杏がこの部屋に住み着いてから、
三月が過ぎようとしていた。
初めに杏が小さな鉢植えを買ってきたとき、殺風景な部屋に色を置こうと思ったのかもしれない、
と幸太は大して気に留めなかった。
しかし次第にその数は増えていき、三月も経つと出窓は様々な鉢で一杯になってしまった。
幸太にしてみれば世話をしているのは杏であり、実際 緑を眺めているのも楽しかったので
問題はなかったが、彼女が出て行くときこの鉢たちはどうなるだろう
と考えた。
彼女が持っていくのか、それとも自分が世話していくことになるのか。
「これ…」
「なに?」
風呂上りの杏は髪を丁寧に拭きながら応えた。
その化粧を落とした顔に「出て行く」ときのことを尋ねては いけない気がして、
結局いつものように花の名前を訊いた。
そもそも、幸太は植物をきちんと世話できたことがないのだ。
小学生のとき、朝顔は放ったらかしで母が見兼ねて水を上げたくらいだし、
昔の彼女に育ててねと渡された、種から土まで全てワンセットになった植物キットも
開かずに終わった。
「好きなんです」
会社の後輩の女の子は、俯き加減でそう告げた。
明るい可愛い子で、いつもなら即OKなハズなのに幸太は返事を躊躇った。
「恋人がいるんですか?」
その沈黙をどう取ったのか、彼女はそう訊いてきて、幸太は杏のことが頭に浮かんだ。
恋人、というとそれも違う気がする。
杏が部屋に来て、それ以来 二人の気が向けばセックスもしたし、休日には一緒に出かけたりもした。
しかし幸太は杏が自分を好きだなんて一度だって思ったことはない。
自分も恋愛感情を持っているかというと、はっきり肯定することは出来なかった。
同棲、というより同居といった方がしっくりきた。
「えと…うん、ごめん」
どっちにしろ、今は誰かと付き合ったり出来る状況ではない。
幸太はそう思い断った。
少し勿体無い気もしたが、タイミングが悪かったということにしておこう。
「お客さんにもらったの」
今度は、巨大な鉢植えだった。
観葉植物というものだろうか。それにしても大きい。
流石にそれは出窓には置けなかったが、
あまり部屋に物を置かない幸太の部屋は空間だけは余っていたので、
問題なく出窓の横に添えられた。
「なんかジャングルみたいだな」
緑に埋め尽くされた一帯を見て幸太は笑った。
悪い気はしなかった。
母親の趣味で庭に植物が溢れていた子供時代を思い出して、懐かしくなった。
杏がキスしてきたので、幸太も応えた。手は忙しなく動いた。
二人の関係は、簡単なものだった。
キスをして、同意すればそのまま雪崩れ込み、気分でなければ気分ではないと言う。
それだけで良かった。
断ったあと気まずいということも特になかった。
巨大な鉢植えが来て暫くすると、幸太は悪夢に魘されるようになった。
杏が出て行く。それは、まぁいい。
問題はその後だ。
植物は残され、幸太は世話をする。
しかし、どんなに幸太が懸命に世話をしても次々と枯れていく。
緑の葉が茶色になって腐っていく様は、酷くリアルだ。
モノクロの夢の中で、そこだけが色が付いていた。
一つ、また一つと枯れていき、巨大な鉢だけが残る。
「春なのね」
休日の遅い朝食の席で、ニュースを見ていた杏が言った。
幸太がテレビに目を向けると、そこには、北の積雪地帯も雪が融けて春が来たと
満開の桜が写っていた。
「やっと桜か」
そう呟く幸太に杏が微笑む。
「いやだったの、閉じ込められた空間が」
田舎で大きな街も近くになく、発売日に物は売り出されず店に行けば
必ず知り合いに会ってしまうような狭い所、
冬は雪に閉ざされて空は鬱々とした雲に覆われる灰色の空間。
「嫌で嫌で、飛び出したはずなのにね」
それでも恋しくなる緑、キンと冷えた空気、シンと静まり返る、遠くの雪の崩れる音さえ
