ヒマだ。
由希は、つまらないコメンテーターの語りに入ったTVニュースを消した。
本来、8月の半ばは台湾で仕事のはずだった。
しかし国の上層部が汚職で捕まり、家系結束の強いお国柄のせいで芋づる式に事件の波紋が広がって由希の仕事にまで影響が出たのだ。
事業の話が延期になって、台湾に行く予定だった日程がぽっかりと空いてしまった。
暑い夏が大嫌いな由希は、外に出る気もしない。
冷房の効いた部屋でダラダラと仕事をしていたが。
(食料が尽きた…)
もともと料理などしない。
当然、冷蔵庫の中もいつも空に近い。
これまで食をつないでいたものも、中元で送られてきた高級ハムやビール、ゼリーやフルーツだった。
食、というものに無頓着すぎるほど無頓着な人間なのだ。
旨いものでないのなら食べたくない、栄養は錠剤で取れたらいいのにと思うくらいだ。
「実家にでも行くか…」
いい加減、外食にも飽きた。
多少つき合いのある女性たちは、このマンションに近寄らせない。
テリトリー意識の強い由希は自分のプライベートの空間に足を踏み入られることを嫌う。
よって、当然食事を作ってもらうようなことはない。もちろん、相手の部屋で手料理を出されることはあるが。
外に出ると、強すぎる日差しにウンザリした。
夏は、自己主張が過ぎる。
実家で栄養満点の食事(さすがに母は心得ていた)をした由希は、祖父の小さな工場へ向かった。
ぐずぐずしていると両親からそろそろ結婚は…というような話をされる。最近はその手の話が話題に上がることが多くなってきた。
自宅のすぐ隣りにある工場へ、裏口から鍵を開けて入る。
もともとは祖父がココから出発した会社だ。
テツが機械いじりが好きなのも血だろう。
盆休みでガランとした工場は、暗く涼しい。
由希が磨かれた機械を撫でると、しっとりと質感のある金属が指先から伝わってくる。しばらくそうして一つ一つ機械を薄暗い工場の中眺めて回った。
由希は大学を経済や経営学ではなく、技術系に進んだ。
これから会社を守るのは技術そのものであると踏んだからだった。
また、自分の経営能力を塵ほども疑っていなかった。
工場の職人達とは幼い頃から交流があり、祖父の世代から勤めてきた男達は父をボン、由希をボンボンと呼んだ。
「・・、・・・なので」
くぐもった話し声が近付いて、工場のシャッターの向こうから聞こえる。由希は機械に置いていた手を離して、音のする方に顔を向けた。
「たぶん有ると思うが」
これは祖父だ。相変わらず煙草をくわえているのか、発音が微妙に制限されていた。
「すみません無理を言って」
子供のような高音を残した声。
その声には覚えがあった。
ガラガラと表のシャッターが開き、強烈な夏の日差しが工場に入り込んでくる。
由希は目を細めて、光の中の影を捕らえた。
「なんじゃ由希、おったのか」
祖父が呆れた声を出す。アロハシャツにハーフパンツという、相変わらずファンキーじいさんと称される姿だ。
「兄貴?電気くらい点ければ?」
テツがまだ暗闇に慣れていない目を瞬かせた。
二人の身内は、暗い中にいる由希をいつものことのように見たが、桐香はギョッと驚愕した顔を向けた。
「あ・・」
口をパクパクさせて幽霊でも見たかのようだ。実際、由希を嫌っている桐香にとっては、幽霊のように見たくないものなのだろう。
由希がにっこりと笑うと、慌てて「お邪魔しています」と頭を下げた。祖父とテツの前なので一応気を使ったらしい。子供のときを考えれば雲泥の差だ。ぴょこんと背を折った拍子に柔らかそうなスカートがふわと後方に揺れる。すらりと伸びた素脚を晒して、足元には花飾りのあるサンダルを履いていた。
「たまにはジジイ孝行でもしようかと思って来たんだよ」
