桐香は高校に入って幼いころから伸ばしていた髪をバッサリ切った。
父は女の子らしい姿や長い髪を好んだが、現実問題として、桐香の髪は真琴のように細く柔らかいわけでもなく、花のように艶やかなストレートでもなかった。丁寧に大事に伸ばすよりも自分に似合うように切って揃えた方がよほどいい。
肩よりも更に短くなった髪の、なんと軽いことか。
クリスマス・イブ。
街は色彩あざやかなイルミネーションで飾られて、歩くだけで楽しい。女子高で、出会いの場もなく機会を作ることもしなかった桐香は、イブを友人たちと過ごした。解散となってからも綺麗な街を来年まで見納めかと思うと、このまま帰ってしまうのも勿体なく感じて、一人歩いていた。
「あ…!」
もしかして、あの後姿は。
思わず上げてしまった声に、相手が振り返った。
(最悪…)
桐香は心の中で毒づく。
「そんなあからさまに嫌な顔しないでくれる?」
柔らかく笑みを浮かべる男は、兄の昔からの友人だ。
女を切らしたことのない男が、まさかイブの夜に一人で街にいるなんて思いもしなかった。
「ひとり?」
由希が訊く。
桐香は自分の顔がこわばっているのを自覚しながら頷いた。
「ナンパみたい」
声は尖って、
しかし、由希は気にせず確かにと笑った。
すっかり気分の冷めた桐香は、両手でマフラーを上げて白い息の出る唇をうずめた。由希は織りのあるダークスーツを着て、カシミアのコートからは長い脚がすらりと伸びていた。モデルも羨むような立ち姿だ。樹木に飾られた灯りが、赤、黄色と光って暗いコンクリートを彩っている。
「一緒に観る?」
由希が、目の前の建物を指した。
「え?」
すっかり帰るつもりでいた桐香は指先にある赤煉瓦造りの建物を見た。掛けてある小さな看板には『Cinema 』とある。
「こんなところに…」
知らなかった。目立たず通り過ぎてしまうような小劇場。入口もレストランや喫茶店と変わらない概観で、メニューが映画の写真となっているだけの違いだった。
「行こう」
背後から肘をささえられて、桐香は誘われるように入る。扉の鈴がチリンと鳴いた。
木目のブースには白髭を豊かにたくわえた老人が座っていて、由希が二枚、というと無言でチケットを切った。はい、とチケットを渡されて、辺りをきょろきょろと見渡していた桐香はやっと我にかえった。
「まだ観るって言ってな…」
「興味津々って顔だったね」
「…お金、」
「高校生に払わせられません」
「……」
大人しく奢られておくのが筋だとわかってはいるが、由希に借りをつくりたくない。将来働いたら絶対返してやるとしぶしぶチケットを受け取った。
「…どうもアリガトウ」
桐香のお礼に
くっくっく、と由希が笑った。
「どーいたしましテ」
桐香の心の中などお見通し、という顔に腹が立つ。並んで歩くと桐香より頭ひとつ背が高く、横から眺めれば長い睫毛がよくわかった。
イブの夜のせいか映画館はガラガラで、他には中年の男性がひとりいただけである。
映画は桐香が生まれるよりもずっと前の、由希にしても同様であるような古いものだった。さっぱり意味がわからずチラリと隣りの由希を見ると、無表情な顔にスクリーンの明かりが反射していた。相変わらずムダに綺麗な男だと桐香は思った。
(………落ち着かない)
隣りの席から由希の体温が伝わってくるような気がして、居心地が悪い。
その映画の、ビルの隙間から男が見上げた空がひどく青かったことだけが、桐香の印象に残った。
「…意味わかんなかった」
由希からコーヒーを渡されて桐香が言う。
映画のあと、どこも混んでいる店を避けて、近くに停めてあるという由希の車へ行った。今さら
家に迎えの車を頼むのも面倒で送ってくれるという由希の言葉に乗ったのだ。映画まで観ておいて由希に反発するのも馬鹿らしい。
「…だろうね」
由希が笑う。
またからかわれているのかと運転席を見ると、やさしく目を細めた由希がいて、桐香は慌てて顔を逸らした。
「い、イブの夜にひとりなんて、寂しいじゃない」
誤魔化すための憎まれ口をひらく。
「そう?」
別に気にしていないといった由希の応え。
ネクタイを外して襟もくつろげた由希は、左手をハンドルにかけ、その手首には銀の腕時計が街灯を受けて光っていた。
「期待されたら面倒くさいし」
年齢も年齢だしね、という由希に桐香は呆れた顔を向けた。この男の悪行は兄や花からよーく聞いている。
「相変わらず最低…」
「そりゃどーも」
ひょい、と弓型の眉を上げて由希が笑った。
「…さいあく」
桐香はうんざりと窓に顔を向けた。
目の前に影ができる。
「え…」
由希が腕を伸ばして、桐香に覆い被さるように身体を近づけている。サラサラとした由希の猫っ毛が桐香の目の前でゆれた。手が座席の背、桐香の真横に置かれ、ギシ、と軋んだ。
「……っ」
桐香の脳裏に、春の出来事が思い浮かんだ。
兄の家で惰眠をむさぼっていた由希を起こしに行ったときのことだ。寝ぼけた由希は、こともあろうか桐香をベッドに引き込んでキスをしたのだ。長い腕が身体を抱き、柔らかく唇を食まれた。
目の前には伸ばされた手首の筋まで見えて、桐香は心の中でわけのわからない叫び声を上げて目を固く瞑った。
カチ。
「…え」
目をあける。
「シートベルト」
ちゃんとしてね?と由希がにっこりと笑った。呆然とする桐香を無視して由希は自分のシートベルトも締める。
「……っ!」
からかわれた!! カーッと桐香の顔に朱が走る。
パクパクと口を開閉させるが、なにを言っても由希に遊びのネタになってしまいそうで、言葉が選べなかった。
「帰ろっか?」
整った薄い唇で笑みをつくる男に、桐香は、食い縛った口の端からオ願イシマスと声を絞り出すのがやっとだった。
…ッこんの、バカ由希ーーー!!!!!
