骨主肉従08.12.17掲載)
 

武術では「骨主肉従」という。

この言葉は、多田容子著「自分を生かす古武術の心得」の中で使われている。多田容子氏は作家であり、居合道三段。柳生新陰流兵法、手裏剣術などを実践し、古武術的な身体の使い方や意識に造詣(ぞうけい)が深い。

 

骨主肉従とは、骨と肉が一体的で癒着(ゆちゃく)したものであるという意識を取り除き、骨と肉は別々のものであるとイメージすることだという。

筋肉は骨を動かすが、動きにブレーキをかけるのも筋肉である。このブレーキは、急激な運動をした際に、怪我や関節などのダメージを防いでくれる安全装置の役目も果たしている。多くの場合、多かれ少なかれこのブレーキは常に働いていて、関節の動きに制限を加えている。骨と肉は別々なものであって、関節さえゆるめて解放すれば骨は自由に動ける、というとらえ方が重要である。その意識が筋肉へのブレーキ命令を解き、いわゆる「力み」をなくすという。

 

さらに、次のように記している。

< よく、武術や踊りなどを見ていて、「腰が高い」とか「低い」などと言うが、それは見た目の腰の位置の問題ではない。無理に足を曲げ、上体で押さえ込んで腰を落としても、それは形だけのことだ。本当は身体の内容のことを表していて、重心の意識がうまく足腰へ流れ、上体が空っぽになっているような感覚をいうのだと思う。「重心が低い」という表現があるのはそのためだろう。>

 

重心を低くするためには、体の軸を感じることが大切だという。体の軸は、特定の筋力で押したり踏ん張ったりして、真っ直ぐに調整するものではなく、上下にすっと身を伸ばし、不要な力を消せば、自ずと真っ直ぐになる。軸をぶれさせないためには、型稽古によって身体各所の関節を開放したりすることで、軸の意識は飛躍的に発達する。局部的な筋肉ばかりを酷使し、力むことはやめなければならないと言い、古武術での例を挙げている。

 

< 古武術の稽古は、頑張って身体を鍛えるというよりは、注意深く感覚を研ぎ澄まし、いかに無用の動きを排除するか、という習いだと、私は理解している。例えば、刀を真っ直ぐ縦に振りおろしたい場合、先ほどの(ひも)の例(引用者注:曲った紐を真っ直ぐにしたいとき、途中の部分を横から押したり引いたりして調整するより、両端を一気に引っ張ったほうが早い、と書いている)とも通じるが、腕の力で左右のブレを止めようとしても、かえって太刀筋は(ゆが)む。そうではなく、ただ重力を感じればよいのだ。

重力は、常に真っ直ぐ下へ働く。刀と腕の重みを感じながら、その引き下ろされる方向へしたがってを打ち下ろせば、ぶれることはない。重力以上の威力を出したい場合にも、重力を道しるべとして、その方向に、より強い力が走るように工夫する。自分の腕力だけに任せた、宙に浮いた判断で、一から真っ直ぐに振り下ろすことはまず不可能だろう。背骨の軸を通すことも同じだ。上下に引っ張る感覚とはいったが、下へは、頑張って引っ張る意識は要らない。背中と腰の力を抜き、すっと伸ばしてやれば、尻は自然と重力に引かれ、下へ落ちて納まる。この時、尻自体の具体的な形、つまり肉の部分の形にとらわれる必要はないと思う。肉の凹凸や丸みは多少あって当然だ。(略)

武術の稽古は、いわゆる筋力トレーニングのように、やっただけ比例的に伸びるのではなく、ある時、急に飛躍的に伸びるといわれる。それは、この関節の解放、ブレーキ解除の感覚などをつかんだ瞬間に、ウソのように自由に身体が動くためだと考えられる。コツはつまり「骨」をつかむ、などというが、まさに骨の意識が変り、自立性を得たときには、驚くほど楽に技が使えるようになるだろう。>

 

そして、著者自身が常に悩まされていた腰痛の話の中で

<(上半身が)腰の上に「乗っている」以上、どうしても自然と腰に負担がかかるのだと、私も以前は思っていた。しかし、肉と骨と別々にするという意識を目覚めさせると、感じる重みがまるで違う。上半身の重みが、肩の肉も体側の肉も、すべて腰の骨にのしかかるというイメージを、まず取り除こう。座っている場合ならば、上半身の右側半分の肉の重みは、真下の右の尻へ落ちていると思えばいい。左側も同じだ。

体には大雑把(おおざっぱ)にいって三本の軸があると考えられる。一本は体の中心、あとの二本は左右それぞれの肩から腰、そして足へ貫かれているとイメージしよう。この三本の軸によって体を支えればよい。真ん中の背骨の一点だけで頑張る必要はないのだ。

立っている場合ならば、左右の軸は、腰から足へと抜けている。だから、腰で重さを受け止めず、足まで流せばよい。ながし方のポイントは、極めて感覚的だが、途中の関節を緩め、骨と骨の間に隙間を作って、いわば風通しがよい状態にすることだ。>

と書いている。

私は「骨主肉従」というイメージを、坐禅の姿勢に活かそうとためしている。

曹洞宗の宗祖道元が著した「普勧坐禅儀(ふかんざぜんぎ)」に、坐禅の姿勢が述べられている。

< (すな)わち正身端坐(しょうしんたんざ)して、(ひだり)(そばだ)(みぎ)(かたぶ)き、(まえ)(くぐま)(うしろ)(あお)ぐことを()ざれ。(みみ)(かた)(たい)し、(はな)(ほぞ)(たい)せしめんことを(よう)す。>

(姿勢を正して、左や右にかたよったり、前にかがんだり、後ろに()りかえってはいけない。耳を肩の真上にし、鼻をへその真上にすることが必要である)

 

この姿勢について、頭のてっぺんで天井を突き抜けるように、あるいは両耳が引っ張り上げられるような気持で、と教わった。この姿勢を保つため、私は腰を立て、(あご)を引くようにしていた。しかし、これでは腰に力が入り、首に力が入る。坐禅を連続して続けると腰が疲れ、肩が()ることがあった。

「骨主肉従」という言葉を知り、最近は、腰に力を入れないで背骨を自然に立て、上半身の重みが尻の下に流れるイメージで坐る。頭頂部は、頭の上に乗せてある物を押し上げるようにし、顎は自然にまかすようにしている。

 

参考

多田容子著「自分を生かす古武術の心得」集英社新書

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