由希がそう言って祖父を見ると、彼は信用しない目で鼻を鳴らした。
「また適当を言いおって」
パチンと電気を点ける。ばちばちと蛍光灯は何度か瞬いたあと、灯った。機械たちが鉛色に鈍く光る。
「桐香ちゃん、こっち」
テツは手招きをして、奥の棚へ向かった。呆然としていた桐香も慌てて後を追う。
「文化祭で使う部品をテツに頼んだんだと」
「へえ」
文化祭で、こんな工場の何を使うというのだろう。
「科学研究部とか言っていたが」
「なにそれ」
自分の高校には無かった部活だ。桐香とテツを見やると、少女はコレコレ!と歓喜に目を輝かせている。
「わしにもよくわからんが・・ロボットを作ったり、太陽電池で動く玩具を作ったり、実験したり、まぁそんな部活らしい」
「ふーん」
意外だ。桐香といったら甘やかされた お嬢様で、花を習って料理を習って、という生活をしていると思っていた。
由希は機械に背中を預け、長い脚をやる気なく伸ばした。視線は桐香から外さないまま、
会社のことを尋ねてくる祖父に返答を返す。そのあいだも桐香は頬を紅潮させて嬉しそうにテツと話していた。
「ところで、見合いをせんか?」
「んー。・・・は?」
惰性で応じてから、聞き直した。
「だから、見合いをしろと言ってる」
「はぁ?」
まじまじと80年の年月が刻まれた顔を見る。視線の合った目はボケたわけではなさそうだ。
「お前の失礼な考えなどわしにはバレバレだぞ」
「そうですか」
これまで両親、祖母はアレコレ言っても、この祖父は何も言わなかったのだが。
「お前のことだからな・・結婚していないことが世間体に悪くなる前の、ちょうど良い年齢に、それなりの家の、それなりの女を見つけるじゃろ?」
さすがだ。
よく判っている。
会社を興した初代である祖父は、穏やかな父とは違い、切れすぎるほどの明達な頭脳と大胆な決断力、行動力で戦後の世の中を渡ってきた。由希は、そんな若いころの祖父の再来だと称される。
だが。
「だからあまり言う気はなかったんだが・・」
ちらりと孫を見る目には同情だろうか、少しばかりの哀れみの色が覗く。
その目には、感情の欠けた青年が映っていた。
由希と祖父との決定的な違い、それは由希の欠けた心だろう。
淡い好意や嫌悪をもたないことはないが、心が揺さぶられるほどの感情が起きることはない。
嬉しい悲しい、喜ぶ苦しむ、どれもうっすらと霞みがかっている。
ほんの子供のころにはもう由希はそんな自分を理解していた。それについて悲しむ心もなかった。
そんな由希を痛ましく感じるのも自分ではなく、祖父や聡い母だった。
きっと自分は、適切な時期に、適切な女と結婚をする。
祖父の言う通りだ。
人を好きになる心のない自分は、損得のみで女を捜せるだろう。
それなりの家に育ち、常識範囲のしつけはされている女。見た目は相手を不快にさせない程度に身なりを整えていればいい。海外の仕事では妻同伴のパーティもあるから、そのくらいは如才なくこなし、だが賢すぎもせず。
由希の愛しているという言葉を信じるくらいが丁度いい。嘘であったとして一生騙されていればそれは幸福といえるだろう。
由希が幸福かどうかは、置いておくとして。
「なら、なんで今更?」
祖父の愁いを含んだ視線に気づかないふりをして、にこりと笑った。インチキ臭いと友人には言われる笑顔に、祖父はしぶしぶと騙されてくれる。
「・・じゃ」
「え?」
「ひ孫がほしいんじゃーー!!」
祖父は自分勝手な願いを叫んで、ぐらぐらと由希を揺さぶる。
「くそぅ、ジンの奴、自慢しよって!わしだって・・!」
両手で由希の頬を挟み、ぐにーと押し潰した。
「せっかくのこの顔を使わんかー!」
いやその顔、もう変形間近ですけど!