聞こえてきそうな無音の閉鎖。
やっと訪れる春。それに伴い、家族総出の田植え。帰ることのない軋む古い家。
初めて聞いた故郷の話に幸太が反応できないでいると、杏はさっさとチャンネルを変えてしまい、
話はそれっきりになった。
始めから幸太は訊くということをしなかった。
杏の仕事も知らなかったし、杏の年齢も出身地も知らなかった。
最近になって、植物が残されたらどうしよう、と思い始めたくらいで、
転がり込んできたときと同じ出て行くときのことも頓着していない。
夜中、カタンという金属音で目が覚めた。チェーンを外す音だ。
「出てくの?」
幸太の起きる気配で振り返っていた杏は、うん、と短く応えた。
「そっか」
杏が住み始めてから、すでに半年が経っていた。
「住むところは決まってるの?」
その場所を訊き出そうという気は毛頭なかったが、決まっておらずに出て行くならば
居ればいいと言うつもりだった。
「うん、お客さんの所。私が好きなんだって」
ほら、この鉢をくれた。そう言って抱えた巨大な観葉植物に、ああ、と思った。
「植物が好きだって言ったら、花じゃなくてコレをくれたのよ? 変な人」
「そうだな」
微笑む杏につられて、幸太も笑った。
「荷物それだけ?」
幸太が仕事をしている間にでも用意したのだろうか、はじめに転がり込んできたときと
同じボストンバック一つだけだった。
杏は頷いて、幸太を見上げた。
「ごめんね」
何のゴメンなのか、幸太には判らなかった。
「ありがとう」
宿を貸していたことだろうか、しかしそれも違う気がする。
幸太の困った顔を杏はクスリと見た。
「初めて会ったとき、幸太、自分の名前を教えてくれたよね」
「え、ああ、うん」
当たり前のことだと思う。
「『幸せが太い』って」
漢字まで教えたのか。それは、覚えていなかった。
「だから、御裾分けしてもらおっかなと思って」
杏はそう言って笑った。
「えっと……、ごめん…」
今度は、幸太が謝る番だった。
「謝んないでよぉ」
軽くパシンと叩いても、幸太が情けない顔をしているので、杏は
カバンを降ろし抱き締めた。
「すっごくすっごく、甘えさせてもらったよ」
杏はそう言ったが、本当に幸太は何もしていない。
「ありがとう。あったかかった」
ギュッと力を込めて、杏は呟く。
「優しくしてもらったよ」
優しく言う。
「幸太は、ゆるしてくれる。 私が何者でも関係なく、存在をゆるしてくれる」
心地良かった、そう掠れた声がした。
「春が来たから、もう行かなくちゃ」
休むのは もう おしまい、と身を離して杏が笑った。
「私の名前ね、あんずの花、父が好きなの」
先日 写ったのは、桜ではなく、その花によく似た杏(あんず)だった。
「植物は」
「好きにして」
杏は晴れやかに笑って、大きな鉢植えとカバン一つ抱えて出て行った。
青い夜明けの時刻だった。
そして、またいつもの日々が戻ってくる。
ただ、植物が死んでいくのはどうにも恐ろしくて、会社で緑の欲しい奴いるか、と
訊いて回った。
いくつかの鉢たちは貰われていき、残ったのは地味なものばかりだった。
世話しに行きましょうか?
遠慮がちにそう言ったのは告白してくれた女の子で、すでにいくつも貰ってくれていた。
同棲していた女が置いていったもの(彼女はそう思っている)など世話したいのだろうか
と意地悪く考えたが、言葉に甘えることにした。
真っ赤になって、でも嬉しそうに笑う彼女を、可愛いと思った。
2003/05/04
「Dracaena fragrans cv.”Massangeana"」 ・・・幸福の木
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