+++++
すっかりそっぽを向いてしまった桐香とは反対に、由希は上機嫌だった。
面白い。
会うと悪戯をせずにはいられない。
ここ数年は、仕事の都合上、海外でクリスマスを迎えていた。向こうではクリスマスは家族の行事であるため、由希は当時借りていたアパートの家主である老夫婦に招かれたり、同じく単身仕事で来ている友人たちと騒いだりと、色気抜きで過ごしていた。
現在、軽い付き合いの女は何人かいたが、お互いに割り切っているのでクリスマスを一緒に過ごすことなどは問題外だった。甘ったるい行事は当然パス、だ。
「そういえば、家に連絡はした?」
夜のイルミネーションが光の筋となって通り過ぎていくのを見ながら、由希は訊いた。
桐香の父、大津の娘に対する溺愛っぷりは取り引き先の中でも有名なほどである。この時間まで一言もなしに帰らなければ携帯が鳴りっぱなしでもおかしくないので、報せてはあるのだろうと予測はついたが、一応確認を取った。
「………」
「してないの?」
返事がないので、もう一度問いかける。まだ拗ねているのだろうか。
「……あれ」
桐香は、すやすやと眠っていた。
顔をこちらに向けて、すっかり寝入っている。高校生になったとは思えないほどに無防備な寝顔だ。
真っ赤なマフラーがほどけて、膝に落ちていた。
(最低、なんていいつつ、安心しきってるなあ)
由希は忍び笑いを漏らす。
俺が狼男だったら、この赤頭巾ちゃんはどうするんだろうね?
映画館では、桐香が主人公の心情を理解しようと一生懸命みている気配が感じられた。ようやくカラーになったばかりの時代に製作された映画は、画質も荒く、しかし、そのためか、色彩がより鮮やかに映える。
(わからない、か)
そうだろうと思う。
重く、冷たく、腹底に沈む塊。
誰かを想うことのできない孤独。
主人公が見上げた残酷なほど青い絶望を。
桐香は、わからなくていい。わからない方がいい。
先日ポスターを見掛け、一度観た記憶のある映画だったがどうしてもラストが思い出せず、気になっていた。仕事のない日にでもと思っていたらクリスマス・イブの今日、時間が空いた。
いつもブースにいる老人とは二言三言、言葉を交わす間柄で、いつもならば声を掛けてくる。しかし人見知りをする彼は今日は桐香がいたために話し掛けてはこなかった。
「ん……」
桐香が身じろぎをする。淡く紅い唇が、薄くひらいていた。
しばらく会わないうちにバッサリと切られてしまった髪。それに隠されていた白い首筋が露わになって、暗い車内に浮かび上がっている。
それを横目で眺めて、由希はギアを変えた。もうすぐ桐香の家に着く。
父や兄が甘やかし、温室の中で育った桐香は、真琴や花よりも更に世間知らずだ。簡単に変な男に騙されてしまうかもしれない。少し心配になって、竜也の過保護がうつったかな、と由希は自分に笑った。
屋敷の前に停め、未だに気持ちよさそうに夢の中にいる桐香を見る。
いつか、この白い肌へ紅い跡を残す男が現れるだろう。
…ま、このくらいは許されるか。
今度から男の車に乗るときは気をつけなさいね、と、由希は晒された首元に戒めの印をつけた。
END.
2004/12/23
マーキング。
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