「俺じゃなくて、テツに頼めよ」
ひりひりする頬をさすって、由希はテツを指差した。
テツには花という立派な恋人がいる。まだ結婚などという話は出ていないだろうが、いずれ彼らは結ばれるだろう。
「テツはまだ駄目じゃ!」
キッパリ否定する。なにその溺愛。
由希が祖父似なのに対して、テツは父似だ。いい大人になっても純粋さが見え隠れする人柄に、テツはいつまで経っても子供あつかいされている。
こちらの視線に気がついたのか、テツが振り返って邪気のない目を向ける。
「やっぱり駄目じゃ!」
と叫ぶ祖父に、花も苦労するだろう、と由希は同情(半分楽しみに)した。
「なぁ、兄貴ー」
「なんだ」
「この部品のワンサイズ小さいの、ねえ?」
テツが手にしているのは、手のひらに収まるくらいのモーターだった。しかし、遠くて見えない。由希は寄りかかっていた体を起こすと、やれやれと二人に近づいた。
「ああ、これ」
由希がテツの手から掴もうと腕を伸ばした途端、ぱっと横から出てきた白い指が物を攫ってしまった。
「もういいです!あとは自分で探しますから!ありがとうございます!テツさん!」
桐香は胸の前でぎゅうとモーターを両手で握り締める。目の縁を紅くして、由希に借りなど作りたくない、と態度で語っていた。
「でもアチコチ探してもなかったって・・」
「いいんです」
テツには申し訳なさそうな顔をして、断りをいれる。自分には奥二重のまぶたを吊り上げて睨んでくるのに。
「ふうん?」
由希はニヤリと笑った。
どうしてこう、桐香は自分の嗜虐心を誘うのだろう。
「これ・・」
小さな手の平で隠されたものを意味するように、長い指で握られた手を包む。ビクリとわずかな接触にさえ過剰に反応するのが楽しい。
「俺の部屋にあるよ」
形のよい耳にスッと唇を寄せて囁く。柔らかな耳縁から軟骨に噛り付いてしまいたいが、身内の手前、体を離した。
「あ、あ・・」
「どうする?」
真っ赤になって吃る桐香に、裏がまるでないかのような笑顔でニコリとした。
「・・由希なんて、由希なんて・・」
ぷるぷると両手を握り締めてうつむく。
「だっ嫌いーーー!!」
捨て台詞を吐いて、スカートを翻して去っていく。
「あはは」
面白い。
由希が嫌いで、それでも目を逸らさず睨みつけてくるほど負けず嫌いで。
「兄貴、楽しいのはわかるけどあんまり苛めるなよー」
あーあ、とテツが桐香の消えた先を見る。祖父も視線を由希と扉に交互させた。
「楽しい?」
「面白がってるだろ」
確かに。
桐香をからかうのは、楽しい。
「あー」
そうだ、自分はなんでこんな簡単なことに気がつかなかったのだろう。
彼女が子供だったから、もちろん今も子供だと思っている、だからだろうか。
あれこれと目星をつけていた女性は何人かいる。
関係のある相手も。
だが。
いたじゃないか。もっともっと条件に合う人間が。
自分の『結婚相手』の条件にピッタリくる女が。
家柄も。(本当はこっちのほうが釣り合わないくらいだが、彼女が結婚するような歳頃には無視できない存在の会社にしている予定だ)
容姿も。(竜也と同じで、平凡だが人を不快にさせない顔立ち)
そこそこに利口で、だからといって賢すぎるほどでもない。
長女だが、跡継ぎには弟がいる。
そして、由希を退屈させない。
桐香が知ったら怒髪天をつくような失礼なことを一瞬にして考えた。
ひょい、と桐香の置いていったカバンを持つ。
「返してくる」
これがなければ、どっちにしろ帰れないだろう。きっと今頃は困っている。
「俺が・・」
「部品の話もあるし」
自分が行くとテツが言いかけたのを遮って、にこりとした。その天使のような美しい笑顔を、祖父はのちのち悪魔の微笑みだったと語る。
そういえば、一度だけ抱き締めた体は、ひどく心地よかった。
由希はその感触を思い出して、幼い少女が成熟していくのを見守るのも楽しそうだ、とさっそく計画を立てることにした。
シャッターを出た太陽の下で途方にくれる桐香は、由希の気配に振り返って、睨みつけた。濡れた黒目が、挑戦には負けないと光っている。
おもしろくなりそうだ、と由希は微笑んだ。
END.
2006/08/16, 8/23 memo
2008/08/17 改 稿
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