切らし汗をかき彼はマンションに駆けつけた。 親友だというあの男に話を聞いたのだろう。
 受け取った金の使い道を通帳を弄びながら考えていた。 堕胎か、それとも。躊躇った。 半分は彼の子だ、と、抑え切れない確信があったためだ。 彼を想い、した、だから彼の子だ。なんと驚くべき妄想
 会社で擦れ違うと彼は無表情に私を眺めた。 男に別れたことを聞いたか、口さがない社員の噂か。 勝ち誇る目だった。私は彼を憐れんだ。困って目を瞬いた私に彼は眉を顰め 私は慌ててその場を去った。
 「入れば?」
金曜日の夜、連絡もなしで無遠慮に訪れた彼を部屋へ招き入れた。表情から、 子供のことを知ったのだろうと思った。子供を守るために慌てて駆けつけたのか。 この夜中に病院が開いているわけもなく彼の冷静を欠いた様子が可笑しい。 あの男を放り出して私の元へ来た。私の元へ来たのだ。
 それはどんなに望んでも手に入らない。何事も優秀な彼の叶わない夢。 好きな男の子供。でも私も同じなのよ。 ねえじゃあ私にそれをくれるの。貴方の子供を私にくれるの?
 私達は親友だったわね。私が貴方に恋するまでは。 貴方の隠した想いに気が付くまでは。 ねえ頂戴よ。貴方の願いのかわりに私にも。
 途方もないことばかり頭をぐるぐると回ってしかし一音にもならずただ ひたすら一点を執拗に見つめ、目を離したら世界が崩壊するような 必死さで意地になった。 勇気を出して小さく息をついた。その溜息に自分を褒めてやる。 やっと目を瞑ることができた。
 きっと子供は可愛い女の子。誰でも魅了するのよ。幸せな恋をするわ。 貴方にはあげない。会いに来るくらいならいいわ。 私はこの子を愛すから、貴方にはあげないの。
 名前を貸して。この子を望んだ貴方は父親。私は母親。
 この子は幸せな恋をするのよ。









こうふくのはこにわ
2003/07 - 2003/08/05






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